Arachnid【4】
勝利を確信した俺達はきっと何処か油断していた。
いや……現状を最悪だと思い込んで最悪の先にある最悪を想定しなかった。
それがこの日一番の悪手だった。
『畜生!! 今日の俺はどれだけ大ポカを仕出かせば気が済むんだ!!』
『魔王』は心の底から自分に対する怒りを露わにした。
「う……っ。うがァァァッ!!」
少女の咆哮が森に響き渡る。
この状況は俺も『魔王』から話は聞いていたから予想は出来たはずだった。
――『暴走』。
『欠片』に内包された『魔王』の自我と、宿主となった人物の自我が衝突して人格に大きな変調を引き起こす現象。それがアトラの身に起きているのだ。
「……なんだかさっきのゴブリンの王様よりも危険な気配がするよ」
身体は熱光線の魔法の反動でボロボロ、碌に動けやしない。頼みの『災禍の隻腕』も既に使い切っている。
「……ジャック、先に行け」
「まさか僕を逃がして君は死ぬつもり、なのかな」
「ああ、そうだ」
もう、無いのだ。
俺には打てる手が、もう無いのだ。
「何で!? 君はさっき立ち上がれない身体で一撃を打ち込めたじゃないか!! それに君は生きる事を決して諦めなかった!! エリオットの時だって、さっきだって!! なのに――」
ジャックは尚も言葉を続けようとして……次第に声が小さくなっていった。
ジャックも本当は分かっているのだろう。俺の肉体も、精神も限界を迎えているのだと。
身体は勿論、『災禍の隻腕』で感じた苦痛は壮絶で、治るとは言え格上相手に只管サンドバッグになる行為は確実に精神を摩耗させていた。
意識が薄れていく。
多分、このまま目を閉じれば全部が終わる。俺は恐らく二度と悲劇を見ることはなくなり、いつか望んだ終末を迎えるだろう。
ただ、混濁する意識の中で。
――『俺がいる限り絶対に死なせない』
――『お前は絶対に大丈夫だって、俺が保証してやんよ』
そんな声がした。
それは毎日のように聴き続けて、聞き飽きた声だった。
それが、生き残れ、生き残れと声高に叫ぶのだ。その言葉はまるで呪詛のように俺の身体に絡み付いてない。
俺はまだ終われないのか?
俺はまだ許されないのか?
生きて責め苦を受け続けなければならないのか?
だとしたら随分と残酷な話だ。
いや、違う。本当に残酷なのは――。
「清人、お願いだよ!! もう一度立ち上がってよ!!」
もしかしたら俺だったのかもしれない。
ゆっくりと目を閉じる。
やっと、休めるのだと安堵しながら。
『……これは俺の失態だが宿主、いや――杉原清人。最期に聞かせてくれ。お前は目の前の悲劇を見て、それでも死を選ぶのかを。お前は……それを許せるのかを。お前自身の言葉で教えてくれ』
薄く目を開ける。
ぼやけて見えるのは鬱蒼と茂る木々とこちらを不安そうに見つめるカボチャ頭、そして――今にも泣き出しそうな顔で苦しむ薄桃髪の少女。
そうだ、俺はいつも誰かの苦しむ顔ばかりを見てきた。
そしてその度に助けられなかった。
『魔王』も酷いことをしてくれる。
こんなものを見せられたら助けたくなるに決まっているのだから。
守れないのは嫌だと俺は言ったのだっけ。
言葉を翻すのは……それはとてもカッコ悪い。
「自分が、死ぬなら、その前……にィッ!!」
俺を奮い立たせるのはちっぽけな意地。
誰の助けになれないまま死ぬくらいなら、誰かを助けてから死にたい。
ただそれだけ。
「『魔王』!! どうやったら『欠片』を回収出来る」
『触れるだけで良い。『欠片』は人体にとっては不要な異物、完全に適合している宿主が触れさえすれば奪える』
普段なら拍子抜けだと、イージーだと言って突貫していただろう。だが、少なくとも今それが出来るとは思えなかった。だが、それでも……。
『今回はそれに加えてあの娘の暴走を止める必要がある。つまり、俺の自我を押し退けてあの娘の自我を取り戻すと言う事だ』
「……身体は動かせるか」
『俺に肉体の操作を任せるならギリギリ歩行は可能だ』
この体が動くのであれば、心臓が脈を打つのならば。
俺は悲劇へと飛び込もう。
「そっか、じゃあ魅せてやんよ杉原清人一世一代の大勝負をッ!!」
♪ ♪ ♪
それは久しく見る悪夢だった。
師匠を殺してしまった夜の記憶。孤独な旅の始まりの記憶。
アラクニドの握っているナイフは血に染まっていて、視線の先には師匠が血だまりに沈んでいる。
喉奥から声にならない声が漏れて身体がガタガタと震える。
「分からない!! 全然分からないよ師匠っ!!」
師匠の身体を揺する度に師匠自慢の金色の髪が土で汚れていく。
「――だろうな。悪い、全部アタシの勝手だ」
師匠は血を流しながら尚も話す事を止めなかった。それは最期まで気力を振り絞っているかのようでアラクニドの目からは大粒の涙が溢れていた。
「けどよ……見つかったんだよ。アタシの。アタシだけの特別なモンが」
「『とく……べつ』?」
そうとも、と自信たっぷりに師匠は言った。
「アニにもきっと見つかる。コイツの為なら命すら惜しくないって奴がよ。アタシが保証してやんよ」
「待って、師匠ッ!!」
「ったく、アタシの弟子は……本ッ当に可愛いなぁ!! 畜生!!」
♪ ♪ ♪
『これがお前の根源、『とくべつ』とやらを求める理由か』
『今は亡き師匠の言った『とくべつ』を追い求め旅に出た。その結果、世の人間に疎まれて何人もの人を殺害……随分と傲慢だな』
アラクニドの中の『魔王』はそう言うとクスクスと笑った。
「やめて……出て行って……」
『俺は事実を述べたまでだ。それとも……師を手に掛けてしまった事実がそんなにも受け入れ難いのか?』
「っ……」
『俺を受け入れろ。そうすれば楽になれる。圧倒的な力が手に入る』
「それは、嫌! 絶対に、嫌!」
『ならば、その身体貰い受ける事にしよう。何、悪いようにはしない。世界を滅ぼすだけだ。気にするな』
アラクニドは涙を流していた。そして切望する。
「……誰か、助けて」
窮地を救ってくれる、実に都合の良い英雄の登場を。




