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前史 1

最初に一言。このシリーズはタイトル詐欺です(笑)

「艦長、出港準備完了しました!」


「よし。それじゃあ、出港するぞ。抜錨!」


 1944年6月、大日本帝国北海道小樽港。そこから1隻の小柄な船が出港しようとしていた。1000トンにも満たないであろう小型の船尾楼型船体。船尾には双頭鷲の旗が掲げられている。


 露西亜帝国海軍敷設艦「イルティッシュ」号がこの船の正式の名前であるが、船首の機銃座と、艦尾に見える機雷の投下口以外、軍艦らしさの欠片もない船であった。小型貨物船と言われた方がしっくりとくる。


 そのことは艦長の小笠原露西亜帝国海軍中佐も良く理解しているところであった。


「さてと、これで我らの八八艦隊の全艦の受領が完了だな。後は無事にオハまで持っていくだけだ」


「まあ、赤どもも身の程は知っていますから、よほどのことはないでしょうに」


 先任士官の言葉に。


「だといいがな」


 と小笠原は一言だけ口にした。


 確かに、現在ソ連はドイツをはじめとするヨーロッパ連合との戦争で手一杯で、ウラジオストクの太平洋艦隊の艦艇まで動員して、ヨーロッパでの戦いに投入していた。今更アジアで戦う力など残っていない筈であった。


 だが生粋の船乗りである小笠原は、口には出さないが妙な胸騒ぎを覚えていた。


「駆逐艦「ヴェールヌイ」との合流まで12時間。日本の制海権にあるとはいえ、油断だけはするな」


「ダー、艦長」


 先任士官が敬礼する。小笠原は艦長席に座り、双眼鏡で前方を眺める。


「それに・・・こいつで海戦をするなんて狂気の沙汰だ」


 小笠原が所属する露西亜帝国海軍は、かつてのロマノフ王朝露西亜帝国海軍の末裔であるが、往時の頃の面影は欠片も残っていない。そもそも、露西亜帝国そのものが、猫の額のような領土しか有していなかった。




 露西亜革命によってロマノフ王朝の王族たちはソビエト政府により、シベリアのエカテリンブルグへと追放された。そしてそこで、危うくニコライ二世含めて皇帝一家全員が暗殺されるところであった。


 しかし際どいタイミングで皇帝派(いわゆる白軍)と、ソビエト誕生に警戒心を抱く日英などの各国派遣の特殊部隊がエカテリンブルグへと潜入、皇帝一家を救い出した。


 だがソビエト政府は着実にロシア全土へとその支配地域を広げ、白軍を圧倒した。その結果皇帝一家は東へ東へと逃げ、最終的に日本が占領していた北樺太へと逃げ込むしかなかった。


 その後、その北樺太が露西亜帝国に唯一残された地となった。ニコライ二世は革命の責をとって皇帝位への再就任を拒否し、また息子のアレクサンデルも病弱を理由にこれを固辞。長女のオリガも幽閉生活と脱出時の強行軍が祟って健康に不安があって固辞。最終的に次女のタチアナが女帝として帝位に就いた。


 とは言え、残されたわずかな領土しかない露西亜帝国に昔日の面影はなく、オハ油田の石油輸出やオホーツク海での水産などの細々とした産業と、海外に逃れた貴族や、そして安全保障条約を締結したイギリスや日本などの国々からの支援で生き残るのがやっとであった。


 こんな状態であるから、軍備もお粗末なものしか揃えられなかった。国境警備隊同然の陸軍に、飛行倶楽部レベルの空軍、そして漁船団に毛の生えたような海軍。これが樺太に当初集った露西亜帝国軍の実情であった。


 ロシア全土を牛耳ったソ連の赤軍が間宮海峡を越えて進撃してくれば、一溜りもなく蹂躙されてしまうだろう。


 そんな露西亜帝国が存続していられるのは、単に大日本帝国と大英帝国のおかげである。彼らの政治力と武力のおかげで、ソ連は北樺太を20年以上も攻めあぐねていた。


 とは言え、それでは完全な他力本願なので、露西亜帝国自身も軍備拡張の努力を建国時から行っていた。ただし、領土的に多数の人口を抱える余裕がなく、加えて白軍も壊滅したため、北樺太についてきた露西亜帝国軍人の数は少なかった。


 その穴埋めとして採用されたのが、第一次大戦後の軍縮時代に人余りを起こしていた大日本帝国をはじめとする、各国の軍人たちであった。特に大日本帝国は数多くの軍人を露西亜帝国軍に供給している。


 小笠原も中尉時代に露西亜帝国海軍に出向した。そしてそのまま露西亜帝国の国籍を取得し、露西亜海軍に籍を移した。


 これは露西亜帝国海軍の待遇が良かったというのもあるし、露西亜帝国海軍は結氷期になると艦艇を日本などに避泊させており、1年の3分の1は日本に戻れるというのも大きかった。それに加えて、樺太の南半分、すなわち北緯50度より南側も実質的に日本であり、国境を越える列車に乗って豊原ユジノサハリンスクあたりまでいけば、充分日本の雰囲気を楽しめた。


 樺太の南半分は日露戦争後のポーツマス条約で日本へと割譲されたが、北樺太に露西亜帝国が移ると大日本帝国は露西亜帝国との間に新条約を締結し、100年間の租借へと切り替えた。これは領土を喪った露西亜帝国への気配りであるとともに、北樺太の露西亜帝国を攻撃することは大日本帝国を攻撃することとイコールであるという、ソ連に対するけん制の意味も含まれていた。


 そんな樺太はその後10年余りは平穏であったが、1931年に満州事変が発生すると俄かに雲行きが怪しくなる。


 満州は中国大陸東北部の地域であり、日露戦争の際は陸戦の主戦場となった。その後は遼東半島が日本の租借地となったが、その他の地域は南満州鉄道など外国資本の鉄道沿線を除けば、軍閥や馬賊が跋扈する地域となった。その中で最大勢力となったのが張作霖率いる軍閥であった。そしてその張作霖の懐柔を、日露、さらには両国から依頼を受けた英国までもが図った。


 日本にとっては満州は重要な利権を有する地であるとともに、資源供給地、並びに対ソ戦略の用地としても重要であった。


 そして露西亜帝国にとっては、亡命者の受け入れ先として有望な地であった。樺太に露西亜帝国政府が移ると、皇帝派や反共主義者などがソ連から脱出して集まってきた。しかしながら、狭い樺太では受け入れに限界がある。そのため、樺太に入りきらない皇帝派の人々は、必然的に他所に向かうしかなかった。


 その行先はフランスやアメリカ、日本もあったが満州もまた受け入れ地となった。日露戦争で敗れたとはいえ、まだロシアは満州に権益を持っており、居住する露西亜人もいたからである。


 さて、そうなると露西亜帝国としては満州に流れ着いた自国民の安全を必然的に図らなければならないが、混沌とした状態ではそれもままならない。


 満州は元々居住する満州人に加えて漢人、蒙古人、日本人に朝鮮人、さらには露西亜人にユダヤ人と人種の坩堝状態であった。数だけで言えば漢人が圧倒的であったが、日本人や露西亜人の人口も急増しつつあった。そのため、それぞれの人種間同士の衝突も発生し、満州に秩序をもたらす政府の存在は必要不可欠と判断された。


 英国にとってのメリットは、日露への恩を売れることに加えて、独立運動が高まりつつあり、今後自治領化や独立を考えざるを得ない、すなわち自国の影響力が削がれる可能性が高い西アジア地域の補填となりえる有望な地として、満州を利用できる。第一次大戦による後遺症で世界帝国の地位から脱落し、経済的にも苦境に立たされる英国にとって悪い話ではなかった。


 こうした結果、1928年に満州は連邦共和国として独立を宣言した。連邦となったのは、各方面を収めていた軍閥や馬賊の長をトップとした地方政府を糾合した形としたからだ。また権力のない皇帝として清朝最後の皇帝溥儀が担ぎ出され、権力のない国家統合の象徴とされた。


 この結果満州国内には皇帝派、つまりは白系露西亜人が流れ込むようになり、首都となった長春やハルビン等に続々と定住した。また日露満で防共協定が締結された。


 しかしながら、この動きは満州と国境を接するソ連や、中国大陸の市場への進出を目論む米国を大きく刺激した。


 ソ連は樺太に露西亜帝国政府が設立されてから、度々日本に革命の敵である皇帝派への支援を中止するように要求した。しかしながら、日本は長年の盟約を理由にこれを拒否、逆に虐殺事件が発生した尼港事件などから、ソビエト政府との距離を置く姿勢を示した。


 また第一次大戦後、太平洋を挟んで軍備拡張競争を行い、なおかつ大陸における市場の面でも競合関係となった米国は、満州国と言う日英が好き勝手出来る政府が中国北東部に誕生したことに、危機感を抱かざるを得なかった。


 1931年9月18日に勃発した満州事変は、そんな米ソが背後にいることを感じさせる事態であった。この事変は、突如として中華民国軍が満州国側からの攻撃を理由に熱河省方面から12万の兵を侵入させ、加えて満州連邦を構成する2つの国がそれに同調して武装蜂起したものであった。


 事変の発端であった中華民国側の攻撃は、後に謀略であることが判明するが、それは10年以上も後のことだ。さらにその背後に米国の影があったとされているが、この点に対して米国は否定している。


 それはさておき、この満州事変の際にその迎撃の主力となったのが日露軍であった。と言うのも、この時点で国家としての成立から3年しか経過していない満州連邦軍は、日露英などから軍事顧問を迎えていたとはいえ、とても統一的な戦闘が出来る集団とはなっていなかった。戦えるとされたわずかな部隊も、首都長春の防衛で手一杯と言うところであった。


 そのため、条約に基づいて満州連邦政府から要請を受けた日露軍が動いた。日本軍9000、露西亜軍6000の計1万5千が8倍の中華民国軍と対峙した。兵力だけで言えば圧倒的な寡兵であったが、日本軍と露西亜軍はある程度の数の戦車、装甲車、トラック、そして航空機を保有し、それらを持ち合わせていなかった中華民国軍を運動戦術で翻弄した。


 結果から言えば、中華民国軍は2000の戦死者と6000の捕虜を出すと潰走してしまい、わずか1カ月で国境の向こう側へと追い出されてしまった。


 この惨敗に焦ったのが反乱を起こした満州連邦構成国の2つの国と、北方国境に兵力の集中を開始していたソ連であった。中華民国軍のあまりにも短時間での敗走に、これらの国々が動きがとれなくなったからだ。


 最終的に反乱を起こした2つの国は首相以下政府が交代の上、連邦政府に降伏。ソ連も形ばかりの非難を行うと、国境に張り付けた大兵力を下げた。


 この戦いで日露軍はその精強ぶりを世界に見せつけた。その一方で、中華民国の後ろにいた米国や満州と国境を接するソ連は警戒感を高めた。


 この満州事変における露西亜軍の奮戦は、満州国と日本における露西亜軍の株を上げることとなった。


 その後昭和12年7月に北京郊外の盧溝橋で駐留日本軍と中華民国南京政府軍が衝突し、直後に停戦がなされたものの日中関係はさらに悪化、断交こそしなかったが日本は海南島に本拠地を置く華南連邦等との距離を縮めて行く。


 一方露西亜軍が次なる活躍をしたのは、満蒙国境のノモンハンで発生した武力衝突であった。満州とモンゴル間の軍事衝突は、その後両国の後ろ盾である日露とソの大規模衝突に発展した。この事変において、露西亜軍が満州事変後満州国内で編成した精鋭機甲部隊と航空隊を前線に投入し、ソ連軍に大打撃を与えた。


 日露共同開発の最新兵器である97式中戦車や、97式戦闘機が大活躍をした。大損害を出したものの、終にソ連軍の攻勢を退けて、満州側が主張する国境線をモンゴルに認めさせることに成功した。


 その頃遠くヨーロッパでは、ヒトラー率いるナチスドイツがポーランドに侵攻しており、ソ連はアジアにかまけてる余裕がなく、彼らにとっては屈辱とも言うべき停戦にサインするしかなかったのだ。


 そうした中で、太平洋でも緊張が高まっていた。中国大陸の利権を巡り、また広大な太平洋地域で国境を接する日米の関係に暗雲が漂い始めていた。そしてその影響は露西亜帝国にも及んできた。


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