67 電光石火
日輪の王国にとって、きわめて重要な決定がなされた、翌朝。
花の宮殿を騒然とさせる一言が、王妃リュージュ・センダンより発せられた。
「――わたしは風の邦に、参ります」
広間に集められた群臣は困惑を禁じ得なかった。
前触れもない唐突な発言。しかも王妃は、ハーヴィル王との結婚からこちら、一度も王宮を離れたことがない。
ましてや国王不在の中。
政務を預かる王妃が自ら出ねばならないとは、いったいどのような変事が起きたというのか。
彼らの困惑を感じ取ったのか、王妃は微苦笑する。
「心配なさらず。白の聖女――先代聖女の遺産を授かるために、必要な手続きなのです。長く王都を留守にするつもりはありません」
王妃の言葉を聞いて、多くの者は思った。
――ああ、ヴェーダ領主ザインが王都から風の邦にとんぼ返りしたのは、この準備のためであったか。
風の邦、ヴェーダ領主ザイン・ザイノフスクは、白の聖女に育てられた者の子孫。
聖女から、なにか遺言や遺品を預かっていたとしても、おかしくはない。
先の面会でそのことを明かされ、密かに準備が進められていたのだろう。
――と、すれば。
目端の利く者は、推量する。
昨日、異国出身の官僚ユラたちが、急ぎ足で王都を発ったのも、王妃の旅の準備のために違いない。
そういえば昨日は、建国の功将たちがやけに騒がしかった。これもまた、無関係ではあるまい。
「――随行の員数は?」
「案内にヴェーダ領主ザイン様の嫡男ソレン。フェリア領主夫人アルヌ様と侍女のロマ。それから、以下の方にも随行していただきます。まずは――」
案の定、30名ほどの功将たちが、随員として名を挙げられる。
その中に、猛将と名高い赤将軍ジャックの名がないのは……彼が、王妃の留守を守ることになるであろう少年と、親しいからだろう。
「王妃殿下留守の間、王宮を預かるのは」
「フィフィ――我が子フィンバリー王子にわたしの名代を。政務と軍事に関しては、これまで同様、宰相閣下と、大将軍に輔弼していただきます」
留守の人事は、皆の想像を裏切らなかった。
一人、王子の教育係だけが、ため息を漏らす。
まだ若い国王王妃の養子という、不安定な立場の王子にとって、足場を固める絶好の機会にあって、そのため息には違和感を覚えた者が多い。
――なに、教育係殿もまだお若い。領邦君主や異国の王子、領主たちへの対応をする王子殿下をお輔けせねばならぬとあれば、その苦労を思ってため息も出ようというものさ。
――なるほど……もっとも、シルバニア領主夫人――あの肝の太いご婦人が居れば、癖のある領主どもも、王妃の留守中に無茶はすまいが。
そんな会話が、広間の片隅で密やかになされる中、その問は発せられた。
「して、日取りは」
王妃はにっこりと笑って、答えた。
「――今からです」
◆
王宮騒然とする中、王妃は一行を引き連れて出立する。
城門まで見送りに出たフィンバリー王子の心境は、同じ場所で国王を見送った王妃のそれと、あるいは同じものであったかもしれない。
「行ってくるよ、フィフィくん。留守をお願いしますね」
「精一杯、努めます。リュージュ様、ソレンと風の邦を、どうかお願いします」
少年の言葉は、かつて王妃が国王に向けたものと相似形。
だからだろうか。
王妃は、すこしだけ照れたように笑って、応えた。
「――ええ、きっと」
王都の人は、この日初めて、王妃の姿を間近に見た。
白く艷やかな長髪に、蒼玉の瞳。
神の寵愛を感じさせる、美しい容姿。
真紅のドレスに、対象的な純白の外套。
麗しい駿馬に横乗りになり、手には十字架杖。
付き従うは歴戦の名将、猛将、名高き女将軍。
まさに伝説上の聖女の姿が、そこにあった。
前触れもなく、突然現れた王妃の姿に。
民衆は、一行が王都を出る、その最後の一瞬まで……魅入られていた。
「一体何事なんだ」
「わからん」
誰かが言った、その言葉に、誰かが答える。
「――だが、俺は今日見たあの方のお姿を、一生忘れないだろう」
驚きがある。だが不思議と困惑はなかった。
不安がある。だが不思議と不満はなかった。
民衆にとって、初めて間近で見た王妃は、不思議そのものであった。
◆
王都を発った一行は、街道を北に向かう。
まずは、ゆっくりと。
しかし、止まらずに。
しだいに早く。馬は駆ける。
「――姉さま。あまりご無理なさらないでください」
「大丈夫だよ、ロマ。きみに教えられたときも、乗馬術は得意だったでしょ?」
「武芸と比べれば、ですけれど」
身を案じる侍女と、言葉をかわしてから。
王妃は北に伸びる街道を見据え、ひたすらに馬を走らせる。
疾駆と呼ぶべき速さだ。
30名程度の小規模の一団とはいえ、行軍の速度ではない。
馬の疲労を考えない無茶な走りは、知らぬものが見れば、暴走と映ったかもしれない。
「手はずは、ユラさんに整えさせた」
馬にしがみつきながら、まっすぐ行く先を見て、王妃は一人ごちる。
「あとは行く――行けるところまで」
王妃の言葉に、功将たちが、歓声を上げた。
「ヒャッハー!」
「強行軍だー!」
「こんなの海の邦と戦ったとき以来だぜー!」
王妃が率いる小集団は、北国街道をひた走る。
途中、駅舎で疲労した馬を替え、そのわずかな合間だけ休憩し、また駆ける。それを繰り返す。食事は、わずかな休憩の間に詰め込むだけだ。
「ユラを先に往かせたのは、このためですか」
「あらかじめ整備された早馬の施設を流用したとはいえ、見事です」
侍女の問いに、王妃はうなずくと、ここには居ない異国出身の官僚に賞賛を送った。
同じことは、時間さえかければ誰でもできる。
だが、一日に満たない時間で、往く先々の駅舎で準備を整えるとなると、それができるのは、ハーヴィル王の近侍でも限られるだろう。
そして日が落ちる。
闇の帳が降りていく。
馬は夜目が効くが、人はそうもいかない。
――つぎに馬を変える機会に、今日の日程は終了か。
そう思われたとき――街道に火が灯った。
人だ。
街道の両脇に、篝火を掲げた人が立っている。
「姉さま、まさか」
「言ったでしょう? 行けるとこまで行くって」
王妃の顔からは、すでに色濃い疲れが見て取れる。
だけど、瞳だけは輝かせて。彼女は答えた。
誰もが予感した。
小規模ながら、これは歴史に残る強行軍になると。
夜を徹しての行軍。
日が昇っても、一行は行く足を止めない。
ただひたすらに馬を変え、食事をかっこみ、そして馬を走らせる。
王都を発して三日目の朝。一行は風の邦に至った。
通常の行軍であれば20日。早馬でも4日かかる距離だ。
まさに電光石火の所業だった。
◆
「――お待ちしておりました。王妃様」
北国街道が風の邦を通る、最初の街。
信じられないものを見たという表情の領主とともに、出迎えたのは異国出身の官僚、ユラ。
おそらくは街にたどり着いて、それほど時が経っていないのだろう。彼女の顔にも、疲労の色が濃い。
「ご苦労さまです。仮眠を取ります。皆にも案内を」
疲労困憊の体で短く命じてから、王妃は目を瞬かせ。
「――それから、四方の領主に触れを」
「人の手配はすでに。すぐに発しましょう」
「ええ。王妃リュージュがここにいると、みなにそう報せてください」
疲れた顔で、わずかに口元をほころばせた。




