30 領邦君主
さて、皆さま。
領邦、という言葉は、皆さまにとって聞き慣れないものだと思います。
わたしもそうでした。領邦という言葉自体は、元の世界にもありましたが、いまいち馴染みのないものです。
日輪の王国において、領邦というのは広大な版図を有する、それ自体が一つの国だ。
その主は領邦君主と呼ばれ、領内の高度な自治を許されている。
建国の功臣を祖とし、相克戦争後、国王不在の時期には、王冠同盟として国体を維持した歴史の主役たち。
お兄さんことハル・ハーディル・エンテア・ソレグナムもまた、領邦のひとつ、風の邦の領邦君主の血を引いている。
そんな領邦も、先の大乱を経てその数を半減させた。
現在残っているのは、海の邦、湖の邦、深き森の邦、剣の邦の四邦のみ。
国内が不安定な折、それぞれ他国と境界を接していることもあり、ほとんどの領邦君主とは、まだ面識がない。
ただひとり、面識があるのが。
「むむ……うーむ……うむむむむ……」
眼の前で手を“┐”の字にして唸る、この中年のおじさんである。
◆
その日は、アンナさんと待ち合わせ。
目的は、フィフィ君の訓練の見学だった。
「フィフィ君、無理をしなくなって、元気になってきたから、日に日に動きがよくなってるんだよねー。楽しみ!」
「あ、あたくしも……うぇへへへ……楽しみです!」
「それはどういう意味かな?」
「ひぅっ!? すみません! 赤将軍様と……フィフィ王子の! 組み合わせもいいなって! 思っちゃってすみません!」
これはいけない。
ちゃんと釘を刺しておかなくちゃ。地蔵菩薩として。
「アンナ様、復唱してください。フィフィ君は聖域!」
「ひっ、フィフィ君は聖域!」
アンナさんに教育を施していると、肩にぽんと手が置かれた。
「――お二人とも、場所をわきまえていただけますか?」
「すみません」
「ひうっ!? も、申し訳ありませんっ!?」
静かに怒るロマさんの表情に、声をそろえて謝罪する。
場所は、王宮を出て庭園にさしかかったところ。
べつにヒャッハーたちがうろついてるわけでもないが、人の目があってもおかしくない場所だ。
「……大丈夫ですよね? 人目は……」
「そう思うなら、はじめから自重してください」
そうですね。従者さんにもめっちゃ苦笑されてますね。すみません。
反省していると、アンナさんがちょいちょいと指先をわずかに曲げた。
「王妃様……あちら……に……」
指の向いた方に視線をやる。
そこに居たのは……造成中の荒れ地の中、変なポーズしながらうんうん唸っているおじさんだった、というわけである。
ロッサ・ファロッサ・シルヴァルティア。
深き森の邦の領邦君主であるおじさんの、それが名前である。
「顔を合わせたからには、挨拶しない訳にはいかないよね?」
「挨拶しておくのが無難でしょう」
ロマと顔を合わせながら、そう結論づける。
「では」と造成地まで歩いていって、大きな岩の前でうなっているおじさんに声を掛ける。
「ロッサ様」
「ううむ……」
「ロッサ様?」
「これは……むむむ」
ぜんぜん気づかない。
思わず振り返ると、ロマが「がんばれ」とばかりに応援のポーズ。
もう少し大きい声で、と息を吸った、その瞬間。
「――これだぁっ!」
ロッサさんがいきなり叫んだ。
びっくりした。
呆然と見ていると、ロッサさんは目の前の巨岩を、奇声とともに持ち上げて――またすぐに下ろした。
「よし!」
眼の前で手を“┐”の字にして、納得行ったようにうなずく。
「やはりこの角度。もっとも庭園に調和する……すぅばらしいっ!」
なにやら悦に浸りながら、岩の周りをぐるぐると回るおじさん。
どうしよう。どう見ても百キロ以上ある岩を持ち上げたり、持ち上げる前と違いがわからない微妙な違いにこだわったり、集中しすぎて周りの声が聞こえなくなってたり……突っ込みどころが多すぎる。
「ふぅむふむ、ふっぅむ……やや、これは、奥方様ではありませんか! ご機嫌麗しゅう!」
「……ロッサ様も、楽しそうでなによりです」
「くくく、ちょうど深き森の邦より藤蔓石が届きましてな! どうですかな奥方様! この絡み合う藤蔓がごとき美しさ! 見事とは思われませぬか!?」
「はい。そうですね」
「そうでしょう、そうでしょうとも! 拙は思うのです! 万物は調和によって成り立っていると! その調和を崩さぬまま、人の手によって、より大きな調和を作り出すことこそ芸術であると!」
ロマさんたちに視線をやると、みんなさっと視線を逸らした。従者さんまで。
関わりたくないんですねわかります。
◆
さて。
ロッサ・ファロッサ・シルバルティア。
領邦君主である彼が、なぜ王宮の庭いじりをやっているのか。
答えは単純である。
彼が、庭園の造成に関するあらゆる権限を、王様から授かった責任者だからだ。
領邦君主としての責務を息子にぶん投げて。
自ら望んで、彼はこの場所にいる。
当代随一の芸術家にして能書家、美食家。
それが彼のもう一つの姿だ。ちょっと多才過ぎる気もするけど、本当だ。
ちなみに、結婚の披露宴のとき、料理だけでなく、宴の演出を取り仕切ったのは彼だったりする。
「――それでですな、奥方様! 茶碗を焼くには火力が必要なのですが、焼きすぎると土が火に負けてしまう! だが焼きが甘いと使い物にならない! このギリギリのところを攻めるのが勘所でしてな! 経験を積んだ窯師に任せとるのですが……火の見過ぎで目が弱ってしまうのが悩み所ですな! 拙も、いっそ自ら焼きたいとたまらぬのですが、盲てしまっては美しいものを愛でることもできない……考えものですなあ!」
領主の務めより芸術を優先するだけあって、情熱過多……なのはいいとして。
もう少しギアを落としてください。止まってください。だれか助けてください。
「あ……あの……うぇへへへ」
アンナさんは助けてくれようとしてるんだけど、完全にスルーされてる。
というか絶好調になりすぎて、わたしの相槌すら聞いているのか怪しい。
あー、今日は曇り空だなあ。と、現実逃避してみたり。
「――おや、王妃殿下ではありませんか」
悟りの領域に足を踏み入れていると、突然声をかけられた。
知った声だ。振り返ると、そこに居たのは予想通り、白髪白髭の老人――オービス宰相だ。
「宰相閣下」
「ん――ん? これはオービス殿ではありませんか!」
ロッサさんに続いて、全員が宰相に礼をとる。
「宰相閣下、ちょうどよかったです」
「ふむ……なるほど。王妃殿下、私はこれからロッサ殿と、造成の進捗について相談せねばなりません。申し訳ありませんが……」
「はい――ロッサ様、いろいろとお話していただいてありがとうございました」
宰相は一瞬で状況を察してくれたらしい。
気を利かせてくれたので、これ幸いと退散することにする。
「なになに。こちらこそ、つき合っていただいてかたじけない! 藤蔓石とともに深き森の邦より珍しい食材も届いておりますので、こんど馳走いたしましょう!」
どうしよう。
ご馳走は食べたいけど、この人の長話を聞くのは……とても悩ましい。
「ロッサ殿、食材は饗応用ですからな? 多少は目をつぶりますが、あまり使いすぎぬように頼みますよ」
「くっくっく、承知しておりますよオービス殿……」
そんな二人の会話を聞きながら、ようやくその場を脱した安心感に、胸をなでおろす。
領主としてはともかく、芸術家としては、ロッサさんは有能な方です。
ですが、芸術家特有の、偏執的なこだわりがあるようで……なかなか難しい方でもあるようです。
「……いける!」
そしてアンナさんはどこまで行かれるのでしょうか?
わたしは早くフィフィ君のところまで行きたいです。




