地獄
⒌
壁に埋め込まれた巨大水槽の中で、真っ赤な厳つい古代魚が悠然と泳いでいた。なんでも「幸運を招く」とかで、ホームへの転居祝いに知り合いの華僑から贈られたものだ。清一が顔を近づけると、こちらをじっと見つめてから、大きく身を翻し、ゴボッという音とともに、水面をさまよっていた小さな赤い金魚の群れに襲いかかった。魚はその何匹かを一気に飲み込むと、どうだと言わんばかりに、こちらをギョロリと覗き込んだ。それを見て、清一はニヤリと笑うと、スコッチのグラスをあおった。
トゥルル、トゥルル。小さく穏やかな電話の音がリビングに響いた。清一はグラスを手にしたまま、水槽からゆっくりと離れた。時計を見ると午後八時を少し回ったところだった。電話の相手は分かっている。待ち続けた相手ではない。壁に掛かったコードレス式の受話器をとると、いつものフロントの女性の声がした。
「間壁様より電話がかかっております。お繋ぎいたします」
清一は受話器を耳に当てたまま、ソファへと向かった。
「もしもし」
「間壁です、ご無沙汰しております」威勢の良いダミ声が耳を突いた。清一は少し耳との距離を開けて受話器を持ち直した。
「おう、こないだは松阪の、差し入れすまなかったな。美味かったよ」
「そうでしょう。なんたってチャンピオン牛ですよ。私なんか食べたことないですもん。緑屋の女将が、手に入れたから会長にぜひって言うもんだから。でも会長から美味いなんて言葉めったに聞けませんから、良かったですわ」
「そうか、あの女将まだ元気か。そろそろこっちに来ないか、って言ってやってくれ」
清一は、わははと声を上げて笑った。隔週木曜日のこの時間にかかってくる間壁からの電話は一時、清一をあの時代のエブリー社長に戻してくれる。
間壁は今でこそ県内指折りの弁護士だが、無名だった間壁の才を見抜きグループの顧問に抜擢したのは清一だ。財界のコネで他の有力企業を回したこともある。大きな恩がある間壁は今でも清一の家来同然だ。いざという場合の成年後見人も任せてある。
「何かご不便されてることは?」
「それはこっちの台詞だろう。何も問題はないか」
清一はゆっくりとソファに腰を沈め、手のグラスを大理石のテーブルに置いた。コン、と良い音がした。少し間があって、間壁の低い声が続いた。
「会長、それがちょっと」
柄にもなく沈んだ声に、清一は身を乗り出した。
「あいつに何かあったのか。毒ギョーザは問題なかったと言っていただろうが」
「いえいえ、あの問題は解決済みです。真澄さんは立派に仕事をこなされていますよ」
「じゃあ、何が問題なんだ」
清一がほっとしたのもつかの間、耳に飛び込んできたのは意外な言葉だった。
「失礼ですが沢木明美、という名前に身覚えは」
「沢木…いや、ないな」
「では、由香利という名前は」
「由香利…」
まったく聞き覚えのない名前ではなかった。遠い昔に聞いたことがあった。それも一度や二度ではない。清一は遠い記憶を手繰り寄せていくと、若き日の思い出が次第に鮮明に浮かび上がった。清一は息を飲んだ。
由香利、それはあまり口に出したくない名前だった。
「ビーナスの由香利か」
清一の額に汗がうっすらと浮かんだ。
「やはり、お知り合いでしたか」
由香利との出会いは、清一が四十代の頃だった。由香利は銀座のホステスだった。
当時、エブリーは飛ぶ鳥を落とす勢いで、どんどん出店を広げていた。そのため、食品卸メーカーはこぞってエブリーに営業攻勢を仕掛け、清一も彼らとの商談でちょくちょく東京に赴いていた。商談といっても、実際は接待なのだが、妻を亡くした寂しさもあったのか、清一も悪い気はしなかった。そして、もてなしを受けた銀座の店で出会ったのが由香利だった。
当時由香利は二十三歳だった。富山から上京してOLとして働いた後、水商売の世界に足を踏み入れたばかりだった。清一は、すでにやり手の実業家として、銀座でも少しは名の知れた存在であったため、金目当てに言い寄ってくる女は数知れなかった。しかし、由香利だけは清一を色眼鏡で見るようなことをせず、普通の一人の男性として接してくれた。清一の目にはそれが新鮮に映ったのか、次第にその初々しさ、純粋さに惹かれていった。そのうち、清一は個人的にも頻繁に店を訪れるようになっていった。
特別な感情をホステスに抱いたのは初めてだった。そして、いつしか清一は由香利のマンションを訪れるようになり、東京出張の間は由香利の元で過ごすようになっていた。いくらかの援助もした。
亡くなった妻や、岐阜で清一の帰りを待つ真澄のことを思えば、清一も少しは後ろ暗さを感じずにはいられなかった。しかし、トップとして生きる重圧や緊張感、そして真澄と二人だけの家庭の寂しさの中にあると、ふっと現実逃避したい気持ちにもなる。それに、四十代、まだ男盛りの清一にとって、由香利のような女性に心を惹かれるのも無理は無かった。清一は彼女の前では、仕事のことも家庭のことも全て忘れることができた。
しかし二人の甘い日々は長くは続かなかった。関係が三年続いたころ、当時中学生だった真澄が不登校になってしまったのだ。
清一の前では元気に振舞っていた真澄も、やはり母親がいないことで精神的に不安定にあったのだろう。それに、父親の身勝手な行動をも知ってしまっているのだったら―
家政婦から真澄の異変を告げられた清一は、自然と銀座から足が遠のくことになった。由香利には何の説明もないままの突然の別れとなった。
清一は、決して由香利のことを忘れた訳ではなかった。しかし、彼女にどう説明していいのか分からなかった。由香利のマンションを訪れようとするたび、清一は悩み、その足は止まった。清一は由香利に岐阜の連絡先を教えていた。人生の新たなパートナーとして、と本気で考えたこともあったからだ。しかしどれだけ待っても由香利からは連絡はなかった。その思いやりが、逆に清一を苦しめていた。
そして一年後、意を決して向かったマンションには由香利の姿はなかった。清一は、銀座の店に由香利を訪ねたが、店からも由香利は姿を消していた。つかめた情報は、ずいぶん前に故郷の富山に帰ったということだけだった。清一は悔やんだ。しかし少し安心したのも事実だった。彼女も彼女の新しい人生を歩み始めたのだ、と。
しばしの回想の後、清一は重い口を開いた。
「お前のことだ。調べはついているんだろう」
「はい。一応確認を、と思いまして」
この手の話を間壁とするのは初めてだったが、社長と愛人の問題など、弁護士の耳には珍しく聞こえないのだろう。声に好奇の響きは感じられなかった。それが清一に安心感を与えた。
「三十年も前の話だぞ。今は彼女とは何の関係もない。彼女がどうかしたのか」
「昨年亡くなられたそうです。五十三歳ということでした」
「なんだって」
間壁の発した言葉に清一は愕然とした。正直、由香利のことを全く忘れていたといえば嘘になる。周囲に再婚を勧められて、由香利のことを思い出したこともなくはない。それだけにショックを隠しきれなかった。
妻に先立たれ、由香利にまで先を越されるとは。しかも彼女もまだ五十三歳だ。私には愛する女を死に追いやる恐ろしい力があるのか―。清一は震えを抑えながら続けた。
「死因は」
「詳しくは分かりませんが、病死ということらしいです」
清一は、しばしの沈黙の後、嫌な予感がしてきた。それは当然の疑問であり、また深刻な災いの気配がする疑問であった。
「しかし、どうしてそんな話が問題になる」
清一の問いを予期していたかのように、間壁は、落ち着いて聞いてください、と前置きしてから続けた。
「沢木さんと会長の間に子供がいた、という話はご存知ですか」
「なんだと」
清一は耳を疑った。予想外の言葉だった。一瞬頭が真っ白になった。あまりに考えもつかなかった言葉だったので、逆に笑いが込み上げてきた。
「そんなバカな話がある訳がない。間壁、きさま俺をからかっているんだろ?その手には乗らんぞ。ははは」清一の乾いた笑い声が部屋に反響した。
しかし、いくら待っても間壁の反応は無かった。
清一の顔に笑みが消え、受話器を持つ手にべったりと汗がにじんだ。
「どうしてそんな話になるんだ」
「実は沢木さんの息子、つまり、会長の息子だと名乗る人物が、会長に会いたいと言ってきてるんです」
「間壁」一息ついて続けた。「そんな話、まさか信じている訳ではないだろうな」
清一の声は怒声に変わっていた。間壁の声のトーンは相変わらず変わらない。清一は、さすが弁護士だな、と思った。と同時にこの問題の深刻さを冷静に受け止め始めていた。
「私も最初は遺産狙いの詐欺話かと思ったんです。それで、そういうのは詐欺とか、恐喝になるよと諭し、相手にはしなかったんですが、なにやら証拠があると言うんです。それであまりにしつこいから一度会って、その証拠を見せろと言ったら持ってきたんですよ」
「証拠をか?」
「ええ。会長と沢木さんとかいう女性が写っている写真でした。なんでも箱根で撮ったとかいう。箱根に行かれたことはありますよね?」
「ああ、あったかもしれないな。だがな、はっきり言えば、一緒に箱根に行った水商売の女なんて一人や二人じゃないぞ。その写真の女が由香利である証拠なんて、ないじゃないか。それにそれが俺だとなぜ分かる?百歩譲って、百歩譲ってだぞ、仮にそれが本物の写真だとしても、その男がどこかでその写真を入手して、勝手にその子供を名乗ってるってこともある。間壁、おまえほどの男がそんな手口に騙されてはいないだろうな」
清一の声は上ずっていた。必死に間壁に同意を求める声だった。だが間壁の声に変化はない。不安がどんどん確信へと近づいていく。
「いえ、私も写真だけで信じるような人間ではないですよ。ただ、実際に彼に会って思ったんですが、彼の顔立ちに、どこか会長の面影があるような気もしまして」
「気がする、などと無責任な言葉はやめろ。間壁!」
「落ち着いてください会長。先方はDNA検査を受けても構わない、と言っているんです」
間壁の最後の言葉の後に、長い沈黙が訪れた。暫くして、キュッとウイスキーのボトルの口を開ける音と、コポコポと中身をグラスに注ぐ音が部屋に響いた。
「もし、そいつが俺の子だとして、だ。目的は何だ?財産か?」
清一の声は落ち着いていた。
「会長、まずは確認が先では?一度会われて、それから検査に持ち込む方法もあります。まずは白黒はっきりつけて、それから、」
「黒だとして、だ。目的は何と言っていた?」
清一は間壁の言葉をさえぎるように言った。腹は決まっているようだった。常に最悪の結果を想定して行動に移るのが経営者清一の主義だ。間壁もそれを知っている。
「沢木さんは、実の父親にひと目会いたい、と。それだけが望みだとおっしゃってはいますが」
「目的は金もあるんだろうな」
「おそらくは」
清一はグラスをあおってから、ふーぅと溜息をついた。間壁は黙ってそれを聞いた。
「この話、真澄は知っているのか」
「いえ、会長あての用件はすべて私が引き受けていますので。それに沢木さんにも、この用件は私だけを通すようにと伝えてあります」
「そうか、よくやった。いいか、この話は絶対真澄の耳には入れるなよ」
「分かりました」
「それから、」
清一は覚悟を決めた。
「その男とは会えない。分かるな?」
「会長…」
「たとえ黒だったとしても、だ。俺の子供は真澄だけだ。あいつを無用なトラブルに巻き込む訳にはいかん。それだけは絶対に避けねばならん」
「しかし、会えないとなると先方も真澄さんに接触しないとも限りませんよ。真澄さんのためを思うなら、なおさら会って…」
食い下がる間壁に清一はきっぱり断言した。
「真澄以外に息子が欲しいなんて思ったことはないよ。過去においても、今もだ。それに、いきなりあなたの子供です、という人物に会って突然父親の情が出るなんてことにはならないと思う。だがな、実際に会って俺がその覚悟を貫けるという保証もない。私にどんな感情の変化が起きるか、それは誰にも分からない。自分でも分からん。だったら、最初から会わないほうが良いんだ」
なおも言葉をさえぎるように続けた。
「なにも法的な責任まで回避するつもりはない。もちろん毛髪のサンプルは送る。そちらで鑑定をしてくれて構わん。そして、もし黒だったら、内々に処理するんだ。その男の納得いく示談金を積めば良い。それはお前に任せる。とにかく、くれぐれもその男を俺や真澄の前には連れてくるな。それがお前の仕事だ。いいな」
清一は念を押し、ほぼ一方的に電話を切った。そして受話器を向かいのソファに放り投げ、溜息とともに、その身をソファに深く沈めた。ほぼ仰向けになり天井のシャンデリアを見つめた。
「由香利。こんな歳になってから私を苦しめるのはよしてくれ」
清一はうめき声とも溜息ともつかぬ声を漏らした。
そして、無造作に転がる受話器を見て、ついさっきまではそれが鳴ることを今か今かと待ち望んでいた相手から、今は電話がすぐ掛かってくるような気がしてならなかった。そして、電話はもう鳴らないでくれ、と心の中で祈った。そして、再びその受話器から目を離した途端、電話が鳴った。
トゥルル、トゥルル。
今までとは違う、けたたましい音に聞こえた。清一はソファから飛び起きた。後ずさりながら、受話器と距離をとり、にらみ合った。とてもすぐ手に取る気にはなれなかった。
真澄か?もう話がばれてしまったのか?
清一は意を決して受話器を手に取った。まるで熱いものに触れるような手だった。
「もしもし」
恐る恐る電話に出た清一は、相手の声を聞いてほっとした。
「夕食をお下げしてもよろしいですか」
「あ、ああ構わんよ」
何も変わらないスタッフの声が、こんなに心地よいものかと、初めて思った。清一は電話を切り、受話器を戻そうと、壁の方へと向かった。
水槽を横切ると、群れを離れた金魚が一匹、水面を泳いでいるのが目に付いた。珍しく黄色い色をしていた。普段は気にも留めない餌用の金魚だが、清一は、なぜか気になって腰を屈め、その泳ぎを追った。よく見ると愛らしい顔をしている。
その瞬間、轟音とともに、水草の中に隠れていた古代魚が大きく口を開けて姿を現し、黄色の金魚を吸い込んだ。
「ひっ」清一は思わず声を上げ、水槽から飛び退いた。
⒍
清一の生活は一変した。傍の目には何の変化もないように映るかもしれないが、清一はまるで何かに怯えているかのようだった。電話が鳴るたびに体は硬直し、館内で若い男の来訪者を見かけると、さっと物陰に隠れた。遠目にそれが由香利の子なのではないかと勘ぐってしまうほどだった。その姿はまるで逃亡者であるかのようだった。最近は食事も喉を通らなくなった。
由香利の子はいずれ此処を突き止めるだろうか。
真澄は俺に真相を確かめにやってくるのではないか。
そうしたら私はどう対処すればいいのか―
考えれば考えるほど、日ごと不安は募り、そしてストレスも増えていった。そしてそれはロビーでの桐原との会話でも癒されないほどになってきていた。清一のイライラは家政婦の晴枝にも向けられていた。
「おい、何回間違えれば気が済むんだ!」清一の怒号が部屋に響いた。
「これは私のではないだろう?」
グレーのベストをつまみ上げて、清一はそれを晴枝の目の前に突き出した。先日、晴枝に預けた洗濯物だ。毎日仕上がったものを届けさせているのだが、晴枝がホームで担当を何件も掛け持ちしているせいか、それぞれの洗い物を間違えて届けてしまったらしい。清一がビニールの封を破ると、ベストも、毛糸の帽子も、まるで心当たりの無い衣類が顔を出した。
「まあ、すいません」
晴枝はキッチンから慌てて姿を現した。その瞬間、背後からパリーンとガラスの割れる音がした。おそらく洗い物の途中だったのだろう。割れたのは昨夜飲んだウイスキーのグラスと思われた。
清一は、はぁ、と溜息をつき、目をつむって頭を掻きむしった。イライラが頂点に達していた。目を開けると、申し訳なさそうにうつむいている晴枝がいた。エプロンで手を拭きながら突っ立っていた。ちらっと上目遣いに見た視線が清一のそれとぶつかった。おびえていた。
「洗濯物の間違いなんてこれでもう何回目だ。いい加減にしてくれないか」
「も、申し訳ありません」
晴枝は再び頭を下げたが、もじもじするだけで、それ以上の動きはなかった。いつものことだ。清一の出方を待っているのだ。清一の怒りが通り過ぎるのを、諦めるのを、ただじっと待っているのだ。清一はそれが余計腹立たしかった。清一は間違われた洗濯物を袋から数枚手でつかみ、再び目の前に突き出した。
「私はいつもこんなものを着ていると思うか」
清一はヨレヨレの毛糸の帽子や擦り切れた靴下をそのまま床に落としてみせた。すると絨毯の上に散らばった数枚の衣類の中から、明らかに違和感のある物が姿を現した。
清一はギョッとしてそれを見た。ベージュのそれは、女性の下着だった。
「…きさま、わざとやっているんだろう!これは嫌がらせか!」
清一は残りの衣類も床にぶちまけた。
「そんな、わざとじゃありません!」
頭を下げた晴枝も床に転がったそのベージュの物体に気付いたのだろう。驚きで思わず手で口を押さえていた。
「ど、どうしてこんなものが」
恐る恐る頭を上げる晴枝と目が合った。しかし、清一の目には、晴枝が口を押さえながら、必死に笑いをこらえているように見えた。清一は自分のこめかみのあたりの血管がピクピク波打つのが分かった。顔全体が熱くなっていた。
「何がおかしい!これが私の下着に見えたのか?オオ?」
清一は思わず拳を振り上げそうになった。怒りで体が震えた。
「すみません、すみません、すみません…」
晴枝は後ずさりながら何回も頭を下げ、いつの間にか、床に手をついていた。顔は紅潮し、困り果てて泣きそうな顔になっているが、清一には、それでもまだ笑っているかのように見えた。謝罪のしようがなく、照れ笑いでその場をしのごうとしているようにも見えた。清一にはそれが許せなかった。
「これほど間違えたり、失敗するなんて、あんたボケてるんじゃないか?世話されるような人間が、よくもまあ人の世話をしていられるな。会社もよくクビにしないな。私がクビにしてやろうか」
晴枝は床に伏せてうずくまったまま、返事をしなかった。
「どうなんだ?クビにして欲しいのか?」
清一は晴枝の頭のすぐそばまで歩み寄り、真上から恫喝した。すると、晴枝は少しだけ頭を上げ、清一の真っ白なスリッパを見つめて懇願した。晴枝の手には涙がぽとぽとこぼれ落ちていた。
「どうか、どうかそれだけはご容赦下さい。主人は鉄工所を解雇され、私が仕事を失えば、家族は食べていけません。実は家政婦を他に四件掛け持ちしてますもんで、気が回らなかったです。どうか、どうか」
清一は驚いた。しかし、家政婦は二件もこなせば夫婦が暮らすには十分だろう。借金でもあるのだろうか。清一はしゃがんで、晴枝に話しかけた。
「なぜそんなに仕事をしているんだ。五件はいくらなんでも多すぎるだろう」
「おじいさんが、ボケてしまって市内の特養に預けているもんですから、それでお金が必要なんだす」
予想外の返事だった。
「あんた、自分のじいさんの面倒を他人にみさせるために、自分は他人の面倒をみているというわけか…」
矛盾している。面倒をみたい人のために、面倒をみたくない人をみる、という矛盾。考えたこともなかったが、その関係が一人ずつずれていくことで、この介護の世界は回っているのだろうか。
しかし、十分あり得る話だとも思った。実際、家族の面倒をみるとなると、それだけで手一杯で、他に収入源がなければ生活は立ち行かなくなる。以前、母親の介護を優先したため会社を辞め、それが原因で生活苦に陥り、親子で心中を図った―という痛ましいニュースを見たことを思い出した。しかし、複数の金持ち相手に面倒をみれば、その収入で自分の生活費と父親の介護費用の両方を工面することはできる。この女のように。
しかし同時に、疑問も生じた。
では、自分はいったい何なのだ?
悲しみに似たその疑問は、心の中でみるみる怒りに変わっていった。
「じゃあ、なんだ。俺はあんたの親父の面倒をみるための道具っていうことか。バカにするな!」
そ、そんな、という晴枝の言葉を遮って続けた。
「そうだろう。どうりでこんなに洗濯物を間違えようが、ひとつ何万もするグラスを割ろうが、まったく心は痛まない訳だ。そんなことにいちいち心を砕いていては、四件も五件も家政婦を掛け持ちできないもんな。あんたの担当になった家は可愛そうだよ」
晴枝は怒りに震える清一の顔を見上げながら放心していた。口は開いたままだった。
「どうせ年寄りだから、とでも思っているんだろう。一人二人じゃなく、一匹二匹とでも数えているんだろう。よく分かった。覚えておけよ」
清一はすっくと立って、そのまま玄関へ向かった。背後から待ってくださいと懇願する声が聞こえたが、清一は振り切るようにそのまま部屋を出た。
自分は、あの田舎女の年老いたボケ老人のために存在しているのだろうか。おかしいじゃないか。最高の老後を過ごすために、どれだけの対価を払っているというんだ。どんなに金を積んでも、結局は真心のこもったサービスは買えないというのか。理想の老後人生の具現化をこのパラディッソに託したというのに―。
勢いよく部屋を飛び出した清一の歩く速度は次第に遅くなり、気付けば一人廊下に立ち尽くしている自分がいた。自分のことを一番よく思ってくれている人物の顔が浮かんだ。家族の顔だ。
真澄に会いたい―。
清一は人目を避けるように、前庭に出た。
部屋にも居づらかったし、ロビーに桐原の姿もなかったからだ。
こうやって地面に立つのも久しぶりだ。ピンクや白のコスモスが目の前に広がっている。遠くで黄色いスタジャンを羽織ったスタッフが、ホースで水やりをしているのが小さく見えた。清一はゲートへと続く道沿いを、あてもなく歩み出した。
秋の風がひんやりと心地よい。深呼吸をすると、少し心も落ち着き始めた。
自然と歩くペースも上がってゆく。体が軽いのは下り坂のせいだからに違いない。右を向いても花、左を向いても花。悪くない。まるで花畑の海を横断しているようだった。
ほどなくして足を止め、道端に腰を下ろした。振り返ると、巨大なホームも全体が見渡せるようになり、左右に翼を広げたような建物の形がよく分かる。
花畑の海も、こうやって間近に見るとベランダから見下ろしたそれとは全くの別物だ。上からは、小さな黄色の「水溜り」だと思っていたものが、実際には「池」のような大きさだと知って驚いた。花壇には「マリーゴールド」と書かれてあった。
花に顔を近づけて覗き込むと、その一つ一つに全く違う性格があるのが分かった。元気よく大空に顔を上げているものもあれば、風になぎ倒されてもがいているもの、こちらを向いて微笑んでいるもの、実に様々な表情があった。
清一は小さな花を眺めながら思った。
こんな広大な花壇も、結局は小さな花の一つ一つが懸命に咲いているからこそ、その美しさは成り立っているのだ。
美しい花壇を作るということは、一本の花と向かい合うことに他ならない。ベランダから水をまくようなことはせず、一つ一つの花弁の表情を見て、草を引き、肥やしをやり、まく水の量を加減して花と対話することが大切なのだろう。
ふと、人もそうなのかもしれないな、と清一は思った。会社組織の上に立っていると末端の社員の顔は見えにくくなる。しかし、会社を支えているのはその顔も知らない彼ら一人ひとりなのだ。
しかし、自分はそうやって社員一人ひとりに接してきただろうか。
ベランダから花壇を眺めるように、全体の色や面積ばかりに目がいってしまっていたのではないか。一人ひとりのやりがいや、生活、人生を思いやることを忘れていたのではないか。
重役たちはいつも俺に怯えていた。あの表情が全てを語っている。俺は社員のことなど何も考えない冷徹な経営者だったのではないか。
社員だけではない。唯一の家族である真澄が自分と距離を置くのもそれに原因があるのかもしれない。思えば、俺は真澄を経営者として育てることしか考えてこなかったように思う。
あいつとは仕事の話をしている記憶しか思い出せない。あいつの趣味は何だ?子供の頃の夢は何だった?得意な教科は何だった?あいつはどんな道に進みたかったのか?エブリーの社長になど本当はなりたくなかったのではないか?
自分は親として、いや、人として間違っていたのではないか。
どれだけ時間が経っただろう。悲嘆にくれて花を眺めていた清一は、突然、マリーゴールドの水面に黒い丸い影が二つ、寄り添うように浮かんでいることに気付き、急に我に返った。
腰を上げてそれを確認すると、それは人の頭のようだった。前庭の巡回スタッフがこちらに背を向けて腰を下ろしているようだ。こんなに近くにいたのに、黄色のジャンパーが花と同化していたせいか、まったく存在に気が付かなかった。よくみると頭の間からタバコらしき煙も流れている。休憩中なのだろうか。
苦悶の心内が独り言として漏れ聞こえなかっただろうかと心配になったが、どうやら向こうもこちらに気付いていないらしい。少しほっとした。
「ガッ、警備本部より前庭B班どうぞ」
トランシーバーの応答の声がした。すると、男の一人が面倒くさげにそれに反応した。
「えー、こちらDブロック。異常なし、どうぞ」
「了解、引き続き巡回よろしく、ガッ」
交信を終えても、二人の男は座ったまま立ち上がろうとはしない。休憩というよりも、仕事をさぼっているのかもしれない。声の主は共に四十代くらいか。耳を澄ますと会話が聞こえてきた。
「あーあ、いつまでこんな仕事続けなきゃなんねえんだろ」
「仕方ないだろ、他に仕事が無いんだからさ」
柄の悪そうな声。二人は、地元の人間ではないようだった。会話から、村には飲み屋がなくてつまらないだの、次の休みにはやっと家族の元に帰れそうだといった内容が聞き取れた。
興味深かったのは、彼らの愚痴が聞けたことだった。園内でタバコが吸えなくて辛いとか、社員食堂の食事が不味いといった内容も聞こえた。
パラディッソでは、スタッフはみんな笑顔を絶やさない。どんなに忙しい時でも、何度説明しても分からない年寄りを相手にしている時もだ。しかし、それは彼らもサービス業としての教育を受けているからで、人間としての本心もまた別のところにある。客の横柄な態度に立腹することもあれば、多忙な業務に疲れることもあるだろう。それがこんな老人相手の仕事ならばなおさらだ。
しかし、清一は彼らが愚痴をこぼしているのをいまだかつて耳にしたことがなかった。巡回スタッフがしゃがんで休憩しているのをさえ見るのは初めてだった。
だから、こうやって彼らの生の声を聞けたことは新鮮であり、むしろ安心した。
やはり彼らも人間なのだ。
清一は彼らの本音を垣間見た気がして、そのまま聞き耳を立てることにした。
話は入居者に対する愚痴も含まれていた。毎日同じ老人が同じ散歩コースで迷子になる、あれはきっと呆けてるんだ、相手するのが疲れる、とか、ゲートの近くまで歩いて行ってしまう老人がいて、いつも帰りはおんぶしてやらないと帰れない、帰りの体力を考えて散歩できないなら、いっそ部屋から出るなよ、といった話も出た。
入居者に対する不満はある程度予想していたとはいえ、実際耳にすると多少ショックだった。話の内容から、この二人に限って言えば、好き好んでこの仕事に就いているのではないということも分かった。どうやら会社をリストラされてここに来たらしい。話が身の上話に及んだところで、清一は二人に気付かれないように、そっとその場を後にしようと腰を上げた。
しかし、直後に耳に入ってきた一言に、清一は身を硬くした。
「エブリーの会長がここに住んでるって噂、知ってるか」
清一は再び茂みに腰を下ろした。まさか自分の話が出てくるとは思いもよらなかったからだ。息を殺し、再び耳をすませた。嫌な予感と好奇心がない交ぜになった感情がこみ上げてくる。心臓がドクドク音を立てた。
「まさか。冗談よせよ」
「本当だって。最上階のVIPに住んでるんだってよ」
「そんな話、信じられるかよ。誰に聞いたんだよ」
話を信じようとしない男に、片方の男はむきになって続けた。声をひそめたつもりらしいが、語気は明らかに強くなっていた。
「家政婦の丸田さんが言ったんだ。ほら、VIP階に担当になった、あの人だよ。おまえもよく知ってるだろ。あの人が会長の顔を見間違えるはずない。よく似た爺さんを見かけたって奴なら他にもいるし」
「お前は俺たちの境遇を知ってる奴らにからかわれてるんだよ。第一な、会長がここに住む理由が見つからねえよ」
「理由はあるだろ。パラディッソを買収したのは会長の一存だったそうじゃねえか。元々自分が入居するつもりだったとしたら十分あり得る話だろ。いるんだよ、ここに」
興奮してまくし立てる男に、取り合おうとしなかった男もついにはうーんと唸って、静かに口を開いた。
「にしても、自分を恨んでいる奴がわんさといるんだぞ。普通、そんなところに住みたいと思うか?」
「そこは俺にも分からないところなんだけどな。きっと、あれだよ、人を傷つけた側の人間はそれをすぐ忘れてしまうってやつ」
「しかし、傷つけられた側はいつまでもそれを忘れない。お前はどうだ?」
「俺たちをこんな所に押し込めたんだぞ。忘れる訳ないだろ。あんなリストラに遭わなければ、家族とも離れ離れにならずに済んだ。それによ、俺のスーパーは地元でも評判だったんだぜ。こんなところによく来てくれたって、年寄りたちには随分感謝されてたんだ」
「だけど数字は上げられなかった」
「ははは、それを言うなって。おまえだって同じだろ」
二人の声は笑って聞こえたが、笑ってないのははっきりしていた。
「しかし、こんなところでヘルパーの真似事をやらされるなんて、思いもよらなかったな」
全くだ、ともう片方が応じて、ンッという声と同時に腕が鋭く振られた。大きな軌道を描き石ころが遥か遠くに飛んでいった。
「最上階、入居金ウン億だってさ。俺たちとは住む世界が違うんだよ」
「オイオイ、そんな金があったら、俺たちを切らなくて済んだんじゃねぇのかよ」
「クソッ」という声とともに、むしり取られた芝生が宙を舞った。
「もし、あのジジイをみつけたら、痛い目に遭わせてやる」
男の重い声が清一の腹に響いた。
男二人が立ち去ってしばらくたった後も、清一は動けずにいた。突然、頭を鈍器で殴られたような気分だった。
なぜ自分が彼らに狙われなければならないんだ?
「痛い目に遭わせてやる、恨んでいる人間がわんさといる、こんなところに押し込まれた」
過激な言葉が耳から離れない。意味が分からなかった。しかし誤解にせよ、自分が今危険な状況にいることだけは理解できた。
太陽が山の端に沈み始め、周囲が薄暗がりに包まれるのを待って、清一はようやく腰を上げた。サバンナの草食動物のように辺りをきょろきょろと周りを見回す。巡回スタッフの姿は確認できない。
清一は人目を避けるように中腰になりながら、元来た道を急いだ。遥か前方を見上げると、ライトアップされたパラディッソは闇夜に浮かぶ宝石のように輝いていた。
うつむき加減に帰路を急いだが、行きとは違って、上り坂ではさすがに息が切れた。山で鍛えた足には自信があったが、思うように動かない自分の足に清一は苛立った。しかし、スタッフへの恐怖心から必死で足を動かした。こんなところで捕まれば何をされるか分からない。右足を、左足をただただ前へ繰り出す。男たちの言葉の一つ一つを思い出しては、頭の中で何度も反芻していた。
ふと、あんなリストラに遭わなければ、という言葉を思い出した。
ひょっとして、彼らはエブリーの社員だったのではないか―。
大規模なリストラといえば、清一が真澄に社長を譲った、あの五年前のことではないだろうか。既存十数店舗の撤退に伴い、たしか数百人をリストラしたと聞いている。清一は当時の役員会のことを必死に思い出していた。たしか、希望退職を募ったはずだ。労組から強い反対はなかった。あれば忘れるはずがない。退職金上積みなど、それなりの好条件で円満解決しているはずだ。
しかし、そのはず、という域を出ない。細かいことは労担役員である宮田に任せてあったからだ。事業拡大は自分、事業整理は宮田が、といつも汚れ役を宮田に任せていたことが今になって悔やまれる。
宮田ならすべてを知っているに違いない。
彼に詳細を確かめておく必要があるな、と思うと同時に、清一に深刻な不安がよぎった。
銀行時代「コストカッター」の異名で知られた宮田が、あの時、手ぬるいリストラを許したはずがないからだ。件の大リストラはエブリーにとって、存亡を懸けた大転換だったのだ。財務的にもかなり追い詰められた状況であったのは清一でなくても分かる。電撃的なトップ交代で大リストラをカモフラージュした、あの宮田のアイディアも功を奏しただろう。だがそれだけで労組をうまく納得させられるとも思えない。あのリストラの成功で宮田は名を上げ、組織ナンバー2の座を不動にしたのだが、その裏にはもっと別の、激しいリストラが断行されていたとも考えられなくはない。
あのスタッフの男は「ここに連れて来られた」とも言っていた。ならば、彼らは希望退職に応じなかった見せしめに、エブリーの店長職からパラディッソの警備員に配置転換されたというのだろうか。しかし、そんな業種も職種も違う配置換えは極めて稀だ。それは悪質な「肩たたき」に他ならない。
しかし、あの宮田なら―
悪い予感が頂点に達したところで、清一はようやくパラディッソのエントランスに足を踏み入れていた。
ロビーの高い天井から降り注がれるシャンデリアの輝きをこんなに眩しいと感じたことはなかった。床に反射した光も清一を包み込んでいるようだった。急に明るい空間に入ってきたので、清一は安堵感と同時に軽い立ちくらみを起こした。近くにいたボーイが近寄り、体を支えてくれたが、清一は顔を背けてその手を振り払った。驚いたボーイは支える構えを崩さぬまま、体を離し、清一に非礼を詫びた。彼は頭を下げながら、そのまま目でフロントの助けを呼ぼうとしたが、清一はそれも制した。
この男もエブリーの人間なのかもしれない―
もう誰も信じられない気分だった。
明るいフロアを中央まで進むと、まるで、袖からステージに上がってきたような気分だった。黒川清一はここにいる、と存在感が際立っていないか気が気ではなかった。無数の視線が体に突き刺さっているような気さえする。
清一は顔を伏せるようにして、エレベーターへと急いだ。カツンカツンと自身がたてる靴音が疎ましく、また、これほどロビーを広く感じたこともなかった。
フロア中心にある、大きな鷲をかたどった時計をちらりと見ると、まだ六時半を過ぎたばかりだった。平日ということもあり、見舞い客もまばらだ。今はとにかく安全な自分の部屋に戻らねば気持ちが落ち着かない。
しかし、エレベーターまであと三メートルというところで、突然、背後から何者かに呼び止められた。
「父さん!」
それは若い男の声だった。清一は驚いて心臓が止まりそうになった。しかし、呼び止められたのが自分ではないことを祈りながら、ゆっくりと、そして恐る恐る振り向いた。
そこには作業服らしき紺色のジャンバーを羽織った、三十そこそこの男が立っていた。
そして真っ直ぐに清一を見ていた。そしてその眼力に呼応するかのように、清一も男を見た。目を。顔を。清一は息を飲んだ。
間違いない。
清一は確信した。この男がそうなのだ。由香利の子だ。そして俺の血を分けた人間なのだ。由香利の切れ長の眼差し、そして他人とは思えない太い眉と顎の突き出した輪郭。前に一度会ったことがあるのではないか、と思うほどその顔の特徴には本能的な親近感を抱かずにはいられなかった。
しかし、寸でのところで、その感情が顔に表出するのを理性が抑え込んだ。
「君は…?」
高まる動悸を悟られまいとしながら、清一は声を絞り出した。しかしその声は明らかに震えていた。
「…やっと会えましたね。ずっと会いたいと思っていました」男が沢木、と言いかけたところで清一はそれを遮った。眉に険しさが戻っていた。
「誰にここを?」
「今日、エブリーで。本社で聞いて来ました」
男はずっと目をそらさずに、清一を見ていた。清一はその眼力を受け止めるのが精一杯だった。これ以上見詰められると、もうどうなってしまうか分からない。平静を保つ自信もだんだんと失せてきた。
「父さん、」
なおも男が心に入ってくるのを察して、清一はとっさにそれを手で制した。耐え切れず目を逸らせた。
「すまないが、君に父さんと呼ばれる筋合いはない」
清一は気力で一気にまくしたてた。意外だったのか、男も言葉を失った。清一はうつむいたままだったが、男の視線も下に向いたのが分かった。ややあって、男が静かに口を開いた。
「長い間、お会いできなかったことは申し訳なく思っています」
意外な言葉に清一は驚いた。
俺に見捨てられたんだぞ。なぜ謝る?父親がいないことで、経済的にも愛情的にも悩み苦しんだに違いない。自分たちを見捨てた人間になら、まずは怒りや恨みをぶつけるのが自然だろう。「会いに来られず申し訳ない」なんて、これまでの彼の人生を思いやれば、到底発せられる言葉ではない。
素晴らしい育てられ方をしたのだな、と清一は思った。父親を恨むべきではない、とでも教わったのだろうか。在りし日の由香利の笑顔が脳裏をよぎった。清一の胸に熱いものがこみ上げてきた。
「君が謝る必要はない。それは確かだ。謝るべきなのは、君の目の前の人物なのかもしれない」
「違うんです。憎んでいるはずがない」
「分かってくれ」
男が何かを訴えようとしているのが痛いほど分かった。しかしこれ以上、男の話に耳を傾ける訳にはいかなかった。清一は、男が畳み掛けようとする言葉を遮るのが精一杯だった。
真澄を守るためには、これ以上この男を自分の心の中に入り込ませる訳にはいかないのだ。
分かってくれ、という言葉に男もどう反応してよいか分からないようにしているようだった。そして清一は覚悟を決めた。男に冷酷な宣告をせねばならない。
清一は俯いていた顔を挙げ、最後にもう一度男の顔を見ようとした。
しかしその瞬間、清一は男の遥か後方に別の男の姿を捉えた。ダーク系のスーツに身を包んだその男はロビーのソファーに浅く腰掛け、こちらを見ていた。清一は雷に撃たれたかのように動けなくなった。
真澄だった。
真澄はただひたすらに、こちらをじっと見ていた。怒りでも悲しみでもない、それらを通り越した、冷たく嘲るような顔だった。清一はこれまでこんなに冷たい真澄の顔を見たことがない。喪服のような黒いスーツも、何か特別なメッセージが込められているかのようだった。その姿は、ロビーでは強烈な異彩を放っていた。
「帰ってくれたまえ」
清一は遠くに真澄を捕らえながら、震える声を搾り出した。しかし、男は動こうとはしない。二人の男の視線が清一に突き刺さる。ふたつの全く異なる感情の、重く鋭い視線の痛みに耐えかねて、清一は声を荒げた。
「さあ、帰ってくれ!この通りだ」
清一は男に深く頭を下げた。いや、二人の息子に頭を下げていた。人に頭を下げるなど何十年ぶりだろう。しかもこんな形で、こんなふたりに頭を下げようとは思いもよらぬことであった。清一は男の靴を睨み、そのまま、視線を合わさずに男に背中を向けた。そして、二人の思いを振り切るようにエレベーターの横の階段へと向かった。体が鉛のように重かった。二人の引力から必死で体を引き離そうと、必死で足を前へと動かした。背中から男が何か訴えたが、それも耳に入らなかった。どんな顔をしていたか分からない。大の大人がけじめを着けずに「逃げた」と思われようが構わない。だが、清一にはこの場を後にするより他に方法がなかった。
「母さんは父さんのことをずっと、ずっと愛していましたよ」
男の叫び声が清一の背中に深々と突き刺さった。
清一は、部屋に飛び込むと震える手でドアのロックをかけ、その場にへたり込んだ。
もう駄目だ。すべてを真澄に知られてしまった―。
あの男とのやりとりを聞かれたのは元より、あの二人が同時に自分の前に現れたということは、二人はすでに接触していると考えるのが自然だろう。
真澄はあの男から何もかも聞いてしまっているのだ。経営方針をめぐって反目していただけならまだしも、隠し子まで発覚しては、もう真澄の心が戻ってくることはない。純粋な真澄が自分を軽蔑していることは明らかだ。真澄のあの冷ややかな目がすべてを語っている。
清一はうずくまって、真澄の顔を、姿を思い出した。そして悟った。
あの「喪服」は、俺への決別のメッセージなのだ。
トゥルルルル、トゥルルルル…!
その時、清一を現実に連れ戻すかのように、電話がけたたましく鳴った。清一は跳びあがるように、音の方向に振り返った。音の主は他に考えられない。
あの男か?真澄か?
いずれにしても出られる相手ではない。
清一は壁の受話器から後ずさりした。壁伝いにドアに駆け寄り、ロックをもう一度確認した。清一は耳を押さえて、電話が鳴り止むのをひたすら待った。しかし電話は清一がここにいるのを知っているかのように、鳴るのを止めようとはしない。
とっさに清一は窓に駆け寄り、カーテンの隙間を覗いた。ここからだと、真下のエントランスが見渡せる。
ロビーの明かりに照らされ、玄関に横付けされたシルバーのBMWが見えた。真澄の車に間違いない。目を凝らすと、その脇に携帯電話を耳にあてている真澄の姿が見えた。やはり、真澄が電話をかけてきているのだ。
次の瞬間、真澄はこちらを見上げた。清一は目が合った気がした。清一は飛び退くようにカーテンを離れた。
絶対に面会などできない。あいつに合わせる顔がない。
清一は頭を抱えて、崩れ落ちるように床にうずくまった。
どうしてこういうことになってしまったんだ?なぜ、彼ら二人がここを訪れることになった?
真澄の頭に、ふと間壁の顔が浮かんだ。
あいつだ。あれほど内々に処理しろと言ったのに―。
清一の不安は、怒りのマグマとなって間壁へと向かっていった。
清一は鳴り止まぬ壁の受話器に駆け寄ると、意を決して受話器を上げ、そのまま静かに下ろした。部屋は再び静寂に包まれたが、電話が再び騒ぎ出すのは時間の問題だった。
清一はそのまま受話器を上げ、電話機の電話帳データを探った。しかし、どれだけ探しても出てくるのはフロントやショッピングモールなどホーム内の内線番号ばかりで、間壁の名前は出てこなかった。
清一の額に汗がにじんだ。清一はこうなって初めて気がついた。いつも間壁から電話が掛かってくるのを待っていたため、こちらから向こうに電話をかけたことがない。電話機は初期設定のまま。間壁法律事務所の登録など、なされているはずがない。清一は受話器を床に叩きつけた。そして自分の愚かさを呪った。
清一は顔をしかめて頭を掻きむしってから、思い出したかのように受話器を拾い104をプッシュした。交換手に岐阜市の間壁法律事務所を照会させ、そのまま繋がせる。「あのバカ」と吐き捨てながら応答を待ったその時、今度は部屋の呼び鈴が鳴った。いつもなら澄んで聞こえるチャイム音が、今日は鋭いナイフのように胸を突いた。
ここまで来たか。
清一は、とっさに部屋の電気を消した。足音を忍ばせ、後ずさりをしながら寝室へと移動した。電話の呼び出し音とチャイムが左右の耳を通じて頭の中でごっちゃになった。玄関のドアはロックされている。しかし、少しでも「息子たち」と距離を置かねば、もうどうにかなりそうだった。
寝室の分厚いドアを閉めると、ようやく電話がつながった。しかし応答したのは女性の録音音声。本日の業務終了を告げるものだった。そしてその後、留守番電話に切り替わった。だが今の清一には電話を掛け直す余裕も、事態を冷静に説明する力も残っていなかった。
「黒川だ!どういうことになっている!」
清一は構わず怒鳴りつけた。
「今、あの男と真澄がホームに来ている。なんとかしろ! 貴様、あれほどあの男、沢木とかいう男か?あいつをホームに寄こすな、と言っただろう! 何度も念を押したはずだぞ! しかも、何があっても真澄には絶対知らせるな、とも言ったはずだ! それがどうしてこんなことになったんだ! DNA検査の結果がクロだったのか? たとえそうだったとしても、こんな事態は許されんぞ! とにかくいますぐ事情を説明しろ!いいな!」
清一は大声でメッセージを吹き込むと、受話器を睨みつけるようにして電話を切った。そして、腕時計を睨みながら、キングサイズのベッドの周りを歩き回った。1分が過ぎ、3分が過ぎようとする頃、清一は待ちかねて再び受話器をとった。怒りはまだまだ収まらなかった。
「俺だ!それからな、このホームには俺を恨んでいるスタッフが大勢いるという話を耳にした。なんでもエブリーの店長から、ここのヘルパーに配置転換された者もいるという話だ! それが本当かどうか調べろ!宮田に聞けば分かる!いいな、すぐ調べて報告するんだ!もたもたしやがったら許さんからな! おい、聞いてるのか?本当はそこにいるんだろ!早く電話してこい!」
清一は一気にまくし立てると、息を切らしながらベッドに腰を下ろした。気がつくと、呼び鈴はすでに鳴らなくなっていた。「客」は諦めて帰ったのか。清一は再び窓辺に寄り、カーテンの隙間から階下を見渡した。すると銀色のBMWも既に去った後だった。
やっと帰ったか…
安心するのもつかの間、清一は大きな不安に襲われていた。
明日も真澄は来るかもしれない。あの男も来るに決まっている。これは新たな試練の、人生最悪の闘いの始まりなのだ。これから毎日、この恐怖は続くのだ。
真っ暗な部屋の中で清一はがっくりとうなだれた。どうすればこの局面を打開できるのだろうか。闇の中で考え続けたが妙案が浮かばなかった。
彼らはこの場所を突き止めた。しかも俺は一部のスタッフに狙われている。明日からはこの部屋を出るのもままならないだろう。状況は考えれば考えるほど深刻だ。
どれほど時間が経ったのだろう、次第に冷静になった清一は再び受話器をとった。やはり頼れるのは間壁しかいない。今回の不手際だって何か止むを得ない事情があったに違いない。あの切れ者がこんな失態を犯すはずがないのだ。清一はもうそう信じるしかなかった。それに今、間壁をも失えば、もはや打つ手がなくなる。それを考えれば、さっき留守電に怒鳴りつけたことも悔やまれてきた。電話を返すに返せず、間壁も困っているに違いない。清一は一転、優しい口調で留守電に語りかけた。
「間壁、黒川だ。先ほどは少し言い過ぎた。沢木の件、おまえもきっと尽力してくれているとは思う。何らかのトラブルで真澄に問題を知られてしまったのなら仕方ない。いまさら、お前を責めたりする気はない。今はお前の力が必要だ。とにかく、事態を悪化させることだけは何としても避けたい。その方策をお前と協議したい。お前なら分かっているはずだ。あの真澄の性格を。さっき見たあいつの表情は、とてつもなく冷たい表情をしていたよ。あいつはもうショックで何をしでかすか分からん。とにかく真澄が心配だ」
受話器を握り直し、一呼吸置いて続けた。
「俺は当分真澄と沢木との接触を断つ。当分この部屋に篭るつもりだ。お前の方でも、彼らがここに来ないように手を打ってくれ。理由は病気でもなんでもいい、う~ん、お前なら何か考え付くだろう?」と言いかけたところで一つの妙案が浮かんだ。
「そうだ、いっそのこと、俺が認知症を発症しかかっていることにしても良い。そうすれば彼らも俺にまともに話し合いを求めることもなくなるだろう。俺なら、多少呆けたふりをするぐらいの覚悟はある。どうだ、使えるアイディアじゃないか? そして、俺と彼らが接触を断っている間に、この問題を解決するんだ。俺はお前を信じている。お前の弁護士としての腕を一番買ってきたのは俺だ。それはいまも揺るがない。俺はお前を信じている。お前なら出来る。頼むぞ」
そういうと清一は電話を切り、ベッドに大の字になった。もうどんな電話にも出ないと覚悟を決めて。
⒎
「真澄、許してくれ!」叫び声とともに清一は目が覚めた。真澄がホームに乗り込んで来る夢にうなされていたのだ。シルクの寝間着は汗でびっしょりだった。
清一はベッドを下りると、重い足取りで寝室の片隅にあるクーラーを開けた。常時、栄養ドリンクや野菜ジュースで満たされた庫内から、清一はフランス産のミネラルウォーターを手に取り、キャップを開けようとしたが、思い直して、扉の中からスコッチを取り出し、グラスに注いだ。
グラスをあおってから、いつものように部屋のカーテンを開けようとしたが、清一はそこで手を止めた。
カーテンを開ければ、部屋にいることが「あの二人」に知られてしまうのではないか?そんな不安が頭をよぎったからだ。
しかし、そんな心配をよそに、カーテンの隙間からはキラキラした朝日の光が差し込んでくる。結局、清一はカーテンを身ひとつ分開けた。考えてみれば、清一がこの部屋で暮らしていることや、他に行く場所がないということは、真澄は十分すぎるほど知っている。何も今さら無意味な小細工は不要だ。
開き直ってカーテンを全開にすると、部屋一面にまぶしい朝日が降り注いだ。小鳥たちはベランダに降り立ってじゃれあい、さえずりが響いた。
清一は朝日からパワーをもらったかのように、しっかりした足取りでリビングへと向かった。受話器を取り、着信がないのを確認すると、さらに気分が落ち着いた。間壁からの着信がないのが少し気になったが、あの時間では先方も気を遣ったのだろう。清一はその手で、フロントに朝食の手配を頼み、ドアの郵便受けに差し込まれた朝刊を取り出す。広げると、低迷する内閣支持率の記事や、経済の回復が思わしくない、といった見慣れた記事が紙面を埋めていた。
すべてが、いつもと何も変わらぬ朝だった。
昨日の出来事は現実だったのだろうか、と疑いたくなるくらいだった。
清一がソファで新聞を広げていると、玄関のチャイムが鳴った。これにも少し動揺したが、入ってきたのは朝食をカートに乗せたスタッフだった。スタッフが十二人掛けの長テーブルの端に朝食を並べる間、遠めに彼の横顔をのぞいてみたが、こちらの様子をうかがう素振りを見せなかった。やはりスタッフに狙われている、という話も聞き違いだったように思えてくる。スタッフが深々とお辞儀をして帰っていくと、清一はテーブルについた。
しかし、メニューを見た途端、清一は違和感を覚えた。
朝食は入居以来、必ずパンと決めていたからだ。ところがこの日のメニューは白米と味噌汁、生卵に塩鮭と焼き海苔だった。
「なぜ今日だけ和食なんだ?こんな間違いがあるのか」
配膳係がメニューを間違えたことは入居以来一度もない。
そのうちスタッフが間違いに気付いて戻ってくるのではないかと、清一はしばらくテーブル脇に立ち尽くしてメニューを見下ろしていた。しかし、戻ってくる気配がないと知るや、諦めて席に座り、しぶしぶ箸をとった。本来ならばフロントに電話をして即刻取り替えさせるところなのだが、昨日のこともあって、そうするのは控えた。元エブリー社員による復讐疑惑がはっきりしないまま、スタッフとの間に波風を立てるのはまずい。今日は何事も穏便に済ませたかった。それに、実際に味噌汁をすすると、香りの良い白味噌に天然なめこを使った、その豊かな味わいは、十分に満足できるものだった。
清一は、たまには和食もいいかもしれない、とさえ思った。
食事が終わり、隣のリビングのソファでゆっくり新聞を広げていると、いつものようにスタッフが配膳を下げに来た。しかし、この日は珍しく忙しそうに食器を片付けていたこともあり、清一はメニューの件は黙っていることにした。一回ぐらいのミスでガミガミ言うのは大人げない、たまたま今日だけ間違えたに違いない、と考えることにした。
この日は、メニューの取り違えと共に違和感のある出来事が、もうひとつあった。家政婦の晴枝が、珍しく午前中にやってきたのだ。普段は昼過ぎに来ることになっているので、断りもなく訪問時間を変更することは、規則違反だ。しかも、いつもは弱気でオドオドしている晴枝が、今日は別人と思えるほど明るかった。
「今日は天気が良いからね、たまには外に出たほうがいいよ~」
よいしょ、という声と共にパウダールームから晴枝の大きな声が響いた。清一が返事を返さず新聞を広げていると、なおもその声は続いた。
「やっぱり一日中部屋にいるとね、体が弱くなっちゃうからね。年寄りはまず、足にくるのよ。それで、余計出歩けなくなるとね、次に頭に来るのよ。物忘れがひどくなったり。そのうち呆けたりしちゃうわけ」
清一が返事を返さないでいると、今度はパウダールームから顔だけひょっこり出した。
「ね?分かる?」
返事を催促するような顔つきだ。清一は鬱陶しくなって、仕方なく「ああ、そうかもしれないな」と生返事を返した。晴枝は、これだからねぇとぼやきながら顔を引っ込めた。
晴枝の馴れ馴れしい物言いや、外に出ろだの、呆けるだのといった口の聞き方は腹に据えかねるものがあったが、清一の中では朝食の一件と同様に、「今日ぐらいは大人しく」という思いが勝っていた。
家政婦とはいえ、パラディッソから紹介されている以上、晴枝も例の復讐疑惑に絡んでいないとは言えないからだ。
弱気に付け込まれるように、ついには掃除機をかけるからと言われ、清一はベランダに追い出される始末だった。
ベランダで爽やかな朝の風に当たり、室内で掃除機をかける晴枝の姿を見ていると、晴枝はこちらを見てニンマリと笑ったのが分かった。さも、外に出させたきっかけを作ったことに満足を覚えているようだった。おそらく低層階の契約者とはこのような遠慮のないやりとりをしているのだろう。
晴枝の態度の豹変ぶりには驚かされたが、この「親切の押し売り」も悪くはない、と清一は初めて思った。唯一の家族である真澄に嫌われ、唯一の味方であるはずの間壁にも連絡がつかないことが、清一をいっそう孤独にさせていた。
清一は掃除機がかけ終わるまでの間、山の景色を見渡し、目を閉じて深呼吸をひとつした。そして手すりにもたれて前庭を見下ろした。今日も相変わらず、黄色いジャンパーのスタッフが巡回や水遣りをしているのが見えた。清一は慌てて、こちらの姿が目立たないように、手すりから半歩退き、身を隠すようにして、再び彼らの動きを観察した。しかし、こちらの様子を見ているようなスタッフは確認できなかった。
むしろこの日は、車椅子を押したり、足元がおぼつかない老人の手を引いて介助する姿が多く見られた。いままで気がつかなかったのが不思議なくらいだが、要介護の入居者もそれなりに入居しているらしい。家族でなくても他人から気をかけてもらえるのは幸せなものだと、清一は思った。
しかし、ベランダから戻った清一に晴枝が掛けた一言は、清一のそんな気分をぶち壊した。世間話にしてはあまりに軽く、そして清一の心を突き刺すような一言だった。
「息子さんから連絡はあった?」
清一は耳を疑った。親しみを醸成させたいとはいえ、まさかここまでプライベートな話に首を突っ込んでくるとは思わなかったからだ。清一は一瞬ムッとしたが、晴枝も引こうとはしなかった。雑巾を絞る手を止めてこちらを見ている。
「息子さん、いるんでしょ?」
追及の構えを崩さない。ややあって清一は晴枝を睨みつけた。
「どういう意味だ」
「どういう意味って、聞いちゃ悪い?」
「君に家族の心配をしてもらう必要はない。余計なお世話だ」
余計なお世話であるもんですか、と晴枝が言いかけたところで、清一もこれまで蓄積されていた怒りが爆発した。
「家政婦の分際で、立ち入ったこと聞くんじゃないと言ってるんだ。家政婦は家政婦らしく言われたことを黙ってやっていれば良い。何があったか知らんが急に馴れ馴れしい口の利き方は慎みたまえ。世間話なら近所の婆さんとしてりゃいい。息子はどうしただって?他人の家の心配より、自分の息子の心配をしたらどうだ」
そこまで言って、やっと晴枝は引き下がった。
「そうだね。うちの息子の心配をしなきゃダメだね。ごめんね」
ため口ながら晴枝の顔は沈んでいた。いつも見せる怯えた表情だった。それを見て清一は少し言いすぎたかと思ったが、一方で少し安心もした。やはりいつもの晴枝でないと気味が悪い、というのもあったからだ。
晴枝はその後、無駄口を開かず黙々と仕事をこなした。清一の態度が不愉快だったせいかもしれない、いつもより早く仕事を切り上げて帰っていった。だがそれはいい加減という意味ではなく、手際良く、と言ったほうが正確かもしれない。無駄口をたたけばその分仕事も雑に済ませているだろうと、晴枝が帰った後、清一は各部屋を見回ってみたが、実際この日の仕事に不備はほとんど見当たらなかった。ただ、唯一気に入らなかったのは洗面の蛇口から水が流れたままになっていたことだ。これではどちらが高齢者か分からない、とぼやきながら清一は蛇口の栓を閉めた。
清一はこの日は部屋から一歩も出ず「ひきこもり」を決め込んだが、結局電話は鳴らなかった。
真澄から連絡がないのには安心したが、間壁からも連絡がないのには、清一をいっそう不安にさせた。状況説明するよう、あれほどきつく言い残したにも関わらず、間壁が連絡を寄こさないというのは考えられなかった。
いくら仕事が忙しくても、清一の依頼を後回しにすることはあり得ない。
しかし今回の一件は、間壁にとっても厄介な案件であるはずだ。状況が芳しくなく、真澄への説得工作を続けているとも考えられる。ある程度の時間は奴にも必要だろう。清一は、明日には何らかの連絡があるはずだと信じてブランデーをあおり床についた。
寝室の床にウイスキーの空き瓶が転がっている。清一は真っ暗な天井を見上げていた。
真澄とあの男がここに来て、間壁とも連絡がつかなくなったあの日から、もうどれくらい経つのだろう。
一週間か、はたまた一ヶ月か。部屋を出ていないため、曜日や日にちの感覚がない。テレビや新聞を見ればそれも分かるのだろうが、今はそんな気にもなれなかった。
清一はずっと電話を待ち続けていた。しかし間壁からの連絡はない。電話の故障なのかもしれないと思ったこともあったが、フロントからの日常連絡は変わらずあることを考えるとその可能性は低かった。それに電話でなくても、直接説明に訪れたり、手紙で事情を説明するという選択肢も彼にはあるのだ。
もう間壁には連絡を寄こす気がない、ということは疑いようがない。
清一は裏切られた気分だった。「あの日」以来、清一は夜な夜なその理由を考え続けていた。
最も考えられる理由としては、間壁が真澄側についた、ということだ。奴にしてみれば老い先短い自分と組むより、真澄と良い関係を築いていたほうが、これからもエブリーグループの仕事にありつける。隠れてコソコソ隠蔽工作を遂行するよりは、すべてを明らかにしたほうが、真澄との信頼関係も構築できる。考えようによっては、今回の一件は、間壁が真澄の信を得る、またとないチャンスなのだ。そして、信義の証として俺との関係をすっぱり絶ったのではないか。
ただし、現在のエブリーの大株主、つまり最大の権力を握っているのは、今でも俺だ。相続も権力委譲も完了していないうちから、間壁が俺を袖にするだろうか。
ならば次に考えられる理由は、間壁がまだ真澄を説得している最中だということ。これならば、真澄やあの男がホームを訪ねてこないのも頷ける。間壁の説得が効果を上げているということになる。ただ、それなら説得工作の途中経過を説明してこない理由が見当たらない。これほど重大な案件で依頼主に途中説明を行わない、というのは弁護士としてあり得ない。それに、エブリーの大規模リストラについての調査報告もまだ受けていないのだ。奴には状況を早く説明せよ、と言ってあるのだ。間違っても、連絡を絶て、とは言っていない。連絡がまるでないのはどう考えてもおかしい。
間壁はどちら側にいるのか。俺は孤立してしまったのか。
清一は毎日酒びたりになりながら、そのことばかりを考えていた。ここ数日は部屋どころか、寝室にこもっている。目が覚めれば夕方で、一晩中いろんな心配事に頭をめぐらせた挙句、明け方に眠りについている。晴枝からの問い掛けにも応じていない。食事は、以前間壁が定期的に差し入れてくれた、老舗のせんべいなどを口にしていた。というより食欲もほとんどない。かなり痩せたのが自分でも分かる。
俺はこのまま死んでいくのだろうか。こういうのを孤独死というのだろう。エブリーのオーナーたる者がそんな最期を遂げるとは情けない。だが、もうプライドもなにもあったものか。今この苦しみから逃れられるのであれば、それはそれで良いのかもしれない。
いや、もっと確実で、一気に片をつける方法もあるにはある―
禁断の誘惑が頭をよぎる。
清一は、改めて「死」というものについて考えることが多くなっていた。楽な死に方、遺産の使い方、その後の会社の行方…。パラディッソに来る前は、自分の名をいかに後世に残せるかが「死に方」の基準であった。元々このホームを死に場所に選んだのもそれが理由だ。しかし、今となっては、それのどれもが違ってきている。
実際に死を意識して分かったのは、己の名声などどうでも良い、ということだ。今の清一には、すべての基準は真澄のためになるかどうか、ということだ。だから遺産を慈善団体に寄付するつもりもないし、会社を真澄以外に任せるつもりもない。死への誘惑を踏みとどまらせているのも、真澄に迷惑をかけたくないからだ。息子に見放されてなお、清一は真澄への思いの強さを実感していた。
「こんにちは。こんにちは!」
ドアを強くノックする音と、聞きなれない男の声で目が覚めた。突然のことで、清一は相手が誰か考える間もなく飛び起きた。
「大丈夫ですか?」という言葉とともに、口ひげをたくわえた白衣の男が、寝室の扉を開けそこに立っていた。後ろには看護婦とおぼしき白衣の女性が無表情な顔で立っている。
ベッドから身を起こしたばかりの清一に、男は声を掛けてきた。
「しばらくお姿をお見かけしない、と連絡ありましてね。伺わせてもらいました」
「いきなりなんだ、失礼じゃないか」
気色ばむ清一にも男は動揺をみせなかった。カーテンで締め切られた部屋をぐるりと見回している。
「すみません、連絡のつかないお客様の安全を確認するのも私どもの仕事ですから」
「先に電話でも寄こしたらどうなんだ」
「したんですよ。でもそれが繋がらなくて。どうやら昼間におやすみになっておられたようですね。それにね、」男は続けた。
「先日の健康診断も受けておられませんよね。それでここで簡単な検診もさせてもらおうと伺ったわけなんですよ」
医者とおぼしき男は、満面の笑顔で、清一にリビングに出てくるよう促した。大げさな笑顔だった。
清一は寝間着にガウンを羽織ってリビングに出た。
突然の訪問に、まだ納得がいかなかったが、相手が医者ということもあり、ここは下手に抵抗するよりも、さっさと医者の好きにさせてとっとと帰らせるほうが早いと諦めた。
頬に手をやると、無精ひげがたわしのように顔全体を覆っていた。鏡を見なくても自分のぶざまな顔が想像できた。
カーテンの開け放たれたリビングは目がくらむほど明るかった。晴枝が男に深々とおじぎをして、茶を出していた。晴枝は清一を見て一瞬驚き、子供を叱るような目つきをした。
清一はダイニングから運び込まれた椅子に腰掛けて、男と向き合い、言われるがまま胸元をひらいた。
痩せた胸に自分でも驚いた。
男はうんうんと頷きながら、聴診器を当てた。そのヒヤッとした感触に、清一は鳥肌が立った。
「食事はあまりとっておられないようですね。やはり食欲はありませんか」
「…やはり?こんなところで出る食事は程度が知れているからね。食欲なんてあるわけがない」
清一は男の物言いにカチンときて毒づいた。男も苦笑いを浮かべた。清一は後ろを向かされて背中を晒した。
「たしかに、どちらかといえば食べすぎよりは食べないほうが、体に良いかもしれませんね」
続いて、男は清一の血圧を測り、口を開けさせては喉を見たり、下瞼を広げて眼球の動きなどをチェックした。おざなりの診断を淡々とこなす医者の眠そうな目つきに、真剣さは感じられなかった。
男は診察を済ませると、清一とソファに移動した。
男は清一と向き合い、背筋をピンと伸ばした。ノートを開き、手にはボールペンが握られている。そして、先ほどとは打って変わって緊張した面持ちで、おもむろに切り出した。
「いくつか質問させていただきます」
清一はただならぬ空気を察して身構えた。
「まず、お名前を教えてもらえますか」
「なんだって?」男のとぼけた質問に清一は面食らった。
「私を馬鹿にしているのか。からかうな」
「いえ、答えてください」
「黒川だ。黒川清一だ」
イラつきながら清一が答えると、男はなるほど、と答えノートになにやら記入した。表情は変わらない。
「今日が何月何日か分かりますか」男は続けた。
「なぜそんなくだらない質問に答えねばならない?」
「分からない、ということですね」
清一は口ごもった。ここ数日、寝室に閉じこもっていたため、新聞やテレビに接していない。情報を断てば今日が何日か分かるわけがない。清一は焦った。
「忘れたんじゃない、ここ数日部屋にこもっていたからな」
清一は必死に弁解しようとしたが、男は聞き耳を持たず再びノートを開いた。普段なら新聞やテレビを見ているからそんなことは分かるんだ、たまたまこんな日に来るから答えられないんだ、などといった清一の説明にも、男は頷いてはいたが、下を向いたまま黙々とノートをとっていた。明らかに聞き流しているようだった。
メモをとり終わると男は、今度は分厚い診療カバンを開けた。
「次に、ちょっと簡単なゲームをしてもらいたいんですが」
「ゲーム?」
警戒する清一に、男は聴診器を外しながら笑顔で答えた。
「いや、簡単なことなんです」男はカバンからハサミやら電卓やらを取り出し、大理石のテーブルに並べた。
「この目の前に置いたモノの順番を覚えて欲しいんです。簡単でしょ?」
男は外した聴診器をそれらに加え、それらを等間隔に配置した。清一は男が何をしたいかが分かった。
「日にちを忘れたぐらいで、呆けているかどうかのテストか。馬鹿にするんじゃない!」
清一の突然の怒声に、男は慌てて顔を上げた。
「いやまあ、そうおっしゃらず」
「今こうやって喋っていて、呆けているかどうか、分からんのか。それとも、この私が呆けているとでも?」
「いえ、そんなことはないですよ。ただ、形式的なものですから」
男は、一瞬「いけね」という風に口を押さえ、続けた。
「このテスト、一応、決まりになっているんですよ。七十歳以上の方には。弱ったなぁ」
男は困った顔で、髭を撫でながらテーブルに並べられたモノを眺めた。しばらく清一の返事を待っていたのだろうが、無駄だと悟ると急に顔を上げ、清一を見た。
打って変わって鋭い目だった。
「でもどうしても嫌なら、仕方ないですね。こちらも強制する権利はありませんし」
男はちらちら清一を見ながら、並べられたモノを、のそのそとカバンにしまった。さも、テストをやらなくて困るのはおまえだぞ、と言いたげな素振りだった。正直、清一も、テストをこなすことで先ほどの失点を取り返せるかもしれない、という思いが頭をよぎった。しかし時遅く、男は既にカバンのベルトを締めかけていた。さすがに、やっぱりやらせて下さいとは言いたくなかった。一度でも弱みを見せたら終わりだ。
その後、男は無言で茶をすすり、晴枝を相手に部屋からの見晴らしを褒めた。そして最後に愛想笑いを浮かべて、清一に「また来ます」と言い残し、軽くお辞儀をして帰っていった。看護婦は一度も清一に目を合わせなかった。
「あんたが余計なことを言ったのか」
男を見送り、部屋に戻った晴枝に清一は詰め寄った。
「なぜあんなヤブを勝手に部屋に入れた?」
「仕方がないでしょう。そういう決まりなんだから」
晴枝は苦笑していた。
「それに日にちも言えなかったじゃないですか」
「な、なにを」
清一がむきになると、晴枝は降参のポーズでおどけてみせた。そして、腕時計を指差して、これから次のお宅に行かなきゃ間に合わない、と逃げるように部屋を後にした。晴枝もあまり自分との関わりを持ちたくなさそうだった。
ぽつり部屋に残された清一には空しさと怒りだけが残った。
「どいつもこいつも、ふざけやがって」
清一はテーブルの横のマガジンラックから畳まれたままの新聞を一部取り出した。そしておもむろに両手で広げ、日付を見た。「だからなんだ、十一月…」と言いかけたところで、清一は言葉を失った。
目は一面トップの見出しに釘付けになっていた。
「エブリー、サンと合併交渉…!」
清一は頭の中が真っ白になった。サンは流通トップの全国チェーン。エブリーが長年、出店攻勢をしのいできた強敵だ。
新聞を広げる両手はガクガクと震え、記事を読むことができない。いや、記事を読む間もなく受話器を取り上げていた。
どういうつもりだ、何が起きているんだ、俺の会社を葬る気か―
清一は怒りと焦燥感の中で、本社の番号をプッシュしようとした。が、肝心の番号が出てこない。もう、しばらくかけてない番号だ。急に思い出せるはずもなかった。ええい、と唸りながら、なんとか秘書室の直通番号を思い出す。慌ててプッシュする指は受話器のボタンを何度も押し間違え、三回目でようやく繋がった。
「はい、エブリーストア本社秘書室でございます」
清一は受話器の向こうの穏やかな声にカチンときた。声の主にはお家の一大事もまるで他人事のように感じられたからだ。清一はいきなり怒鳴った。
「黒川だ!社長に代われ!」
あまりの剣幕に受話器の相手もたじろいだのか、一瞬の沈黙の後、やや引きつった声が返ってきた。
「会長…少々お待ちくださいませ」
耳に押し当てる受話器からは保留のメロディーが流れた。エブリーの社曲だ。アップテンポの曲調が癇に障る。清一はテーブルを拳で叩きながら、待った。
時間が経つのが恐ろしく長く感じる。おそらく真澄は不在だろう。突然の報道に各方面への対応に追われているのは間違いない。
もう、隠し子騒動がどうとか、パラディッソの経営方針がどうとか言っている場合ではなかった。清一が築き上げてきたもの全てが、目の前で音を立てて崩れようとしているのだ。
今は支えるのが先だ。真澄のことを考えれば、いまは親子関係がどうと言ってはいられない。
それにしても応答が遅いな、と思っているとメロディーが消えた。
「お待たせしました。ただいま社長は外出しております」
電話の声は落ち着いた声を取り戻していた。清一は間髪入れず切り返した。
「じゃ宮田だ、宮田を出せ!」
「宮田も外出しております。お客様、」
次に受話器から聞こえた言葉に清一は耳を疑った。女性の声はかすかに震えていた。
「失礼ですが、名前とご用件を伺えますか」
「なんだと?」
「お名前と…」
清一は言葉を遮り叫んだ。
「無礼者ッ!貴様、会長の声も覚えていないのか!貴様は誰だ、処分は免れんぞ!もういい、室長を」
青筋を立ててまくし立てると、清一が話し終わらないうちに突然電話は切れた。
清一は唖然としてから、電話を床に叩きつけた。どういう社員教育をしているんだ、と吐き捨ててから、ふと、ある推測が頭をよぎった。
秘書が自分の声を知らない訳がない。事務職とは違うのだ。一般社員よりも上役に対する対応は熟知している。というより、それが彼女たちの唯一の仕事だからだ。
知っていて、あえて電話を切ったのだ。いや、正確には「切らされた」のだろう。そう考えると、清一はある結論にたどりついた。
サンと会社の内部の誰かが手を組んで真澄をそそのかし、この俺をエブリーから排除させるつもりなのだ。その上でエブリーの乗っ取りを企んでいるのだ。
このままでは俺も、それどころか真澄までもエブリーから抹殺されることになる。
俺はもうこんなところで、隠居などしてはいられない―
⒏
洗面台の蛇口は開いたままだった。
晴枝の物忘れか、当て付けか。しかしそんなことはもうどうでもいいことだった。
会社の経営に復帰する。清一の決意は固かった。ワイシャツに袖を通し、ジャケットを羽織ると、頭にワックスをなでつけた。トレードマークの赤いタイ。数年前とは比較できないが、鏡に映る自分の姿を見ると「まだやれる」と確信した。
背筋を伸ばし、エレベーターに乗り込むと、晴れがましい気分とともに、なぜか少し名残惜しい気持ちにもなった。
もう此処に戻ることはない。
これからは、再び戦いの日々が待っているのだ。
あんなに退屈で、墓場のようだと絶望していたここでの暮らしが、妙に恵まれたもののように感じられる。人間とはつくづく身勝手なものだということを清一は心地よい緊張感とともに実感した。
エレベーターを降りると、ショッピングモールに出た。しかし清一はいつもと少し雰囲気が違うことに気がついた。照明が落ちたのか、とも思った。買い物客の数が減ったのか、とも思った。とにかく以前の華やかさが失われているのかのように感じた。しかし清一はあまり気にも留めなかった。
だが数歩進むと、違和感は次第に増していった。車椅子や杖をついた入居者が目につくようになり、一点を見据え早口で何かをつぶやきながら、震えて歩く入居者にも出くわしたからだ。清一は歩みを止め、買い物客の様子に目をやると、会話の聞き取れない、明らかに認知症と思えるような人も確認できた。パラディッソには認知症などの障害を抱えた入居者を世話する特別病棟があるはずだが、彼らが一般棟に姿を見せたことは記憶にない。そういえば、前庭の散歩者にも車椅子を見かけるようになったが、それも何か関係があるのだろうか。
特別病棟との往来が緩和されたのか、病人が増えたのか。
それにしても、ショッピングモールにまで認知症患者が姿をみせるというのは異様だ。明らかに高級ホームというパラディッソの理念に反する。経営方針に変化があったのだろうか。これもエブリーの異変と何か関係があるのだろうか。
清一は沸きあがる疑問に頭を悩ませながら、彼らと目を合わさないようにしてフロントへと向かった。
「市内に出たい。ハイヤーの手配を頼みたいのだが」
清一は財布からアメックスカードを提示した。しかしフロントの若い二人の男は、顔を見合わせてから、首をかしげた。このカードのステータス性を知らないのか、不信感を抱いているように見えた。
「こっちの方が都合が良ければ」清一はさらにパラディッソのブラックカードも提示してみせた。これなら決済だけでなく自分の身分も分かるから話が早い。このホームに何人もいないVIPの証。係の対応も瞬時に変わる魔法のカードだ。
だが、二人の反応は同じだった。
「まことに恐れ入りますが、外出にあたっては引受人の方の出迎え、もしくは書面による外出申請が必要になっておりまして」
「なぜそんな面倒な手続きが必要なんだ。このカードの意味が分からんのか」
「そう言われても。なぁ、おい」
二人の一方がもう片方を肘でついて苦笑いした。清一は不快に思ったが、もうこことは縁が切れると開き直り、ボールペンを手にした。
「分かった。早く」
ところが清一が促しても、何のことか分からない様子で、男はきょとんとしている。
「申請書だよ。今書くから。もうここには戻りませんとはっきり書くよ。それで満足だろう?それで君たちがどうなっても知らないけれど」
清一は彼らを見下すような口ぶりで言った。しかし、男の表情は次第に歪み、遂には吹き出した。
「申請、すぐには下りないよ」
「てか、下りた人、みたことねーし」
二人の顔には不気味な陰が潜んでいた。清一の背筋に冷たいものが走った。体格こそ違うが、その空気に先日遭遇した前庭の巡回スタッフと同じものを感じた。
まさかこいつらもエブリーのリストラ社員なのか。こんな時に―
清一は急いでカードをしまい、足早にその場を離れた。
こちらの正体を察知して、嫌がらせをしているつもりなのか。外出に申請が必要なんて、そんな不自由なルールがあること自体初耳だ。それにスタッフが客にあんな口の利き方をすることはない。彼らの態度には悪意すら感じる。自分が黒川清一と知って嫌がらせをしているのか。
清一は、うかつにカードを示したことを少し後悔した。
膨らむ不安を抑え、フロントからの視線を背中に感じながら、玄関へと急いだ。額には汗が滲んでいる。
玄関を出ると、脇にマイクロバスが停まっていた。市内への巡回バスだ。タクシーを利用しない一般入居者がこれを利用しているのは知っている。申請書も必要ない。カードのチェックもしないまま乗り込むのを、ロビーのVIPルームから何度も目撃しているからだ。これなら難なくホームを出られるかもしれない。
清一はまっすぐバスへと向かった。運転手はハンドルにもたれながら、顔を伏せてうずくまっている。客待ちのようだ。清一は乗降口のドアを叩いた。
「市内へ行ってくれるか」
中年の運転手はびっくりしたように飛び起き、乗降口のレバーに手をやった。しかし顔を上げて清一の顔を見たとたん、「客じゃないのか」という顔で、またハンドルにもたれた。
清一は再びドアを叩いた。
「出発時刻が決まっているのか?客一人じゃ出せないのか?」
今度はもう少し大きい声で呼びかけてみた。清一の額には汗がじっとりと浮かんでいる。すると運転手はやれやれというふうに起き上がり、清一の後ろを指差した。嫌な予感がした。清一が振り返ると、さっきのフロントの男が運転手に「ダメダメ」と手でジャスチャーしているのが確認できた。
「おい、どうして乗せてくれないんだ。VIPだぞ、おい。俺は社長もよく知っている!ここをクビにされたくないだろう。乗せろ!」
清一は窓を叩きながら、カードを押し付けて見せた。するとようやくその意味を理解したか、運転手はドアを開け、小走りで軽快に飛び出してきた。
分かってくれればいい、と言いかけた清一だったが、その脇を彼は素通りして行った。行く手に視線をやると、運転手は乗客とおぼしき車椅子の入居者に駆け寄り、かいがいしくその車椅子を押してバスに向かってきた。入居者は中空を眺め、訳の分からない独り言をつぶやいていた。
「おい!こんな痴呆老人が外出できて、なぜ俺が外出できないんだ!どうしてだ!」
清一は運転手に掴み掛かかった。運転手はよろめき、掴んだ車椅子もろとも転倒しそうになった。清一は構わず、こっちを見ろ、なぜなんだ、と運転手に詰め寄ったが、玄関から飛び出してきたボーイとフロントの男に羽交い絞めにされた。
「俺が黒川清一と知って、ここに閉じ込めようとしているのか!お前ら俺に何の恨みがある?エブリーをリストラされた恨みか!」
清一はひとしきり暴れてから、床にへたり込むと、スタッフたちはその手を解いた。清一の目には涙が溢れた。ボーイの男が聞いた。
「あなたが噂の黒川さんでしたか」
清一は、ああ、と涙まじりに頷いた。フロントの男は黙っていた。
「君たちを左遷して、こんなところに働かせるつもりはなかった。本当だ。こうやって退職を迫るやり方は、経営倫理に反する。すべては私のあずかり知らぬところで行われたことなんだ」
「こんなやつの言うこと聞くなよ」フロントの男が、ぼそりと口を開いた。
「本当だ。もし私を市内に行かせてくれるのなら、君たちを望む職場に復職させる。約束する!店長がいいか?それともエリアマネージャーか?」
清一は床に手をつき、懇願した。
ボーイは困った顔をし、しゃがんで清一の目線に合わせた。
「恨まないでくださいよ。僕たちも、こんなことしたくはないんだ。我々も会社には逆らえないんですよ」
「じゃあなんだ? 上からの命令なのか? 黒川清一をここに閉じ込めろと、そう命令されたのか?そういうことなのか?」
スタッフとボーイは目を伏せた。
清一は愕然とした。すべてはエブリー乗っ取りのための陰謀なのか―
「頼む、ここから出してくれ。頼む」
清一はボーイとスタッフの足に交互にしがみつき、両者の顔を見上げて手を合わせた。しかし、それが通じないとみるや、今度はゆっくりと立ち上がって、財布を開いた。紙幣はなかった。清一は数種類のカードをすべて抜き取って差し出した。
「ほら、これをやる。自由に使っていい。このカードなら何でも買える。何が欲しい?家か車か?」
清一は必死で小声に力を込めた。
ボーイは差し出されたカードにあっけにとられたが、フロントの男が目を覚まさせるように強い口調で言った。
「おまえもプロなら、こんな話に付き合うな。さあ手伝え」
男が清一の脇を抱えると、ボーイも我に返ったように、もう片方も脇を抱えた。男は薄ら笑いを浮かべ、清一の耳元で囁いた。
「こんなところで、何不自由なく過ごせるなんて羨ましいよ。俺が変わって欲しいくらいだ。街に出る必要なんかない。息子や会社の心配なんかしなくていいんだ。ここで死ぬまでじっとしてくれれば。それを皆、望んでいるのだから」
こいつらは俺をどうするつもりなんだ。
清一は二人に引きずられるような形でエレベーターに向かった。行き先は部屋か、それとも…。
清一の頭に恐怖がよぎった。このままではどこで何をされるか分からない。
清一は、あらん限りの力で抵抗を試みたが両脇の腕はがっちりと離れない。
その時だった。突如、がらがらと音を立てて、清一の視界に大きな銀色の物体が飛び込んできた。入居者の給食を載せた巨大なキャリアが突っ込んで来る。
「あぶない!」
脇を抱えていた男はキャリアの直撃を受けて床に転がり、ボーイと清一も倒れた。
「今のうちに!早く!」どこからか若い男の声がした。
清一は起き上がり、声の方を見ると、キャリアの向こう側から白いマスクと帽子をかぶった給食スタッフとおぼしき男がこっちを見て叫んでいた。辺りにはキャリアに積まれていた使用済みの食器が散乱している。
清一は男の真意を悟ると、一目散にロビーを走った。何度も足がもつれて倒れそうになった。しかしもたもたしている暇はない。清一は懸命に足を動かした。途中後ろを振り返ると、キャリアの直撃を受けた男は頭を押さえてうずくまり、ボーイはキャリアに行く手を遮られてあたふたしていた。
清一は、なんとかエレベーターまでたどり着き、「上」のボタンを押したが、エレベーターはなかなか下りてこない。ボタンを何度も押して、何度も後ろを振り向いた。ロビーからは「あの人を捕まえて」という声が迫ってくる。清一はやむなくエレベーターを諦め、喫茶コーナーの方へと向かった。
とにかく、今は少しでも遠くへ追っ手から逃れなければならない。
先を急ぐ道すがら、清一は園内の異変をはっきりと感じ取っていた。ホームから外出する方法や、スタッフの不自然な対応を誰かに相談しようと思っていたのだが、すれ違う入居者の中に、助けを求められそうな人が見当たらないのだ。ホーム内はいつもと同じ、まばらに人はいる。しかし「健常者」が見当たらないのである。
車椅子や杖をついた人、スタッフに手を引かれリハビリをする人、ロボットのように無表情でゆっくりと歩く人。それ以外に、外見では障害があるように思えない人ですら、どこか「精気」を感じられなかった。
喫茶コーナーのソファに腰掛ける入居者も、宙を眺めてぼーっとしたり、訳の分からない独り言をぶつぶつ呟く者ばかりだった。
どうなってしまったんだ?
ここは、いつの間に特養ホームになってしまったのだ。健常者は俺一人取り残されてしまったのか。清一の心はみるみる不安に支配されていった。
懸命に健常者を探し回る清一の目に、その時、一筋の希望の光が差し込んだ。視線の先には、笑顔でコーヒーを運ぶ桐原の姿があった。
「おーい桐原君!」
清一はすがるような思いで彼女に駆け寄った。突然現れた清一に桐原は面食らったようだった。かれこれ1週間は会っていなかっただろうか。
「ここはどうなってしまったんだ?まともな人たちはどこに消えたんだ?」
「えっ、いきなりどういうことですか」
「どういうことも何も、これを見れば分かるだろう?この数日間に何があったんだ?」
清一は、そこらのソファにじっと腰掛ける入居者を見渡してみせた。しかし桐原の反応は鈍い。清一は話を進めた。
「いや、その話はもういい。いいか、よく聞いてくれ。このホームから出たいんだ。どうすれば出られるのか教えてくれ。頼れるのは君しかいないんだ!」
袖を掴み、必死で訴える清一に桐原は困惑していた。顔には動揺の色も浮かんでいる。そこに、以前の笑顔はなかった。
「まずは落ち着いて下さい。スタッフを呼びますから」
スタッフと聞いて清一は慌てて止めた。
「ダメだ、ダメだ。スタッフはダメだ。彼らが俺をここから出させてくれないんだ。今も彼らに追われているんだ。頼む。助けてくれ」
清一が懇願すると、桐原は迷惑そうに目をそらし、抱えたトレーに載ったコーヒーに目をやった。まさかとは思ったが、それを見て清一は悟った。
君も、向こう側の人間なのか―
その時、喫茶コーナーの入り口から、数人のスタッフがなだれ込んできた。無言だが、鋭い目で辺りを見渡している。清一を探しているのは明らかだった。
「頼む、黙っていてくれ」そう言うように清一は桐原に拝んでみせ、さっと顔を伏せて、静かに喫茶コーナーを出て行った。肩はガックリと沈んでいた。
ショックだった。このパラディッソで唯一心を開いて話せる存在であり、大げさでなく地球上でたった一人の友人だと思っていた桐原に裏切られたのだ。
清一はさっきの桐原の態度を頭の中で何度も何度も再生した。しかし桐原の態度はあきらかにおかしかった。不自然だった。動揺していた。冷たささえ感じた。もう以前の彼女とは違うのかもしれない。清一は改めて自分は一人なのだということを思い知らされた。
だが、いつまでも悲嘆に暮れている訳にもいかなかった。唯一の頼りを失ったという事実は、このパラディッソに残ってはいられない、という思いをいっそう強くさせた。
もう周りは敵だらけなのだ。
一人だろうと何だろうと、一刻も早くここを脱出しなければならない。清一の心には、危機感が増していたが、同時に、ある種の活力も甦ってきた。叩き上げの経営者人生が培った「生存本能」とでもいうべきだろうか。
これまでの長い人生では、味方に裏切られることなど何度もあったではないか。むしろピンチのときはいつも一人だった。誰にも頼らず乗り切ってきたんじゃないか。そうやってエブリーを大きくしてきたんじゃないか。今回のピンチだって、きっと乗り越えられる。
それに、俺には守るべき人間がいる―
清一は乱れた襟を整え、ベルトを締め直した。
⒐
多目的ホールにも大浴場にも健常者の姿はなかった。思い切って、ベンチに腰掛けた、わりと健康そうな老人に声を掛けたりもしてみたが、うつろな瞳でこちらを見返すだけでやはり反応はなかった。
健常者を探す一方、外に繋がるドアを片っ端から開けようと試みたが、どれも頑丈に施錠されていて開けることはできなかった。中にはドアの上部の天井に監視カメラが備えられている場所もあり、清一は近づくのを諦めた。これまでまったく気付かなかったが、通路の窓すらも開けられない構造になっているのには驚かされた。障子をモチーフにした窓をよく見ると、竹の格子の裏側は金属になっている。これでは窓を割っても外に出ることはできない。まさに檻だ。
開放的な作りに見えて、外部との出入りができるのは、あのでかい正面玄関だけとは。老人相手の施設だけに、行動管理はきっちり行き届いていやがる―
清一はホームのセキュリティーを呪った。清一は、無人の職員喫煙コーナーで偶然見つけた、パラディッソのワッペン入りの作業服を羽織って、職員用通路の脇にある用具室に隠れていた。足を擦る。通路を中心にかれこれ1、2時間は歩き回っただろうか。
スタッフは入居者エリアの捜索に駆り出されているだろう、との読み通り、職員用通路の人影はまばらだった。まさに灯台下暗しだ。しかもここの方が、職員用出入り口を見つけられる可能性がある。施設の巨大さに比べてスタッフの数が少ないのも、捕まらずに済んでいる理由かもしれない。スタッフが近づいてくる気配があれば、こうやって隠れて彼らが過ぎ去るのを待つ。静かな通路は、かなり遠くからの足音も確認できる。清一は積み上げられた無数のパイプ椅子の間に小さくしゃがんでいた。
時折窓の外を見ると、レシーバーを耳に当てて、あたりを見渡すスタッフの姿が見えた。外はすでに暗がりに包まれ始めている。遠くで聞こえる館内放送は、普段通りイベントや入浴時間の案内をしているだけで、清一に呼び掛けたり、入居者捜索の業務連絡などは聞こえてこない。
ひょっとして自分は追われていないのだろうかと思い込みたくもなったが、外でこうやってスタッフがせわしなく動いているのを見ると、「捕まるわけにはいかない」という思いが再び強くなる。
しかし、出口が見つからない、日は暮れていく、という現実の壁にぶち当たり、清一は万策尽き果てていた。今かろうじて彼を突き動かしているのは、真澄との再会を果たし、すべてを確認したいという思いだけだった。
さあ出口を…と再び腰を上げたその時、通路の先から、かすかに声が響いてきた。
「誰かー」「出してくれー」
全身に鳥肌が立った。言葉からすればスタッフのものではない。
いるのか?健常者が。
清一は、用具室からゆっくり顔を出し、廊下を見渡した。再び耳を澄ますと、声は通路の遥か先から聞こえてきていた。
声の内容や雰囲気から危険な雰囲気を感じ取ったが、今はその声が健常者のものであることに賭けるしかなかった。脱出の手がかりがない以上、清一が捕まるのも時間の問題だからだ。
清一は、職員が通らないことを注意深く確認してから、窓に自分の影が映らないように、中腰になりながら声のする方向へと急いだ。
二十メートルほど進むと、一本道だと思われた通路はT時路になっていることが分かった。声のするほうへ角を曲がると、清一は驚いて足を止めた。
通路は階段になり、地下通路へと下っている。むき出しのコンクリ壁は黒ずみ、球切れの蛍光灯がちらつく様は、不気味な夜の地下歩道を思わせた。
清一は一瞬躊躇したが、意を決して階段を下りていった。助けを呼ぶ声は止むことなく、近づくにつれ、はっきり聞こえてきた。しかもそれは一人の声だけではないことも分かった。すすり泣くような声も、壁を叩くような振動も混ざっているようだった。
清一は地下道を急ぎながら、頭の中のホームの間取り図と照らし合わせていた。この地下通路は職員エリアのものなので入居所には知られていないが、南北に伸びている施設のほぼ中央から西の施設に繋がっているのだとすれば、その先は特別養護棟であることが推測できた。この真上に、中三階同士を繋ぐ渡り廊下が存在しているはずだ。
しかしなぜ、特別棟から健常者の声が聞こえるのか?
健常者と要介護者の入居棟を入れ替えたのだろうか?
いや、そんな無駄で大掛かりな引越しをする意味がない。それに、この助けを呼ぶ声は尋常ではない。
清一は悪い胸騒ぎを抑えながら、突き当りの階段を上った。
「どうしてこんなところに閉じ込めるんだー」「出してくださいー」
特別棟と思われる棟につくと、そこは助けを求める声であふれかえっていた。思わず耳を塞ぎたくなるほどだったが、清一は冷静に声の一つ一つに耳を傾けた。すると、その声すべてが、ただ喚いているのではなく、この施設に監禁されていることの抗議であることが分かった。なぜ、ここに閉じ込められることになるのかを問い、監禁は違法行為であることすら訴えていた。職員に取引を持ちかけるようなものまであった。
しかし、どの声も疲れきっていた。
清一は通路の角からゆっくりと顔を出した。施設は通路を挟んで、部屋が向かい合って並んでおり、その景色は遥か先まで続いていた。何部屋あるのか数え切れない。建物の内装は本館とはまるで異なり、くすんだ白一色の殺風景な空間であった。まるで精神科病棟か刑務所のような雰囲気は、ここがパラディッソであることを忘れさせてしまうほどであった。
清一は周囲を伺いながら、恐る恐る手前の部屋に近づいた。白いドアの小窓を覗くと、金網が埋め込まれた分厚いガラスの向こうに、四人の老人の姿が確認できた。
そこは八畳ほどのスペースで、パイプベッドが四つあり、老人たちは皆白いジャージーにその身を包んでいた。二人は力なくベッドに横になっており、うち一人はベルトで腕を固定されていた。別の一人は壁をたたいて喚き、もう一人は壁にもたれてうなだれていた。誰も清一には気付いていなかったが、分厚いガラスの向こうの人間はどうみても精神を病んだ者のようにしか見えなかった。
やはり考え過ぎだったか―
清一は窓をノックしようと振り上げた拳をゆっくりと下ろし、その場を去ろうとした。しかし、その瞬間、背後からドアを叩く鈍い音がした。
「ここを、ここを開けてくれ!」
振り返ると、壁を叩いていた男が顔を小窓に押しつけて、ドアを叩いていた。眼は血走り、清一に噛み付かんばかりの勢いだった。清一は思わず後ずさった。
「そっちから開くはずだ。早く開けてくれ」
様子からして、叫び声はかなり大きなもののはずだが、分厚いガラスに阻まれているようだった。声はドアの下の通気口から力なく漏れてきていた。
清一は男の剣幕に気おされ、とっさに首を振っていた。思わずドアが開かない、というジャスチャーをしていた。
「頼む、頼む!頼む、頼む…」
男は、今度は清一に拝むような仕草で懇願した。男の後ろには、いつの間にか二人が詰め寄せて、一緒になって拝んでいた。とにかく、開けろ、頼むを連呼していた。
よく見ると、男の目には涙が浮かんでいた。
もしかしたら―
清一は涙に引き寄せられるかのように、いつの間にかドアノブにゆっくり手を掛けていた。
その時、清一の背後で男が叫んだ。
「コラァ!何してんだ!」
清一はその声にびっくりして振り返った。そこには黄緑色のスタジャンを着た若者が立っていた。清一は固まった。助けを呼ぶ声に気をとられ、スタッフの気配に気付かなかった。
「困るなぁ。おっちゃん。ここには立ち入っちゃいけない、って聞いてるだろ?」
首筋を掻きながら、ゆっくり近付いてきた男は、清一が入居者であることに気付いていないようだった。清一は羽織っている作業服に目をやってから、ぎこちない笑顔でごまかした。
「まさか開けてないよね?逃げられるとさ、後が大変なんだよ。一応動物だからさ」
男はドアノブのロックを確認してから、警棒でいきなり小窓を殴りつけ、ドアの向こうの老人を追い散らした。乱暴で、しかも慣れた手つきだった。そしてなおも固まっている清一を見て笑った。
「こんなとこをウロウロしてると、おっちゃんまで間違えられて捕まっちゃうかもよー」
男は清一の服装を見回してから続けた。
「ま、おっちゃんなんか、ヤっても金にはなんねえ、か。貧乏だったことに感謝しなくちゃいけねえよ。ハハ」
男は、早く行きなと言い残し、廊下の奥を指差して去っていった。清一は走って逃げたい気持ちを必死で我慢して、廊下をゆっくりと歩みだした。
「おい、開けてくれ、ここを開けてくれー」
「あ、あんた、お願いです、ここを開けてください」
「行かないでくれー俺も連れて行ってくれー」
清一は、左右の部屋からの助けを求める声を振り切りながら、そちらには一瞥もくれず、必死に先に進んだ。まるで地獄だった。声の主の顔を見たら、とてもその場を去ることはできないだろう。怪しまれないように、わざとゆっくり進んだつもりだったが、部屋からの悲痛な叫び声に後ろ髪を引かれるかのように、清一の足は鉛のように重くなっていった。
長い廊下を抜けると、突き当りで一本の上り階段が姿を現した。清一は目立たないように周囲を見渡したが、一階であるにも関わらず、非常口がひとつも見当たらなかった。唯一、階段とは逆の方向に「処置室」と書かれた大きな観音開きの扉が確認できた。
大型の鉄製の扉に窓はなく、それは担架などが楽に担ぎ込められるような間口の広いものだった。何か音でも臭いでもするわけではなかったが、その扉からは何か近寄りがたいものを感じ、清一は無意識に目を背けていた。
清一は、これ以上むやみにフロアの出口を探し回る訳にもいかず、階段を二階へと登ることにした。二階からまた別棟に続くルートがあるのでないか、という僅かな望みに賭けるしかなかった。
足早に階段を上がると、二つの防音扉があり、それをくぐると一階の声はもう聞こえなくなっていた。
柔らかなクリーム色の壁に囲まれた二階は、一階に比べれば少し温かみを取り戻していた。それでも本館の豪華ホテル並みの内装に比べれば、はるかに見劣りするものではあった。
ここはパラディッソなんだと、清一は何度も自分に言い聞かせた。そうでなければ今自分がどこにいるのか分からなくなりそうで怖かった。
清一は足を忍ばせながら、廊下を急いだ。とにかく別棟につながる通路、ないしは一階に下りる別の階段を見つけなければならない。途中、柱に隠れながら窓の外を見たが、既に闇に包まれて何も見えなかった。腕時計を見ると、もう八時を回っていた。
出口はどこにあるんだ―
焦りを感じながら、館内をさまよっていると不思議なことに気がついた。通路沿いの居室からは明かりが漏れ、人の気配はするものの、話し声はもとよりTVの音すら聞こえてこないのだ。ここは特養棟であり、健常者ではない人たちが入居しているであろうことを考えても、この静けさは、明らかに異常だ。巡回スタッフの姿が見えないのも気になっていた。本館では考えられないことだった。
清一はふと足を止め、引き戸が少し開いている一つの居室を覗いてみた。するとそこにはブルーのジャージを着た人が3人、ベッドに腰かけ、黙々と本を読んでいた。
「あのう」
清一は恐る恐る声を掛けてみた。騒がれては困る、とは思っていたが、本に注がれる真剣な眼差しは健常者のものとしか思えなかったからだ。
声を掛けられた手前の男は、清一に気がつくと一瞬驚いたが、すぐ清一を睨み付けると口に指を当ててシッ、と発言を制した。他の二人も露骨に不機嫌な表情を見せた。
「ここは特養棟ではないのですか」
清一は構わず訊いた。健常者と分かった以上、そうしないではいられなかった。
すると、たまりかねたように、男がベッドから降りてきて、眉をしかめながら構わずドアを閉めようとした。
「教えてください、何がどうなっているんですか」清一はドアに手を挟んで抵抗した。ここで引き下がる訳にはいかなかった。しかし、男は清一の声にイラつくように、指で自分の頭を指差して言った。
「私たちは呆けている。構わんでくれ」
「呆けている人が自分で呆けているなんて言う訳ないでしょう」
清一がすかさず返すと、男は声のボリュームを落として、短く、しかし強く言った。
「これ以上、迷惑をかけないでもらいたい。出て行ってくれ、すぐに人が来る」
男は静かにドアを閉めた。清一は、もう一度そのドアを開けようとしたが、廊下の向こうからスタッフが駆けつける気配を察し、慌てて逆方向へと逃走した。
ここにいる人たちは要介護者ではない。なのに、なぜここに収容されているんだ―
本館にいるのは要介護者ばかりで、健常者はこの特養棟に移されている。いや「軟禁」されていると言ったほうが正しいだろう。先程の入居者の顔を見れば分かる。スタッフを恐れて、何か言えない事情があるのだ。ここを出ようとしない事情があるのだ。おそらく一階で「監禁」されている人たちも健常者に違いない。閉じ込められているのだ。
しかし、なぜ?
これは大掛かりな虐待なのだろうか?いや、それなら本館の要介護者が標的にならないのは不自然だ。ということは、健常者だけがこの施設を出られないようにされているということなのだろうか。それならば清一自身が外出を阻まれたことにも通じる。しかし、なぜ健常者が監禁されて、要介護者が自由を許されているのか。このホームの目的は何なのか。
これは一部のリストラ職員の恨みだけで出来ることではない。
清一は、得体の知れない陰謀を感じずにはいられなかったが、それが何かは掴めなかった。
二階の端までたどり着くと、また別の階段が姿を現した。自分か進んできた方向と距離を考えると、この下は「監禁エリア」のとなりにある「処置室」のさらに向こうになるはずだ。そこまで監禁室が続いているとは考えにくい。
ここならば出入り口も見つかるかもしれない。
清一は一縷の望みを託し、階段を下に駆け下りた。すると突然、行く手の通路の奥から声が聞こえた。
「おーい、じじいー どこ行ったー」
監禁室で遭遇したスタッフの声だ。本部からの連絡を受け、清一の正体に気付いたのだろう。声の大きさからいって遠くはない。清一はとっさに引き返そうとしたが、上を見上げると「こっちもいないぞー」と別のスタッフの声が聞こえた。清一はスタッフの姿が見えないことをいいことに、警戒を怠っていたことを悔いた。やはり追手は着実に迫ってきていたのだ。
清一は階段の陰に隠れた。隠れた、というより追い詰められたと言うほうが正しいかもしれない。ここでは前からでも上からでもその存在に気付かないはずがない。
清一はじりじりと背を壁に押し当てた。するとそこに別のドアがあることに気付いた。 しかしドアには鍵がかかっていてびくともしない。スタッフの足音はすぐそこそばまで来ている。
万事休すか―
するとその時、ドアが静かに開いて、清一は何者かに腕を掴まれ、その中に引き込まれた。中は真っ暗で何も見えなかったが、腕を掴んだ主は「静かについて来て」とだけ言うと、清一の手を引いて奥へと進んでいった。スタッフなのか、入居者なのかは分からなかったが、清一はその声の主に従うしかなかった。
数メートル進むと、次のドアが開き中から青白い光が漏れてきた。清一の手を引いていたのは入居者とおぼしき小柄な女性だった。
「あなたは」
「大山といいます。あなたのことは聞いています。みんな待っていますよ」
大山の顔は穏やかだった。それを見て清一は少し安心した。みんな?と聞くと大山は部屋の奥を指差した。立てかけた折りたたみテーブルと、ひっくり返して詰まれた椅子の山の脇に、三人の老人が腰を下ろして座っていた。大山を含めて全員がジャージ姿だった。部屋はよく見ると用具室のようだった。手が届かない、小さな横長の窓から月明りが差していた。
「黒川さん、でしたね。さぞかし心配されたことでしょう」
目の細い長身の男が立ち上がってあいさつした。男は村木と名乗った。
「私のことを知ってるんですか」
「館内放送でね。スタッフの連中が探し回ってるのを聞きましたから」
「あなたたちは」
「ここの入居者ですよ。本館からここに連れてこられました。あなたと同じです」
清一は村木の言葉を素直に受け入れる気にはなれなかった。
「失礼だが、私は違う。本館の人間です。事情があって外出しようと…」
「時間の問題だろうが」
村木の横でうつむいて座っていた小太りの男が鼻で笑った。胸には「木下」の名札がずれてぶら下がっていた。
「外出を止められたんだろう?あんたも。ここから出すわけにいかない人間とみなされた、ってことさ。スタッフに捕まっちまえば、もう本館の部屋には戻れない。あしたは俺たちと同室さ」
「そんなはずはない」
「だったら部屋に戻ってみなよ。驚くぜ…」
木下が不気味に笑うと、大山がその態度をたしなめたが、彼女も木下の意見に異論はないようだった。村木もうつむいていた。清一は反論を求めて、少し距離を置いて座っている別の男を見たが、彼はうんざりした表情で視線をそらした。どうやら、清一が「同類」であることに誰も異論はないらしい。清一は背中に冷たいものを感じた。少し間をおいて単刀直入に訊いた。
「どうして、健常者のあなた方がここに軟禁されているんですか」
「金だよ」木下がぶっきらぼうに答えた。続けて村木が静かに続けた。
「ビジネスなんでしょう」
「ビジネス?」
「そう、我々を特養に押し込めて出られないようにすることが、彼らにとって何らかの利益に繋がっているはずです。そうだとしか考えられない」いろいろな情報に基づいた推測ですが、と前置きして村木が続けた。
「今、老人ホーム事業はあちこちで経営難に陥っています。安月給によるスタッフ不足、介護報酬の切り下げ、一時のホーム乱立による過当競争などです。このパラディッソも例外ではない。入居規模に見合わぬ器の大きさが災いして、コストもかなりかさんでいるようですよ。それに、親会社の業績低下のあおりで営業収益の改善を迫られているようなんです」
「それがなんで健常者を監禁することに繋がるんです?設備を簡素化するとか、経費節減するとかやるべきことは他にあるでしょう」
「勿論そんなことは当然やった末の話なんでしょう。実際、私が来たときよりも、一般棟のサービスはうんと低下しています。スタッフも減りました。でも、それでも収益が見込めない。ホームが親会社の求める利益を上げられなかったとすれば?」
「…ほかに方法はないでしょう。破綻するしかないじゃないですか」
村木は清一の目を見詰めて言った。
「一時入居金ってご存知ですよね」
「まさか…」清一は絶句した。
「そう、数千万円から億単位の入居金です。これは入居時に部屋の生涯使用料として一括して支払うものですが、使用年数に定めはない。その後、百まで生きても、入居直後に死んでも、両者の入居金は同じ。追加料金も料金返還も生じないという、ホームならではの特異な料金体系です。つまり」
「要は早く死ねばホームは丸儲けってことよ」木下が口を挟んだ。村木も頷いた。
「言い方は悪いですが、木下さんの言った通りです。入居者が早く亡くなったほうが、入居者の回転率が上がり、収益率はぐんと改善する。ご存知の通り、パラディッソの高級棟は、この不況下でも数年の予約待ち状態が続いています。空き部屋が出来れば即、億単位の金が転がり込む寸法です。経営破綻に追い詰められたホーム側が、この禁断の仕組みに目を付けた、というのが私の推測です」
「つまり、新規入居者の部屋を確保するために、既存の入居者を意図的に間引いているとでも?」
信じられた話ではない、と清一は苦笑いを浮かべた。しかし、村木はその疑いの目を真正面から受け止めた。
「たしかにこれは突拍子もない発想かもしれません。しかし、この推測の裏づけとして、」
村木は皆の顔をぐるりと見渡した。
「ここにいる皆さんが全員、高級棟入居者だった、ということです」
清一は唾を飲み込んだ。
「…じゃあなにか、我々は最終的に殺されるってことなのか」
清一は苛立つ顔で村木を睨んだ。
「分かってるじゃない」返事を返したのは木下だった。しかし即座に大山が口を開いた。
「いや、そこはまだ意見が割れてます。老人ホームの場合、死亡でなくても入居者を高級棟から追い出す方法があるから」
「要介護者になったことにして、特養に押し込む訳か」
清一はそう呟くと、悪夢を振り払うように声を荒げた。
「馬鹿馬鹿しい。それじゃ家族が黙ってはいないでしょう。第一、面会に来た家族をどうやってごまかそうっていうんです?不可能だ」
しかし、その問いを待っていたかのように村木は切り返した。
「黒川さんのご家族はどうですか? 助けてくれますか?面会に来てくれますか」
清一は答えられなかった。
真澄が最後に見せた冷ややかな顔が脳裏に浮かぶ。村木は柔らかな笑顔で続けた。
「私もです。助けに来てくれることはもちろん、面会にさえ来てくれません。むしろ特養に移されたら、なおさら距離を置きたがるでしょう」
「うちなんか、早く死ねばいい、と思っているだろうね。そのほうが早く遺産も手に入る訳だし」木下がつぶやいた。
「家族とホームがつるんでいるんだと思うんだよ。ホームは金が入るし、家族にとっても厄介払いができる。俺たちの味方なんてどこにもいやしねえ。最後は家畜みたいに処理されちまうのさ」
興奮して続ける木下を手で制し、村木は清一を見た。
「きっとホームは、こういう家庭事情を抱えた入居者をターゲットにしているんでしょう。入居時の家族構成はもちろん、面会者の種類、回数、全てチェックした上で、完全に社会から孤立している入居者を生贄に選ぶ。いや、入居審査時から獲物を絞っていたのかもしれない」
清一は視線をそらせた。もはや反論をする気を失っていた。呆れたというより、その逆だ。自分の中にある悪夢の点と点が繋がったような気分だった。
高額な入居金、社会からの孤立、家庭不和。たしかにその全てが身に当てはまる。それに、今日自分が経験した出来事、特養棟で目にした現実を思い出すと、彼らの推測にうなずにはいられない。それに、真澄を始め会社の連中が自分との接触を断ったことも無関係ではあるまい。これはホームの組織的な陰謀なのだ。
清一が押さえ切れない疑問を口にしようとした時だった。
「あんたがたの妄想はそれぐらいでいいかな」
村木たちとは距離を置いて座っていた男が口を開いた。男は体勢を崩さぬまま、目だけをこちらに向けていた。
「斉藤さんの考えは俺たちより過激だよ」
木下がやれやれといった表情で男を見た。男は斉藤という名前らしい。
「黒川さんだっけ?いま聞いた話、本当だと思ってるの?」
斉藤は立ち上がって清一のそばに腰を下ろした。
清一は彼らの間でも見方が割れていることに驚いた。間近で見る斉藤の顔は清一たちよりずっと若く見えた。
「信じたくはないが…斉藤さんはどう考えてるんですか」
「私の考えはずっとシンプルだよ。村木さんの言われるビジネスやら陰謀とかではないと思ってる。第一、そんな大掛かりな詐欺みたいなこと不可能でしょ。健常者を強制的に移送させたり?要介護者を本館で野放しにしたり?そんなことできっこない。いいですか、ホームの出入りは家族や職員だけじゃない。知り合いの面会や入居見学者の出入りもあるんだ。彼らの目まで封じることはできないよ」
「入居見学は随時行われている訳じゃない。曜日が指定されている上に予約が必要だ。面会だって時間が決められている。ターゲットとなる高級入居者の移送を決行の日は見学や面会の日や時間帯を避けているだけだろ」
木下がムキになって反論した。しかし、斉藤はそちらを見ようとはせず、独り言のように言い返した。
「それじゃ、ターゲットにされていない大半の入居者の目をどうやって欺けばいいのかね。彼らは今も自由に本館を歩き回っているんだ。ある日突然本館が要介護者に占拠されていたら、それこそ大騒ぎになる」
「だから、ロビーの点検清掃中とか何か理由をつけて、一時的に立ち入り禁止にしているんじゃないのか」
「そんな短い時間に、要介護者を手配して、ターゲットを一人にして捕まえる?そんな大掛かりなことまでするものか」
斉藤と木下は一歩も引き下がろうとはせず、斉藤の目は清一に意見を求めているようだった。木下は「億のビジネスだ。それぐらいのことはするさ」と吐き捨てた。斉藤の説はどうしても認めるわけにはいかない、という気持ちが伝わってきた。
大山と村木は、二人のやりとりを静かに見守っていた。どうやらいつものことらしい。
「斉藤さんの説を聞きたいですね」
斉藤の視線を受けながら、清一は答えた。悪夢のような陰謀説を払拭できるのであれば、もうどんな推測でも聞いておきたかった。
「俺の推理には矛盾はない。ただし覚悟が必要だ」
いいか、と前置きして斉藤は続けた。心なしか、先程よりも顔が清一に接近しているようにも思えた。
「ここ、だよ」斉藤は清一の頭を指差した。そして次に自分の頭を指差して言った。
「ここに問題があるんだ。いま俺たちが目にして耳にしているのは、あっちの世界のことなんだ」
「あっちの世界?」清一の胸に不安がよぎった。
「そう、俺たちは本当は認知症なんだ」
「ええっ」
絶句した清一に、斉藤は落ち着けと言葉を掛けた。
「現実には、本館には健常者しかいない。特養棟にいるのも要介護者のままだ。何も変わっていない。ただ、俺たちに認知症であるという自覚がないがために、特養に送られたことが理解できず、混乱して陰謀やら犯罪やら勝手な被害妄想を膨らませているだけなんだと思う。おそらく俺たちの目には、健常者が要介護者に、要介護者が健常者に見えてるはずだ。スタッフの態度を荒っぽく感じるのも、そのせいだと思う」
「そんな…」清一は言葉を失った。考えてもみないことだった。
「聞く耳持つ必要はないぞ」すかさず木下が答えた。
「斉藤さん、そんな馬鹿げたことを考えるあなたは、たしかに痴呆が入っているかもしれないがな、俺たちは違うぞ。第一、痴呆老人同士にこんなにまともな会話ができるわけがない」
「まともな会話をしていると勝手に思っているだけ、なのでは」
「痴呆老人がな、こんなに深刻に、自分の置かれた状況に悩む訳がない」
「痴呆老人が実際何を考えているなんて健常者に分かるはずがない。本当は心底悩んでいるのかもしれない。今の俺たちのように」
木下の反論に、斉藤は無表情で答えた。そして、皆を見渡して言った。
「たしかに痴呆の老人は、物忘れしたり、徘徊したり、錯覚したりと奇行を繰り返すよ。ただし、彼らの世界ではそれらを間違ったこととは思っていない。だからこそ、それを咎められてあんなに驚いたり抵抗したりするんだ。彼らは健常者である頃はもちろん、痴呆に陥ってからもシームレスで自分は正常である、と思い込んでいるはずだ。そうだろ?だったら我々も、気付かないうちにそんな立場に立たされてしまっていたとしても不思議じゃない。たしかに辛いかもしれないが、冷静にこの現実を受け入れるべきじゃないか」
斉藤の言うように自分が認知症であって、現実と自分の思い込みにズレが生じているのだとすれば、全ての怪現象は説明がつく。
しかしそれは、尊厳ある一人の人間として、陰謀説よりも遥かに受け入れがたいものだった。自分が本当は認知症だなんて、想像したくもない。
もしそうならば永遠にこの地獄から抜け出せないことになる。
清一は助けを求めるように村木を、大山を、木下を見た。しかし、ふたりとも目を合わそうとはしなかった。少し間を置いて村木が口を開いた。
「正直に言えば、斉藤さんの推理も全く考えなかった訳じゃない。可能性もゼロではないと思う」
村木はこぶしを握り締めて顔を上げた。
「だけど私は最後まで自分を信じたいんだよ。自分が異常だなんて認めたらおしまいなんだよ。自分が信じられなくなったら、もうそれは、私が私ではないということになる。そうしたら、もう生きている意味なんかないじゃないか」
そうだ、と木下が声を上げ、大山もそれに頷いた。
「それに、ホームの陰謀の線も消えていませんよね。まだ諦めるのは早いです。今諦めてしまったら、それこそホーム側の思うつぼですよ」
大山が励ますように喋ると、斉藤は目を閉じて深い溜息をひとつついてからすっくと立ち上がった。
「諦める、とかじゃないんだよ。俺たちはどれだけ考えても答えなんか出せやしないんだ。ほら、夢といっしょだよ。どんなに馬鹿げた設定でも、夢の中ではそれを違和感なく信じ込んでしまっているだろ?たとえばさ、有名タレントが同級生で、学生時代かと思ったら帰った家が今の家で…とか。普通なら当然変だと気付きそうなものなのに、夢の中では事実だと信じ切っている。目覚めてみて初めて、どうしてあんな矛盾に気付かなかったのだろう、って噴き出してしまうことがあるじゃない。それと一緒なんだよ。認知症という醒めない夢の中に閉じ込められた者は、現実の世界では簡単に気付けることが、この世界にいる以上どうやったって気付けないんだ。いいか。俺たちは、何をどう頭をひねってみたところで、真実に近づくことは出来ないんだ。考えるだけ無駄なんだ」
一気にまくし立てる声はうわずり、斉藤は肩で息をしていた。
それを見て誰もが悟った。彼自身もその最悪の説を信じたくはないのだ、誰かに論破され、完膚なきまでに否定されるのを待ち続けているのだろうと。しかし、ここにいる誰もが彼のその期待にこたえることはできなかった。
誰もが、陰謀説と認知症説の間で苦悩していた。
しばらく沈黙が流れ、斉藤は「じゃあ俺は戻る」と言い残してドアの方向へ消えて行った。しかし、その背中に誰も声を掛けなかった。掛けるべき言葉が見つからなかったし、掛けられる立場でもない、と清一は思った。四人に暫く沈黙が流れた。しばらくして清一は思い出したかのように口を開いた。
「そういえば、皆さんはどうやって部屋を抜けてこられたんですか。軟禁されているのであれば監視も相当きついはずでは」
「キツイさ」あんたもじきに分かると思うが、と前置きして木下がニヤリと笑った。
「ここで生きていくためにはコツがあってな。いや、難しいことじゃない。とにかくスタッフに逆らわず、おとなしくしているんだ。従順に、という意味ではないぞ。部屋ではとにかく動かず、同部屋の人間とも喋っちゃいけない。特に昼間は。かなり辛いことだが、そうすれば奴らは俺たちに危害を加えることはない。さらに逃げ出す心配もないと判断されれば、夜中はある程度自由に行動することも許してくれるんだ。さしずめ、俺たちは模範囚といったところだな」
大山もそれに相槌を打った。
「昼間はまるで石にでもなったつもりね。まあ、ずーっと横になっていれば少しは耐えられるかしら。ただ私は一番慣れるのに苦労したのは食事だわ。今でも喉を通らないときがあるから」
「どうして、そんな苦痛を強いるんだ」
清一は憤り、立てかけられた会議テーブルを叩いた。思いがけず大きな音が出たので、清一は焦ったが、他の三人は気に留めなかった。
「外部からの目を欺くためでしょうな」村木が口を開いた。
「特養棟が渡り廊下とトンネルだけで繋がっているとしても、外から訪問者が来ないとも限らない。まれに入居の見学者や県の職員が様子を見にくることもあります。そんな時に入居者が健常者であることがバレたら不都合なんでしょう。要するに、我々を大人しい認知症患者に見せかけたいのです。だからその芝居に協力できる者は、人目の避けられる夜間に限り、多少の自由が許されているのです」
「過度のストレス状態に追い込むことで気をふれさせ、入居者を本当の病人にすることができたら、それに越したことはないしな」木下も補足した。
「ちょっと待ってください」清一は身を乗り出した。
「見学者や県の職員が訪れるなら、彼らに助けを求めればいいじゃないですか」
しかし村木は首をふった。
「信じると思いますか?突然、特養棟の住人がすがりついてきて助けを求めても、信じてくれやしませんよ。詳しい事情を説明をする前に、屈強なスタッフに取り押さえられておしまいです。それに役人はこことはツーカーの仲です。巨額の法人税は勿論、介護行政にとってもここのような大口の介護の受け皿は貴重なんです。おそらく悪事を知ってて、見て見ぬふりをしているんでしょう」
村木の言うことも一理ある。清一は一階の監禁棟で見た光景を思い出していた。目を血走らせて助けを求めてきた彼らを、清一自身も最初は精神病患者だと疑わなかった。
「それに、そんなことをしてその後どうなると思う?」木下が清一を指さして続けた。清一にもだいたい想像はついていた。
「危険人物として、あの監禁室に送られるのさ。あそこは地獄だぞ。こことは比べものにならない。あそこから戻ってきた奴なんてただの一人もいない。だから詳しいことは分からんが、狭い部屋から一歩も出られない上に、食事だってゴミみたいなものを食べさせられているらしい。それから、これは昨日聞いた話なんだが」
木下は村木と大山にも目を向け、顔をぐっと近づけた。
「あそこでは拷問も行われてるって話だ」
「拷問?」三人の顔色が変わった。
「ああ。昨日、同室の新入りが夕方に部屋を抜け出しやがってよ。すぐに血相を変えて戻って来やがったんだが、そいつに聞いたんだ。なんでも、出口を探して一階に迷い込んだらしいんだが、その時、廊下の奥からスタッフに両脇を抱えられてぐったりした爺さんが監禁室に放り込まれるのを見たらしいんだ。爺さんの顔はもう死んだみたいになっていたそうだ。しかも一人じゃない。その後も同じように廊下の奥から別の爺さんが連れてこられるのを見たって言うんだ。それを聞いてピーンときたんだ」
処置室のことだな、と清一は直感した。木下は声を落として続けた。
「分かるか?監禁室の奥で、何か寿命を縮めるような拷問が行われているんだよ。もちろん目的は尋問ではなく、死だ。おそらく、対外的にも自然死を装えるような手法で、じわじわと嬲り殺しにされてるに違いない。そこまでやってるんだよ、このホームは」
三人は木下の顔を見たまま固まっていた。何の反論も質問もしなかった。新事実の衝撃に言葉が出なかった。
木下は、三人の視線に耐えかね、窓の外の月を見上げた。遠くを見詰める目で深い溜息をひとつ着いた。
「老後の究極の楽園とかぬかしやがってよ。結局は姨捨山だったってことじゃねえか。いや、もっとひどい。我々老人だけじゃない。触れ合いをうたった幼稚園の併設も、知的障害者の積極雇用だってそうだ。聞こえはいいが、結局、社会の邪魔なモン全部寄せ集めて、この山に捨てにきただけじゃねえか。それが理想郷かよ。騙された俺たちも俺たちだ。全財産かかえて、喜んで姨捨山に移り住んできたんだからな。笑えるよ。何のために一財産こしらえたんだか」
木下の口調は穏やかだった。大山も自嘲気味にうなずいた。
「この世に買えないものはない、最後に頼れるものは人間じゃなくてお金だ、そう信じて生きてきたけどね、ずーっと。財産を築いて、パラディッソの契約書にサインした時点で成功の人生のゴールを迎えたと思い込んでいた。でも、最後の最後に裏切られちゃうんだもんね。ここから出せ、と喚いてみてもお金は助けに来てはくれなかった。認知症にされた日にゃ、もう手も足も出やしない。使えなくちゃお金なんてあっても無いのと同じなのよ。結局はお金の使い道を託すことになる人、その人自体に依存することになるんだから。思いもよらなかったわ。人生の最期に問われることが、自分のことを本当に思ってくれる人間がいるかどうか、なんてね。そういう人間関係を築いてこれなかった私は、人生に失敗したことになるわよね」
大山は村木を見て「そうよね」と微笑んだ。自身にも思い当たる節があるのだろう、村木も照れ笑いを浮かべていた。
しかし、清一は笑えずにいた。それは違う、という言葉がそこまで出かかった。
一生懸命働いた人間が、人間関係に問題があったとか、孤独だとかそういう理由で、悲しい老後を送っていいはずはない。だからこそ、高級老人ホームの夢を抱き、パラディッソを支援してきたのではないか。それなのに今、何の落ち度も無い人間が、自分の中に無理矢理非をみつけて己を納得させている。全く報われずにいるのだ。この責任は、老後の夢を踏みにじり食い物にしたパラディッソ、そしてそれを止められなかった自分にも責任がある。
清一は腹を括った。
この悪夢を食い止められるのは自分しかいない。皆の協力を得て自分がここを脱出し、エブリーに乗り込んでパラディッソの実態を暴くことができれば、ここにいる入居者を救い出せることができるかもしれない。陰謀説か認知症説なんて真相は二の次だ。現実に犯罪の可能性がある以上、このまま放っておく訳にはいかない。自分はただの入居者ではない。オーナーだ。彼らを救い出す責任があるのだ。
「皆さん、実は…」
清一が正体を明かそうとした瞬間だった。闇の向こうでバタン、とドアが閉まる音がした。四人の視線が一斉に音の方向へと向けられた。しかし、闇の中から現れた男の姿に、清一は固まった。オレンジ色のスタジャンを羽織ったスタッフの青年だった。
「よう」
青年は村木たちに声を掛けると「じいちゃん、差し入れ」と言ってスナック菓子の袋を二つ床に転がし、その場に胡坐をかいた。村木もご苦労さんと言って、男が座れるようスペースを開けた。
清一が混乱しているのを察して、村木が笑った。
「恐れることはない。彼は味方だ」
「ども。杉村と言います」
杉村と名乗る男は、清一の警戒を解くかのように笑顔でぺこりとお辞儀をした。清一はその顔に見覚えがあった。ロビーで清一を逃がすために台車をスタッフに激突させた男だった。
「ああ、君は…」
「じいちゃん、逃げられて良かったな。表ではまだ騒ぎになってるよ」
なんだ知り合いか、と木下が驚くと、清一は自分がスタッフから逃げ出せた経緯を説明した。そして、なぜ自分を助けたのかを聞くと、村木が杉村に代わって答えた。
「杉村くんは、ホームの虐待を告発する活動をしているNPOの職員でね。バイトを装ってパラディッソに潜り込んでいるんだ。ここの実態を調査してくれている。我々の希望の光だ」
杉村は照れくさそうに頭をかいた。
「俺はこの貴重な差し入れが楽しみでな」
木下は早速スナックの袋を開けて、大山にも勧めた。二人とも美味しいと言って菓子を頬張っていた。それを杉村はうれしそうに眺めていた。
明らかに健常者である若者と意思疎通が図れるということは、我々はやはり認知症ではないのかもしれない。それに気付くと清一にも希望が沸いてきた。すると和やかな雰囲気を壊すように、清一は杉村に詰め寄った。
「杉村さん、ここの実態を警察に告発してもらえるんですよね」
「そう考えています。しかし、もう少し時間を下さい。警察は証拠がないと取り合ってくれません。健常者がたしかに監禁されている、という動かぬ証拠が必要なのです」
杉村は少し面食らったようになったが、清一は質問の手を緩めない。
「どんな証拠があればいいんですか」
「健常者が特養棟に監禁されている映像、もしくは入居者の証言です。それをどう確保すればいいか思案しています」
「隠しカメラを使えばいいでしょう」
「そうもいかないんですよ。スタッフの持ち物検査は厳重で、カメラを持ち込むのは容易ではありません。それに、盗撮に成功したとしても、特養で入居者が単にじっとしているだけの映像では、説明が難しいと考えています。どうにでも解釈できますから。いっそ監禁棟に忍び込めればいいんですが、あそこは特にセキュリティが厳しくて。新入りのボクではなかなか近づけないでいるんです」
「じゃあ、この中の誰か一人が、一緒に脱出して証言すればいいでしょう」
清一に問い詰められて困る杉村を見かねて、木下が待てよ、と口を挟んだ。すでに二袋目に手をつけている。
「そんなこと出来たらとっくにやってるよ。なあ、この厳重な警備の中を脱出できると思うか?出入り口は正面玄関の一箇所だけ。それを突破できても、正面ゲートまでは坂が2キロも続いている。どう考えても途中でくたばるか捕まるかのどっちかだ。過去に一人脱出に成功した奴がいたらしいが、そいつも裏山の山中で野たれ死んだって話だ。逃げられる訳がねえ」
それによ、と木下が続けた。
「杉村の兄ちゃんだって、ここに潜り込むのにどんなに苦労したと思う?すでに二人潜入に失敗してるそうだぜ。下手な証拠で警察に駆け込んだところで、相手にされなきゃ、ホームの警備態勢はさらに厳重になるだろうよ。そうなりゃ、我々が解放される日はさらに遠のいちまう。いいか、告発するチャンスは一回こっきりなんだ。失敗は絶対許されないんだ。気持ちは分かるが、焦っちゃダメだ」
清一は返す言葉がなかった。
「それに、方法は脱出だけじゃねえしな」
木下がそう言うと、村木も頷いて杉村を見た。
「例の件、調べて貰えましたか」
すると杉村は真顔になって、ジーンズのポケットからメモを取り出した。
「はい、パラディッソの新社長は宮田芳晴という人物でした」
「宮田? 社長は細野忠ではないのか」
清一は思わず聞き返した。
「いや、間違いありません。先日の株主総会で再任された、と新聞で。前の社長はずいぶん前に経営責任をとって辞めたとか」
「宮田が…」清一は天を仰いだ。やはり裏であの男が…と心の中で呟いた。思わず拳を握り締めていた。その様子を見て、大山がお知り合いですか?と聞き返したが、清一の耳には入らなかった。
「それで、視察のほうは」村木は構わず質問を続けた。
「来月の二十日に。親会社エブリーの社長を伴ってやってくるそうです。スタッフは今その準備に大忙しですよ」
杉村は呆然とする清一を気にしながら答えた。すると木下が膝をたたいた。
「よっしゃ。親会社の社長もいるのか。こんなチャンスねえよ。やっと計画が実行できる」
「計画?」
清一は親会社の社長、という言葉に反応した。
「襲って人質にとるんだよ。俺たちが助かるにはこの方法しかねえ」
木下がにやっと笑うと、村木も静かに頷いた。
「ホームのお偉方を人質に取って、解放の取引にするんです。ターゲットが経営トップなら申し分ない。ホームも交渉に応じるはずです。それにこの方法なら入居者全員を救うことが出来ます」
「その社長はどうなる?」
清一の脳裏に真澄の顔が浮かんだ。
「社長の心配なんかしてどうなる?この作戦に失敗したら俺たちはみんな監禁室に送られて嬲り殺しにされるんだぞ。全員の命がかかってるんだ。助かるためなら、社長の目でも耳でも削いで俺たちが本気だってことを示してやるさ」
気色ばむ木下をよそに、大山が奇妙な気配に気がついた。
「黒川さん、もしかして、社長さんとお知り合いでは…」
「なに、あんたホームの関係者か」
大山の指摘に木下の目の色が変わった。村木も杉村も顔に警戒の色が浮かんでいる。
「そういえばどこかで聞いた名字だよな…」
「違う、全くの他人だ。奴らと関係がある人間がスタッフに追われる訳がないだろう。ただあまり手荒なマネはしたくないだけだ」
清一のとっさの言い訳に、三人の顔色が元に戻った。
「そうですか。でもこれだけは覚えておいてください。我々はここで人間以下の扱いを受け、ささやかな老後の幸せを奪われた。人生を食い物にされたと言ってもいい。木下さんの言うような殺人行為が行われているかどうかはまだ分かりませんが、このような仕打ちを受けて絶望し命を縮めた者も、また自ら死を選んだ者もいるんです。そんなことをさせてきた人間を、私は人間とは認めません。正直、私は木下さんの気持ちと同じです。悪魔と刺し違える覚悟で、この計画に臨むつもりです」
村木の顔はまるで別人だった。先ほどの丁寧な口ぶりとは想像ができないくらい恨みに満ち溢れていた。
清一は、村木たちの顔を見て、自分の正体は絶対に明かせないと悟った。親会社エブリーの最高経営者にしてパラディッソのオーナーなのだ。それが知れれば、即座に彼らに利用されるのは目に見えている。会社との隔絶、親子喧嘩など誰が信じよう。自分は彼らにとって「敵の大将」以外の何者でもないのだ。
それにもうひとつ、清一の決心を揺さぶるものがあった。真澄の身に危険が迫っているということだ。
パラディッソが、いやエブリーが宮田の毒牙にかかっていることはほぼ間違いないだろう。このパラディッソの地獄から入居者を救うためなら、エブリーごと葬り去っても構わない。むしろそれが清一にとっての責任の取り方だと思っている。真澄にこんな腐った会社を残してなんになる。いっそ葬り去った方が彼のためだ。今は会社には何の未練もない。
しかし、真澄の命だけは守らなければならない。どんなに親子喧嘩をしていても、どんな理由があろうとも、俺は親なんだ。
彼らに真澄を襲わせる訳にはいかない―
真澄がパラディッソを訪問する前に、真実を直接問いただすしかない。そして宮田の呪縛から真澄を解き放ってやる。これが親としての最後の勤めになるだろう。
清一は脱出への決意を固めた。
「ここは私に任せてはもらえないだろうか」
清一は四人に向き直った。どういうことだ、と村木が驚いた。
「私がここから脱出する手助けをお願いしたい。脱出に成功したらここの事実を世間に公表する。約束する」
「どうやって?物証なしに一人警察に駆け込んでも相手にされない、無駄だって、いま杉村君から聞いたばかりだろ」
木村は冷たく反論したが、清一も引き下がる訳にいかなかった。
「実は地元新聞社に二十年来の知り合いの記者がいる。その男に掛け合ってみようと思ってる」
「しかし下手に騒がれると、我々の計画にも影響が出る」
木下がたしなめたが清一は畳み掛けた。
「杉村さんの告発が、最も固い線であることは私も理解しているつもりだ。しかし物証が集まるまで、あなた方はここで我慢しているというのか。確かに私の告発は無駄になるかもしれない。しかし、もしうまくいけば、それで皆が救われるということも忘れないで欲しい」
清一の気迫に木下も気圧されているようだった。それに、と清一は続けた。
「怒らないで聞いて欲しい。私は追われる身とはいえ、まだ特養に監禁されている訳ではない。言ってみれば、私はあなた方とは無関係だ。つまり私がここを脱出しても、あなた方は連帯責任を問われずに済むんだ。当然、杉村さんとの繋がりも疑われない。彼や皆さんの計画にも影響は出ないはずです」
場が沈黙に包まれたところで、しばらく話を聞いていた村木は静かに口を開いた。
「たしかにあなたは、我々とは無関係だ。それに、あなたにはあなたの人生を選ぶ権利がある。そして我々には、あなたの決断を止める権利はない」
村木は清一の目を見詰めた。すると杉村もにこやかにうなずいた。
「僕の告発がうまくいくとは限らないし、作戦が複数あることに越したことは無いかもね。それにホームの人間も、あなたが外に出てしまったと思っているかもしれないし」
「行かせてあげましょう」大山も深く頷いた。そして、木下もがやれやれ、といった表情で頷いた。
「そうだな、うまくいくに越したことはねえ。まずは、あんたに賭けてみるか」そういうと今度は急に真面目な顔になって清一に向き直った。
「頼みます。ここにいるみんなを救って下さい」
村木が頭を下げると、他の三人も頭を下げた。清一はそれに大きく頷いた。