A past prisoner【1Яe】
書き直し版のヤンデレシーン。
夜になり、あいも変わらず怪我で何も出来ない俺の元にその少女は現れた。
ゆっくりと迫るのは白磁の肌。さらさらと流れるのは薄桃の髪。薄暗闇の中でも異彩を放つのは赤い瞳。アニだ。アニなのだがーーどうにも様子がおかしい。
思い詰めているような……それでいて、何処かこちらを詰るような、そんな顔をしている。
「アニ?」
俺が彼女の名前を呼ぶと彼女はどう言う訳かいきなり俺を押し倒してきた。いや、ベッドで横になっているのだから押し倒す、と言うのは正確では無いのかも知れないが。
ともあれ、腹部の微かな痛みと共に俺はそうなってしまった。
「どうしたんだ? いきなりこんな事ーー」
内心で仰天しながらどうにか言葉を紡ぐ。しかしそこから先の言葉は一向に見つからない。だってーー彼女が、小さな肩をワナワナと震わせている事に気付いてしまったのだから。
「……どうして」
耳に入るのは今にも霞んで消えてしまいそうなか細い呟き。
「……どうして。どうしてッ!!」
大粒の涙が溢れては俺の頬を濡らす。
「知られたく、無かった。……知ったらきっと軽蔑するから。だから、知られたく無かったのに」
「あ、アニ?」
初めて見る激情に戸惑いながらもそう声を掛けると視線が交差する。綺麗な赤い瞳はーー暗く、鈍く、澱んでいた。
俺はその目を知っている。それはーーどうしようもない程に苦しんでいる人間のする目だ。
その様子に心臓がギュッと締めつけられる。
「……大丈夫か?」
「ーーッ!!」
あの時のアニのように慮るように努めて優しくそう口にする。
『少しでもその辛さを分けて欲しい』と彼女は言った。その言葉で俺は救われたのだから。
「……何か辛い事でも、あったのか? 俺で良ければ話は聞くぞ。解決出来るとは言えないのは情けないけどな」
「……言え、ない」
アニは唇が白むくらいに強く噛み締める。
「……そうか。でも、本当に辛くなったなら、その時は躊躇わずに俺にもその辛さを分けてくれよ。背負ってばっかりじゃ、いつか潰れる。……今は良くてもいずれ耐え切れなくなる日が必ず来る」
俺は救われた。だから、同じように俺もそう口にする。
少し気障だっただろうか。けれどこれが偽らざる俺の本心なのだから仕方が無い。
アンフェアだと思っていたのだ。俺ばかりが楽になってばかりでは。
だから、同じ分だけ背負う。いや、背負いたいのだ。対等な一人の人間としてーーいや、今はもう人間ではないのだったか。関係無い。兎に角対等な関係でありたいのだ。
「……それは。それは、出来ない」
しかし返って来たのは否定の言葉だった。
「……あれから、ずっと消えない。叶人を刺した感触が。ずっと、この手に残ってる。赤くて、熱くて、ぬめって。忘れられない。……ずっとずっとずっとずっと、赤い刃先が頭から離れてくれない」
小さな身体が小刻みに震わせながら絶叫する。
「それに、私は……貴方を、化け物にした。だから、償わないといけない。……頼る事も、施しを受ける事も、出来ない」
その様は何処までも痛々しくて、とても見ていられなかった。
償い。それで思い当たるのはただ一つ。俺がアニの短剣に刺さってしまった事故。
そう、あれはあくまでも不幸な事故だ。非があると言うのなら、それは俺の咄嗟の判断の甘さだ。それに唯を襲ったのだってそれまでに拘束されていた経緯から見ても不自然な点は無い。
全ては俺の不甲斐なさが招いた不幸な事故なのだ。
「……あれは不幸な事故だ。アニが負い目に感じるような事はーー」
「叶人は優しい。けど、その優しさは、私には少し……痛い」
そう言うとアニは黒い衣装の首元をはだけさせた。
ゴクリと無意識に喉が鳴る。
「……おいで叶人」
瞬間、身体を焼き尽くすような激しい衝動に襲われた。
ーー血が、飲みたい。
「……だから私は、あげる。私の全てを何でも。……何でもあげる。この身体も、心も、尊厳も、この血も、全部。望むものをあげる」
互いの吐息がかかるほどの至近距離。目の前には露わになった少女の白い素肌。
ーー血が欲しい。
だが、確信があった。ここで屈したら、彼女は歪みを抱えたままになってしまうと。
「駄、目だ……。償う必要なんて無い。俺はそんな事……望んで」
鼻腔を甘やかな香りが蹂躙する。少女の香りはそのまま脳髄に侵入し、理性を段々と蕩けさせていく。
もし。もしこのまま、意のままに血を貪る事が出来るのであれば。それはどれほど甘美な味がするのだろう。
理性と欲望がせめぎ合う最中、アニは俺の頭を両手で優しく固定すると己の無防備な首筋へと導いた。
そして優しく囁く。
「……どれだけ吸っても、良い」
だから、俺はかぶり付いた。
ーー俺の、腕に。
腕に鋭い痛みが走るのとほぼ同時に鉄臭い臭いが口一杯に広がる。
不味い。アニの血は甘露だったが俺の血は普通に血だ。素材本来の味がする。結論、痛いし、全く美味しくないしで碌なものじゃない。
ああ、だけれど幸い飢えは癒えた。
「はぁ、はぁ。悪いけどそう言うのは……無しだ。俺はそんな事、全く望んでなんか無い」
肩で大きく息をしながらそう告げると元より白いアニの顔が更に青ざめた。その視点は、血に濡れた俺の腕に固定されている。
「そんな、何で……。それに、傷が……。また、師匠みたいに。やだ……置いていかないで。一人にしないで」
「大丈夫だ。俺はここに居る」
負の感情により歪みに歪んだアニの表情を、濁りに濁った虚な瞳を見据えながら告げる。
「俺はアニのおかげで救われた。俺が杉原叶人でいられるのは間違いなくお前のおかげだ。だからーー」
涙を見た。辛そうな顔を見た。歪んだ献身を見た。
その時点で俺の行動は決している。
俺は悲劇を振り払い、誰かを助ける為に生まれたのだから。だから、今その本懐を果たそう。
「今度は、俺が助ける番だ。俺がお前をーー」
『救ってやんよ』と、いつものようにそう言おうとした。
「嫌……。嫌、嫌ァァァッ!!」
けれどそれは半狂乱の叫びによってかき消される事になる。
「アニ!?」
彼女は弾かれた様に部屋から出て行く。
俺はそれを呆然と、ただ見送るしか出来なかった。




