朝顔の夏と君の温度
青い朝顔が咲いていた。設置された柵に絡み付き、小柄な円がいくつか。鉢植えで咲く朝顔は、学校の初めての夏休みの宿題だった。
私は、玄関でそれを眺めていた。ふと目の前に、影ができる。後ろに誰かが来たのだろう。
「やあ、宮守さんのところのお嬢さん。お祖父さんはいるかい?」
それは私からすれば、お兄さんと呼べるような見た目のひとだった。けれど実際はもっと上の年齢なのだと聞いていた。だからなのか、黒い着物がよく似合っている。
「おはようございます、薄氷さん。お祖父ちゃんなら、家にいるよ。いっしょに行こ」
「ふふ、君は良い子だね。駄菓子は好きかい?」
「うん、好き。このまえもね、お祖父ちゃんと買いに行ったの」
「じゃあ僕からも。ちゃんと浮世で作られたものだから、安心して受け取っていいよ」
その頃の私は、浮世とは何かわからなかった。ただ目の前に差し出された駄菓子の数々を、嬉しく思った。
遅かった私の様子を見に来たのだろう。家から祖父が出てくる。それとも、薄氷さんとの約束があったからかもしれない。
「五十鈴。悪いがもう少し外にいてくれ。彼と大事な話があってな」
「うん、わかった」
好奇心から首を横に振りたかったが、両親のいない私にとって祖父は親代わり。従わない理由もなかった。
もう一つ。私は、私の家が普通とは少し違っていることを、昔から教わっていた。
家のまわりを散歩してから、ラジオ体操に向かった。帰ってまた咲いたばかりの朝顔を見ていると、すぐそこの網戸の向こう、祖父が私の名前を呼んだ。
行儀が悪いけれど、靴を脱いでそこから上がった。
畳の床に、障子の戸の和室。中央にある木製のテーブルで、座布団に座った祖父と薄氷が向かい合っている。そして薄氷のかたわらに、私よりも小さな『何か』がいた。
四つ目の座布団、祖父の隣に私は座る。大人ぶって、正座で澄まし顔で。だけど隠しきれない好奇心が、その『何か』から目を逸らさせなかった。
「この子はね、鵺だよ。平安時代のお話が有名な妖怪だね。でも、五十鈴ちゃんくらいの子はまだ知らないかな」
「今日からうちの子になる。五十鈴、仲良くできるか」
「う、うん」
私の正面にいる鵺というあやかしは、なぜだかはっきり姿が見えない。後で聞いたが、人々に語られる鵺の姿が諸説あるせいで、概念が安定していないかららしい。さっきから一言も話さないし、これでは仲良くできるかなんてわからない。
じっと目を凝らす私に気づいて、薄氷さんが鵺に声をかけた。
「人間には化けられるかい? 現代の人間社会で生きるには、必要な条件なんだけど」
一瞬で、私の目の前にいた鵺は姿を変えた。
薄氷さんと同じく無地の黒い着物姿で、私と同じ七歳くらいの子供だった。しかし、明らかに人間ではない。その瞳の瞳孔は縦に細く、夜空に浮かぶ満月のような金色。頬を灰色の鱗が覆い、着物の袖から覗く手や足は鋭い爪を持つ虎のそれだ。
「うーん。改良の余地あり、かな」
薄氷さんはそう言って、苦笑いしたけれど。
「こんなつぎはぎみたいなあやかしなんだから、とうぜんだろ。俺なんか、どうせこの程度だ。お前だって、こわいと思うんだろう?」
鵺の彼はそう言って、卑屈に私を見たけれど。
「かっこいい! すっごくつよそう!」
私はテーブルを回り込んで、彼の虎の手を握った。もふもふしていて、暖かい手だった。怖いなんて、思うはずがなかった。
これが、私と彼の出会いだ。今から十年前のこと。
*
田舎らしい田園風景の中を、私は友達と一緒に歩いている。町の図書館からの帰り。
夏の遅い日暮れに降るのは蝉時雨だ。一陣の風に、制服のブレザーやスカートの裾がふわりと翻った。
「五十鈴ちゃん、付き合ってくれてありがとうございます」
同い年だけど、彼女――双葉は敬語を使う。昔から神社で巫女の手伝いをしている双葉は、もう敬語が癖になっていて抜けないらしい。だからって、距離を感じるなんてことはない。彼女の個性だ。
双葉とは、小学校からの仲だ。家族ぐるみの付き合いをしている。同い年の私たちは、すぐに打ち解けた。
「ううん、構わないぞ。『月刊もふもふ』だっけ? 葵様に微妙な顔されるんじゃ、隠したいよなー」
「はい。それに司書さんの個人的なコレクションなので、普通に図書館で本を借りるのとはちょっと違うんですよね」
「個人的なコレクションかぁ。でももふもふの本、図書館にもけっこう置いてるよな?」
「実を言うと、ちょっとだけ職権乱用です」
これは司書さんの趣味を知っている人からすると、周知の事実らしい。そんなところがおかしくて、二人して笑い合った。
双葉と一緒に帰る時は、神社に寄る。ここが双葉の家だ。そして、うちの町の神様がいるところでもある。
境内から、和服姿のひとがやって来る。頭上でぴこぴこ動く狐の耳。ふぁたりふぁたりと揺れる、明るい茶色の大きなしっぽ。稲荷の遣いでありながらも土地神でもある、葵様だ。
「双葉、おかえりっ。五十鈴も」
「ただいま、葵様」
「お邪魔しまーす」
まわりを木々に囲まれているからか、神社の敷地内は涼しい。だからかためらいなく、双葉が葵様のしっぽをまふっと一撫でした。
「五十鈴はお迎えに来たの?」
「あ、じゃあ朔来てるのか。なら、連れて帰るよ」
鵺の彼は、朔という名前を祖父にもらって家族になった。今ではすっかり馴染んでいた。
朔はよく神社に来る。彼の役目を考えれば、おかしいことではないのだが頻繁だ。私と祖父、双葉以外の人間は苦手だからだという。
この神社はいつも盛況だが、ぽっかりと人目につかない場所がそこここにある。朔はそんな場所を好む。
「朔ー、帰るぞー!」
まるでかくれんぼだ。だけどいつだってみつけられる。
だって、同じ家に帰る家族だからだ。
闇に紛れ込みそうな、黒色のパーカーをフードまで被ったひとをみつける。朔だ。木の枝に腰かけているせいで、余計にみつけにくかった。
彼が化けられるのは鵺の中の狸の性質だが、他と混ざっている分完璧ではない。パーカーはトパーズのような金色の、蛇に似た目を隠すためだった。
わずかに梢を揺らして、朔が降りてくる。
「五十鈴か」
「うん。帰ろう、朔」
手を差し出す。いつも数秒ためらってから握り返す朔の手は、ちゃんと人間のものだ。化ける練習をして、もう目以外は人と同じ姿になれる。
「朔の手は冷たくていいな。夏なんか特に」
「俺は、五十鈴の暖かい手が羨ましい」
「なら、ずっとこうして握ってたらいい。そしたら、同じ温度になるだろ?」
私が先導するように前を歩いて、朔はほんの少し後ろをついてくる。でもそれは最初だけだ。
見送ってくれる双葉と葵様に手を振り返して、神社を後にする。
私たちの家は、町はずれにある。中心地まで自転車で二十分程。ゆっくり歩けば約一時間。
代わり映えしないかわりに安心感のある、田園風景。ひんやりしていて心地よい朔の手。涼しい風が、青々とした稲穂を揺らす。晴れ渡った青空に入道雲、夏の日暮れは遅い。
それでも夕暮れ時。あるいは、逢魔ヶ刻だ。
ゆらり、不自然に道端の草の影が揺れる。素早く気づいた朔が、私を抱き寄せた。
朔の腕の中で、強い衝撃を感じた。思わず瞑っていた目を開けると、すぐ近くに鎌のような鋭い爪がある。朔が虎に変化させた右腕で庇ってくれなければ、私は切り裂かれていただろう。
「……鎌鼬か。敵意ある余所者のあやかしを排除するのが、俺の役目だ。五十鈴に危害を加えたのならば、なおさらな」
風が吹き、鎌鼬が姿を現した。動物のイタチとほぼ変わらないが、前足はあの鋭い鎌だ。赤い目を爛々と光らせ、毛を逆立てて威嚇する。
呼応するように、朔が左腕と両足も虎のものに変化させた。頬に鱗、瞳にはあやかしの気配が色濃く混じる。
先に動いたのは鎌鼬だ。一瞬でその姿が見えなくなった。
「五十鈴、離れるなよ」
もし今私が朔から離れて、一人になれば。鎌鼬は弱い人間である私の方を狙うだろう。そうして私を盾にされれば、朔が抵抗できなくなる。
「うん、わかってる」
足手まといにはなりたくない。だからこそ、今でしゃばる訳にはいかない。
わずかな音を聞き漏らさず、朔が右腕を動かす。真白の虎の毛並みの動きで、そこに攻撃があったことを知る。
風が渦を巻く。一瞬だけ鎌鼬の姿が見え、四方八方からの風の刃が私と朔を襲った。
朔に抱え込まれるが、攻撃はふくらはぎを掠める。けれど私を守ってくれている朔の方が、さらに傷だらけだ。いくら変化していても、いくつかは治るのに時間がかかるだろう。
当然、ただ斬られている訳ではなかった。次に鎌鼬が現れたのを見逃さず、朔が蹴りを繰り出す。
命中し、鎌鼬は崩れ落ちた。
「朔、怪我見せて」
「大したことない」
そんな彼の自己申告を無視して、私は朔をじっと見た。
背中が数ヶ所、浅く切れている。虎に変化していた手足は無事らしい。最も深いのは頬の傷だ。ざっくり切れて血がつたっている。
「……痛いよな。家に帰ったら、すぐに手当てするよ」
スカートのポケットを探り、みつけたハンカチで傷を押さえる。自然と距離が近くなった。
朔の目は、澄んだ金色がとても綺麗なのだ。普段は隠しているから、こうしてまじまじと見ることは少ない。
「五十鈴もだ。そこ、怪我してる」
「ああ、うん。でも朔に比べたら、こんなの大丈夫だ」
ふい、と視線が逸らされる。
「五十鈴の名前、鈴の音に魔除けの効果があるから付けられたんだろ。なのに俺なんかといるから、こうして危ない目に遭う」
「違う。私が自分で選んで、朔の隣にいるんだ。何でもかんでも、勝手に責任背負い込むのは、朔の悪い癖だぞ」
真正面から朔を見据える。頬に手を当て、私と視線が合うようにする。
「最初から、覚悟はできてるんだ。私は宮守の家の、あやかしとの交渉人の跡継ぎで、朔の家族だ」
ハンカチを渡し、朔に自分で押さえさせる。空いた方の手を、離れないように握る。
私よりも大きい手なのに、兄とも弟とも言えないこの家族は、失敗したと思うとすぐに後ろ向きになる。まるで迷子の子供だ。だから手を引いて、一緒に歩いていけばいい。
「ほら、手もあったかくなってきた。大丈夫だから」
朔は、いつも私があやかしに襲われないか、あやかしである自分が私を傷つけないか、過保護なくらい心配してくれている。大丈夫だと、声にして伝えなくては。家族なんだから、できるだけ近い場所にいたい。
「……! 五十鈴!」
「え」
再び朔に抱え込まれた。朔の肩越しに、先ほど気絶させたはずの鎌鼬が、爪を振りかぶっている。
避けられない。咄嗟に目を閉じた。
が、いつまでも衝撃は来なかった。
「やあ。ふたりとも、無事かい?」
おそるおそる目を開ける。鎌鼬は、小さな竜巻の中に捕らえられてもがいている。
そして、そのすぐそばに立っているのは、薄氷さんだった。
「薄氷さん! はい、ありがとうございました」
「うん。きちんとお礼が言えて、五十鈴ちゃんは良い子だね。駄菓子をあげよう」
「ありがとう。じゃなくて、子供扱いしないでください。私もう高校生なんですから」
受け取った駄菓子はそのままに、抗議はする。
「そうは言っても、僕にとって五十鈴ちゃんはまだ子供さ」
大人びた表情の薄氷さんの背には、大きな翼がある。さっきの竜巻を起こせたのも、この翼も薄氷さんが天狗だからだ。
この町のすぐそばにある山の一つ、あやかしたちが住む町が常世にある。有力者である薄氷さんは、そちらの町の元締めなのだ。
「ちょうど浮世に、駄菓子を仕入れる用事があった帰りなんだ」
「……すみません、油断しました」
「うん、そうだね。でも朔君も、門番としてなかなか頑張ってるじゃないか」
薄氷さんに、ちらりと聞いたことがある。朔は、あやかしの町には馴染めなかった。だから祖父が受け入れたのだと。
宮守の家は、昔からあやかしとの交渉人だった。あやかしは人間に危害を加えず、人間はあやかしに干渉しない。それを守るための、宮守は人間側からの代表。月に一度、あやかし側の薄氷さんとの話し合いが最近の主な役目だ。
朔が門番の役目を担うようになってからは、もう一つ。外部から来たあやかしの見極めだ。
「いきなり襲われました。危険と判断し、対処は薄氷さんにお任せします。……合ってます?」
「うん、問題ないね。跡継ぎとしてはまずまずだ」
交渉人の練習の一環として、私は自分が遭遇したあやかしの判断を任されている。
この辺りの土地は、あやかしにとって魅力的らしい。だがここは、人とあやかしが共存する町。特にあやかしたちの町へ入るには、交渉人か門番に話を通さなくてはならない。
悪意がないなら受け入れ、敵意があるなら迎え撃つ。それを担う門番の朔の元には、あやかしがよく現れる。そして、交渉人。跡継ぎである私の元へも。
「じゃあ、僕はこれで。ふたりとも、逢魔ヶ刻には特に気を付けるんだよ」
「はーい」
少し歩けば、もう家に着く。古風な二階建ての日本家屋。大きな窓の一つは、朝顔のグリーンカーテンに覆われている。
朔を玄関から上がってすぐの座敷で待たせ、私は居間へ向かった。
「お祖父ちゃん、ただいまー。救急箱取ってくれ」
「おかえり、五十鈴。あやかしとでも逢ったか? 怪我はどの程度だ?」
「そんなにはひどくないよ」
祖父から救急箱を受け取り、朔の元へ戻る。手当ても慣れたものだ。我ながら手際良く済ませる。
「手間を、かけさせ……」
「守ってくれてありがとう。朔」
言葉を遮って、額をこつんと合わせる。やっぱり冷たい。そんな朔は、自分からは進んで私に触れたがらないから、いつも私から近づく。
美しい金色の、人間とは違う瞳をまっすぐに見つめ返した。憂いを帯びたトパーズは、光を纏っているのに深く煌めいている。こんなに綺麗な目が、人間のものであるはずがない。
「朔は私の、自慢の家族だ。頼りにしてる。好きだよ」
種族が違ったって、例え朔自身がそう思えなくたって、私にとって朔は紛れもなく家族だ。だからちゃんと届くように、好意は素直に伝えたい。
「……五十鈴」
「だって朔と、あの日に出会えたからな」
十年前、薄氷さんが朔を連れてきたあの日。その夏休みに私は両親と別れた。祖父の元へ捨てられたのだった。
私は昔から『視える』子供だった。何もない空間を見る幼い私を、父親は気味悪がったという。母親は私を、同じく『視える』祖父に預けることにした。私より父親を選んだ。
『父さんはまだ良かったでしょう!? 視える親が視えない子供を育てることはできても、視えない親は視える子なんて育てられないんだから! 父さんに、私の気持ちなんかわからないわよ!』
祖父にそんな言葉を投げつけた翌朝、母親は父親を追って出ていった。私を残して。
私には妹がいるらしい。今もあの家族は、三人で幸せに暮らしているだろうか。
恨む気持ちはない。それを抱くには、その頃の私は幼かった。せめてと祖父に預けたことに、ほんの少しだけの愛情が残っていたと思う。それだけでいい。
そうして両親をなくしたその日、朔が家族になった。兄でも弟でもない、人間ですらない存在。今は祖父と朔こそが、私にとって家族と思える相手だ。
「五十鈴が……」
「ん?」
「五十鈴がそう言ってくれるから、宮守さんが受け入れてくれるから。俺は、俺を認められる」
「……うん」
それで充分だ。迷子みたいだったあの日から、そう思ってくれるようになっただけで。
夏の朝。もう明るく、涼しい空気が真昼の暑さを予感させる。
私は外へ出て、朝顔に水やりをしている。夏は毎年、こうして朝顔を育てている。買い足したりして増えた朝顔は、青や赤紫、星のように白いラインが入ったものなどさまざまだ。
「五十鈴、おはよう」
「おはよう、朔」
如雨露を置いて、朔に笑いかける。
「今年も、綺麗だろ?」
「ああ、そうだな。育てているのは、俺が来た年からか」
「うん。朔が家族になってくれた夏の思い出の、証みたいなものだからな」
あの年の朝顔の子供たちは、毎年種を残す。私はそれだけは必ず植えて、咲いた花を朔と眺めるのだ。家族だと、確かめるように。
「また来年も、一緒にいて。夏が終わっても、どこにも行かないでくれ」
もう、家族を失くしたくない。
「行かないだろ、俺はどこにも。俺が帰ってくる場所は、ここにあるんだろう?」
ふわりと笑った朔の表情と、色鮮やかな朝顔を、新たな夏の記憶に刻んで。