68 将棋の戦い
強行軍、と聞いて、皆さまは何を連想するでしょうか。
記録上での偉業となると、ポエニ戦争において、七千の兵を率いて800kmの距離を、一昼夜100kmという途方も無い速度で駆けさせたクラウディウス・ネロ。
他にはアウステルリッツの戦場に駆けつけるため、八千の兵を率いて55時間で130km近くを駆けたルイ=ニコラ・ダヴーなどの名が挙げられるかもしれません。
ですが、我々が強行軍と聞いて、多くの方が最初に思い浮かべるのは、秀吉の二度の大返しではないでしょうか。
古くから物語として親しまれてきた太閤秀吉の大返しは、それだけ、わたしたちにとっても身近に語られる話です。
そんな秀吉の子、豊臣秀頼が異世界にて打ち立てた日輪の王国。
強行軍の最中に、大返しについて思いを馳せてしまうのも、仕方ないと思います。
もっとも、今回わたしが率いたのは、30人少々の小部隊。
大河以北の大平原――南原はほとんど平地で、街道は整備されており、治安もそれなりに良好。
おまけに移動圏内はすべて自領であり、十分なものではないとはいえ、駅伝制よろしく、替え馬や補給の拠点も整備されている。
高速移動の条件としては恵まれすぎな条件だ。
西部開拓時代の高速郵便配達サービス、ポニー・エクスプレスは、人を替え馬を替え3000kmの距離をわずか10日で駆け抜けたというが、比較対象にするならこちらかもしれない。
なんてことを考えながら。
わたしはベッドにたどり着いた瞬間、意識を手放しましたのでした。
◆
目を覚ますと、日は中天に登っていた。
領主に提供された屋敷の一室。
窓から差し込む光の強さからそれを察して、しかしわたしは首をひねる。
――はて、これは寝てから何日目の昼なのか。
そう考えるのも、無理はない。
揺れる馬の上で、振り落とされないよう死にものぐるいでしがみついて丸2日。
華奢なこの体でそこまで無茶したのだ。日単位で眠り続けていたとしても不思議なじゃない。
体調は、お世辞にも良くはない。
眠いしだるいし、体のあちこちが悲鳴を上げている。
この様子だと、2日以上眠っていた、ってことはないだろうけど……
「ロマさん……ああ、これは……しばらく起きそうにないなあ」
控えの部屋に向かう前に、力尽きたのだろう。
ロマさんは、布団の足元あたりに、突っ伏すようにして眠っていた。
一見して深い眠りだ。
筋力的にも馬術的にも、ロマさんはわたしより上だけど、それでもこの強行軍は身に堪えたらしい。
「となると、誰か……呼んで……」
「失礼。王妃殿下。お目覚めでしょうか」
必死に体を引きずり起こしていると、外から声。
異教の国出身の女性官僚、ユラさんのものだ。
先に起きていたらしい。
「起きています。入ってください」
応じると、答礼してから、ユラさんが入ってきた。
彼女も、半分死にそうな顔をしている。
「王妃様。お元気そうで」
「いえ、けっこう辛いです。ユラこそ大丈夫? すごい顔になってるけど」
「これは、みっともないところを……さすがに徹夜が続くと、この歳だと顔に出てしまう」
そういえばユラさん、26歳でお兄さんより年上だったっけ。
思い返せば元の世界に居たとき、勇叔母さんが似たようなこと言ってた気がする。叔母さんの場合、「30過ぎたら~」だったけど。
「ユラさん、まだそんなことを言うような歳でもないでしょう?」
「いや、王妃様に若さを見せつけられると、そんな言葉も出てきませんよ。ほんの2刻ほど眠られただけなのに、普段とお変わりない様子で」
2刻……4時間くらいか。
ということは、ちゃんとその日のうちに起きられたってことか。
でも、普段と変わりないってことは、絶対にない。
「変わりあるよ。体中痛いしダルいし眠すぎるし」
「それが顔に出ないから若いのですよ」
言いすぎじゃない?
ここまで体調悪いと、顔に出てないほうがおかしい気がするんだけど。
「ともあれ、王妃様。凄まじいものを見せていただいた。まさか本当に2昼夜で駆け抜けて来られるとは」
「ユラのおかげだよ。キミが行く先々で替えの馬や食事、灯明の手配をしてくれていたから、無茶を通しきれた。本当にありがとう」
「いえ、あなたの歩みの助けになれたなら、これほどうれしいことはない。これからも、ぜひ頼ってください」
ユラさんは楽しそうに微笑んだ。
「もちろん頼らせてもらうよ。今回も、事が成ったと安心するにはまだ早すぎる」
相手に対応する間を与えず、風の邦に乗り込んだ。
まだ、それだけのこと。目的の達成にはまだ遠い。
「そうでした。さしあたっては……王妃様、来客に備えてご準備を」
「そろそろ誰かやってくる頃、かな?」
窓越しに、外を見る。
早朝に触れを出して4時間。
近在の領主が迷いなく動いたなら、訪ねて来てもおかしくない頃合いだ。
「わたしがここに居る。それをザイン・ザイノフスクが知るまで、どれくらい時間がかかると思う?」
「早ければ半日後には、知られているでしょう」
「早いね」
「当然といえば当然でしょう。いま風の邦やその周辺には、ザインの手のものが駆け回っているのですから」
駆け回って?
口に出しかけて、気づいた。
「彼が反乱を決意したのは、わたしと面会した春先のこと。移動にかかる日数を考えれば、任地に戻ってから一ヶ月も経っていない。信頼できる仲間を口説き、不満分子を囃し立て、反乱を起こす。そこまで持っていくには、時間が全然足りていない」
先の会議で本命と定めた考察だ。
ザイン・ザイノフスクが――あの生粋の武人が反乱を起こすとしたら。
たとえ滅びの末路を受け入れていたとしても、必ず勝利への筋道を模索する。
将を揃えるのは、勝利のための最低条件だ。
単純に兵数を集めるだけなら、策を用いれば可能だろう。
だけど、兵を纏めるには将が必要で、こればかりは短時間でどうなるものでもない。
直属の将をあてがえば軍の中核が希薄になる。
かといって、ただ現状に不満があるだけの領主では、口説くのも、兵を預けるのも危険が大きい。
思うように軍を機能させるためには、どうしても信頼できる領主を何人か、口説き落とす必要がある。
おそらくそれはザインと同様、乱世を懐かしむような人種。
現状に不満を持つような不満分子は、挙兵後に取り込んでいけばいい。
反乱の仕込みと、信頼できる領主の調略。
いずれも一ヶ月やそこらで成立させることは難しい。
ましてや今は農繁期。帰農した兵まであてこむなら、この時期の挙兵は避けるはずだ。
「その通りです。彼らは現在反乱の芽を育てている最中で、それは奇しくも四方に偵察を送っているのと変わらない状況。街道を照らす灯火は、ひどく目立つ。一昨日はともかく、昨夜の灯火は、見られていると思ったほうがいい。なにか危急の変事が起こっていることは、すでに伝わっているかもしれない」
「それが、わたしの来訪だと知るのは……」
「触れを出しているのです。あと半日もすれば、伝わっているでしょう。もっとも――その、目的までは、知る由もないでしょうが」
ユラさんが、いたずら小僧の笑みを浮かべる。
わたしがこの思案を説明したとき、みんな驚いてたもんね。
あきれ混じりだった可能性もあるけど、まあ有効性は認めてくれたからよし。
「聡い人なら、わかるかもしれない。でも、理解した人は、同時に気づくだろうね……戦はすでに、終わろうとしていると」
彼が居るだろう西北の空を見ながら、つぶやく。
ここからの戦いは、いかに早く人を集められるかだ。
◆
風の邦は、先の戦乱において、飢民軍に壊滅させられた領邦だ。
領邦内の多くの都市が破壊され、村落が焼失した。風の邦の名残は、領邦南部や辺境にしか残っていない。
ヴェーダ領、蛇の目城。
風の邦の様式を強く残す無骨な城の一室に、領主ザイン・ザイノフスクは在った。
「――王妃が、風の邦に来た?」
風の邦周辺の地図を広げ、思索にふけっていたザインは、突如舞い込んだ報告に、眉をひそめた。
意図がわからない。
王妃がここまで極端な行動をとったということは、息子からか、それとも他の筋からか、反乱の意志が漏れたに違いない。
だが、軍を率いることなく、将のみを連れて少人数でやってきたのはなぜなのか。
――まさか、話し合いに来た、というわけでもないだろう。
ザインは心の内で断じた。
王妃は無能ではない。
お花畑めいた理想の持ち主だが、それを実現するための実力と知性を備えている。
しかしそうすると、彼女の行動の意味が、本当にわからない。
「王妃の動向は?」
「周辺の領主を集めております」
「……なるほど。狙いはそれか」
ザインは舌打ちした。
中核となる将は連れてきている。
その上で領主たちに声をかけ、兵を募れば、数万の兵をこの風の邦に現出させることが出来るだろう。
その中の少なくない数が、ザインの将兵となるはずだった人間だ。
「――将棋の発想だな。あの女、打ち込んできた飛車で、俺の陣を食い荒らしやがった。まったく、殺生なことをしてくれる。はなから勝ちの目ない戦だってのに」
言葉に反して、ザインの口の端は、喜びの形につり上がっている。
「うれしいぜ。俺の用意した将棋盤に、必要もないのに乗ってくれてよ。それでこそ、ハーヴィル王の妃……俺も、戦い甲斐があるってもんだ」
獣の笑みを浮かべながら、ザインは余った駒でいかに戦うか、軍略を練りはじめる。
このとき、彼は王妃の目論見を読み切ったつもりだった。
だが、その確信は、翌日届いた報告で、大きく揺らぐことになる。
「――報告! 王妃殿下は、近隣の領主を集め……彼らの陳情を聞いておられます!」
それは、まるで異界での出来事のように。ザインの耳には聞こえた。




