最終決戦・棄却された願望
その犬は何するまでもなくボロボロだった。身体には痛々しい傷跡が幾つともなく刻み込まれ、血液の代わりに火の粉を噴いている。
魔獣とは心による魔素の変質、その結果だ。精神性が形を定め、怪物を生む摂理。であるのならこの獣は。
「グゥゥゥゥ……」
苦しみに耐えるように低く梅くこの獣は、一体どれほど傷付いたというのだろうか。
「古今東西、神殺しの逸話は数多く。しかし邪神を畜生如きが倒す話はありません。ええ、ですので戦いとは言わず駆除、してさし上げましょう」
眠たげな眼の悪役と傷だらけの狛犬が同時に動き出す。
犬が地面を強かに蹴れば地面は容易く抉れ、巨大は高く躍動する。
しかし相対するのは人の範疇という縛りを課したとは言え純然たる邪神が、否創世の神が一柱。狗如きの敏捷でどうこうできる存在では、ない。
ニャルラトホテプは格の違いを見せ付けるかのように更に高く跳躍すると狗の頭部を強かに蹴り落とす。轟音と共に狗は墜落し、地面に小さなクレーターを描いた。しかしその程度で邪神は止まらない。重力のままニャルラトホテプは垂直落下を敢行する。その下には、件の魔獣が横たわっている。
「ほら♪」
「グァァァァァ!」
狗の悲鳴じみた絶叫が部屋に響き渡る。
痛みからかのたうつ獣に対してニャルラトホテプは容赦なく追撃を叩き込もうとして、
その手は空を切った。
間違いなく必中必殺の間合い。にも関わらずニャルラトホテプの攻撃は当たらなかった。いや、正確には攻撃する筈の獣の姿がいつの間にか掻き消えていたのだ。
何かしらの方法で必至を回避したのだとニャルラトホテプは悟り一人喜悦の笑みを浮かべ……その頬に冷たいものが滴り落ちる。
そして上を見上げて、一層笑みを深める。
「あぁぁぁぁぁッ!!」
ニャルラトホテプの目前、そこには横っ面を殴らんと迫る杉原叶人の拳があった。
♪ ♪ ♪
獣になれば、楽になれると思った。何もかも忘れて暴れれば、それは何よりも嬉しいと思った。……ああ、分かっている。それが最低の考えだという事位。でもそうはならなかった。ほうは、なれなかった。
『進め』
声がするのだ。
『先へ進め』
立ち止まりたくても、休みたくても。
『もっと前に進め』
声が、まるで呪いのようにせき立て、責め立てるのだ。
本心はもう止まりたくて止まりたくて仕方ないのに!!
俺の欲しいものは許しだ。もう戦わなくて良いという、そのたった一言の許しが欲しかった。現在進行形で危機に瀕してる二つの世界の崩壊を食い止める? この状況で両方とも救えるなんて楽観が過ぎる。ハッキリ言って無理だ。寝言は寝てから言って欲しい。いや、寧ろ俺を眠らせて欲しい。酷く疲れた。
なのに、足は動く。動いてしまう。誰かの意思をなぞるかのように。決して俺を負けさせまいとするかのように。
『僕が勝てたんだ。君でも勝てるさ』
さっきから幻聴が酷い。
『あんさん、信じとるからの』
死んでしまった……俺が死なせた仲間達の声がする。
『団長は勝利を掴む人だ。だから、決して立ち止まるな。振り返るな』
仲間の影が脳裏に浮かんでは泡沫となって消えていく。幻聴が聞こえるたびに俺の足は意に反して動き出す。きっとブレーキが壊れてしまったのだ。だから止めようにも止まれない。多分エンジンが焦げ付くまで。
『前に、先に進んで』
それはきっと散って行った仲間達の純粋な想いなのだろう。せめて世界だけは、と。
命を使ったからには最低限の成果は掴んでくれと。
……無理だ。
だって、それをやるのは他ならぬ俺だ。団長団長と持て囃されて来たが俺はそんな出来た人間じゃないし強くもない。いや、多分誰よりも弱い。それが神サマを封印? 無理だ。普通に。
それに、この身体はもう終わりだ。アニが死んだ以上俺は死ぬ。今はアニの死血と屍肉で長らえているが、いつ寿命が来るか分かったものではない。ただ肉体の回復を早めれば確実に死期は近付く。それだけは確かだ。
まだある。この世界にはアニはもういない。俺の愛する人は、俺を俺と認めて愛してくれた人はもう居ないのだ。勝つ過程をする事は烏滸がましいが、けれど確率の向こう側に到達したとしても、そこに俺の幸せは無い。
「俺は、前に……ッ!!」
けど、そこに幸せが無いと分かっていても、何でかこんな言葉が口を突いて出る。無理無理と頭で考えていてもこんな言葉が出て来るのは団長ロールプレイの賜物か。
「俺は前に進まなくちゃ、いけねぇんだよッ!!」
思えば随分と遠くまで来たものだ。元はと言えばメンタルズタボロのボロ雑巾みたいな奴が気付けばこんな所にいる。しかも、団長なんて肩書きを持って。世の中本当に分からない。
……本当に、分からない。自分の事ですら。全然。
「仲間を失って尚前進する魂。それだけ摩耗しているというのにも関わらず前に進むのは並大抵の人では不可能。実に、実に素晴らしい。そこで素朴な疑問なのですが……貴方は何故進もうとするのです? まさか、貴方一人で私を封じれるとは思ってはいないのでしょう? であれば地球が滅ぶのは必定。態々存在しない可能性を追って命を賭けるのは正気の沙汰じゃない」
ああ、それは俺も同感だよ。こんなの正気の沙汰じゃない。それは分かる。
「……少しでも、多くの人を守れたら良いと思ったんだ」
そう言うとニャルラトホテプは攻撃の手を緩めて「ほう?」と先を促した。
「清人も、仲間達も、本当に守りたかった人は誰一人残ってない。けどさ。だからって立ち止まる訳にはいかないんだ。俺の足掻きが一人でも多くを救えるなら、それはきっと俺にとっての幸福だから」
「欺瞞ですね。貴方は誰よりも貴方個人としての幸福を望んでいた筈だ。そうでなければ貴方はアラクニドを伴侶には選ばなかった」
「……ああ。そうだな。けど死んだ。俺が看取って、俺が喰った。だからこの話はここで終わり――」
「ふむ、では生き返らせてあげましょうか?」
ニャルラトホテプの提案に俺は揺ら……がない。
この問答で少しだけ自分の事が分かった。短い期間だったけど俺にはすっかり団長根性が染み付いている事が。そして何より、俺が度し難い馬鹿だという事が。
「不要だ。仲間は守れなかったし死なせもした。けど、その意思は共にある。少なくとも俺はそう思ってる」
『――行こう、叶人』
声が聞こえる。ああ、分かった。分かってる。
やってやんよ、そりゃあもう泥臭く、格好悪く。スマートって言えたら良かったが、本当にスマートな奴はこうはならないだろうから。
だからここは俺らしく粘りに粘ろう。
希望も何もあったものではないけれど。
「『魔装』」
「おやおや、随分と禍々しい姿になったものですね。まるで私達のような、正気の埒外の存在のようじゃないですか」
エクエス戦での特撮ヒーローの様な姿は何処へやら。骸骨や蜘蛛や甲冑や獣やらを混ぜ込んだ意匠はお世辞にも正義の味方とは程遠いものとなっていた。
「埒外結構。……狂わないと救われない願いもある」
「では、第二ラウンドと行きましょうか♪」




