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再会

 ⒑


 薄暗い階段を見上げると、踊り場から通路の様子を伺っていた杉村が、こちらを振り返り、おいでおいでをしている。清一は杉村に導かれ、従業員通路からA棟最上階を目指していた。

杉村によれば、パラディッソは監禁者の脱出を阻むために、特養棟および本館下層階の非常口を常時ロックしているらしいが、監禁の対象となっていない一般入居者から怪しまれることのないように、本館の中上階はその対象になっておらず、非常口は通常通り開放されているのだという。

清一にとって、A棟最上階の自室に近づくことは、相当なリスクを伴う「賭け」ではあるのだが、最上階は一般スタッフの立ち入りが特に厳しく制限されているために、そこの非常口から脱出を試みるのが、最も人目につかない脱出ルートなのだという。加えて「自室に戻る」ルートは、敵の目を欺くという意味でも成功の可能性が高い。清一はそう判断したのだった。

館内の移動は、先導する杉村が行く手の安全を確認した。スタッフの動きがあるときは、清一をトイレなどに潜ませて、危険が過ぎ去るのを待った。この方法は清一が一人で階をさまようのに比べれば、格段に安全で、迅速に移動できた。

しかし、八階にさしかかる頃には、清一の足は悲鳴を上げていた。かれこれ半日、館内を動き回っていたことになる。七十過ぎの肉体は限界に達していた。

しかし、こんなところでもたもたしているわけにもいかず、先を行く杉村にも焦りの色が伺えた。清一は時折足をさすっては、一段また一段と上を目指していた。踊り場にさしかかると、清一は足を引きずるようにして、手すりを握り締めた。清一は深く息をつき、先を行く杉村に「大丈夫だ」と気丈に右手を上げてみせた。

十階は目の前だ。非常階段を抜ければあとは下り階段。もう階段を登ることはない。それを心の支えに、どうにかここまで来た。しかし、本館を脱出した後、あのゲートまで無事たどり着けるのか、はたまたどうやって市内までの足を確保できるのか―。先を考えれば考えるほど、清一の足は鉛のように重くなった。

登山と一緒なんだ。先の道のりは考えず、とにかく次の一歩に集中しよう―

そう考えると、急にあの思い出の伊吹山登山が思い出された。数歩先で真澄がリードしてくれているような気がした。当然のことながら、頭を上げてみてもそこには真澄の姿はなかった。清一は、ふっと笑うと、伊吹山が見たくなり、自然と外に目を向けてみるのだった。窓の外は漆黒の闇に包まれ、その姿は見えるはずもなかったのだが。

しかしその時、清一は眼下の工事現場に目を奪われた。そこにはスポットライトにぼんやりと照らされた数台のトラックが、造成地を囲むように並んでいた。どうということはない、夜の建設現場の光景なのだが、違和感を覚えたのはそのトラックの種類だ。いわゆるダンプではなく、ボックスタイプの輸送トラックだったからだ。清一はその車体に目を凝らすと「AKEBONO興産」とあるのが確認できた。

はて、なぜ輸送トラックがこんなところに―。

コンコン。手すりを伝う振動に清一は我に返った。見上げると杉村が急かすように自分の腕時計を指差していた。清一は手刀を切ってから再び上へと歩を進めた。しかし頭の中では「AKEBONO興産」の社名が離れなかった。どこかで聞いた社名だった。おそらくはエブリーの取引先なのだろうか。

あれは工事現場から何を運び出すつもりなんだ?


十階にたどり着くと、待ち構えていた杉村が従業員連絡路から入居者フロアに続くドアをゆっくりと開けて、先に誰もいないことを確認した。

杉村は清一に近づくと、耳元で今後の計画を囁いた。

 「ここを左に行った突き当りが非常出口です。鍵は開いています。非常階段を下りて、二階まで行ったら、そこで待機していてください。僕はエレベーターから先回りして、外の安全を確認してきます。外に警備スタッフがいないタイミングを見計らって、下から合図しますから。そうしたら外へ出て、一旦花壇に身を潜めて下さい」

いいですね、と杉村が確認すると、清一は深くうなずいた。

杉村はもう一度ドアの向こうを覗いてから、ドアを大きく開けると「さ、行って」とばかりに清一の背中を押した。

妙に懐かしい空間だった。下の階とは違った、足が沈み込むような絨毯の感触、暖色のフットランプに照らされた壁、数メートルおきに飾られた雰囲気のある絵画…。数時間まで過ごしていた世界であるはずなのに、今はとても遠い世界に来たようにも感じた。ここは、今の自分にとっては危険な世界なのだ、という認識がこの光景を異質なものに感じさせているのだろう。清一は目を伏せ、先を急いだ。

もし、スタッフに見つかればそこでおしまいなのだ。

非常出口までの途中に自分の部屋がある。そこが一番の難所であることは間違いない。中でスタッフが張り込んでいるのは容易に想像できる。待ち伏せをされていたら?玄関先でスタッフと出くわしたら?そう考えると、鼓動の高鳴りは激しくなっていった。清一の額に汗が滲んだ。

しかしここで立ち止まる訳にはいかない。「突破」するしか未来は開けない。

自分の部屋が少しずつ視界の片隅に近づいてくる。そして玄関を通過―

しかし、二、三歩過ぎ去ったところで清一の足は止まっていた。決して見るまい、とは思っていたのだが、視界は部屋の異変を捉えていた。そこに今朝までの部屋の雰囲気はなかった。

玄関ドアは見たことも無い、重厚な彫刻が施された木製のものに取り替えられていた。しかもドアの全面には、個人宅にはありえない、中が丸見えのガラスが6枚はめ込まれている。中央には「CLOSE」と彫られた木札までぶら下げられていた。それはどう見ても、レストランのエントランスに見えた。

「どうなってるんだ…」

清一はドアに近づくと、薄暗い中を覗いた。すると室内の調度品は今朝のままであるものの、部屋の中には見たこともない無数のテーブルや椅子が並べられていた。清一は愕然とし、後ずさった。脳裏にふと木下の顔と言葉が浮かんだ。

(戻ったら驚くぜ…)

 「こういうことだったのか」清一は声を上げ、頭を掻き毟った。すると、その声に気付いたのか、部屋の明かりがついた。奥から黄緑色のスタジャンを羽織った人影が近づいてくるのが分かった。

「まずい」清一は我に返ると一目散に非常口に向かった。しかし、フロアに響き渡る男性の大きな声が清一を呼び止めた。

 「今江さん、待っていました」

清一が振り返ると、眼鏡の男が明らかに清一に向かって呼びかけていた。傍らには屈強な若い男も突っ立っている。清一は訳が分からなくなった。

 「あいにく私はそんな名前じゃない」

思わず清一が返すと、「面倒くせえな」と若い方が不敵につぶやき、おまえは黙ってろと眼鏡が制した。どこかで見覚えがある顔だと思ったら、以前大浴場に現れた二人組だと分かった。

清一はどうやっても逃げきれないと観念し、二人と対峙した。すると眼鏡が毅然とした表情で口を開いた。

「今江さん、お遊びはこれで終わりにしましょう」

「だから人違いだといっているだろう」

「今江さん、」

「うるさい!そんな芝居には騙されんぞ!俺をこんなところに閉じ込めて、今度は名前まで奪って、別人に洗脳しようってのか。貴様らそれでも人間か」

清一は声を荒げた。ここまで溜まっていたものが爆発したようだった。一息ついてからさらに続けた。

 「解雇された恨みを、この俺に晴らそうって気なのか!それとも、会社からの命令なのか!おまえらの目的は何だ!答えろ!」

 男は表情を変えず、じっと清一を見ていた。

 「今江さん、」

 しかし、清一は耳を押さえ、その煩わしい呼び掛けをかき消すかのように、フロアに響くような声で叫んだ。

「俺は黒川清一だ!ここのオーナーだ!絶対騙されんぞ!」

清一は絶叫すると、男に飛び掛かり襟元を掴んだ。しかし、振りかぶった右腕は若者に掴まれ、ひねり上げられた。清一が思わずのけ反ると、眼鏡がやめろ、と一喝した。そして、膝を落とした清一に、一枚の紙切れを差し出した。

 「本日、今江さんは認知症である、という医師の診断がなされました。これからは我々の指示に従ってもらいます」

 清一は愕然とし、その場にへたり込んだ。最悪の結末が訪れた瞬間だった。村木たちから聞かされ、ある程度覚悟していたとはいえ、心のどこかでは「何かの間違いだ」という思いが残っていた。しかし今、何が現実であるか、自分の運命がどうなるかをすべて悟った。

清一は、二人に脇を抱えられ、引きずられるように歩いた。最後の力を振り絞って尋ねた。

「一つだけ答えてくれ。これは一体誰の差し金なんだ」

 しかし男たちは何も答えなかった。



ダンプのバックする音がひっきりなしに聞こえ、遠くではショベルカーが土をダンプにつんでいる。

今は花畑の代わりに、赤茶けた大地がそこに広がっていた。

分厚い窓ガラスの外の光景はずっと変わらない。いつからこの景色を眺めることになったのか、いつからここで生活するようになったのか。それは清一にも分からなくなってきていた。

「今江さん、今江さん!」

声の方へ目をやると、若い女がこっちを睨んでいる。私の名前は今江ではないはずだ。しかし、此処ではそれに反応しなければならない。

 女が突き出したスプーンに盛られた薄茶色の物体を見る。およそスプーンに盛られるような代物ではない。腐ったミンチ肉に小麦粉を練りこんだようにも見える。ドッグフード、いや魚釣りの練り餌のような物質。ムカムカするような異臭が鼻につく。

思わず顔をそらすと「早く、さっさと口開けて」と女の怒声が飛び、無理矢理それを口に突っ込まれる。反射的に吐きそうになるが、息を止め、それをぐっとこらえる。脂汗がどっと出る。意を決して飲み込み、目を開けると、二すくい目がそこに待ち構えていた。

 毎日が地獄だ。

自分の名前ではない名前で呼ばれ、得体の知れないものを無理矢理食べさせられる。となりの男とも話すことを許されていない。そのうち言葉も忘れ、気がふれてしまうだろう。既に自分の本当の名前すらなかなか思い出せない。最近は、もしかしたら今江というのが本当の名前なのではないかとさえ思える。

 いや、名前なんて何だっていい、とさえ思う。

 なんのために生きているのか。まさにそんな状態なのだが、当の本人は、そんなことを考えたことさえない。心はほとんど死んでいる。

 生きる理由、それを敢えて言うなら「死ねないから」ということになるだろう。

目の前の苦痛から逃れる、という意志だけを残され、あとはひたすら時間が過ぎるのを待つ。長いようで短い一日を、ただただ繰り返す。

清一の頭の中は、ほとんど真っ白になっていた。


ただ、完全に真っ白になるのを踏み止めさせているものがあった。

壁に架かった小さな絵だ。

清一はこの絵を見るたびに「何か大事なことを忘れて、ここにいる」ことに、ぼんやりながら気付かされる。それは荒波の中を進む、あの船の絵だった。この監獄に許された清一の唯一の私物にして、この地獄と現世をつなぐ唯一の手掛かりである。苦難に立ち向かうその構図は、見る者の精神が安らぎの眠りにつくことを決して許さない。威圧感、そして違和感。なぜこんな絵があるのかと考える。そして、この絵は大切な人から贈られたものだということを思い出す。

大切な人とは誰だったのか、との思いを巡らせながら、窓から見える遠くの山を見上げると、時々フラッシュバックのように思い出す映像がある。消去しきれていないHDのノイズのように、ぼんやり断片的に現れるのは、ある青年の姿だ。

眉の濃い、凛々しい顔立ちにキリッと結ばれたネクタイが似合う。たしかクロカワ、マスミと言った。

私の息子、かもしれない。そう思う。

ならば、私の名前は黒川清一なのかもしれない―


清一の、清一たる記憶はぎりぎりで繋がっている状態だった。そしてそれはいつ切れてしまってもおかしくないところまで来ていた。

 

そんなある日、清一の部屋に一人の男が担ぎ込まれた。

清一は、その男の顔に見覚えがあったが、さほど気にも留めなかった。同部屋人は何人も替わったし、その誰ともまともに口を聞いたことはなかった。それがここで生き抜くルールだからだ。

男はベッドに寝かせられるや否や、即座にベルトで拘束された。

しかし男はその必要がないと思われるほど衰弱しきっていた。そこまで「虐待」された人間を見たことはなかったが、清一は構わず無視を決め込んでいた。それがこの男のためでもあり、自分のためでもある。同情がもたらす救いなど無い。清一は目を閉じた。

しかし、男の弱々しい呼吸音の中に混じる、ある言葉に清一の耳は反応した。どこかで聞いたそれは、人の名前に聞こえた。

「黒川、」

清一がそちらを向くと、男は天井を見上げたまま、今にも消え入りそうな声で続けた。

 「魂まで奪われちまったのか」

 黙れ、と清一はたしなめたが男はきかなかった。

「構わん、俺はもうどうせ長くはない」

清一は廊下の様子を伺ってから、その男を睨んだ。よく見ると、見覚えのある顔だった。特養棟の用具室での記憶が甦る。


たしか斉藤とかいう―


清一はもう男の言葉を遮りはしなかった。男が振り絞る、しかし弱々しい声が続いた。

「お前たちが正しかった。俺たちは認知症なんかじゃない」

「どういうことだ」

「調べた。すべてホームの陰謀だったのさ。おかげでこのザマだ」

斉藤は一瞬笑ったような目をした。謎は解けた、と前置きしてから続けた。

「あの、中国毒ギョーザ事件。覚えてるか?そう、殺虫剤が混入した中国製ギョーザが市場に出回り死人が出た、あの事件。ニュースでは県内で被害者は出ていないとされていたがな、実はいたんだ」

「それが何の関係がある」

「販売していたのがエブリーだったんだよ。そう、パラディッソの親会社だ」

「なんだと」

清一は絶句した。否定したい気持ちだったが、それは出来なかった。彼のこの姿が証拠だ。ガセ情報を掴んだ者に、ホームがこれほどの仕打ちをする筈がないのだ。困惑する清一をよそに、斉藤は続けた。

「幸い死者は出ず、被害者は軽症で済んだそうだ。しかしよりによって会社は公表の義務があるこの事実を隠蔽したんだ。事件が会社のトップ交代の直後で、会社のイメージダウンを恐れたらしい。ところが、これが皮肉なことにエブリーの経営転換の契機となってしまった。公表を主張していた会社幹部が、新社長の弱みを握ることとなり、彼らが会社の実権を握ることになってしまったんだ」

「宮田だな。間壁もか?」記憶が次々と蘇る。

「そして、事件の後はこの不況だ。エブリーが事業のリストラを余儀なくされる中で、その幹部連中は自分の息のかかった事業を守ることに執着した。既存の事業はことごとく犠牲にされたよ。もちろん、その中にこのパラディッソもあった。ところがだ。なぜか新社長は、このパラディッソの存続だけは譲らなかったらしい」

「真澄…」

「結局、ホームは残ったんだが、その交換条件だったのだろうな、ホームの社長が交代したんだ。この辺りから、ホームにも異変が起きはじめた。そうだ、これだ。入居一時金稼ぎだよ。介護認定偽装による入居者への監禁虐待だ」

清一はそれ以上話を聞けなかった。

自分がわが身可愛さにトップを下りたことが、結果として真澄を苦しめ、そしてこんな取り返しのつかないことになってしまったのだ。清一の目に涙が溢れた。それに気付いたのか気付かなかったのか、斉藤は天井を見上げたまま話を続けた。

「それだけじゃない。ここはありとあらゆる悪事をやっているよ。あの工事がなかなか終わらない理由を知っているか。工事なんかじゃない。施設建設を装って、産業廃棄物をここに不法に埋設しているんだ。下流の村の地下水に有毒物質が検出されるのも時間の問題だろう。そうすればまたとんでもない問題になる」

「この山を地獄にさせてしまったな」

清一は涙を拭かぬまま、震える声で斉藤を見た。斉藤と視線が合った。その目は今江ではなく、はっきりと黒川清一を取り戻していた。

「そうさ、ここは姥捨て山どころじゃない。パラディッソは老人や子供、障害者、産廃に至るまで、社会の邪魔なもの全てを捨てる山として利用されてきたんだ。すべては福祉という美名の名の元にな」

斉藤は、あらん限りの力で喋り終えると、静かに目を閉じた。血の気の無い顔だったが、こころなしか安堵の表情を浮かべているようにも見える。肉体はぼろぼろだが、それに引き換えに得たものも大きい。

彼は「自分」を取り戻したのだ。

斉藤は、自分は認知症ではないかと疑い、自暴自棄に陥っていたあの頃の表情とは、まるで別人のようだった。

このまま生きて出られないことは、彼自身も分かっているだろう。だが、彼にとって必要だったのは「脱出」することではなく、脱出ことで「自分を取り戻す」ことだったに違いない。その目標を彼は達成したと言える。だからこそ、この笑みがある。

それに比べ、自分はどうだろう。

俺は今、彼のおかげで黒川清一を取り戻すことができた。しかし、本当の自分を取り戻した訳ではない。

俺はこの事実を世間に公表し、社会と、そして、真澄を救わなければならない。それが自分の生きる意味だ。

清一は覚悟を決めた。彼には、もう全てを告白せねばならない。

「斉藤、」と言いかけて、清一は「あんた、」と言い直した。おそらく、斉藤は本当の名前ではないからだ。

意志のこもった清一の呼びかけに、「斉藤」がゆっくりと、こちらを向いた。

しかし、清一の背後に目をやった斉藤の顔色が変わった。

ガキーンという衝撃音が室内に響いた。

清一は、音の発生源に振り向いた。すると、ドアガラスの向こうで、警棒を強化ガラスに打ち据えた「看守」が血走った目でこちらを見ていた。

「今江、出ろ!水浴びの時間だ!」

ドスの利いた声の看守の後ろには、坊主頭で、これまたヘルパーには似つかわしくない風体をした胸板の厚い男が腕組みをして突っ立っていた。それを見た「斉藤」は何かを察知したのか、ひどく震え出した。そして清一に告げた。

「いいか、処置室の手前に出口がある。そこから逃げろ。それが最後のチャンスだ」

清一は「何?」と聞き返そうとしたが、振り向く間もなく、部屋に突入してきた坊主頭に脇を抱えられ、無理矢理、廊下へと連れ出されてしまった。

「水浴び」が何の隠語かは分からないが、ただならぬ気配を感じた。おそらく「斉藤」をあんな状態にさせたものに間違いは無い。

「拷問」なのか―

清一は男の手を振りほどこうと必死にもがいたが、男の腕はびくともしなかった。廊下を引き摺られながら後ろを振り向くと、部屋からは看守の怒鳴り声と斉藤の悲鳴が響いていた。


清一は廊下を「処置室」へと進んだ。足はほとんど動いてはいないが、脇をガッチリとホールドした男が、軽々と清一を引き摺っていく。まさに死刑を執行されるような気分だった。

男の顔は無表情で、まるで意思を持たぬマシーンのようだった。なす術がなかった。

ぼんやりと目に入る光景は、以前ここを通った時と何一つ変わらない。黄ばんだ床と灰色の壁。時間が止まったかのようだ。しかし同時に、全く別の廊下を歩いているような感じもした。一つだけはっきり違う点あるのだ。

あの「鬼の哭く声」がしないのだ。

あの時必死に耳を押さえた、収容者が自分に助けを呼ぶ声がしないのだ。もちろん、収容者がいなくなったという訳ではない。廊下を挟んだ部屋からは収容者の息遣いを確かに感じる。だが、もう彼らは清一に助けを求めてはこない。それは、今自分がどれほど絶望的な状況に立たされているのか、ということを痛いほど清一に知らしめた。

廊下が突き当たると、ギィという音とともに「処置室」の分厚い扉が開かれた。地獄への扉が開かれたような音に、清一は腰が抜けたのかその場に座り込んでしまった。しかし、坊主頭はことさら慌てるでもなく、今度は清一の腰を抱え上げ、持ち上げたまま、そのまま中へと入っていった。実に慣れている動きだった。扉の向こうはさらに通路が続いていた。清一は抱え上げられながらも必死で周囲を見渡した。

(処置室の手前で外に出られる。それが最後のチャンスだ)

清一は心の中で「斉藤」の言葉を繰り返した。今はそれに賭けるしかなかった。

だが無常にも出口らしきものは見当たらない。しばらく進むと、「霊安室」なる表札のかかった部屋の前を通り過ぎた。ドアの隙間からは簡素な祭壇らしきものも見えた。清一は「死」へと着実に近づいていることを確信した。体がガクガクと震えだした。叫び声を上げようにも声が出ない。いや、声は出るのだが、どんなに叫んでも無駄だということを体は既に学習していた。

しかし前方に目をやった時、絶望に沈む清一の目を覚ますような、ひどく懐かしい物が姿を現した。真っ赤な筐体。その中で鮮やかに浮かび上がるカラフルな缶。それが自動販売機だと気付くのにしばらくかかった。こんな刑務所のような、社会と隔絶された空間でそれに遭遇するのは、大げさのようだが「希望」だった。まだ「現実社会」は存在する、という証しは、萎えてゆく清一の心を励ました。

そして再び首を持ち上げた清一の視線の先に「光」はあった。床の一部分が神々しく光り、そこには並んだスリッパが浮かんで見えた。

あそこが出口だ―

そこからはまぶしい陽光が、澄んだ空気とともに施設内に注ぎ込んでいた。

清一は通り過ぎざまに、縋るような眼差しでそこを覗き込むと、大きく開け放たれた扉の向こうに、裏山の緑がまぶしく光る外界が広がっていた。

清一は口を開けたまま、その美しい世界に目を奪われた。

出たい!あの世界に真澄がいる。あの日々に戻りたい―

「こ、ここから出してくれ!」

清一はたまらず、体をよじり叫んだ。喉には力が戻ってきていた。あらん限りの力で助けを求めた。懇願した。泣いた。そして、坊主頭の胸を力の限り叩いた。しかし、びくともしない。坊主頭はさらに清一の体を担ぎなおすと、外界から引き離すかのように、斜向かいの一室に入った。部屋には「機械浴」との表札があった。

勢いよく部屋に投げ出された清一の頬には、冷たいタイルの感触があった。うめきながらゆっくりと起き上がり部屋を見渡すと、部屋には、どう使用するのか分からない鉄パイプを曲げたような器具や、錆びた機械が跨った浴槽らしきものがあった。

そこはまるで手術室のような調理場のような、不気味な「浴室」だった。片隅には、欠けたブロックやレンガのようなものまで積んであった。よく見ると青いタイルの目地が赤黒く染まっている。

清一は震えが止まらなくなった。恐怖と不安から目を背けるように、力なく窓の外に視線をやると、紅葉した木々が遥か先まで広がっていた。場違いにも美しい景色だった。しかし、それはどこか懐かしい風景でもあった。清一はピンときた。そして清一の中で一つの謎が、また絶望に変わった。

ここは大浴場の横隣ではないか―

不吉な記憶も甦っていた。あの大浴場でたしかに聞こえたあの「悲鳴」だ。

やはりあれはボイラーの故障なんかじゃない。ここで誰かが拷問を受けていたのだ。タイルのシミをよく見ると、それは血溜りの跡であることがはっきりと分かった。

「悪く思うなよ。俺らもやりたくてやってんじゃねえんだ。仕事でやってるんだ」

清一が身の危険を察知したのが分かったのか、男が始めて口を開いた。しかしその目は笑っていた。

男が蛇口をひねると、錆びた太いパイプから水が浴槽を突き破らんばかりの猛烈な勢いで落ちていった。男は清一が逃げないように、時折目でけん制しながら、機械の調節をし、「拷問」への準備を進めている。清一は拘束されていないにも関わらず、ヘビに睨まれた蛙のように動けなかった。

ピロロロ、ピロロロ…

その時、男のズボンのポケットから携帯が鳴った。男は無表情でそれを取り出し、発信元を確認すると、急にニヤけた顔つきになった。「もしもし」坊主頭は清一から顔を背けてそれを耳に当てた。

今だ!

清一はとっさに廊下へ出た。

男の、意外にも日常的な振る舞いが「蛙」を我に返らせたのか、危険に直面した動物の本能とでも言うのだろうか。清一は無意識に体が動いていた。全力で走る背後には「待てコラァ」という男の怒声が浴室に反響していた。男は携帯をポケットにしまいながら、「逃げられるのと思ってんのか?オオ!」と叫んでいた。清一の後を猛烈な勢いで追いかけると、そのまま外へと飛び出して行った。

しかし、清一は外に出てはいなかった。

自分の足ではすぐにつかまるのは分かっている。清一は隣の「霊安室」に身を潜めていた。恐る恐る廊下に顔を出し、坊主頭が外に駆け出したのを確認すると、今度は急いで「機械浴室」に舞い戻った。そして部屋の傍らにあったレンガを持ち上げると、渾身の力で窓ガラスに投げつけた。窓は大きな音を立てて砕け落ちた。

割れた窓からは静寂を突き破るかのように、猛り狂った突風が吹き込んできた。それは清一の逃走を阻むかのようであった。しかし清一は突風にのけ反りそうになりながらも、迷わずその穴に身を投じた。


清一の体は衝撃を和らげるかのような、毛足の長い芝の感触に包まれた。しかし、次の瞬間、その体は猛烈な勢いで十数メートルの崖を転げ落ちていた。施設内からは分からなかったが、窓の外はそのまま前庭とは繋がっておらず、その間に「空堀」ともいえる急激な谷が存在していたのだ。

清一は岩や切り株に激しく体をぶつけながら、谷底に転落した。体に強い衝撃を感じたが、不思議と痛みは感じなかった。捕まれば「死」だ。痛みなど感じる訳がなかった。 

ただ相当なダメージを受けていたのだろう、思うように手足が動かないのは分かった。既にスリッパはどこかへ飛び、足は素足だった。

清一はよろめきながら、一心不乱に谷を上へ上へと駆け上がっていった。それは駆けるというよりも這うような姿だった。頭上では非常ベルがけたたましく鳴り響いている。清一は思うように動かない自分の体に苛立ち、焦りが募っていった。

このスピードで、このまま逃げ切れる訳がない―

生い茂る笹を払い、五十メートルほど進むと、かすかな願いを矢のように射抜く声が清一の背中を貫いた。

「いたぞ!」

谷に響く声の方を見上げると、黄色いジャンパーを着たスタッフが谷を覗き込み、血走った目でこちらを指差していた。一瞬にして谷全体が牙を剥いたかのようだった。

万事休すか―

清一は泥だらけの手で額の汗を拭いながら、息を切らし、その場にへたり込んだ。

もう逃げられない。そう観念すると、急にとてつもない痛みが全身を覆った。おそらく体の至る所が骨折しているのだろう。捕まっても捕まらなくても、もう動けないということを清一は悟った。

スタッフは地上のスタッフを呼びながら、頭を出したり引っ込めたりしている。清一はそれを眺めるしかなかった。しかしその直後、清一の目は意外な光景に目を奪われた。声の主が悲鳴とともに、谷を転落していったのだ。

清一があっけにとられていると、今度は男が落ちた場所から、違う男がひょっこりと顔を出した。男は仲間も呼ばず黙っている。清一を捕らえる意思がないのが感じ取られた。目を凝らして見ると、それは覚えのある顔だった。杉村だった。

杉村の顔はこの状況に似合わず穏やかだった。しかしその笑顔の裏には緊迫感がはっきりと感じ取られた。顔にははっきりと「逃げろ」と書かれてあった。

杉村は、清一にゆっくりと頷き、先を促すように手で合図を送ると再び姿を消した。と同時に、遠くから別の男の声が響く。

「杉村ー、そっちはどうだー」

ややあって杉村の声がした。「見当たりませんー」


杉村君、すまない。ありがとう―

心の中で杉村に手を合わす。そして、俺はこんな所でくたばる訳にはいかない、という思いを強くした。体中の激痛は感じない。

清一は再び先を目指した。


 ⒓


どれだけ歩いただろう。清一は息も絶え絶えに谷を這い上がり、気付いた時には施設をほぼ見渡せるほどの山の中腹にたどり着いていた。自分にまだこれほどの体力が残されていたことが不思議だったが、さすがに清一の体力は限界に達していた。足はガクガクと痙攣を起こしている。

清一は身を隠すことのできる杉の巨木の陰に腰を降ろし、体力の回復を待った。すると示し合わせたかのように、それまで息を潜めていた全身の痛みが一斉に悲鳴を上げ始めた。特に足の痛みはひどく、足の裏を見ると血で真っ赤だった。裸足で笹林を駆けてきたから当然といえば当然だった。途中から這ってきたためか、両膝にも血が滲んでいる。

清一は歯をくいしばりながら、流れる血を拭い、足の裏に突き刺さったガラス片、めり込んだ小石を取り除いた。清一はジャージの下の肌着を脱ぎ、真っ二つに引き裂くとそれを包帯のようにぐるぐると足の裏に巻きつけた。

「街までもってくれ」祈るような思いだった。

眼下を見渡すと、施設の周りには黄色のジャンパーのスタッフたちが蜘蛛の子を散らしたかのように、せわしなく走り回っていた。しかし、清一が逃げ込んだこの山には追手は迫ってきていないようだった。おそらく、前庭に捜索を集中させているのだろう。杉村が追跡を逸らしてくれたのだと、清一は理解した。

脱出してきた施設をよく見ると、裏口の玄関には救急車が1台停まっていた。おそらく、清一が以前目撃した救急車もここに乗り付けていたのだ。監禁棟の入所者を機械浴室で拷問し、衰弱させて殺害したら、そのまま搬送させられるようになっていたのだろう。清一は、自分もそうなる運命だったのではないかと思うと、背筋に冷たいものが走った。

ホームを後ろから見渡すのも初めてだった。前庭からホームを眺めるのと、後ろからのそれとでは、あまりに印象が違うのにも驚かせられた。前から見ると、華やかに広がる花壇の丘の上に白亜のホームが輝くようにそびえて見えるのだが、後ろからみると、それは実は前後に薄っぺらい建物で、まるで衝立のように、背後の監禁棟を覆い隠すように建っていることが分かった。

詐欺だな、と清一はつぶやいた。監禁棟がひどく古いところをみると、おそらくこの施設からパラディッソは出発したのだろう。しかも、その老人ホームらしからぬ建物の外観にも驚かされる。黄ばみ、雨水の跡で黒ずんでいる施設は、建替え寸前の公民館か村役場のようだ。ここが元スキー場だったことを考えれば、その建物は元々はスキーハウスだったのかもしれない。きっとスキー場閉鎖で安く手に入れた施設を必要最小限に改修して細々とホームを経営していたのだろう。こんな山奥だ。商売ありきでは経営すまい。当時はそれでアットホームな施設だったのかもしれない。だが、そんな施設も時代とともに商業主義へと走り、高級ホームへと鞍替えした。結果、こんな虚飾で塗り固められた「悪魔の家」へと変貌を遂げたのだろう。

清一はパラディッソのその異様な施設配置を眺めながらその生い立ちに思いをはせた。結果として自分もホームの暴走に手を貸していたことも認めざるをえない。知らなかったとはいえ、高級ホームがビジネスになると踏んでいたことは紛れもない事実だ。

清一は溜息をついて施設を見渡すと、施設の西隣では産廃埋設地だろうか、大きな穴が山をえぐるように掘られていた。その脇には数台のトラックがゴミのようなものを放出していた。それらの敷地はホームから眺めるよりずっと広く、想像以上に埋設が進んでいることも分かった。

これ以上過ちを繰り返させてはならない―

清一はこの事実を真澄に伝えねばいけない、という思いを一層強くした。

 のんびりとはしてられない。清一が気持ちを奮い立たせ腰を上げると、再び足に激痛が走った。肌着を巻きつけた分、痛みは幾分ましになったのだが、とても走れるような状態ではなかった。清一は近くに倒木を見つけると、そこまで這って行き、めぼしを付けた枝に体重をかけてそれをへし折った。少し曲がってはいるが、杖にするには申し分ない。清一はそれに寄りかかって何とか立ち上がり、脱出ルートを探した。

しかし、あらためて周囲を捜索して、清一は再び絶望に陥った。見渡す限りのジャングルである。街に繋がる道、いや山道さえ見当たらなかった。やみくもに山を越えても、そのまま遭難するのは目に見えている。

結局、町へと繋がる道は遥かパラディッソの正面ゲートにまで行かねばならないのか。だが、そちらに向かえばスタッフに捕まるのは火を見るより明らかだ。第一、こんな体でそこまでたどり着けるかどうかも分からない。

「外界から隔絶された自然に包まれた空間」とはこういうことか。どうやっても、生きて街に辿り着つかせないというわけだな…。

清一はパラディッソの売り文句の「真意」を呪った。そして、杖を放り投げて天を仰いだ時、清一の視界に一筋の白煙が飛び込んできた。

その煙は清一のいる場所を隔てた尾根の向こうから立ち上っていた。そして、煙の位置とホームの位置関係を確認すると、清一の脳裏にある言葉がよみがえっていた。いつの日かのホームでのスタッフとの会話だった。

(あそこに、煙の上がっているところがあるでしょう。あそこに、村の西の端にあるパン屋さんがあってね。あそこまで、県道が延びているんです)

 清一は雲間に光が差したような気がした。煙の元までは大した距離ではない。この体でもなんとか辿り着けるはずだ。

あそこまで行けば、あそこで車を拾えば、真澄に会える―

 そう決心すると、途端に煙が活力に満ち溢れた精気の塊のように見えた。それを見詰めると体に力が漲ってくるようだった。それは「生」への道標だった。

清一は深く深呼吸をすると、杖をしっかりと握り直し、一歩一歩踏みしめるように煙の元を目指した。


 尾根は予想外にきつい上りだった。清一は斜面にへばりつくようにして上だけを見て上っていった。

ホームから遠ざかるほど山の険しさは増し、目と鼻の先だったように思えた距離が思うようには縮まらない。おまけに荒れた山は蔓などの雑草がうっそうと生い茂り、それをかき分けて進むありさまだった。自分の足元も分からない。

清一は何度か岩に躓いて転倒しては、再び杖を頼りに立ち上がる。その繰り返しだった。その様はまるで荒れ狂う緑の大海原を突き進むタグボートのようだった。勿論、こんな難儀な登山は経験したことがなかった。時折振り向いてはホームからの追っ手を警戒したが、幸いその気配は感じられなかった。既にホームは完全に視界から消えていた。しかし油断はしていられない。ここでおちおちしていると、ホームの捜索隊がパン屋に先回りしていることも考えられるからだ。とにかく一分でも一秒でも早く、パン屋に辿り着かねばならない。

 あと一歩、それ一歩と、息を切らしながら尾根を登り続け、しばらくすると、清一の頭に木漏れ日が強く感じられるようになっていた。清一は上り坂が終わるのを感じ取ると、腕で額の汗を拭い、ゆっくりと頭を上げた。目の前の視界は広がり、尾根の向こう側から光が差してきていた。

 ここが頂上か―

 しかし清一は、尾根の頂から目にした光景に唖然とした。

緑の山の中腹には、ぽっかりと穴が開き、そこには灰色の棚田のような景色が広がっていた。

清一の顔には笑顔が消えていた。眼前に広がっていたのは、山に大きく切り開かれた大きな墓地だった。墓地はきれいに掃き清められ、同じ大きさ、同じ色の墓石が実に整然と並んでいた。それはまるで死者のスタジアムのようでもあった。

 これがパン屋なものか―

 清一は杉の大木に寄りかかりながら、煙の元を目で追った。煙は霊園の脇にある施設から立ち上ってきていた。それが火葬場であることは疑いようがなかった。

あの話は嘘だったのか。老人の気を悪くさせないようにする気遣いだったのか。それとも、真実を知りようがない老人をからかって、後で笑っていたのだろうか―

すり鉢状の園内を上からぐるりと見渡したが、そこに墓参者は一人もいなかった。

清一は心をどんよりと曇らせながら、イノシシよけの柵を回って、霊園へと足を踏み入れた。白い玉砂利の平坦な地面は、山道を抜けてきた清一の体をぐらつかせた。園内に雑草は一本も生えておらず、管理が行き届いているのが分かった。

こんな村はずれにこれほど立派な霊園を築けるのはパラディッソをおいて他にない。清一はまだ自分が「解放」されていないことを悟った。

墓石は身を隠すのに調度よい高さにあり、清一の白いジャージも墓石の色に同化していた。今日は平日なのだろうか。静寂に包まれた、ひとけのない広い霊園をひとり歩くと、自分はもう向こうの世界に入ってしまったのではないか、という錯覚を覚えた。

清一は墓石を縫うようにして、ひたすら園を下っていった。遠目に、園の出口と道路が確認できた。パン屋でなかったのはショックだったが、ここに施設があり、道路にも繋がっていたのはよかった。あそこで車を拾えれば、街に戻ったも同然だ。

清一の足は知らず知らずのうちに速まっていった。すると、一台のタクシーが道路脇に止まっているのが目に止まった。墓石に身を隠して様子を伺うと、車の脇には、薄いサングラスをかけた運転手らしき中年の男がタバコを咥えて時間を潰しているのが分かった。おそらく、あの火葬に参列している人を当て込んで待機しているのだろう。

「しめた!助かった」

清一は心の中で呟くと、ゲートへと急いだ。清一は逸る気を抑え、ゲート脇に設けられた水道で手と顔を洗い、髪型を直す。

ここで乗せてくれなければ終わりだ。 

ジャージの泥と葉っぱを払い、身なりを整える。靴がないのが悔やまれるがこれはもうどうしようもない。清一はひとつ深呼吸をして杖を投げ捨てると、覚悟を決めてゲートをくぐった。


清一の姿を見た運転手は一瞬固まって、咥えていたタバコを落とした。驚いた人間は、ぽかーんと口を開けると言うが、まさにその通りだった。

清一はさらに運転手に近づくと、軽くおじぎをした。

「いろいろ事情があって、こんな格好をしています。驚かれたかもしれないが、不審な者ではありません、ひとつ頼みがあるのですが、」

清一が話を続けようとすると、運転手は急に我に返ったように手で「待った」のポーズをとり、清一を制止した。

「ちょっと無理無理無理。今、お客待ってるから」

「何も話を聞かないまま、乗車拒否するつもりか」

清一は一瞬声を荒げたが、すぐ声を落とした。こんな格好の客だ。拒むのも無理はない。どう話しても無駄なのは分かる。だが、ここで諦めるわけにはいかない―

清一は地面に膝間づくと、運転手に手を合わせた。

「お願いです、エブリーの本社まで乗せてはもらえないだろうか」

運転手は、言い訳をするように火葬場の方を指差していたが、清一のただならぬ気配を察したのか、次第にその指を下ろし、困った顔で腕組みをした。清一をちらりと見て、十秒ほど考え込んだ後、再び清一に向き直った。

「爺さん、その格好どうしたんだ。警察呼ぼうか」

「いや、大丈夫です。エブリーの本社まで乗せてもらえれば問題は解決するんです。お願いです」

「そう言われてもなぁ」

「信じてもらえないかもしれないが、私はエブリーの関係者なんです。もし、乗せてもらえたら、十分なお礼はさせてもらうつもりです。ここは何も聞かず、市内のエブリー本社まで乗せていってください。お願いします」

清一は運転手を見て、手を合わせ続けた。運転手は頭を掻いた。

「本当にエブリーの人?そうは見えないけどなぁ」ややあって「本社まででいいの?」

「はい、エブリーの本社まで」

清一が懇願すると、運転手は清一の目をじっと見た。そしてしばらく考えた後、低い声で「ま、いっか」と呟いた。運転手はちょっと待って、と言い残すと小走りで運転席に戻っていった。車内では無線でなにか連絡しているようだった。火葬場の客に代わりの車を手配しているのか。それとも―。

しばらくすると、清一は後部座席へと招かれ、タクシーは静かに走り出した。


「なぜそんな格好をしているのか」など、身の上を聞かれたらまずいと思っていたが、清一の心配とはうらはらに車内での会話はなかった。ラジオからは地元放送局の演歌番組が流れていた。タクシーの運転手は大概、世間話を振ってくる者とラジオをかけて会話を避ける者とに分かれるが、この運転手は後者なのだろう、と清一は思った。バックミラー越しに運転手の顔を伺おうとしたが、視線が合って質問を切り出されるのも困るので、そのまま窓の外の景色を見ていることにした。景色は森が続き、時折棚田や畑も姿を見せたが、単調なその繰り返しだった。

清一はふと、車内の掲示に目をやった。運転手の名前は「小野寺勉」。写真の顔は実物よりも遥かに若く、笑顔だった。病院や百貨店の広告もあった。どれもがかつて耳にしたことのある名前だった。清一の身に「現実の世界」に戻る実感がじわじわと沸いてきた。そして、掲示されている広告を目で追っているうちに、ひときわ大きなものが目に飛び込んできた。それは決してここで目にしたくはなかったものだった。

「老人ホーム パラディッソ」

広告はきらびやかな施設内の写真といっしょに「ワンクラス上の第二の人生」というキャッチコピーまで載せてあった。そして広告の下部には、気になる小さな文字があった。 

「特約タクシー:ウカイタクシー」。

清一は不安をおぼえながら、恐る恐る運転手のネームプレートに目をやった。だが、そこには「ウカイタクシー」とはっきり書かれてあった。清一の背筋に冷たいものが走った。その時だった。

「ちょっとだけ寄らせてもらうからね」

運転手がバックミラー越しにこっちを見ていた。鋭い目をしている。

清一はヘビに睨まれた蛙のように動けなくなった。機械浴室で睨まれたあの目と同じだ。

間もなくして車が大きなカーブを回ると、突然前方に大きなロータリーが姿を現した。タクシーやマイクロバスが脇のほうに止まり、中央には大型ダンプがすれ違えるほどの間口の広いゲートがあった。その横には二階建ての守衛塔まであった。忘れるはずはない。 それはパラディッソのメインゲートだった。

道理であっさりと乗せた訳だ―

清一は言葉を失い、身を固くした。タクシーはロータリーを一周すると、一番外側の停車エリアに車を停めた。その前は、コンビニや売店と並んで「ウカイタクシー」の停留所になっていた。運転手は清一を見もしないで、車を降りると小走りで事務所に入っていった。

 俺を連中に差し出すつもりなのか―

 清一は腰を屈めて、頭がリアガラスに映らないようにし、ゲートの奥をうかがった。ここからはパラディッソ本館は見えないが、数人のスタッフが何かを探すように芝生の園内を動き回っているのが確認できた。警察犬のような大型犬に地面を嗅がせているような姿もあった。ここで逃げても捕まる。

どうすればいいんだ―

清一は目を閉じて考えた。頭の中では近づきかけた「現世」が遠ざかり、再び「監禁生活」の記憶がよみがえってきた。その瞬間、清一はドアのレバーを握っていた。もう考えるまでもなかった。その時だった。

 「お待ちどおさん」

 その声に清一は目を開けた。声はあの運転手だった。

 「タバコで喉やられてね。飴を忘れちゃってさ。ひとつどう?」

 運転手は黒飴を袋ごと清一に差し出した。清一は差し出されるまま、袋から一粒つまんだ。震える手が、袋をカサカサと鳴らす。すると突然、タクシーの無線からダミ声が響いた。

 「エー、先ほどの行方不明者ですが、詳細が分かりました。年齢は七十…」

 そこまで聞こえた時、運転手は無線の電源を切った。

 「うるせえな、こっちゃ忙しいんだ」

 タクシーは何事もなかったように、再び静かに走り出した。


 ⒔


窓の景色からは、山の緑は徐々に姿を消していった。田園地帯がしばらく続いた後、人家がちらほらと目につくようになり、幹線道路から市街に入ると清一にも見覚えのある風景が次第に広がってきた。頭上を走る高速の高架や、奇抜なデザインの公共施設など、清一の記憶にないものもあるにはあるが、橋から眺める金華山や緑色の水面が輝く長良川など、街の風景はおおむね清一の記憶のままだった。

懐かしい景色のその奥へと車が進んでゆくことは、清一には自分の中の時間をどんどん遡ってゆくようにも感じた。

あの頃に戻る―それが現実になろうとする今、清一には新たな葛藤も生じていた。

ホームにいる頃は、そこから抜け出すことを唯一の正義と信じて疑わなかったのだが、いざこの街に戻ってみると「果たしてこの行動は正しいのか」との疑念が沸き上がってきていた。

この街に自分の居場所はまだあるのだろうか。

自分を歓迎してくれる人間はいるのか。

この街は、この社会は、まだ自分を必要としているのか。

本来自分はホームで死ぬべき存在だったのではないだろうか。

これは自然の摂理に逆らうことなのではないだろうか。

果たして自分はこの世界に戻ってくることが許される存在なのか。

次から次へと己を攻め立てるような疑念。それは罪悪感に近い感情だった。

そしてそれは、真澄との再会が許されることなのか、という本題に行き着く。自分が戻ってくることは真澄が望むことなのか、という疑問だ。

だが、その答えははっきりしている。ノーだ。

真澄が望めば、彼はいつでも自分に会いに来ることはできた。しかし、彼はそうしようとはしなかったではないか。

俺はパラディッソ存続という自分のエゴを押し通し、この不況下の厳しい経営を押し付け、あまつさえ彼と彼の母親を裏切った。その罪は重い。彼が俺に会おうとしなかったのは当然だ。

なのに今俺がしようとしていることは何だ?彼を苦しめた挙句、なおも彼を捕まえ、そして説教をしようとしているのだ。これを真澄が望んでいるはずがない。これを喜ぶはずがないではないか。

車は金華橋を渡ると、柳ヶ瀬方面へと進み、渋滞に捕まった。駅前にあるエブリーの本社ビルはもう目と鼻の先だ。だが、清一は自問自答を続けていた。

 

パラディッソの状況は緊急を要する。罪のない多くの健常者が助けを待っている。こうしている間も、金のために命が奪われているかもしれない。あの「斉藤」だって死の危機に瀕している。杉本や村木たちの思いを無駄にする訳にもいかない。それはオーナーたる自分の責任だ。企業人としての社会責任だ。

 しかし、そう思うこと自体が、自分自身のエゴではないのか。

ワンマン社長だった俺は、イエスマンばかりに囲まれ、自分が正しい、自分こそが唯一の正義だと考えて生きてきた。だが、これからは真澄に従って生きていこうと、そう誓ったんじゃなかったのか?真澄ならば、いついかなるときも正しい判断をし、いかなる困難も乗り越えられる。そう確信したはずだ。だから真澄に社長を任せたのだ。あの決心は偽りだったのか。ここで俺が出るということは、結局真澄より自分の判断を優先したということになるんじゃないのか。

この事態が俺の目にどのように映っていようとも、あえて判断を真澄に委ねることが、それこそが、本当の意味で真澄を信じるということになるのではないか。

俺は真澄を信じたい。たとえこの身が犠牲になろうとも。何が犠牲になろうとも。

 やはり俺はここに帰ってきてはいけない人間なのだ。全ての選択は真澄に委ねるべきなんだ。俺が見込んだ真澄だ。幹部の陰謀を見抜けぬはずがない。エブリーを間違った方向へ導くはずがないのだ。  

パラディッソの悪夢は必ず晴らす。ただそれは俺じゃない。真澄だ。

彼がいつか私に会いに来てくれるのか、それとも俺があの機械浴室で最期を遂げることになるのか。分からない。だが、それも彼が選択すべきことなのだ。その選択がいかなるものであっても、俺にとっては最善のものだ。彼がそう選んだ結果なのだとしたら。そして俺は、己に用意された終末への道をただひたすら歩めばいい。何ひとつ抵抗はしない。すべて身を委ねればいい。それが真に「信じる」という道なんだ―

 清一は「地獄」に戻る覚悟を決めた。

 「運転手さん、悪いがパラディッソへ戻ってくれないか」

 「ええ?」

 運転手がバックミラー越しに覗き込む「それでいいの?」

「ああ」

清一は笑みを浮かべた。車窓の外に目をやると、柳ケ瀬の百貨店が目に付いた。シンボルとなっている「近鉄百貨店」だ。しかし、何か雰囲気が違う。よく見るとそこは外資系のシティホテルに生まれ変わっていた。

俺の決断は間違っていない。

清一は実に晴れやかな気分だった。

気がつくと、車はまだぴくりとも動かなかった。もともと渋滞の名所ではあるが、これほど動かないのは珍しかった。演歌を流し続けていたラジオもいつの間にか消されている。横から覗く運転手の表情はうんざりとし、渋滞にイラつく車のクラクションが遠くに聞こえた。

腰を浮かし、前方を覗き込むと、道路わきに「百メートル先、工事中」と書かれた電光式の標識が点滅しているのが分かった。そして再びシートに腰を沈めようとした時、清一の目に見覚えのある車の後姿が映った。清一のタクシーの2台前。忘れようにも忘れられない車。

それはあのシルバーのBMWだった。

清一はまさか、と思いながら後部座席の人影に目を凝らした。清一の鼓動は知らず知らずのうちに高まっていった。影は二つあった。しばらくすると、その人影は渋滞にしびれを切らしたかのように、席をずらしてから後部ドアに手をかけた。カバンを抱えた黒縁眼鏡の若い男が、軽い身のこなしで車から降り立つと、続いてその男に迎えられるように、長身の男がゆっくりと姿を現した。清一の目はその人物に釘付けとなった。

 車から出てきたその男は真澄だった。

 「真澄…」思わず清一はそう呟いていた。

真澄は険しい顔で一瞬清一の方を振り向いたかと思うと、眼鏡の男に導かれるようにして、歩道へと渡り、そして先へと歩き出した。目で追いかけたが、その背中はだんだんと遠ざかり、それはもう清一の手には届かないところへ行ってしまう気がした。

 「降ろしてくれ」

清一はそう叫んでいた。運転手は「えっ」と驚いたが、「料金は後だ。必ず払う」という清一に気圧されるようにしてドアを開けた。

 このチャンスを逃せばもう永遠に会えなくなると清一は悟った。

「真澄。真澄―!」

 清一の声が商店街にこだました。足の痛みも、自分がどんな格好をしているかも忘れていた。

すべて真澄の判断に任せる。その思いは変わらない。しかし、清一は真澄にどうしても伝えておかなければならないことがあった。その思いは全てにおいて優先された。

 清一はよろめく足で真澄を追い、叫び続けた。声はかすれ、それは真澄と聞き取れないほどであったが、老人の思いは唸り声のようになって商店街に響いた。足に巻きつけた血染めの肌着は途中で脱げ落ち、裸足になっていた。もうほとんど前には進めなかったが、声だけが真澄の背中を追いかけていた。通行人は足を止め、在る者は振り返り、渋滞の車列からの視線は老人に集まった。

前をゆく背中の大きな青年も、それに気付いて振り返った。それは清一の目にはスローモーションのように映った。

 振り返った男の目に映ったのは、あまりにもみすぼらしい小さな老人だった。薄汚れた白いジャージは膝が破れ血が滲み、歩道のタイルには黒ずんだ血の足跡が点々と続いていた。老人はすがるような目で男を見つめていた。

「…父さん」

 真澄は驚きのあまり呆然とし、その顔はこわばっていた。

「真澄、真澄…」

 清一には続く言葉がなかった。しかし、顔には満面の笑みがこぼれ、ただひたすらに名前を繰り返していた。

声は次第に小さくなっていき、清一はその場に崩れ落ちた。再会できた喜びと、長く会えなかった悲しみと、真澄への心配と、自分への怒りが清一を押しつぶし、清一は地面に手を突いていた。そして力なく地面に額を押し当てて、それからゆっくりと顔を上げた。その顔は一転して涙でぐしゃぐしゃになっていた。

 「許してくれ。許してくれ…」

 清一はただひたすらにその言葉を繰り返した。真澄は跪いて謝る老人を上から見下ろしていた。顔はまだ引きつっていた。

 「ちょっとアンタ困るよ、どういうつもりだよ、」

 真澄の脇にいた黒縁眼鏡が、真澄と清一の間に割って入ろうとした。しかし、真澄がそれを制止した。黒縁眼鏡は驚いた顔で「社長…」と呟くと後ろに下がった。商店街の目は相変わらず二人の男に注がれていた。そこだけ時間が止まったかのようだった。

 「父さん、一体何のつもりだよ」

 真澄は清一を見下すかのように静かにつぶやいた。しかし、次の瞬間、堰を切ったかのように感情が爆発していた。

 「会社を、父さんが一生懸命大きくした会社を、俺は守ろうとしたんだぞ。いいか、守ろうとしたんだぞ!それを、何だよ。何なんだよ!自分だけ好き放題やりやがって。俺がどれだけ父さんのことを思っていたか、分かっていたのかよ!」

 真澄の怒声は商店街に響き渡った。その声には涙声が混じっていた。真澄は清一に歩み寄り、右手で襟首を掴んでいた。なんで、なんで、と清一を揺らし、左手ではそっと清一の方を支えていた。清一は身を真澄に委ねながら、泣いていた。そして揺さぶられながらただひたすらに謝罪の言葉を繰り返していた。真澄の怒りを全身で受け止め、頷いていた。老人を支えていたのは青年だったが、青年もまた老人に包まれているようにみえた。

 「親父の馬鹿野郎!もう遅いんだよ。こんなことしても、もう遅すぎるんだよ!」

 真澄は清一の胸で涙を隠すようにして叫んだ。

 遠くからは警官が駆けつける足音が聞こえていた。


 ドアの隙間から、黒縁眼鏡の男がタクシーの運転手に領収書を請求しているのが分かった。どうやら男は清一の乗車賃を支払ったらしかった。男は不機嫌そうに領収書を受け取ると、財布をしまいながら清一の待つ部屋へと戻ってきた。

清一たちはこの交番で事情を聞かれていた。真澄は大事な来客があるため一旦社に戻り、後であらためて説明に伺うとのことであった。そのため、秘書である黒縁眼鏡と清一と運転手がここに残されていた。運転手は、清一に指示されるままにここにやってきたということだけを説明すると、ほどなく解放されることとなったが、黒縁眼鏡と清一は騒ぎの事実関係を確認すべく、聞き取りが続けられていた。

 「ですからね、あの運ちゃんも言っていたでしょう?この人が突然、私と社長の前に現れて絡んできたんですよ」

 「お爺さんとは面識はないんですか」

 「しつこいなぁ。だから全く知りませんよ。僕は」

 新人とおぼしき女性警察官の執拗な質問に黒縁眼鏡はうんざりしていた。

 「でも目撃者の中には、社長さんとお爺さんが何かやりとりをしていた、という証言もあるんですが」

 「だから、具体的にどんなやりとりがあったかは聞こえなかったんですよ、僕は。ただ、うちの社長は優しい人ですからね。言っちゃなんですけど、こういう気の毒な人を見かけたら放っておけない性分なんです。こんな酷い格好でふらふら歩いてきたもんだから、自分が保護してあげないといけない、そう思ったんじゃないですか」

 女性警官の質問は、ほとんど黒縁眼鏡が答えていた。清一は名前を確認されたぐらいで、後は男の説明に頷いたり首を振ったりするぐらいだった。警官が清一の証言を当てにしていないことは何となく分かったが、清一としてもあまり自分から説明はしないでおこう、と考えていた。真澄が後から来て説明をする以上、自分が何か余計なことを言うと彼に迷惑がかかると考えていたからだ。すべてを真澄に任せるという覚悟は、念願の再会を果たしたことで揺ぎないものになっていた。

 清一は包帯が巻かれた自分の両足を眺めながら、ただひたすら真澄が現れるのを待った。さっきの真澄の顔を思い出し、抱擁の感触を思い出していた。清一の心は実に晴れ晴れしていた。もう遅すぎる、という真澄の言葉が耳に残っていたが、それが何を意味するものであっても、清一は許すつもりでいた。エブリーの身売りが避けられない事態に陥っていたとしても、それはもうどうでもいいことだった。

 真澄が俺を許してくれさえすれば、いや、真澄に謝罪できたことだけで十分だ。もう何も要らない。俺にとっては何も遅くはない。最期に間に合ったのだ。もういつ死んでもいい―。

 黒縁眼鏡のやる気のない説明を聞き流しながら、清一の顔には、何か吹っ切れたかのような笑顔が戻っていた。


 どれくらい時間が経ったであろうか。女性警官は既に席を外し、部屋には黒縁眼鏡と清一の二人になっていた。二人は真澄の到着を待ちわびていた。清一は二杯目の緑茶をすすり、黒縁眼鏡はノートパソコンを取り出して、会議用資料かなにかの入力をしながら時間を潰していた。清一は時折彼のほうに視線を送ったが、彼はそれを無視し続けた。おそらく、清一を知らない世代なのだろう。よくよく見ると入社わずか数年の若者のようだった。

この歳で秘書課に配属されるということはかなりの有望株なのだろう。それだけに、清一の正体を知れば、この不手際を一生後悔するに違いない。しかし清一はそれを咎める気はなかった。もう真澄に会えたことで満足していたし、そんな些細なことで目くじらを立てることも馬鹿馬鹿しいと思えたからだ。むしろ、面倒なことから社長を守ろうとする姿勢に、清一は感じ入る余裕さえあった。真澄が来て全てが明るみになった時、この幹部候補生はどういう反応をするだろうか。想像するだけでも清一は笑いをこらえ切れなかった。

 そうこう考えているその時、会議室のドアが開いた。

 「あ、先生」黒縁眼鏡に向かえ入れられた人物は清一の待っている相手ではなかった。

 「ああ梶原君、ご苦労だったね」

 現れた男は目玉のギョロリとした浅黒い肌の中年の小男で、白髪の警官と一緒だった。先生と呼ばれていることからすると弁護士だと清一は察した。白髪は署長だろうか。後方には先ほどの女性警官の姿も見える。

 「私が説明しておいたから。君はもう会社に帰りなさい」

 小男は黒縁眼鏡にそう促すとニンマリと笑った。黒縁眼鏡は、助かったと呟きながらパソコンをしまい始めた。ちらりとこちらを見て笑うのを清一は見逃さなかった。

 「どういうことだ。真澄が来るんじゃなかったのか?」

 清一は不穏な空気を感じ取ると、小男を睨みつけた。しかし、男は汚いものを見るような目つきで清一を見返した。

 「真澄?ああ、社長はあいにく多忙でね。こんなところに来る暇はないんです」

 「こんなところだと?真澄がそう言ったのか」

清一が愕然とすると、小男は続けた。

 「心配しなくて良い。あんたの面倒は私が見させてもらうから」

 男はそういうと、署長に目配せした。「入ってもらって」

 黒縁眼鏡と入れ替わりに、警官に促されるように入ってきたのは背広の中年男と、白衣をまとい袖から太い腕を見せている若い男だった。清一は白衣の胸ポケットに縫い付けてある刺繍に目を奪われた。そこには「パラディッソ」と横文字ではっきりと縫いつけられていた。

 「どういうことだ」

 清一は思わず怒鳴った。しかし身体は硬直していた。

 「帰りましょう。みんな心配していますよ。今江さん」背広の中年男はそう言って、清一に近付こうとした。しかし、清一はその手を払いのけると、座っていたパイプ椅子から飛び退いた。

 「俺は今江じゃない。黒川清一だ!」

 しかし、背広の男は動じず、なおも清一に近付こうとした。

 「真澄はなぜ来ない?これは真澄の意思か?本当にこれを望んでいるのか?」

 清一は後ずさり、部屋の壁に背中をぶつけてよろめいた。しかし、その視線は小男を問い詰めていた。背広の男が「今江さん」と続けたが、小男が痺れを切らしたかのように言った。

 「黒川社長の意思は関係ないでしょう」

 「何だと」

 「これは今江さん自身の問題です」

 小男は無表情でいった。その言葉に清一は今まで抑えていた怒りを爆発させた。

 「無礼な!俺は今江なんて名前じゃない!黒川清一だ。エブリーの会長だ!」

 清一の言葉に一同は言葉を失った。一人小男だけが額に汗を浮かべていた。

 「違うんです。あなたは黒川清一氏ではない」

 「じゃあ証拠を見せてみろ!俺がその今江だという証拠を。黒川清一ではないという証拠を!」

 すると小男は押し黙った。清一は続けた。

「俺は黒川清一のことなら何でも知っているぞ。息子真澄のことも、会社の生い立ちも。当たり前のことだがな。それに、お前たちの知らないことも知っているぞ。俺が若い頃に犯した過ちのことだ。それが理由で最愛の息子を失いかけてしまったこともだ」

 清一が自暴自棄気味にぶちまけると、その意図を悟ったか小男が急に話を遮ろうとした。しかし、清一は止めようとはしない。

 「ここが警察で良かったよ。すべてを聞いてもらおうじゃないか。今、パラディッソで何が行われているのかを!」

 やめろ、と小男が語気を強めたが、清一は聞こうとはしなかった。

 「なにが人生最期の楽園だ。最高の第二の人生?笑わせる! 身寄りのない老人を騙して、殺して、金を搾り取っているだけじゃないか。こうしている今も入居者は地獄の日々を…」

 「やめろ!」

 小男の恫喝で、清一は思わず口を止めた。小男は息を荒げ、真っ赤な目で清一を睨んでいた。部屋のただならぬ雰囲気を察してか、廊下には様子をうかがう警官が集まっている。小男は息を整えると、静かに切り出した。

 「あなたが黒川清一氏ではない、という証拠はある、それは」

 小男は額の汗を拭って続けた。

 「黒川清一という人間はこの世にもういない、という事実だ」

 「何だと?」

 清一は何を言われたか意味が分らなかった。少しおいて、男の言葉を頭の中で反芻すると笑いがこみ上げてきた。

 「俺が死んでる?じゃ、この俺は何だ。幽霊か?こりゃ傑作だ」

 しかし小男は動じなかった。清一が見渡すと、所長も女性警官も目を伏せていた。異様な雰囲気に清一の背筋に冷たいものが走った。

 「これで納得してもらう他ないな」

 小男は分厚いカバンを広げ、中から一枚の書類のコピーを机に突き出した。

 それは紛れもない黒川清一の死亡届だった。

 「どうしてそこまで」

清一は遠のいてゆく意識の中で叫び続けた。



 ⒕


 どれくらい倒れていたのだろう。冷たい夜風に思わず身震いして目が覚めた。

 ここはどこだ―

 薄暗がりの中で、清一はゆっくり身を起こし周囲を見回した。虫の音が遠くに聞こえ、風を受け荒れ狂う薄が視界をさえぎる。暗くてよく分らなかったが、立ち上がってみて状況がだんだんと分ってきた。どうやら山の上にいるらしい。それも相当高い山だ。周りの山が全て眼下に見える。見上げれば頂上も目と鼻の先だった。辺りに人影はなく、自分ひとりだけだということも分かった。

日は沈んだばかりなのか、淡いオレンジの残光が、藍色の空と山の稜線の隙間からぼんやりとこぼれている。下を見下ろすと遠くに街の光も見えた。強風に顔がゆがんだ。

いつの間にこんな高い山に登ったのだろう。俺は遭難したのか。

必死に思い出そうとしても何も思い出せない。ここがどこの山かも分らない。刻一刻と深い闇に沈む山中で今言えることは、とにかく助けを呼ばなければならない、ということだけだ。

「おーい」「誰かいないかー」

清一はありったけの声を張り上げ、助けを求めて四方八方にさまよい歩いた。しかし、どこまで歩いても人影は見当たらなかった。助けを呼ぶ声さえもが強風にかき消されていた。

 どうすれば良いんだ―

 さっきから気付いていたことだが、山の背後からとてつもなく大きな雨雲が近づいていることも不安を増幅させていた。空の半分は星が輝き始めているが、もう半分は雲で覆われてしまっていた。とにかく一刻も早くこの山を下りねばならない。

明るさを増した月の光と、かすかな夕日の残光でかろうじて判別できる登山道を見つけ、清一は遥か先の麓を目指すことにした。体に怪我がなかったのは幸いだった。これならなんとか家に帰れそうだ。

「家?」

呟いた自分の声で、清一は我に返った。アンティークの調度品に囲まれた部屋が頭に浮かび、次に、白い壁に囲まれた病室のような部屋が姿を現す。清一はその部屋の中で言葉も発せずに震えている自分の姿を見た。おぞましい食事に、暴力、そして孤独。

清一の頭に凄惨な記憶が戻ってきていた。

あの場所に戻るつもりは、ない。

かといって市内の自宅も引き払ってしまっている。そうだ真澄を頼ろうか。

いや、真澄は俺を拒絶したのだ。柳ヶ瀬の交番であれほど待ったのにも関わらず、結局彼は姿を現さなかった。「遅すぎる」という真澄の言葉の真意が、今となっては分かる。俺は完全に真澄に見放されてしまったのだ。

エブリーもパラディッソも、あんな巧妙な死亡届を捏造するということは、どうやっても俺を解放する気はないのだろう。あの紙切れがまかり通る限り、俺はもう社会的には存在しない人間なのだ。警察も俺の話に耳を傾けてはくれなかった。

もう俺には、帰る場所も、助けを呼べる相手も誰一人としていないんだ―

山を下る速度が自然と落ちた。清一の記憶は完全に甦っていた。

山を下りても、ここにいてもどうせ独りぼっちだ。それなら、ここに留まって静かに暮らしたほうがいい。

いや、いっそここで死んだほうがいいのかもしれない。これ以上悩み苦しむのはごめんだ。そうなればもう誰にも迷惑をかけずに済む―。

湧き上がる悲しみと絶望の中で、ある仮説が導き出された。

ひょっとしてここは「姥捨て山」で、俺は真澄に捨てられたのではないか。

清一の足はもう完全に止まっていた。


途方に暮れて岩に腰掛け、風にうねる薄を眺めていると、前方にぽつりぽつりと小さな黄色い光が動いていることに気がついた。光は山頂へと向かってきているのが分った。光は懐中電灯のようだった。清一は我に返った。あれは人だ。

「おーい」清一は声を上げた。「おーい」もう一度声を張り上げる。すると先頭の光はこちらに気づいたらしく、呼びかけに応えるように左右に揺れた。

闇から現れたのは、小奇麗な登山服に身を包んだ初老の男性だった。

「こんばんは」男性は懐中電灯を下ろし、笑顔で話しかけてきた。装備や雰囲気から察すると、どうやら遭難救助隊ではなさそうだ。

「おたくが声を掛けてくれて助かりましたよ。ちょっと道が分らなくなって同じところをぐるぐる回ってたもんだから。やっぱり日暮れは危ない」

男性は苦笑いをした後、首にかけたタオルで汗を拭うと夜空を見上げた。

「だけど、星もきれいだし。やっぱり来てよかった」

男性はこちらの絶望的な状況に全く気付いていないようだった。清一も、こちらの状況を悟られまいとして努めて明るく振舞った。遭難に気付かれて警察を呼ばれるとまずい。警察もパラディッソに取り込まれている可能性があるからだ。

「私も久しぶりに登ったのですが、山は良いもんだ」

清一は景色を見渡すふりをした。

「これでざっと標高何㍍くらいなのかな」

「千、二三百でしょう。まだ伊吹山ですから」

「伊吹山…」

信じられなかった。ここが伊吹山だったとは。いくら夜とはいえ、伊吹山の景色を忘れるはずがない、と思っていた。なにしろ最後に登った山、真澄との最後の思い出の山なのだ。

「そんなことまで忘れてしまうとは情けない。歳をとるのは嫌ですな」

清一が必死に照れ笑いをつくると、男性もうなずいた。

「まったくです。でも、この山を登ると自分が老人であることを全て忘れさせてくれます。周りは自然ですからな。誰も自分を老人扱いしない。リスもイノシシも、彼らの目からは人間はみんな人間に見える。こいつは若い、こいつはジジイだ、なんて差別の目でみることはありません。われわれが彼らをそう見ることはないように、です。しかも、自分のペースでゆっくり登っていくから、遅いとも老いたとも感じない。なにより、この山をゆっくりでも登れること自体、われわれはもう老人ではないのです」男性は豪快に笑った。

清一はなにか励まされる気がした。もう少しこの男性と話したいと思った。求めていた同志をついに得た気がした。この人なら、分かってくれるかもしれない。

「あなたもご来光が目当てですか」

この時間に山を登るということは、翌朝の日の出を拝むつもりだ。清一にはご来光登山の経験はなかったが、そのような楽しみをもつ人たちがいることは知っていた。

「ええ」男性は力強くうなずき、「もちろん初めてですがね」と微笑んだ。


 清一は男性と一緒に頂上を目指すことにした。急いで下山する気はとうに失せていたので、楽しみはご来光に移っていた。時間はたっぷりある。清一と男性は互いの身の上を語りながら登った。男性を萎縮させたくなかったので、自分が黒川グループの総帥であることは伏せ、エブリーストアの元店長であると説明した。男性は山中と名乗り、偶然にも年齢は同じ七十歳だった。この歳で山を登るのは自慢できる、と話しかけると、山中は八十でも九十でもいるはずだと応えた。どだいこの時間に山を登るのは子供には無理だ、と清一が返し、二人は大笑いした。

 じきに頂上についた。頂上の広場には数人の先客がすでに到着し、景色を眺めたり、弁当を広げたりしていた。時間が時間なだけに大声で談笑する者はなく、しみじみとこの時間を慈しんでいるように思えた。日はすっかり沈み、月明かりが周囲を照らし出している。空を見上げると、巨大な雨雲は空の半分を覆った状態で留まっていた。清一は、翌朝のご来光に支障がでなければ良いが、と案じた。

「さすがに早く着き過ぎましたね。まだ七時ぐらいでしょう」

ご来光登山の経験はないものの、それくらいは清一にも分かった。日の出までには十時間以上もある。しかし山中の反応は意外なものだった。

「そんなことないですよ。今日はこんなものでしょう」

清一は違和感を覚え尋ね返した。

「今日はこれからどうされるんです?山小屋で一泊ですか。それとも、山小屋で一杯ですか」杯をグイとやる動作で山中を誘った。

 しかし、山中は穏やかな表情で眼下の街を見渡していた。とてもこれから酒を楽しむような顔には思えず、清一はさきほどの提案を後悔した。その静かな表情は、何か悲しみを秘めているようにも見えた。

「美しい。この景色とも、もうお別れです。あそこから離れたい、離れたいと思っていましたが、いざ離れるとなると名残惜しくなる。だけどもう、悔いはないです」

山中の言葉に、清一は固まった。

山中はこの地でその人生に区切りをつけようとしている―

山中と会うその直前までは自分もここで死んでもいいと思っていた。やはりこの男も自分と同じような境遇に悩んでいたのだ。だが、この男にそんな寂しい死を迎えさせてはならない、とも思った。自分を客観視するような感じだった。そうだ、自分もこの男もこんなところで死んではいけないのだ。

「何を馬鹿なことを」清一は語気を強めた。しかし次の山中の言葉に、言葉を失った。

「黒川さん、あなたはどうですか」

山中は清一を見据えた。それは心の中を見透かしているような瞳だった。清一は、背筋に冷たいものが走った。

もしや俺がここで目が覚めたことと、この山は何か関係があるのか。俺がここにいる謎もまだ解けていない。しかしこの男は何かを知っている。清一は、思い切って尋ねてみた。

「ここは姥捨て山なんですか」

「まさか。誰も捨てられていない」

山中は笑って否定した。しかしその目は笑っていなかった。と、同時に清一が自分たちとは違う人間だということに気付いたのが分かった。山中は確認するように続けた。

「ご来光への道はまだまだ遠いですよ。頂上へは、あと四十八日かかるのですから」

街とは逆方向に振り向いた山中の視線の先には、あの雨雲があった。しかし、目を凝らすとそれは雨雲などではなかった。

 山。それは天を突くようにしてそびえ立つ、とてつもなく巨大な山だった。よく見ると登山道を光の列が上を目指して進んでいる。

 首をほぼ垂直にして見上げ、清一は息を飲んだ。これはこの世のものではない。

 あの世へと続く死の山だ―。


 嫌だ。まだ死にたくはない。

全ての光を吸い込むような黒山を前に、清一は後ずさると、山中に背を向け逃げ出した。背後から「ちょっとお待ちなさい」と山中が自分を呼び止める声がしたが、その声を振り切るようにして清一は駆けた。もう一秒でもここにいたくはなかった。ここに留まればあの黒山に吸い込まれてしまう。あの山に背中を睨まれてはっきりそれが分った。恐怖で気が狂いそうだった。

「心配することはないよ。みんな通る道なんだから」

駆け下りる清一の耳にまたも山中の声がした。その声は彼との距離とは無関係に、直接心に語りかけてきた。清一は耳を塞いだ。

清一は、山を転げ落ちるように駆け下りた。後ろは一度も振り向かなかった。何度も転び、何度も起き上がっては走った。登山道では何人もの「死者」とすれ違った。誰もが「こんにちは」と笑顔であいさつしてきたが、清一は目を合わさず、もちろん返事も返さずに彼らの脇を駆け下りた。返事を返せば連れ戻されることも本能で感じとったからだ。駆け抜けた自分の背中には、彼らの妬みの視線が突き刺さった。その視線を受けるたび、足は重くなり、走るスピードは落ちた。ぬかるんだ沼の中を進むような感覚だった。清一は思い切って登山道を外れ、木々が生い茂る森の中へ突進していった。

 迫り来る枝を払いのけ、全力で走り続けたが、まったく息切れはしなかった。何度も転んだのに怪我もせず、痛みすら感じない。ただ、疲労の代わりに心に死の恐怖が蓄積されていった。相変わらず背中に山の視線を感じていた。

ここで目を覚ました時からすでに死の世界に足を踏み入れていたのか―

このまま走り続けて現世に戻れるのか。そう思った瞬間、少し開けた斜面に出た。不思議なことに、山頂では日が沈んでいたはずが、山を下っていくに従って、空はうっすらと夕日を取り戻していた。

清一の目の前にはどこかで見た紅葉が夕焼けに染まっていた。それはパラディッソから見たあの景色にそっくりだった。

この先には戻れない―

清一はさらに進路を北に変え、パラディッソから離れるようにして斜面を下っていった。すると小さな谷に出た。川幅はそこそこ広かったが、幸い水は殆ど干上がっていた。川の中央を切れ切れに蛇行する小さな流れは、夕日を写し、ゆらゆらと赤く光っていた。向こう岸には無数のトンボが飛び交っていた。

この先へ渡れば―

清一が沢の中央にさしかかった時だった。カサカサと音がしたと思ったら、川の水かさが急に増えていくのが分かった。茜色に染まった水面はみるみると広がり、水はあっという間に清一の膝辺りまで達していた。土の臭い。慌てた清一が上流を見上げた瞬間、清一の体は鉄砲水に飲み込まれていた。


清一は濁流にもみくちゃにされ、体が川底に激突したかと思うと、巨大なうねりの中に吸い込まれていった。流木やがれきに何度も衝突した。冷たく、べとつく水。体は何度も回転を繰り返し、どっちが水面で、どっちが底なのかも分らない。息ができず、清一は死にもの狂いでもがいた。すると指先に触れるものがあり、それを無我夢中で掴んだ。いや、掴まれた。

それは手だった。ゴツゴツした逞しい手。忘れたことのない、懐かしい感触だった。

助かった―


 ⒖


 夜も明け切らぬ波止場の片隅で、雨合羽を羽織った男たちが深刻そうな表情で何やら相談をしていた。ある者はタバコを咥え、ある者は一斗間にくべられた薪で暖をとっている。しかし誰もが、海を、そして猛烈な勢いで吹きすさぶ風を気にしていた。

 「今日はやめだ。風が収まるとは思えねえ」

 男たちの中の年かさの一人が口を開くと、ぼそぼそと話しこんでいた周りの男たちは一様に話をやめ、うなだれた。無念そうな表情を浮かべながらも、彼の決断は誰もが予想していた通りのものだったらしく、それに異を唱えるものはいなかった。しかし、男たちが一人また一人とその場を去っていく中で、一人の中年の男が年かさに近付いて言った。

 「おやっさん、もう5日も出てねえんだ。俺はもう我慢できねえ。俺だけでも出る」

 男の声は切迫していた。

「無茶なことするな。みんな出たい気持ちは一緒なんだ。この波の中出れば命がいくつあっても足りねえぞ」

 「俺はみんなと違う。この冬ダメなら、海王丸も何もかも取られちまうんだ。エチゼンにやられた上、荒れて船も出せないんじゃ、もう後がねえ。海なら大丈夫だ、このくらいの波なら今までもないことはなかった。俺だけでも行かせてもらう」

 「豊司!」

男は年かさの声を振り切るようにして一人船に向かった。


船は大きく揺られながら、漆黒の闇を突き進んでいた。舵を取る男の脇では青年がソナーを眺めている。二人の間には会話はなかった。

「潤、絵描きで食っていくなんて夢みてえなこと考えてるんじゃねえぞ」

荒れ狂う大海原を見詰めながら、男が沈黙を破った。

「自然に立ち向かい、海に生きる。こんな素晴らしい仕事はねえ。たしかに楽な仕事じゃねえよ。だけど俺は誇りを持ってやってきた。それをお前も分かってくれていると思っていたんだ」

「別に漁師を馬鹿にしている訳じゃない、俺は」

「一緒のこと!一緒のことなんだよ」

男は息子の話を押さえ込むように語気を荒げた。そして「何のために船を新調したと思ってやんだ」と呟いた。青年はこれ以上反論しても無駄だといわんばかりに押し黙り、親父の視線の先とは違う海に目をやった。


波は治まる気配を見せなかった。漁場でも船は大きく揺れた。甲板には大きな波しぶきが襲い掛かる。しかし、引き上げた籠にはカニがぎっしり詰まっていた。昨年来悩まされ続けてきたエチゼンクラゲの被害もこの日は目立たなかった。奇跡的な豊漁だった。

「どうだ、父ちゃんの言った通りだろ。他人が海に出ないときにこそ勝機は巡ってくるもんだ。港に帰ったらみんな驚くぞ」

男は休むことなく網を手繰りながら大声で話した。声はほとんど波と雨にかき消されたが、その自慢げな様子は息子にも分った。青年もまた網を手繰り寄せながら親父を見てニッコリと笑った。

しかし、大波に揺れる船上の作業は困難を極めた。男は漁師としては十分ベテランの部類に属してはいたが、久々の豊漁と悪天候下での作業に焦りを隠せなかった。そして息子の進路についての悩みも、男にいつもの冷静さを失わせていた。

突然巻き網がどこかに引っかかり、男はそれを解こうと船べりから海面に身を乗り出した。その時だった。ひときわ大きな波が船を襲った。船はひっくり返らんばかりに傾き、後方で網を裁いていた青年はたまらず甲板を転がった。そして、揺り戻しと同時に起き上がった青年の視界から父は消えていた。

 「親父!」

 青年は夢中で海面に駆け寄った。しかし、父の姿は見当たらない。「おーい、親父―」青年は船のへりを伝いながら、海に親父の姿を探し続けた。青年の脳裏に不安が増していった。すると、船の遥か後方の波間から紺色の合羽に身を包んだ頭と腕が現れては消え、現れては消えを繰り返しているのが視界に入った。腕は空に向かってもがいているようだった。

 「親父、待ってろ!」

 青年は急いで船体に備えられた救助用の浮き輪を掴むと、反動をつけてそれを父にめがけて放り投げた。しかし思いのほか距離が遠く、また波が高いため思うように父の手元に届かない。しかし、親父の腕の動きからは浮き輪を掴もうとする意思ははっきりと感じられた。必ず助ける。青年は二度三度と浮き輪の投入を試み、四度目の投入でやっと父が浮き輪を掴む手応えがあった。「しっかり掴むんだ!離すんじゃないぞ!」青年は船べりに足をかけて踏ん張り、懇親の力でロープをたぐった。

 

 やっと水面に上がったと思ったら、次の瞬間には遥か海の奥底へと引きずりこまれる。男は大きな力にもみくちゃにされながら荒れ狂う海の中をもがいた。指先に触れるものは皆無で、意識は遠のいてゆく。まさに「死の淵」をさまよっていた。そしてやっとしがみついた天上の物体が浮き輪であることにしばらく気がつかなかった。強い力でぐいぐい引っ張られながら、男は自分が置かれている状況が次第にみえてきた。海面に突っ伏し、かろうじて口と片目を水面に出した状態で、ロープに導かれる方向に目をやる。すると、海王丸にゆっくりと引き寄せられてゆくのが分った。ロープの先には全身を使ってそれを手繰り寄せている潤の姿があった。

 俺は潤に救われたのか―

 身を横たえながら、男はその事実に呆然となった。

 こいつはもう子供じゃない。立派な男だ。

 船べりから差し出された手を握ると、それは確信に変わった。逞しくゴツゴツした手、それは紛れもなく海の男の手だった。その手に握り返されると、男は心地よい安らぎに包まれた。その感触は男の記憶の奥底に深く深く刻まれた。


その後も豊漁の日はあったが、結局その年は、近年まれに見る不漁に終わった。クラゲや温暖化、外国船の度重なる漁場荒らし。理由はいくらでもあった。漁師は次々に廃業に追い込まれ、男も人生をかけて購入した海王丸を手放さざるを得なかった。手元には多額の借金だけが残った。

男は雇われの身となり、船には乗り続けたが、燃料高に端を発する経済悪化の追い討ちを受けて、身を粉にして働いても生活はさらに逼迫した。借金は減るどころか増えていった。 

そして男は船を下りた。

借金の取立てから家族を救うために妻とも離婚した。それでも家族への激しい取り立ては収まらず、男は連絡をとることを固く禁じて、一人見知らぬ土地へと旅立っていった。建設作業員などの日雇いで各地を転々とした。そして、たまたま入った店卸しバイト先のスーパーで、魚をさばく腕を買われ、裏方の職にありつくことができた。男にはいつか家族を呼び寄せる、という夢ができた。男が家族への送金を怠ることは一度もなかったが、なおも連絡をとることは控えていた。

数年が経ったある日、男の居場所を突き止めた弟が彼の元を訪ねてきた。久々の再会だったが、弟は男に辛い知らせを持ってきていた。病気がちだった男の妻が急死したというのだ。男は妻を看取れなかった自分を責めた。親類縁者からも遠ざけられ頼る者もない中で気丈に喪主を務め上げた息子のことを聞くと、涙が止まらなかった。そして、息子に会う決心を固め再び古里の地に足を踏み入れた。しかし、以前住んでいた家は既に売り払われ、息子の姿もそこにはなかった。男は葬儀の後姿を消したという息子の行き先を探した。だが何の手掛かりも得られなかった。ただ一つだけ分ったことがあった。それはもう自分は息子に会う資格がない、ということだった。


ぎゅっと握られた手のひらの感触が、失われた記憶を連鎖的によみがえらせた。それは普通の人間にとってみれば一瞬と呼べるような時間であったのだが、男はその僅かな時間で、長大で濃密な人生の回顧を終わらせていた。詳細で鮮明な記憶の余韻に浸っていると、頭の中に存在していた、ありとあらゆる疑問は氷解していた。

また助けられたな―

瞳を開け、握られた手の感触を辿ると、そこにはやはり潤がいた。こちらを覗き込み、切迫した表情で何かを必死に叫んでいる。だが、どれだけ耳を澄ませてもそれが何かは聞き取れなかった。そして次第に瞼も鉛のように重くなり、瞳を閉じると、そのまま光も失った。不思議なことに、闇の中でも恐怖や焦りはなかった。ただ幸福感だけがあった。

「気付いてやれなくて済まなかった。でも、よく来てくれた。会いたかった」

今江はそう口を動かした。だが、その声が潤に届いたかどうかは定かではなかった。今は手のぬくもりだけが、かろうじて二人を繋いでいた。男は自分に残された時間はあとわずかだと悟った。この体は動かない。声も出ない。目も見えない。だが、最後に彼に伝えるべきことがある。

全部分かった。潤ありがとう。

彼に伝えたい。そして彼を安心させてやりたい。男は失われゆく感覚の中で、必死に微笑んだ。

どうかこの笑みの欠片でも感じ取ってくれないか―

男は深い安らぎの中で、この世に別れを告げた。


 ⒗

 

 「ずっとこの席で?」

ソファーの背をさすりながら、今江潤が訊ねると、桐原涼子はゆっくりと頷いた。

「はい。いつも展望レストランで早めの昼食を済まされた後、夕方までは、ずっとその席で庭園の方を眺めていらっしゃいました。園にお知り合いの方もおられないようでしたので、最初はサークル活動にも参加されては、とお誘いしたこともありましたが、頑なに拒まれまして…。田舎の訛りを気にしてらっしゃったのか、他人を避けておられたようにも見えました」

 そうですか、とつぶやくと潤はそのソファーに座り、眼前に広がる花畑を見渡した。彼が促すと、桐原もそばの席に腰を下ろした。

「園ではあなただけが唯一の喋り相手だったのですね。親父に代わり礼を言います。ありがとう」潤は深々と頭を下げた。

 「いえ、そんな。ホームのスタッフであれば、当然のことですから」

 「あなたがいなければ、親父はもっと独りで苦しんでいたはずです」

 ほとんど二人きりのロビーは、大きな声でなくともよく響いた。潤はロビーを見渡した。

「ここに座っていれば、いろんな会話が聞こえてきそうですね」

 「いえ、休日ならともかく、平日は人もまばらなんです。面会者も限られてきますから。他にここで話をされていたのは、ほとんどが黒川さんと黒川さんの息子さんだったと思います」

 「黒川さんは、その席に?」

 潤は間仕切りの植え込みから覗き込むように、目の前のエグゼクティブコーナーに目を向けた。ひときわしつらえの良さそうなソファーが姿をのぞかせる。桐原が一番手前のソファーがそれだと答えると、潤は再び元の席に腰を降ろして、首を伸ばした。

 「ここからだと、黒川さんの姿は見えませんが、対面に座る来客者の姿はよく見えますね。たしかに会話が出来そうな距離だ」

潤は検証するかのように、前後の席を確認すると、深い溜息をついた。

「目の前の席の来客を、自分の客と錯覚する…そんなこと信じられない」

潤がかぶりを振ってつぶやくと、桐原はきっぱりと言った。

 「想像してみてください。一日中、殆ど誰とも会話せず、特定の来客者の会話だけが耳に入るという状況を。しかも一年や二年という話じゃありません」

 そして少し間を置いて続けた。

 「しかも、自分の見舞い客は誰一人として現れないんですから」

 桐原は言い終えてから、しまったというような顔を見せ、小さな声で「すみません」と頭を下げた。潤は「いいんです、事実ですから」と小さく答え、顔を伏せた。

 「最初は黒川さんたちも、声をひそめて話をされていたんです。お仕事の重要な打ち合わせとかもあったのかと思います。しかし、ご覧のとおり、人気の無いロビーですし、たまに一般席で座ってらっしゃる方がいても、それはお父さんのように孤独な方ばかりです。彼らが人に他言するような人間には思えなかったんでしょう。スタッフがそばにいない限りは、かなりプライベートな話までされていたように思います。時には大声で喧嘩をされていたこともありましたし、お手伝いさんを呼びつけて何かおっしゃっていたこともありました。極端な話、番号を口に出して電話を掛けてらっしゃったこともあったようです」

 「それを親父は毎日耳にしていた」

 「だと思います。黒川さんの息子さんが面会にみえなくなってからは、毎日そわそわとロービーに到着する車のことを気にされていました。おそらく、息子さんを待たれていたんだと思います。それからしばらくして、黒川さんがお亡くなりになってからは、ますます症状が顕著になっていきました」

 「自分を黒川清一氏と思うようになった」

 潤が確認するようにつぶやくと、桐原はうなずいた。

 「考えられないことじゃないです。認知症のお年寄りの方には、一日中テレビを見ているあまり、現実とテレビの中の世界との区別がつかなくなられる方も珍しくありません。テレビに向かって話し掛けられる方もいます」

 桐原は声を詰まらせて続けた。

 「もう少し、」

 「もう少し、お父さんの面会に来て頂けていたら、こんなことには」

 桐原は鼻をすすり、ハンカチを当てながら顔を伏せた。しかし言わずにはいられなかった。

 「事情も知らずに、こんなことを言ってごめんなさい。でも、お父さんは、ここで来る日も来る日も庭の遥か向こうを見ていらしたんです。毎日ですよ。お父さんは、息子のあなたがゲートを通って此処まで面会に来てくれるのをずっと待っていたんじゃないかと、私にはそう思えるんです」

 桐原が一気に話し終えると、潤はゆっくりと庭に視線を移し、静かに口を開いた。

 「父は私に居場所を教えてくれなかったのです」

 「どうして」

 桐原は真っ赤な目で潤を見た。

「話せば長くなります。でも、私を含めた家族を守るため、と言えばお分かり頂けますか」

 「借金、ですね」

「ギャンブルとかそういった理由のものではありません。父は腕の良い漁師でした。どんな荒天でも船を出し、一人大漁で港に戻って来る。港では誰もが父にあこがれていました。私だってそうです。父は、私が漁師を継ぐと信じて、船を新調したんです。言ってみれば私のための借金だといっても言い。それに、父の腕なら問題なく返済できたはずなんです。あれが来るまでは…」

「あれ、って何ですか」

「桐原さんは、エチゼンクラゲというのをご存知ですか」

桐原は鼻を押さえ、首を傾げながら首を縦に振った。

「たしか、中国近海から大量に押し寄せてきて魚網を全部駄目にしちゃうっていうあれですか?テレビで見たことあります」

潤はうなずいた。

 「エチゼンのおかげで私たち親子は船を失うことになってしまった。いや、私たちだけではありません。多くの仲間が港を追われたのです。あれさえ来なければ…」

潤は一瞬険しい顔をしてから、微笑んでみせた。

「いや、誰のせいでもない。すべて運命だったのです。今はそう思うようにしています」

 「そうなんですか…何も知りませんでした」

 桐原は呆然とした顔で潤の話を聞いていたが、ふと何かに気付いたかのように呟いた。

 「話したかったでしょうね、お父さん」

 「そんな辛い過去があるなら、私なら誰かに聞いてもらいたくなります。そうすれば少しは楽になれるから。だけど、今江さんは一言もそんな話をされなかった。ああ。話してくれれば良かったのに。ここは、このホームは、人生の一切の苦しみから解放されて、最期をゆっくり過ごせる場所のはずなのに。一人、秘密を隠し通そうとしていたなんて。そんなの辛すぎます」

 ハンカチを握り締めながら話す桐原の声は震えていた。

 「お父さんは秘密を最後まで守り抜かれたんですね。昔の事も、あなたのことも一切話されませんでしたよ。認知症を患われてからも、一言も」

 桐原は潤を見上げた。

 「すべてはあなたを守るためだったのですね」


 父の少ない遺品をまとめ、潤はホームの玄関に立っていた。市内への送迎バスがもう少しで出発するのだ。時計を見てから、二、三歩進むと、目の前には花畑がどこまでも広がっていた。それはまるで天国を思わせた。振り返ってみれば、ホームは白亜の宮殿に見える。

 ここに留まることと、ここを去ることと、どちらが幸せなんだろう。ここに居て、親父は幸せだったのか?

潤は自分を責めていた。

やっと会えた親父は、まるで別人だった。あの時、無理矢理にでも引き取っていれば、親父は正気を取り戻せたのではないか。そしてあの幻想にも惑わされずに済んだのではないか―

だが潤はその考えを即座に打ち消した。仕事で家を空けることが多い自分が、親父の面倒などみれる筈が無い。そもそも、あの日の後も、ここに顔を出すことすらままならなかったのだ。誰も居ないアパートに鍵を掛けられ、そこで息子かどうかも分からない男の帰りを待っている暮らしよりは、ここで面倒を見てもらったほうが、親父にとっても快適だったはずだ。たとえそれが幻の世界の中であったとしても。

せめて親父の死に目に会えたことに感謝せねばなるまい。これは奇跡だ。

潤は自分にそう言い聞かせた。

潤が再び花畑に目をやると、前方から黄色のスタジャンを着た青年がひょこひょこ歩きながら、こちらにやって来た。青年は一見して知的障害を背負っていることが分かったが、何やら嬉しそうに笑っていた。

「はい」青年は手に握られたものを潤に差し出した。

「これを俺に?」

潤が受け取ったのは一輪のピンクのコスモスだった。乱暴にむしり取られた訳ではなく、大切に引き抜かれたようだっだ。目の前に海のような花畑がありながら、なぜかそれは、彼らとは全く違うもののように感じた。青年がエヘヘと笑うと、突然「おーい、杉村君どこ行ってるんだ。こっちこっち!」と声がした。声の方を見ると、玄関の横の駐車場から中年の職員が顔を出して、彼を手招きしていた。すると、青年はその声に引き寄せられるように潤の元を離れていった。

「ありがとう」

潤は走り去る青年の背中に礼を言った。すると青年はその声に一瞬振り返ると、変わらぬ笑みを浮かべていた。

君は知ってるんだな―

潤は呟いた。ここを出るのが自分ではなく父だったら、父は喜んでその時を迎えたのだろうか。再び答えの出ない自問自答を繰り返しながら、潤はコスモスを遺品の紙袋にしまい込んだ。目の前に送迎バスが止まる。そして、潤はもう一人の男の人生についても想像を巡らせ始めていた。


「先日は、黒川さんにご迷惑をお掛けし、申し訳ありませんでした」

通された広い社長室で、潤は相手の顔を見る間もなく深々と頭を下げた。

「どうぞお座りになって下さい」

「父は生前、こちらでお世話になっていたと聞きました。あのような高級ホームで最期を迎えられたのも、こちらのご配慮だとも。それを恩を仇で返すようなことになってしまい、お詫びのしようもございません」

「今江さん、頭を上げて下さい」

ようやく頭を上げた潤の視線に入ってきたのは、歳はそう変わらないが、潤とは育ちも教養もまったく比較にならない、風格を備えた青年だった。「社長の黒川真澄です」。青年は柔和な表情で名刺を渡すと、潤を先に座らせた。

「お父さまは残念なことでしたね。こちらとしても、万全な対応をとらさせてもらったつもりだったのですが」

「とんでもない。全ては息子である私の責任なんです。そもそも、私が親父の面倒をみていれば、こんな騒ぎに発展することはなかったんです。こちらの会社には流れ者の父を雇って頂き、最後にはホームの世話までして頂いたことに感謝の言葉もないくらいです。なのに…」

潤は再び頭を下げた。すると謝罪の言葉を遮るように真澄も続けた。

「お父さまのことは聞いています。一時期、当店の鮮魚売り場で働いて頂いていた。しかし、履歴書にはご家族のことは書かれていませんでしたね。息子さんがおられたとは驚きです。それなら当社でホームを用意させてもらうこともなかったかもしれない。でも、まあいろんなご苦労がおありだったんでしょう」

真澄が静かにねぎらうと、潤は「ええ」と小さく頷いた。しばらくして秘書がコーヒーを運んで来た。潤はそれに手をつけず、なおも身を縮めていた。コーヒーを一口すすった真澄がゆっくりと口を開いた。

 「実は、私はあなたのお父さんに感謝しているんです」

 「えっ」

 意外な言葉に潤は驚いた。「不思議なことなんですが」と前置きして真澄が続けた。

「あの日、柳ヶ瀬でお父さんにお会いしたとき、私は本当に自分の親父が現れたのかと思ったんです。真澄と声を掛けられて、振り返った時のあの目。あの目は、確かに私の親父の目でした」

 失礼、といって真澄はタバコを取り出し、火をつけた。

「お恥ずかしい話ですが、親父が亡くなる前、ちょっとした親子喧嘩をしましてね。つまらない意地を張って、それまで欠かさなかった面会にも行かなくなるようになってしまって。年寄り相手に大人げない話です。それで、仲直りをしないまま、親父は死んでしまったんです。私に罰があたったんですね。それがずっと私には心残りだった」

ふうーっと深呼吸をするように煙を吐いてから真澄は続けた。

 「僕が会いに行かなくなってから、親父は認知症になってしまったんです。今思えば、よっぽどショックだったんでしょう。それまでは親子喧嘩なんてしたことなかったですから」

 「よほど仲がよろしかったんでしょうね」

 潤の相槌に、真澄は苦笑いをして否定した。

「いえ、逆です。私が親父に逆らったことがなかっただけのことです。親父は家でも会社でも絶対的な存在でしたから。意見するなんて怖くてできなかった」

「もちろん、誰よりも尊敬していましたよ。この会社をつくったのは親父ですし、私が社長になってからは業績は落ち込むばかりです。親父の壁はなかなか超えられません。いなくなっても、その偉大さを思い知らされます」

真澄はタバコを九谷の大振りな灰皿にねじ込むと、真っ直ぐに潤を見た。

「私の親父がどうやって死んだが、聞かれましたか」

いいえ、と潤は首を振った。

「ホームの裏山で凍死したんです。ホームを抜け出して、一晩中、彷徨い歩いて。発見されたときは足は血だらけだったそうです」

真澄はソファに深く座りなおすと、遠くを見詰めながら続けた。

「後味の悪い最期でした。その意味がどうしても分からなくて。親父は何をしたかったのだろうか、と。認知症になって訳が分からなくなれば、人間そういう不可解な行動を起こすものなんだ、と考えるのが精一杯でした。だが、今回の一件で謎が解けた」

「父は私に謝りたくて、あのホームを抜け出したんです。そして、ここまで来るつもりだったんです。それを、あなたのお父さんが教えてくれた」

「父が…」

潤は息を飲んだ。

「お父さん、私に手をついて謝ってくれたんです。涙を流して、悪かった、すまんかった、って。あれは誰でもない。たしかに黒川清一でした」

「黒川清一の魂が、死んでなおこの僕に会いに来てくれたんです。今江さんの体を借りて」

真澄は身を乗り出して、胸に手を当てた。

「それでやっと、僕は父と和解できた。長い間、胸につかえていたものがとれたんです」おかげで、と真澄は続けた。「今は元の仲良し親子になれました」

真澄は壁に架かった、微笑む清一の遺影を見て目を細めた。そして改めて潤に向き直った。

「今江さん、僕たちが親父たちの面倒をみていたら、いや、せめてもう少し顔を見せてあげていたのなら、彼らを彼らの人生から迷わせることはなかったかもしれませんね。僕たちは、彼らが現実の世界につながるための、唯一のザイルだったんです。そう思えてならない」

潤も大きくうなずいた。

その時、コンコンと扉をノックする音が聞こえると、黒縁眼鏡をかけた若い社員が顔を覗かせた。

「社長、そろそろ役員会のお時間です」

眼鏡の男はややぶっきらぼうな物言いだった。

「構わん。大切なお客さまだ。先に始めてくれ」

真澄は眼鏡の男のほうを見ようともせず言い放った。いてもいなくても同じことだ、と呟いたのを潤は聞き逃さなかった。真澄はソファから腰を上げ、窓のほうへと進んだ。地上三十階の窓の向こうには市内のビル群が見下ろされる形で広がり、その遥か向こうには伊吹山がかすんで見えた。

「明日からは、ただの人になります」

真澄は振り向かずに呟いた。背中には潤の視線を感じていた。

「親父から受け継いだものは、すべて失いました。これからは一合目から、山を登り直さなければなりません。今になって、この高さがやけに高く感じますよ」

真澄はビル群を見下ろしながら呟いた。

「父は悲しんでいるかな」

「いいえ」

潤は立ち上がって答えた。

「親父さんから受け継いだものは、まだその心に残っていますよ。最後の最後で、俺の親父が届けたはず。ですよね?」

「ああ、そうでした」

真澄は潤の方を振り返ると、ゆっくりうなずいた。二人は顔を見合わせて微笑むと、窓越しに遥か前方の山の方を見詰めた。

伊吹山の後ろには、秋には珍しく大きな入道雲が迫っていた。

それはそびえたつ巨大な雪山のように見えた。


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