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楽園


男の背中を追っていた。きっとこいつもこんなふうに私の背中を追い、尻を見上げて頂を目指していたに違いない。黒川清一は、自分の背中はこんなに大きく見えただろうかと、今、息子真澄の背中を見つめていた。自然とほほが緩んだのを気付かれまいとして、帽子を深めに被り直した。

久しぶりの山だった。なあに標高千三百そこそこの山だと高をくくっていたが、やはり七十間近の体にはこたえる。足を持ち上げるたびに膝が震え、汗腺がすぼんだ老体には、時折山頂から吹き降ろす風が心底心地良い。見渡す山肌はススキの原が海原のように揺れている。

「疲れたろ。ちょっと休もうか」前を行く真澄が立ち止まり振り向いた。

「これくらいまだまだ平気だ。爺さん扱いはやめてくれよ」清一は気丈に太ももを叩いてみせた。心配顔の真澄を目で先へと促し、再び真澄の足跡を一歩一歩踏みしめて登っていく。今すぐにでもへたり込みたい気分だったが、父親としてのプライドがかろうじて勝った。

岐阜、滋賀県境にある伊吹山は親子で最初に登った山だ。そしてこれが最後の登山になる。

清一は今年、一人息子である真澄に会社を譲る。従業員4千人、売上高三千億円のスーパーマーケット「エブリーストア」を中心に、フィットネスクラブやビデオレンタルチェーンを展開する黒川グループは、清一が一代で築き上げたものだ。まだ三十六歳の息子に譲るには早い、との声もあるが、むしろ若くして重責を担うことが社長としての器を磨く近道だと清一は考えている。

真澄が小学生の頃に母親を病気で亡くしてからは、二人で支え合って生きてきた。母親の愛情がないのだからと、欲しいものは何でも買い与えたし、有名大学への進学も十分な寄付金と地元代議士の働きかけで実現させた。会社に入社させてからは言うに及ばず、昇進も強引に引っ張り上げた。彼の人生が七光りの人生だといわれても否定はするつもりはない。

だが、この先の人生は違う。

私自身、初めて会社を立ち上げたのは三十歳の頃だった。真澄にもできるはずだ。

それが今、真澄の背中を見つめる立場になって初めて確信に変わった。こいつなら皆ついて来てくれるはずだ。

 八合目に辿り着くと、清一はリュックを下ろし、草むらに腰を下ろした。帽子をとった白髪頭は風に荒々しくかき乱された。金無垢のロレックスがなければ、この老人がセレブだと気付く者はいないだろう。

平日の山ということもあってか先客もなく、登山案内板の傍らでは二人きりとなった。息子とはいえ真澄もエブリーの専務。お互いに多忙で、仕事抜きで二人きりで話ができることも最近では少ない。そのせいか、このような状況になるとお互い何を話していいか分からなくなる。しかし今日だけは話しておきたいことがあった。だから過密スケジュールの中、無理矢理、真澄を山に誘ったのだ。

「人生で大切なことを、山はすべて教えてくれる」眼下にかすむ濃尾平野を眺めながら、清一は呟くように話を切り出した。

「いいか真澄、人生でいきなり成功をつかもうなんて考えるな。遥か彼方にある頂上を頭に描きながらも、絶えず見つめるべきは自分の足元だ。どの石をよけ、次の一歩をどこに着地させるか。そんな地道な選択の積み重ねが、結果として己を頂に導いてくれるんだ」

講釈を予測していたのか、真澄は座ろうともせず腕組みをしながら山頂を見つめていた。

「でも僕はあそこにいる連中と同じだよ」

サングラスを外した視線の先には、バスやマイカーで山頂に着いた観光客の姿があった。自分は親父の築き上げたものを、彼らと同じくあっさりと手に入れる。そんな引け目が込められているかのようだった。

清一はちらりと頂上に視線をやってから真澄を見た。

「お前はあれが頂上だと思っているのか」

しまった、という顔をして真澄は俯いた。

「伊吹山は標高千三百メートル。百名山に数えられているとは言っても、日本には二、三千メートル級の名峰がまだまだ山ほどあるんだぞ」

清一は再び視線を頂上に戻し、そこからゆっくりと上空を見上げながら、諭すように続けた。

「お前には、北アルプス、いやエベレストを制覇するぐらいの気概でいて欲しい。私が必死で登ってきた伊吹山なんてのは、エベレストにしてみればほんの一合目程度。まったく取るに足らないものさ。エベレストに単独登頂する人間なんて皆無だろう?誰しもシェルパの助けを借りる。お前がこれから挑む山のことを考えれば、私がお前にしてやったことなんてベースキャンプへの荷揚げ程度だ。少しも負い目を感じることなんてない。自信を持てばいい」

そう話すと清一は真澄を強く見つめた。真澄はその視線に応えるかのようにそっと頷いた。

 九合目を越えたあたりから、マイカーやバスで合流した観光客の姿が目立つようになり、頂上では、およそ場違いなヒールにミニスカートの若い女性や乳飲み子を連れた家族連れの姿も目に付いた。

「これじゃ山を登ってきたのか、下りてきたのか分らんな」

清一があきれると、真澄も苦笑した。

「でも、ベースキャンプに相応しい光景だよ。全く満足できないもの」真澄が続けると、その意気だと清一も笑った。

 二人は溢れ返る観光客をかき分けるように、頂上点を示す「日本武尊像」を探した。しかし、ようやく見つけた像も記念撮影を楽しむ人たちでごった返していた。笑顔でVサインするカップルを、順番待ちの列が「まだか」といった目で急かすように取り囲んでいる。清一の隣では、駐車場からわずか十数メートルを上がってきただけで息を切らす若い女性がしきりに化粧を気にしていた。

親子の最後の思い出になるであろうこの登山で、清一は是非二人の姿を写真に収めておきたかった。ところが、ろくに会話のない道中、なかなか切り出せずにいた。せめて頂上点で―と考えていたのだが、しかしこの混雑ぶりを見るにつけ、清一はそれも諦めざるを得なかった。これ以上気分を害されてはたまらない。

清一は像への接近を諦め、新調したデジタルカメラをそのままリュックのポケットにしまった。真澄の提案で二人は展望広場へと向かうことにした。

 広場は頂上点から階段を下りたすぐそばにあったが、幸いにも人影はまばらだった。ちょうど昼食時ということもあって、観光客は山小屋の食堂に集中しているようだった。山小屋を背にする展望広場は断崖ぎりぎりまでに広がっており、敷物を広げて弁当を食べている中年の登山家夫婦の姿も目に付いた。

清一と真澄は眺望へと歩を進めた。生まれたての雲が、手を伸ばせば届きそうなくらい、頭のすぐ上を通過していく。二人が崖際の柵まで寄ると、上がってきた登山道が一望できた。つづら折の道を蟻のような登山者たちがゆっくりと上がってくる様を見下ろすと、あまりの高さに思わず足がすくんだ。

 「あそこに見えるのが金華山じゃない?」

 真澄に促されて視線を上げると、目の前には巨大パノラマが広がっていた。その美しさに清一は言葉を失った。遥か先には中央アルプスがぼんやりと浮かび、その下に広がる青々とした濃尾平野。琵琶湖は陽光を受けて鏡のように光っていた。絶景というほかはなかった。伸びをし、冷たく澄んだ空気を体いっぱい吸い込むと、疲れがいっぺんに吹き飛んだ気がした。

 「ほう、どこに金華山がある。年寄りの目では無理か」

 苦笑いをしながら清一が目を細めると、横から真澄が双眼鏡を手渡してくれた。清一はそれを両手に構え、山を探した。

 「父さん、そっちじゃないよ。こっち。頂上に城が見えるだろ」

 清一は真澄の声の方向へ向きを変えた。しかし、ズームが効きすぎたのか城はなかなか視界に入ってこない。夢中で山を探すうちに、無意識に体が前のめりになってしまっていた。

 「あぶない!」

 真澄の声がしたのが先か後か、清一の体は腰ほどの高さの柵を越えて宙に浮いていた。青空と褐色の斜面が逆さまになり、とっさに左手で柵を掴んだが、体重を支えきれない。肩と額に強い衝撃を受けて、体は一回転し、清一はそのまま崖を滑り落ちた。礫を崩しながら全身で必死に斜面にしがみつくと、なんとか転落は食い止められた。下を向くと双眼鏡と礫が跳ねながら真っさかさまに転げ落ちていくのが見えた。帽子は既にどこかに吹き飛ばされている。

 「父さん、大丈夫か!」

 上を向くと、崖から身を乗り出した真澄が血相を変えてこちらを覗き込んでいた。

 「ああ、大丈夫だ」

 清一は息子を心配させまいと答えたが、大丈夫のはずがなかった。それは真澄の青ざめた顔を見れば分かる。汗とは異なる、熱いぬるりとしたものが、痛みとともに頭皮を伝ってくる。額が割れたか。清一はそれを確認しようとしたが、そこに手を伸ばすことはできなかった。少しでも動けば転落は免れない。息をするたびに、じりじりと体がずり落ちていく。必死に岩肌にしがみついてはいるが、自分がどんな体勢でいるのかは見当がつかない。だが、ぎりぎりの状態で転落を免れている、ということだけは分かった。冷静に周囲を確認すると、広場の地面までは這い上がれそうな距離だ。だが、体が伸ばせない。

 「おーい、誰か来てくれー」

 真澄は山小屋の方へそう叫ぶと、リュックを投げ捨てて、腹ばいになり柵をくぐった。

 「やめろ、どういうつもりだ」

 清一は真澄のしようとしていることを悟ると、慌てて彼を制止した。「お前まで危険にさらせない」。しかし真澄は聞く耳を持たず、右手を清一のほうへ思い切り伸ばした。

 「ばかな真似はやめろ。お前まで落ちたらどうする!」

 清一は斜面にしがみつきながら息子を一喝した。体がさらに滑ったのが分った。

 「父さん、手を掴むんだ。早く!」

 「やめろ!お前が落ちたら会社はどうなる!お前はトップに立つ人間なんだぞ」

「親父がいないエブリーなんていらない」

「ばか者っ!経営者の自覚を持て」

しかし、真澄は手を伸ばし続けている。決して引っ込めない。

 「それじゃ経営者として言う。エブリーにはまだ黒川清一の力が必要なんだ!未熟な二代目を支えるために。だから早く!」

 柵を握る真澄の左手が震えるのが分った。清一にはもう考える時間がなかった。流れ出る血があごからしたたる。

 「この親不孝者っ」

 清一は右手を伸ばした。真澄の指と指が触れた。しかし、あとわずか届かない。

 もう駄目だ―

 清一がそう思った瞬間、真澄はさらに身を乗り出し、その右手をがっちりと握った。驚いたことに、いつまでも子どもだと思っていたその手は、清一の頭の中にある真澄のイメージとは別人と思えるほど実に逞しい手だった。


最後に真澄の手を握ったのはいつだったろう―

差し出された手につかまり、崖を懸命によじ登る清一の中で、もう一人の自分が、この手の感触に導かれるかのように、ぽつりと自問した。こんな絶体絶命の状況にもかかわらず、なぜかその自分は冷静に回想を始める。真澄の入社、大学時代と時を遡り、少年時代に思いを巡らすと記憶は断片的になってゆく。

それは記憶が薄れたというより、親子の交流の希薄さが理由だと気付くのに時間はかからなかった。

清一は愕然とした。最後に真澄の手を握ったのは、家族で初めてこの伊吹山を登ったあの日。もうすぐ頂上だというのに道端にへたり込む真澄を妻と一緒にひっぱり上げ、そして、その手を引いて上を目指したんだ。あの時の小さな手はしっかりと覚えている。別人のような逞しい手に成長したが、これは紛れも無く真澄の手。

しかし、あの時以来、一度も真澄の手を握ったことが無かったなんて―


「父さん、足をそっちの岩に引っ掛けて」

清一は頭上の真澄の指示通りに足を突っ張り、体を起こした。次は左手を、という声に耳を集中させる。頭に真澄の荒い息遣いが吹きかかるのを感じた。もう一人の清一は、なおも回想と自問を続けている。

あの登山から暫くして、妻が倒れた。病に気付いた時には既に手遅れだった。私は悲しみを忘れるように仕事に没頭した。好きだった山からも距離を置くようになった。家庭を顧みなくなっていた。可哀想なのは真澄だ。あいつは両親を亡くしたのも同然だった。

今思えば、あいつが欲しかったのは、小遣いでも、愛想のいい家政婦でも、質の良い家庭教師でもなかったんだと思う。必要だったのは父親の愛情。運動会だろうと何だろうと、真澄の手を握る機会なんていくらでもあったはずだ。手のひらを、げんこつに変えて派手な喧嘩の一つも必要だっただろう。

でも、そんな濃密な関係を築こうとしなかったのは、他でもないこの私なんだ。

辛い過去から自分だけ逃れようとしていたのかもしれない。

あれほど待ち望んだ子だったのに。いつの間にか目の前の奇跡を忘れ、家庭よりも仕事を選んできてしまっていたのだ。妻を早くして亡くしたのも、それと無関係とはいえないだろう。私が妻のことをもう少し気にかけていたら、体の異変にも気付いてやれた。幼い真澄を一人で悲しませることもなかったに違いない。

それで私はこの子の父親だと胸を張って言えるだろうか。

しかも、今その子は自分の身を危険にさらしてまで、この出来損ないの父親を救おうとしているのだ。

堰を切ったように溢れかえる後悔の記憶は、自責の念となって清一の体に次々とまとわり付き、その体はどんどん重さを増していくように感じた。

「頑張れ、あともう少しだ!」

頭上の搾り出すような声に、清一は我に返った。見上げると、真っ赤な顔をして、この老体を力強く引き上げる真澄の顔があった。

しかし、清一は彼のその懸命な視線を受け止められなかった。

私に父親の資格があるのか―

 自己嫌悪と同時に、ふっと真澄の手を握る力が抜けた。

だが次の瞬間、清一のその僅かな変化を感じ取るかのように、真澄の大きな手はいっそう力を増して清一の手を握り締めていた。痛いほどの力。清一の思いを全て見通し、なおそれを包み込むような。優しい力だった。この手は絶対に離さない。清一の体はその思いに引き寄せられるようにゆっくりと上昇した。彼はもう身を任せるしかなかった。


「どうもご迷惑をお掛けしました」

 救助に駆け付け、傷の手当てまでしてくれた山小屋のスタッフたちに深々と頭を下げる真澄を見ながら、清一は、もはや親子の関係は逆転しているのだと観念した。日はすっかり西に傾き、清一は今日のことを忘れまい、と心に誓った。

二人は真澄を先頭にして、もと来た登山道を下り始めた。救助された後、清一は山荘の救急車両で下山することを薦められたのだが、それを頑なに断った。怪我の程度は思ったほどひどくはなかったし、何よりも、真澄との貴重な時間をそこで終わらせたくはなかった。

そして、清一は真澄にどうしても聞いておきたいことがあった。

清一は額に巻かれた包帯を撫でながら、なかなか言い出せなかったその疑問を、前方の背中にぶつけてみた。

 「お前は俺を恨んだことはないのか」

 「えっ、どうしたの急に」

突然の言葉に、真澄は足を止めて振り返った。

「俺は何も父親らしいことはしてこなかったじゃないか。小学校の運動会にも顔を出したことはなかったし。思春期の難しい時期だって、何にも相談に乗ってやれなかった。何でも仕事のせいにして、夜遅くまで飲み歩いたり、休みはゴルフにばかり出掛けていたろ。今思えば、もっとお前の相手が出来たんじゃないかと後悔している」

「あの時、」清一は自分の手を見詰めて続けた。

「お前が命を懸けて私の手を掴んでくれた時、思ったんだ。私はそれに見合うだけの愛情をお前に注いできたのかなって。私はお前が命を懸けて救うほどの価値のある父親なのか、ってな」

清一は再び視線を真澄に戻すと、真澄は笑い飛ばした。

「そんなことを考えるなんて、父さんらしくないよ。やっぱり歳だね」

しかし清一の沈んだままの表情を見て、真澄は真顔に戻った。やや沈黙があって、ふう、と息をつくと、静かに答えた。

「父さんには感謝しています」

「確かに、友達を羨ましいと思ったこともあるよ。父さんは全然、家にいなかったものね。よその家に生まれていたら、もっと父さんと遊べたんじゃないか、話ができたんじゃないか、って何度も考えた。子供の目には大人の仕事なんて分からないから、当時は父さんを恨んだこともあったにはあった。でも、母さんのこと、父さんも辛いんだろうなとはなんとなく分かっていたよ。それに、大人になって、父さんの会社に入って分かったんだ。ビジネスの世界の厳しさってやつをね。少しでも油断すれば、あっという間に競争に敗れてしまう。飲みたくもない相手と酒を飲んだり、ゴルフをしたりすることもしなくちゃならない。二十四時間、寝る時間以外すべて仕事だと言ってもいい。そこで気付いたんだ。こんな過酷な戦場を必死になって戦い抜いて、父さんは僕に良い暮らしをさせてくれてたんだって。それに―」真澄は照れ笑いを浮かべて続けた。

「父さんは同時に従業員3千人の家族の暮らしを守ってきたんだよ。僕が羨ましがっていた普通の家庭、その一軒一軒の幸せを守っていたのは、実は僕の父さんだったんじゃないか、って気付いたんだ。だから今は、そんな父さんを誰よりも誇りに思ってるよ」

夕焼けが真澄の顔を一層たくましく染めていた。

「その言葉信じていいんだな」伏し目がちだった清一が顔を上げ、真澄を見つめると、真澄は笑顔で大きく頷いてみせた。

「俺はもう思い残すことはない。こんな立派な息子を持てて、最高の人生だった」

清一は一瞬天を仰ぎ、大きな瞬きをしてから、やおら真澄の前に進み出た。すると、驚いた真澄がその背中を止めた。

「山を下りるまでが登山だよ。油断している下りが一番危ない、父さんの得意の台詞じゃないか。忘れたの?」笑い声が混ざった。

「きっと歳のせいさ。なんでも忘れっぽくなってな。さあ、ついて来い!」

清一は振り返らずに声を張り上げると、構わず真澄の先を進みはじめた。

今日、踏破したのは伊吹山ではなく、人生そのものの頂点だったに違いない。

清一には感極まるものがあった。吹き抜ける初秋の風を頬に感じながら、清一はふもとへの一歩一歩を踏みしめた。



 頬をなでるひんやりとした風、眼下に広がるパステルカラーのコスモスの海。その向こうには、色づき始めた木々のグラデーションが果てしなく続き、遥かかなたで青い山脈と溶け合っていた。さすがは元スキー場。見渡す限りの大パノラマは、巨大なキャンバスに描かれた大自然の芸術。天国の楽園もかくや、と思わせるような風景だった。

 そしてその景色は今日も変わらずそこにあった。今日も変わらなかった。

 清一がこのバルコニーで初めてこの景色を目にした時は、そのあまりの美しさに言葉を失い、この場所こそが人生のラストを飾るにふさわしい舞台だと確信した。そして即日、入居契約にサインしたのだった。

しかし、やはりどんな名画であろうと毎日毎日見ていれば、やはり飽きがくる。この一年間眺め続けたその景色は、今ではビルの会議室から見た灰色の街と何ら変わりはなかった。

いや正確には、風景は季節の移ろいに伴ってさまざまな表情を見せてくれていた。むしろ毎日微妙にその色彩、その配置を変えているといってもいい。ただ清一の目には、人生の最期を迎えるその日まで、延々とこの変化の繰り返しを見せられることになるという事実が、この景色を単調なものに変えてしまっていた。

 ふう、と溜息をつき、バルコニーの手すりにつかまった瞬間、清一はバランスを崩し前につんのめった。

体は手すりを乗り出し、足が浮いた。十階下の鮮やかな花壇が視界に飛び込んでくる。

「うわぁ」清一は思わず声を上げると、足をばたつかせ、あらん限りの力を腕に集中させて踏ん張った。そうして何とか柵の向こうに乗り出した体を慌てて引き戻した。

うっかりしていた。柵の位置が自分には少し低かったことを忘れていたのだ。

「まったく!こういうところの設計に老人への配慮が欠けているから、入居者が増えんのだ」

清一は冷や汗を拭いながらしゃがみ込むと、怒りを込めて手すりを揺すり、強度を確認した。そして、今しがたの失態を見られたのではないかと、そっと柵の間から顔を出し、眼下の様子を窺ってみた。庭の水やりをしている職員や散歩中の老人の姿はあったが、誰一人としてこちらの様子に気付いている者はなかった。清一はほっと息をついた。そして少し、頼りなくも感じた。

清一はゆっくりと立ち上がると、大パノラマに別れを告げ、バルコニーを後にした。自動で開閉する分厚いガラス戸が開き、自室に戻ると、年中ほぼ同じ温度に設定された「暑くも寒くもない」ぬるい空間にその身をもぐり込ませた。


 清一が「パラディッソ山内」に越してきたのは昨年のこと。老後は真澄夫婦の世話にはなりたくない、という思いから、岐阜市内の邸宅を引き払い、ここにやってきた。入居一時金は1億円。毎月百万円の会費を払えば、誰に頼ることもなく「死ぬまで」ここで何不自由ない生活をおくることができる。

要するにパラディッソは超高級有料老人ホームだ。

 清一の部屋は、富裕層が入居するA棟の、それも十階最上階にあるロイヤルスイート。同フロアには清一のほかに三部屋があるが、二部屋が埋まり、もう一部屋も売約済み。事実上の「満室」となっている。いずれも相当な資産家に違いなく、各部屋のプライバシーはきっちり確保されている。

隣の入居者がどんな人物で、現役当時どんな社会的身分だったのかなどは清一の知るところではない。

いやむしろ、地方財閥のトップである清一としては、隣人の素性を知るメリットよりも知られるデメリットの方が大きいため、あえて接触を避けているという方が正しい。安易に素性を明かして、聞いたこともない慈善団体に寄付を迫られ、胡散臭い連中に「耳寄りな投資話」を持ちかけられる煩わしさはこれまでの人生でいやというほど知っている。だから市内の邸宅に住んでいるときも近所との付き合いなどはなかった。その類の一切を住み込みの家政婦に任せており、会社へは運転手付の車でドアツードアで移動するから近隣とは挨拶を交わしたことさえないのだ。住民と距離を置き、市長ら地元行政のトップとだけパイプを持つ。巨額の納税で地域に貢献する。これが真の富裕層のあるべき姿であり「マナー」なのだ。そしてそのわがままを近隣住民もよく理解してくれていた。

しかし、どんな金持ちでもホームへの転入時には隣に挨拶程度のことはするもののようだが、それすら清一は拒んだ。理由は「自己防衛」以外にもあった。

隣人にあいさつに出向くということは、ここに住む老人たちの社会への仲間入りを自ら認めるということになる、と清一は考えていた。それをどうしても認めたくなかった。

自分はまだ七十歳になったばかりで、これくらいの歳ならまだ現役で社長職をこなしている人間は世間に五万といる。自分もまだ現役でやれるという自負がある。なんなら、あすにでも社長に復帰してもいいくらいだ。何といっても、まだエブリーストアの大株主。つまり黒川グループのオーナーだ。自分がトップを退いたのは、年老いてその座を追われたからではなく、若きトップ真澄への「英才教育」であるからに他ならない。

それに「老人ホーム」を選んだのも、真澄夫婦に家を追われたからではなく、長年自分が公言してきた「わがまま」を通したからにすぎない。「独り身でも食事や身の回りのことを気にする心配が無く、社会の雑音から逃れられるから」望んでここにいるだけの話だ。

真澄夫婦も一緒に暮らそうと申し出てくれたこともあった。だが、それはあえてこちらから断ったのだ。彼らに気遣われて暮らすのは窮屈で仕方がない。それに、そばにいると真澄も自分を頼ることが多くなるのは目に見えている。社長として精神的にも早く自立してもらわねば困る。真澄に望むのは、月に一度、グループの経営状況をここに報告しに来ることだけだ。決して「見舞い」などではない。これは大株主に対する社長の報告義務だと考えている。だから、ここにいるような、家族に見離された悲しい老いぼれどもと自分が一緒にされることは絶対に認められない。

自分はここでは明らかに場違いな人間なのだ。

それに精神的な若さや自立という面だけではない。もうひとつ他の入居者と決定的に異なる点がある。

それは黒川清一がこのパラディッソ山内の事実上のオーナーであるという点だ。

パラディッソは五年前から黒川グループの傘下に収まっていた。十五年前、山内村のスキー場が経営難で閉鎖し、その自然豊かで広大な土地に目をつけて、国内最大級の高級老人ホームがここに建設された。当時は某大手不動産会社による経営だったのだが、思うように団塊世代の富裕層を取り込めず、十年足らずで破たんした。そこに救いの手を差し伸べたのが黒川グループだった。

清一の個人的な老後保証のために買収しただの、公私混同だの、陰で囁かれることもあったが、清一は気にしなかった。「誰にも頼ることなく人生の最期を華やかに飾れる場所」を提供するパラディッソの経営理念に清一自身が強く共感を覚えたからだった。パラディッソには他の傘下企業に要求してきたようなリストラも迫らず、その理念を尊重することを約束した。また純粋にビジネスとしても、富裕層に超高級老人ホームのニーズが出てくると確信していた。

結果的に、清一は入居者としてパラディッソを利用する形にはなったが、これまでにオーナーの立場を利用したことはない。最上階スイートの一時金も、管理費も正規の料金を支払っている。そして、他の入居者よりも自分が特別扱いされることのないように、清一がパラディッソのオーナーであることは、一部の幹部を除き、職員にも伏せてあるのだ。一般利用者の立場に立ってこそ、提供すべきサービス、改善すべき点がみえてくると清一は考えてきた。隠居の身となった今でも、己自身をモニターとして、より良いサービスにつなげたいと考える清一は、まだ経営者の気持ちが抜けきれていないようであった。

あのバルコニーの手すりの不具合も一利用者の苦情としてフロントに伝えてある。しかし未だに修理されていないということに、清一は問題を感じると同時に、自分の正体がまだ明るみになっていないことへの満足感も覚えていた。

清一は百畳はあろうかという広大なリビングで、ひときわ大きなソファに腰を沈めた。室内の装飾、調度品はすべて白で統一されており、どれもがイタリアの職人による手作りの超高級品だ。高級を売りにしているパラディッソでありながら、このロイヤルスイートの一室は調度品、フローリング、壁紙に至るまで全て入居者の完全オーダーメードになっている。シアタールームや、壁に埋め込まれた巨大アクアリウムは、清一の部屋だけのオリジナルだ。備え付けの物は「高級」とは言っても、清一クラスの富豪には到底満足いくものではないからだ。この部屋はまさに宮殿だった。


腰を下ろした清一の正面には無数の絵画が、油絵、日本画、水彩画の区別なくひしめくように壁を飾っていた。本来、絵画は鑑賞者がそれぞれの作品に集中できるよう、その視界に隣の作品が入りこまない一定の間隔を置いて配置するものなのだが、この部屋の絵画はまるで小学校の教室の壁一面を埋め尽くす夏休みの宿題の絵よろしく、密集して架けてあった。シャガールやピカソ、東山魁夷。その所蔵のほとんどが一級の名画であるが、そのごちゃごちゃの配置のために、それぞれの個性を打ち消し合い、光を失っているかのようだった。壁を埋め尽くした絵画の群れはまるで大きなモザイク画のようにも見えた。

コンコン。ドアをノックする音が聞こえた。

「コーヒーをお持ちしました」

「どうぞ入りなさい」

清一が壁の絵画から視線を離さずに応えると、長身のスラリとした若いウェイトレスが緊張した面持ちでトレーを持ちそろそろと部屋に入って来た。大人びてみえるがまだ十代のアルバイトだろう。毛足の長いペルシャ絨毯にバランスを崩しそうになると「あぶない」と悲鳴を上げた。桐原涼子がこの部屋にコーヒーを運ぶのは初めてだった。ロイヤルスイートにさぞ緊張しているのだろう。「失礼します」清一に目を合わさぬまま、コーヒーを大理石のテーブルに置くと、トレーをさっと胸に抱え深々とお辞儀をした。コーヒーをこぼしたら大変だぞ、あの絨毯は何百万円もするんだから。そう喫茶店のマスター青江博次に言い聞かされてきたのだろうか、彼女は、あくまでも清一と視線を合わせず、そそくさと部屋を後にしようとした。

しかし、コーヒーを無事に届けたという安堵と同時に、噂の「宮殿」を一度見てみたいという好奇心がもたげてきたのか、帰り際に部屋をそっと見渡した。「わあ」視界に飛び込んできた壁の絵画群に思わずため息を漏らした。

 清一は桐原の反応を見逃さなかった。

「珍しい。今日はマスターは休みかね」

「は、はい」意表を突かれた彼女は一瞬戸惑ってから、精一杯の愛想笑いを作って答えた。「青江は…お子さんの授業参観とかで今日は休みを頂いております」

「ほう、授業参観か。それは結構なことだ」清一は絵画を見つめたまま、コーヒーを一口すすり、そして彼女を見た。「君は絵に興味があるのかね」

桐原は返答に困った挙句「いえ…あまりよく分かりません」と小声で答えた。実際詳しくなかったし、美術館にも小学校の社会見学で行ったことがあるくらいだった。ただ、壁の絵画に圧倒されたのは事実だったし、場の空気を壊すのも気が引け、あわてて付け加えた。

「でも、良い絵がたくさん架かっていますね。圧倒されちゃいます」

それを聞くと清一は頬を緩め、コーヒーを手にソファから立ち上がった。そして再び絵画に目をやった。

「絵はね、作者やら技法やら、知識で見るものではないんだよ。ぱっと見て、その人が直感で気に入ったものが、その人には一番の絵なんだよ。テレビの鑑定団じゃないけれど、その絵の価値、値段から入ってしまうと、絵を見る目が曇ってしまう。だから、君のような絵の価値を知らない、いや失礼、純粋な目で絵を見ることができる人は素晴らしい。羨ましいね」

 清一は身振り手振りを交えながら熱く語り、再び桐原を見た。

「君はこの絵の中で、どの絵が一番好きかね」

桐原は老人が意外にも積極的に話しかけてくるのに驚いた。マスターの青江には無口で気難しい人だと聞いてきたからだ。だが、やはりこのお金持ちも、下の階の身寄りのない老人と何ら変わりはないのだな、と桐原は悟った。ここで暮らすお年寄りの中には、ホームに解け込めず、誰とも喋りたがらない人が珍しくない。しかし一旦話かけられると、ダムが決壊したかのように話が終わらないということがよくある。みんな誰かに話しかけられるのを待っている。話す機会を待っているのだ。ホームの喫茶店で毎日そんな人間と接している桐原は、清一の抱えるその寂しさを察知した。そして同情した。と同時に、この孤独な富豪に対する「怖れ」も薄れていった。清一の姿も、先程よりは心なしか小さく見えた。

桐原は目の前の一人の老人に微笑み返し、絵画の前まで歩いていった。ペルシャ絨毯を踏みしめるその姿に先ほどの怯えはなかった。桐原は絵画の一点一点をゆっくり見回していった。あ、これかな、いや、こっちかなと真剣に絵を見る桐原の姿に清一も目を細めた。

「これかなぁ」しばらくして桐原は一枚の絵を指差した。それは意外にも六号ほどの地味な小品で、海原を進む一隻の船が描かれていた。お世辞にも華やかとは言い難い絵だ。

「これかね」それを見た清一は一瞬息を飲んだ。あまりにも意外な絵だったからだ。そしてみるみる頬をゆるませ、清一は大笑いした。それを見た桐原は頬を赤らめて、肩を落とした。しかし清一の笑いが収まらないので、遂に「なぜ笑うんですか、この絵が良いと思ったのに」とふくれた。もう普段の桐原の顔に戻っていた。

「いやいや、失礼。でもどうしてこの絵が気に入ったのかな。他にもっと華やかな絵があるというのに」

桐原はふくれたまま清一を見た。

「確かに他にも可愛い絵はたくさんあって迷いました。だけど、なんかこの絵、心を引き付けるものがありますよ。山国育ちのせいかなぁ。海に憧れるってのもあるのかもしれないけど。…そう、この海を突き進んでいく姿、なにか希望とか勇気を感じます」

それを聞いた清一は真顔に戻り、ゆっくりとうなずいた。

「その通りだよ。私もこの絵が気に入っているんだ。実は、昔に息子から贈られた絵ということもあるんだが、この絵からは、困難に立ち向かえ、乗り越えろ、というメッセージが伝わってくる。波乱万丈の人生と言ったところだ。エネルギーに満ち溢れている。人生の安らぎを得るこのホームに置くには、いささか場違いかな、とも思った作品なんだがね。そうか。笑ってすまなかった。思いもかけず若い人に共感してもらえたから、嬉しくてね」

 そうなんですか、と桐原は返し、少しむきになったことを恥じた。別に自分が馬鹿にされた訳ではなかったのだ。それに偶然とはいえ、絵の趣味が合うということにも、この老人に親しみを覚えた。

桐原はあらためて部屋を見渡してみた。手の込んだガラス細工が幾重にも重なった眩いシャンデリア、純白の食器棚には大量の欧州製高級食器、どうやって最上階まで運んだか検討もつかない巨大な一枚板のテーブル。全てが輝いて見えた。

「こんな所で老後を過ごせるなんて憧れちゃいますよね」桐原は思わず呟いた。

だが、それを聞いて清一は一瞬表情を強張らせた。そして穏やかに笑った。

「君はここにいる年寄りたちにも同じことを言っているんだろうね」

その通りだった。桐原は、そう言えば大抵の老人が気をよくすることを知っていた。しかし、そんなお世辞が、この規格外の金持ちに通じるとは思ってもいない。本当に羨ましいと感じたのだ。高級ブランドに身を包み、日がなエステを楽しみ、人生の成功者として穏やかな時を過ごす老後をすべてこの老人は体現しているはずだ。だから思わず本音が出たのだ。

「いえ、そんなつもりは」かぶりをふり、慌てて訂正した。

「ウチのお爺ちゃんなんか、いつもパラディッソのお堀の向こうを散歩してるんですけど、一度で良いからこんなお城に住んでみたいとこぼしていますよ」

上目遣いの桐原の視線をかわし、清一は絵を眺めた。

「ははは、一度なら、楽しいところかもしれないな」

もう駄目だというような表情の桐原に清一は続けた。

「君のような素敵な孫と一緒に暮らしている御爺さんは幸せ者だよ。ここにいる誰よりね」

清一は、ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干すと桐原にそれを渡した。

「仕事の途中、無駄話をすまなかったね」

「いえ、私も素敵な話を聞かせて頂いて勉強になりました」

桐原はお辞儀をし、ドアのそばまで行った後、思いついたように振り返った。

「また絵を見せてもらいに来てもいいですか」

白く輝く宮殿の中央で、清一は笑顔でうなずいてみせた。その姿はやはり小さく見えた。



 ⒊


「なあ母さん、ここに決めようよ」

子供が母親にねだるにしては、あまりに声が錆び付いていたが、清一は読んでいた新聞を下ろし、その声の方へ視線を送った。声の主は七十歳手前ぐらいの男性で、傍らには妻と思しき熟年の女性。その向かいには二人の会話にニコニコして相槌をうつ、体格の良い三十代前半の男がいた。男はパリッとした紺色のスーツに身を包み、厚く膨らんだカバンを小脇に抱えていた。小柄だがスーツの上からでも鍛えられた筋肉が分かる。太い首。おそらく元ラガーマンなのかもしれない。首から下げたセキュリティカードを胸ポケットにしまいこんでいるのが、その蛍光色の紐で分かった。パラディッソの営業スタッフに違いない。ホームのロビーではよく目にする光景だ。また見学者だな、と清一は悟った。

 営業スタッフの男は、広いロビーの一角にあるテーブルに熟年夫婦を座らせ、三ツ星レストランで出てくるメニューのような、厚い表紙のパラディッソのパンフレットをうやうやしく広げた。夫婦は、営業スタッフの説明に真剣に耳を傾けながらも、時折、豪華なロビーをキョロキョロと見回し、近くを通り過ぎる入居者には羨望の眼差しを送っていた。

 見学者の説明にはいつもこのテーブルを使うことを清一は知っていた。大きなガラスウインドウからは、山裾に向かって続く広大な前庭が見渡せる。庭の中央には花壇を分断するように舗装道路が延びている。その道路はホーム玄関と正門ゲートを結んでいるのだが、距離が遠すぎてゲートは見えない。それがまた、この庭の広さを際立たせていた。花壇の向こうは、さらに錦の紅葉が広がっている。特にこの席から見る景色は壮観の一言だ。

多くの見学者は正門ゲートをくぐって、そこからこのパラディッソを見上げた瞬間、入居を決めてしまうという。そのあまりの美しさは、まるでブーケの山の上に白亜の城がそびえ立っているかのようだ。花畑の丘を駆け上がって、今度は逆にホームからその大パノラマを見下ろせば、帰りにはもう入居の仮契約の判を押してしまう。

 ウインドウの反対側には入居者専用ロビーが広がっている。こちらは入居者の居住クラスごとに分かれ、観葉植物の目隠しでそれとなく仕切られている。各コーナーはソファーのサイズや調度品の質感でそれとなく差別化されている。エコノミークラスの近くには自販機や雑誌ラックが配置されているが、ハイクラスの入居者のコーナーでは喫茶店のドリンクサービスが受けられ、高級経済紙や株価を映し出す大型テレビなども備えられている。

ちょうど熟年夫婦が座るテーブルからは、A棟の高級会員が利用するコーナーが視界に入る。清一も真澄との面会や時間潰しにこの専用ロビーをよく利用しているため、この日も彼らの羨望の眼差しを一身に受けていた。

「本当に、外国のリゾートホテルのようだわねぇ」妻の言葉に、夫が、だからそう言ったじゃないかと自慢げに返した。

「当ホームは、お客さまに老後の貴重なお時間を存分に楽しんで頂くこと、それのみを目的に運営しておりますので、おっしゃるとおりリゾートの精神に重きを置いております。ご覧下さい。窓からはビルや人家といった町並みが一切ご覧になれません。この山一帯が当ホームの敷地なのです。この楽園の絶景を乱すものは何一つありません。先ほどご覧頂いた居室のバリアフリー構造はもちろん、ここまで老後環境にこだわったホームは日本でもここだけです。県外から入居される方も大勢おられます」

営業スタッフは手をウインドウの方に広げて自信たっぷりに語った。妻はうっとりとした表情で景色を眺めてから、ふと気付いたかのように夫に向き直った。

「山全体がホームというのも贅沢ねえ。でも街が全く見えないというのもかえって寂しくないかしら」

しかし夫が大げさな身振りで否定した。

「まさか。リゾート地で通勤ラッシュに出くわしたと想像してごらんよ。興ざめだろ。第二の人生を存分に楽しむには現世の煩わしさをすっぱり忘れたいじゃないか。それに」夫は言葉のトーンを下げて続けた。

「下手に町並みが目に入るとあの家を思い出すかもしれない。孝宏に会いたくなるかもしれないよ。それが良いことと思うかね?違うだろ」

そういって優しく妻をなだめると、今度は営業スタッフに向かって言った。

「私ども夫婦は息子に老後の世話になりたくないんです。自分たちが親の世話で苦労しましたから、同じ苦労をかけさせたくないんです。ですから、どちらかが一方を見取った後は、残った方がこちらのようなリゾートホームで、最後のご褒美としての時間を送りたいと思っているんですよ」夫は打ち明けた。

「当ホームを利用されるお客様の中でも、そうおっしゃる親御さんたちは多いです。本当に頭が下がります。私たちの世代も親の面倒を見たいという気持ちは十分あるんです」営業スタッフがためらいがちに口を開くと、夫婦も自分の息子の話を聞くように大きくうなずいた。

「でも実際は仕事が忙しくて親の面倒を見切れないんです。こう見えて、私も家に帰るのが毎日深夜です。週に複数の出張が入ることも珍しくありません。そうなるとたとえ同居していても、していないのと同じことです。そばにいて面倒をみれないということは、離れて暮らすより、ずっと辛いものです」

「その気持ちは良く分かってますよ」夫は、わが子をなだめるように営業スタッフに語りかけた。その顔は悲しげなようで、なにか満足げだった。

「ですから、お客さまのようにこういった環境の整った所で住んで頂けるほうが、私たち息子世代としても本当に安心できるんです。経済がこんな不況でなければ、もう少し生活にゆとりがある社会であれば、もっと親孝行もできたんでしょうけど」

そう言うと営業スタッフは顔を背け、目元を手で押さえるようなそぶりを見せた。それを夫は、大丈夫だよと肩に手をやり励ましていた。妻はハンカチで目頭を押さえていた。小刻みに震える営業スタッフはすいませんと言っているようだった。

 これも清一は何度も目にしている光景だった。おそらく営業スタッフの台詞はマニュアル通りで、涙も偽物だ。判をつかせる最後の一押しとみて間違いない。清一自身も泣き落とし営業に会ったことはあったし、元経営者として、そういうテクニックも営業努力として評価しないわけではない。しかし、こんな紋切り型の芝居でイチコロになる親のあまりの多さに驚いていた。

きっと、心から望んでホームに来る親なんていない。はっきり言えば屈辱なのだ。同居を拒まれ、嫁に疎まれ、息子にそそのかされ、ここに導かれてきたにちがいない。しかし、そんな仕打ちを受けてなお、親は子を信じたいものなのだろう。子は自分を心配していてくれているに違いない。だけどどうしようもない事情があるのだ、私たちを愛しているはずなのだ―と。だからあんな営業スタッフの安い演技にもホロリときてしまうのだ。

清一は心底彼らを気の毒に思った。一方で、そんな苦しみを少しでも癒すことができるのならば、このホームは存在する意味がある、とも思った。

その時、ロビーの奥の広間の方からホームにしては珍しい黄色い声が上がった。

「おじーちゃん、おばーちゃん、たんじょうび、おめでとうーございーますー」

「あ、始まったな」うつむいていた営業スタッフは一転してにこやかな顔を上げた。

「あれは何です?」夫婦は目をきょとんとして声の方へ振り向いた。

「園児たちですよ。毎月、誕生日を迎えられる入居者を祝ってくれるんです」

「慰問、のようなものですか」

「いえいえ、パラッディソは幼稚園も経営しているんですよ。移設の隣です。食堂や図書館など施設の一部は共用ですので、誕生日会やクリスマス会はもちろん、希望される入居者は園児と昼食を共にすることもできるんです」

「それは素敵ねえ」妻の目が輝いた。

「年寄りばかりで気が滅入る、なんて心配もなさそうですな。でも園児に嫌われることはないのかなぁ。こんな年寄りばかりだと」夫はワッハッハと声を上げて笑った。

「その心配はないでしょう。むしろ最近は市内でも核家族が増えていますから、お年寄りを知らない子供たちが増えているんですよ。でもそれだと幼児期の人格形成に偏りが出来てしまう。やはり子供は幅の広い年齢層と触れ合うことで成長するんです。これは教育学的にも証明されているようです。ですから、お年寄りとの日常的な交流が人気を呼んで、幼稚園の方でも入園希望が絶えません」

「私らも若い命と触れ合えて老化が進まなくなるかもな」夫はおどけてみせた。

「もちろん。それにショッピングモールや喫茶店など、園内施設で働くバイトの子たちもほとんど地元の学生さんばかりです。それに、あちらをご覧いただけますか」

営業スタッフは窓の外を指差した。そこには前庭で水撒きをする黄色いジャンパーのスタッフが見えた。遠くだが、四、五人は確認できる。

「彼らも地元の若者たちです。中には東京などでの都会暮らしに嫌気が差して、古里に帰って来たという者もいます。やはり彼らもこの地元の自然が大好きなんですね。彼らが絶えず園内を見守っていますから、この広い前庭で散歩されても迷う心配はありません。非常に心強いスタッフたちです」そう言うと営業スタッフは笑顔で夫婦の方に振り向いた。

「パラディッソはお年寄りだけが暮らす狭い世界ではありません。小さな子供や地元の若者、そしてお年寄りの方々が共に生活している、まさに一つの村なんです。ですから、こう言っては何ですが、お年寄りだけを閉じ込めておくかような従来型のホームとは全く違うのです」

営業スタッフは自信満々に胸を張った。その厚い胸板が実に頼もしく見える。その時点で夫婦はもうここに決めたという感じだった。さっきまでの前のめりの落ち着きのなさは影をひそめ、落ち着いた顔で夫が妻に囁きかけている。おい判子は持ってきたか、ええ、といったやりとりを、営業スタッフはそしらぬ顔でやり過ごしている。契約時ならではの緊張した空気。妻ががさごそとカバンをあさる。

「そういえば」

夫が不意に発した言葉に、場の静寂が破られた。不意を突かれ、営業スタッフの体がビクリと跳ねた。無理もない。もう契約を勝ち取ったつもりだったのだろう。そして、再び眼力を取り戻したスタッフの視線を、夫は手で遮り、苦笑いを浮かべた。

「いやいや、肝心な心配事を思い出しましてな」

なんなのあなた、という妻に夫は「あれだよあれ」という様な顔でうなずいてみせ、続けた。

「もし仮に、我々が呆けた…いや、認知症というのですかな。もしくは寝たきりの状態になった時は、どこの特養ホームに行くことになるのですかな。いや、心の準備というものが、ね」

夫婦は一般の有料老人ホームが認知症患者を受け入れないことぐらいは知っているようだった。しかし夫婦の心配顔をよそに、一瞬、営業スタッフはなんだそんなことか、と言わんばかりの表情を浮かべ、そして次の瞬間涼しい顔で答えた。

「ご安心ください。パラディッソは有料老人ホームであると同時に、特養施設としての機能も備えております」

「えっ、そういう状態になってもここに置いてもらえるんですか」

「もちろんです」

驚く妻に、営業スタッフはきっぱりと言った。そして微笑んだ。

「ご契約の居室に、という訳ではなく、それ専用のルームに移って頂くことになりますが、このパラディッソを転出して頂く必要はございません」

「でも、やっぱり元々の居室にはいられませんのね…」

再び不安気な表情になった妻に、営業スタッフはかぶりを振った。

「いえいえ、お客差の立場に立って、そういう形を取らせて頂いております。健常者用の居室はバリアフリーといっても、全面的な介護を前提には作られてはおりません。要介護の程度にもよりますが、やはり重度患者になられますと、二十四時間介護という形になります。そうなれば専用ルームの方が入浴や食事などの面でお客様に快適に過ごして頂けるのです。より快適なお部屋にお移り頂く、そう考えて頂ければ幸いです。それに居室は別棟に移って頂いても、パラディッソの敷地内であることに変わりはありません。全く別の環境に移されるという心的負担も軽減されますし、これまで通り、庭も散歩して頂けます。そしてなによりこの美しい自然に囲まれていることで心も落ち着きます。それが症状の進行を和らげることにつながったという報告もあります。ご安心下さい」

再び営業スタッフは胸を張ってみせた。

「もう、パラディッソさんに全てお任せすればいいんだよ。間違いないから」

夫が力強く言った。

「それに、呆けてしまえば、もう自分が誰なのか何をしているのか、全く自覚のない状態になってしまうんだから。呆けてからの心配なんて意味ないぞ」

「あなた、呆け、じゃないわよ、認知症よ、認知症」

「そうだ認知症だった」

夫婦は声を上げて笑った。


広いエントランスにシルバーのBMWが横付けた。ホテルのボーイのような洒落た制服のスタッフが出迎えると、ポロシャツと綿パンのラフな格好をした青年が、ゆっくりとした動作で降り立った。ラフとはいえ、それらが一流ブランドのものであることは胸元の小さなロゴで分かる。すらっとした長身とキリッとした顔立ちも相まって、男はまるでファッション雑誌から抜け出したかのような輝きを放っていた。男は車のキーを預けると、軽くロビーを見渡してから、真っ直ぐにラグジュアリーロビーへと向かった。

「遅れて申し訳ありません。午後の会議が長引きまして」

男は窓際のソファーで新聞を広げている清一に声を掛けた。清一は男の顔が見える程度に新聞を下げ、不愉快そうに応じた。

「三月決算がまた下方修正の見通しだって?」

清一はその新聞をそのままテーブルに広げ、その経済面を男に見えるように広げた。この席からエントランスは丸見えだ。どうやら車が到着したのも既に知っていて、この記事を見せる用意をして待ち構えていたらしい。今日は真澄が「大株主」の清一の元に経営状況を報告する日だった。先月は真澄の都合で初めて面会をキャンセルしたため、それも清一の機嫌を損ねていた。

「どういうことなんだ、真澄。お前に社長を譲ってからこんなことばかりじゃないか」

真澄は教師に怒られる小学生のように、うつむき、小さくなっていたが、清一に座って説明をするように求められると、身を縮めて向かいのソファーに浅く座った。

「しかし、こんなに不況が長引くとどうしようもありません。それに穀物市場の値上がりで、食品の値上げも響いてしまって。ウチだけじゃありません。流通業界はどこも苦戦しているんですから」

真澄は、不安を振り払うように一気にまくしあげた。

そこに喫茶コーナーから、桐原が注文をとりにやってきた。真澄の剣幕に驚いたようすだったが、ばつの悪そうな顔で真澄がホットを頼むと、その顔を見ないようにして軽くお辞儀をし、離れて行った。

清一は真澄の感情の高ぶりを察し、声のトーンを落とした。

「そんなことは、言われなくても分かっている」

清一にも現在の業界の苦境は痛いほど分かる。しかしタイミングが悪かったとはいえ、社長交代を機に、エブリーの業績が下降線を辿りだしたのも事実だ。清一は諭すように言った。

「でも、そこをどうにかするのが経営者の手腕なんじゃないのか」

「どういう方策があるというんです?お父さんならどうすると言うんですか」

真澄も社内で散々議論を尽くした結果なのだろう。精神論はもうたくさん、というように真澄は続けた。

「もう、お父さんの時代の卵一パック十円なんていう方法が、安売り一辺倒の手法が、通用する時代じゃないんですよ」

「なんだと」

清一は真澄をにらみつけた。今でこそ何の目新しさはないが、卵の安売りは、創業当初のエブリーにとって画期的な商法だった。何か一つ目玉商品を設定して、客を呼ぶ。しかもそれが当時高級品の卵であったことが大当たりした。それが今日の繁栄をもたらしたといっても良い。創業の苦しみの中で、清一が誰に頼ることなく考え抜いたアイディア。経済紙もエブリーの企業特集を組むたびに取り上げる偉業だ。この若造に何が分かる?

「なにも安売りを続けろなどとは言っていない。時代に合った工夫をしてみろ、考えてみろ、悩んでみろと言っているんだ。それがなぜ分からない?お前のように、すぐ景気のせい、時代のせいにして諦めてしまう者には経営者は―」

そこで清一は言葉を止めた。タイミングよく桐原がコーヒーを運んできたこともあって、清一は、言ってはならない一言を抑えることができた。

まだ大株主である清一は、すぐにでも社長を代えることができる。極端な言い方をすれば、己の一存で社長に復帰することもできるのだ。そしてまた、真澄はそれを知っている。だから、清一は「社長を代わってもいいんだぞ」という言葉だけは決して使うまいと誓っていた。そんなことを言えば温室育ちの真澄はまず耐えられない。

そうだ、何があっても私は経営に口を出すまいと決めたではないか。

清一はコーヒーをすすり、桐原がテーブルから離れていくのを確認しながら、気を落ち着かせた。

「宮田はなんと言っている」

「宮田さんは再びリストラを進めるしかないと言っていますよ。グループ会社のさらなる整理も止むを得ない、とね。だけど僕は決断しかねています。そんなことしていい訳がない」

宮田芳晴はエブリーの常務で、清一に次ぐ大口株主になっている地元銀行から、かつて融資の「担保」として迎え入れた男だ。エブリーがバブル経済の勢いに乗って急成長している頃は、清一の拡大方針に一切口を挟むことはなかったが、バブルが弾け景気が下を向き始めたころには、いち早く店舗縮小や膨れ上がったグループ会社の整理を進言し、結果としてエブリーの危機を救った。そして、懸案だった大規模リストラを社長交代でカモフラージュするという離れ業を提案したのも宮田であった。

拡大志向の清一にとって、冷静に業績を分析できる宮田はまさにアクセルに対するブレーキの関係と同じで、清一からの信頼も厚い。

 しかし、こうも業績が伸び悩むとブレーキ役である宮田の社内での発言力が増しているというのは容易に想像できた。ドンである清一なら話は別だが、経験の浅い真澄では宮田を従わせるのもままならない。そもそも、入社直後の真澄は宮田の下で経営のいろはを学ばせている。現に今でも格下である宮田のことをうっかり「さん付け」で呼ぶほどなのだ。

親の遺産であるエブリーをそのまま守りたい。しかし実情を考えると宮田の言うようにさらなるリストラに踏み切らねばならない―。

真澄が新社長として葛藤していることは、その表情からありありと伝わってきた。

「真澄、えらいタイミングで社長を譲ってしまったな。後悔してるか」

突然の言葉に、真澄は一瞬驚いた表情を浮かべたが、親の気持ちが通じたのか、次の瞬間にはいつもの真澄の笑顔に戻っていた。

「全然。社長になれば、遅かれ早かれ試練は覚悟していたから。お父さんが一から築き上げてきた苦労に比べればなんてことない。第一、こんな大きな会社からスタートできるんだから、まだ幸せな方だと思ってるよ」

「真澄、一からスタートする方がずっと楽だったぞ」

清一は真澄の目を見つめて静かに言った。本心だった。

「じゃあ、もしかして僕にトップを譲ったことを後悔している?」

笑みを浮かべながらも、真澄の目は真剣だった。冗談でもこんな台詞を聞いたことは一度もない。清一はコーヒーを一口すすると、静かにカップを置き、両手のひらを組んでその上にあごを乗せ、半身ほど真澄に近づいた。そして真直ぐに息子を見た。穏やかな瞳に厳しさを秘めていた。

「真澄。俺は子供可愛さに社長を譲ったんじゃない。社長、黒川清一として、部下である黒川真澄の能力を評価し、その座を譲ったんだ。分かるか。お遊びで社員四千人とその家族の生活を託せられるか。だから、お前は自分の考えを、自分のやり方を信じろ。エブリーもお前がやりたいと思うのなら、お前なりのエブリーに改造すればいいんだ。それが社長の権利であり責務だ」

そしてこう付け加えた。

「もう黒川清一のエブリーじゃないんだ」

真澄の中にある、ある種の束縛を取り払ってやりたかった。そしてその思いは真澄に通じたようだった。真澄の顔から曇りは消え、大きくうなずいてから背筋をピンと伸ばした。

「じゃあ、社長として会長にお願いがあります」

「言ってみなさい」

「中核事業のスーパー部門に経営資源を集中させ、不採算事業からの撤退を断行します。遊技場、中古車販売センターを売却します」

「そうか」

「そして、グループ傘下のビデオレンタルショップ、フィットネスクラブの統廃合、そして―」真澄は語気を強めた。

「老人ホームのリストラもさせて下さい」

「なんだと」清一は耳を疑った。

「このパラディッソにも手を付けるというのか」

ある程度の事業整理は覚悟していた。むしろ言い出しにくいことを、会社のためにあえて言ってくれた、真澄の勇気には頼もしさすら感じていた。

しかし、なぜパラディッソまで―。

清一の尋常ではない反応を察知したのだろう。真澄は続けた。

「なにも、お父さんの立場を悪くするつもりはありません。パラディッソではVIPクラスはこのまま、維持するつもりです。ですが、この閑散としたフロアを見てください。とても合理的だとは思えません」

「閑散としているんじゃない。あえて余裕のある定員に設定してあるんだ。ざわついたホームで落ち着いた老後が送れるものか、そもそも、パラディッソの理念はだな、」

「会長、我々はボランティアでホームを経営しているのではありません。れっきとしたビジネスなんです。VIPクラスを除けば、レギュラークラスとアッパークラスの入所率は六割を割っています。これでは採算が合いません。それに診療所の医師の確保もままならないんです。少子化で幼稚園の入園者も減少しています」

清一の顔がみるみる真っ赤になっていった。膝が細かく震えている。

「一体、お前はパラディッソをどうするつもりなんだ」

「まず、アッパークラスのB棟を閉鎖、レギュラークラスに一本化します。ショッピングモールと特養部門も閉鎖します。そして幼稚園事業からも撤退するつもりです」

真澄は毅然として言った。

「自分が何を言っているのか分かっているのか。そんなことをすれば、ここはそこらにあるホームと変わらなくなる。このパラディッソは私の最後の理想事業だ。人生の集大成だ。どれだけ俺がこのホームに入れ込んでいたか知らぬはずはあるまい!この親不孝者め!」

清一は思わずテーブルを叩いた。かなり強く叩いたはずだったが、大理石のテーブルはうんともすんとも音を立てなかった。ただ、清一の手のひらにのみ痛みが残った。

「社長として会社を守らなければならない。分かって下さい」

「真澄、それも宮田のアイデアなんだろう。お前はアイツの言いなりか。いい加減自立したらどうなんだ」

皮肉いっぱいに清一は声を張り上げた。と同時に真澄の胸ポケットの携帯が細かく震えた。真澄はそれを取り出し発信番号を確認すると、清一に頭を下げて、ソファを立った。

清一は怒りで震えた。たしかに会社は真澄に任せると言ったが、パラディッソはエブリーの聖域といってもいい事業だった。かつてリストラに言及した勇敢な会社幹部もいたが、彼らの会社生命をことごとく断ち切ってやった。あの宮田でさえもリストラに触れたことはない。しかしその不採算性という点で、あの宮田が見逃すはずもない。

そうかあの男は俺がトップから退くのを待っていたんだな。奴なら、真澄をなんとでも言いくるめられる。

これは宮田のクーデターだ。真澄は騙されているんだ―。

「真澄!」

フロアの隅で携帯で話している真澄に、清一は構わず声を荒げた。しかし真澄は頭を何度も下げながら話を続けている。エブリー社長が頭を下げる相手は、銀行か。やつらに何を吹き込まれたんだ。清一は構わず何度も名前を呼びつけた。

しかし、ようやく電話を終え戻ってきた真澄はソファに座らず、立ったまま答えた。

「これから銀行と融資会議がありますので。今日はこれで」

真澄は清一の逆鱗から耳を塞ぐように、足早に去って行った。

「絶対に許さんからな!」

真澄の背中に向けて、清一の怒声がむなしくホールに響いた。




 今日は部屋から見るいつもの錦絵が、なぜかまだ青みが残っているように思える。まさか紅葉が青葉へと戻っている、なんてことはあるまい。

ぼーっと景色を眺めているうちに、清一は不思議な錯覚にとらわれていた。

そうだ、真澄とロビーで喧嘩別れをしたあの日からもう半年も経つのか―。

真澄からの連絡を待ち続ける日々は、清一には拷問のように長く感じた。しかし、変化のない毎日は、逆に、あの日から何日も経っていないかのようにも感じてしまう。

「あの日」から程なくして清一はエブリーの株主総会に出席し、グループ会社のリストラ策の一部について反対票を投じた。株式の過半数を握る清一が反対したことで、当然、パラディッソのリストラは流れた。会社側は真澄社長の解任決議をも覚悟していたようだが、清一はその提案を踏みとどまった。清一としても真澄と和解をしたい、という気持ちは残っていたし、それがそのメッセージにもなると思っていたからだ。

 しかし、あれから真澄からの連絡はない。

午後になっても清一はガウン姿のままだった。真澄との接触が断たれたことは、清一には、社会との接点が絶たれたことを意味し、その精神的ショックはすこぶる大きかった。1カ月ほどは部屋に篭りっぱなしで酒に頼る毎日だった。入居二年目ともなれば、元々少なかった見舞いも途絶え、寂しさは募った。いっそこのままここで死ねればいいのに、と思ったこともしばしばあった。

 そんな清一の暗胆たる日々を救ってくれたのは、このホームで唯一心を許せる桐原との会話であった。清一は桐原の勧めもあり、部屋に篭ってコーヒーを頼むことをやめ、ロビーに顔を出して、そこでコーヒーブレイクを楽しむ習慣を復活させた。

元々、部屋に閉じ篭りがちな清一を外に引きずり出そうと、ロビーを面会場所に提案したのは真澄だったが、音信不通になってからは、清一もロビーに顔を出さなくなってしまっていた。しかし、桐原が相手になってくれることで、清一は再び外の空気を吸うことにした。

心のどこかには、真澄がひょっこり現れるのでは、という期待感もあった。

桐原とは、何でも話した。会話の大半はいつも息子真澄の自慢話であり、エブリーの創業時代の苦労話であり、己の保身ばかりを考える重役たちへの批判であったりした。実のところ、そのほとんどは年寄りの愚痴と自慢話の繰り返しであったのだが、桐原は飽きるそぶりも見せず、清一の話をただただ聞いてくれた。今の清一はこのコーヒータイムだけが一日の楽しみであった。

清一はセーターとスラックスに着替え、洗面台に立っていた。歯を磨き、ひげを剃り、整髪剤を髪に撫で付ける。ごく普通の朝の風景だが、時計は午後二時を回っていた。清一の一日はここから始まると言っても良い。朝は七時には起きるが、午前中は部屋で本や新聞を読んだりして過ごす。朝昼ともに食事は部屋に運ばれる。昼食をとると、ベランダに出て外の空気を吸い、そこでまたぼんやりとくつろぐ。そして、今時分になって身支度を整え、ロビーに赴くのだ。そしてそこで桐原との会話を楽しむのである。

髪を整えた清一はいろんな角度から鏡の中の自分を見つめ、小さく頷いた。そのとき玄関のチャイムが鳴った。

清一は軽くため息をついた。

来客ではない。契約の家政婦が巡回してきたのである。ホテルと同じように清一の外出に合わせて洗濯物を引き取り、部屋の清掃をこなしてくれる。ただ、市内で雇っていた、知性と教養を兼ね揃えた家政婦ではなく、パラディッソが仲介する地元の中年のパート女性だった。おそらくパラディッソが開業した際の急募広告に飛びついた、にわか仕込みの家政婦だ。当然、清一が要求するレベルの仕事内容とは開きがあった。掃除洗濯だけの仕事だと軽く見ていたが、やはり家政婦は直接自分で手配すべきだったと今になって後悔している。

「晴枝さん、この部屋に入るときはその長靴は困る、と言っただろう。いちいち履き替えるのは面倒かもしれないが、ほら、絨毯が汚れてしまうんだ。何度言ったら分かるんだ」

高木晴枝は気まずそうに照れ笑いを浮かべ頭をかいた。スンマセンとぼそっとつぶやいたのがかろうじて聞き取れた。そういうあいまいな態度も清一は気に入らなかった。

晴枝は他の部屋の家政婦と掛け持ちしているのだろう、薄緑の制服、ピンクの底の浅い長靴姿は他の部屋では違和感がなくても、この「宮殿」では異物にしか見えない。

「もういい、そこのスリッパに履き替えてくれ。ああ、来客用だがそれで構わん。履き終わったら捨ててくれ」

清一はイラつきながら言い放った。晴枝はばつが悪そうに、清一用のスリッパと間違いそうになりながら、来客用の純白のスリッパに黒ずんだ裸足を突っ込ませた。

「それと、晴枝さん。昨日、窓を拭いてくれたでしょう。どういう拭き方したんだね?水滴が残って、窓に跡が残っているじゃないか。光が当たるとすごく目立つんだよ。拭く前より汚くなってしまっている。困るよ」

清一の言葉はまるで姑の小言のようだった。晴枝は一瞬喜んでもらえたのかと、笑顔で口をもごもごさせたが、嫌みたっぷりで叱られ、またも照れて頭をかいた。

「今日もう一度拭き直してくれたまえ。まったく何のための掃除か分からない」

清一も自分が発したきつい一言に驚いていた。

なぜだろう。会社人間であった頃は家の中のことなんて全く気にも留めていなかった。家政婦の仕事ぶりには、まるで関心はなかったのに。

だが、現在のように何もすることがない日々を送っていると、窓の汚れや、絨毯のシミといったささいなことが、なぜか無性に気になって仕方ないのだ。昨日一日は窓汚れのことで頭がいっぱいだった。社会から孤立させられたストレスが、無意識のうちに、自分よりも弱い存在である晴枝に向けられているということもあるのかもしれない。かつて会社の重役に向いていた怒号が、今はこの家政婦に向けられているのか。

清一は家政婦の仕事ぶりにケチをつけるまでに落ちぶれた自分が嫌になった。

清一は逃げるように身支度をさっと整えると、「では頼むよ」と言い残し、部屋を出ようとした。しかし背中に晴枝の視線を感じた。晴枝はまだもじもじしていた。

「何だ」

「申し訳ないですけんど、窓は明日やらせて貰うわけにいきませんか。今日はちょっと用事があるもんで」

深刻な顔だった。確かにこの巨大な窓を全て拭き直せば1時間では足るまい。しかし、これほど叱られたその直後に、早引けの申し出とは。こいつは少しも反省をしていないのか。清一の我慢は限界に達した。

「晴枝さん!あなたはちゃんとお金を貰って仕事をしているんだろう?しかもそんなに悪くないお金をもらっているはずだ。これはボランティアではないんだ。仕事に対する責任感とかプライドはないのかね?はっきり言って、これが普通の仕事だったらあんたはクビになっている。いいか。命じられた仕事はしっかりやって貰わないと困る。窓はきっちり拭き直してから帰ってくれ」

清一は吐き捨てるように言い、部屋を後にした。怒りに任せてドアをバタンと閉めようとしたが、重厚なドアは意に反して、その激高を吸収するかのように、しんなりと閉じた。


手すりを伝いながら清一は階段をゆっくり、ゆっくり下っていった。パラディッソでは階段を使う入居者はほとんどいない。だが清一は、健康のためにも時折階段を利用している。階段といっても人がすれ違うのがやっとの狭さで、非常階段に近いものがある。

入居棟の窓は採光の配慮から東と南窓がほとんどであるため、北や西側の景色はなかなか見ることができない。しかし、階段は建物のちょうど裏側に位置しているため、ここの踊り場の窓からは、普段目にすることのできない、北や西側の山の風景を楽しむことが出来た。入居者のほとんどはエレベーターを利用するため、ここではばったり人と出くわすこともない。人の目を気にせず、ゆっくりと景色を楽しめるという点では、ロビーよりも快適な空間と言える。最近見つけたこの秘密のスポットは、清一の散歩コースの一つになっていた。

西側の景色から、あの思い出の伊吹山の姿を眺められるのも清一にとっては大きかった。

清一は踊り場の窓縁にもたれ、しばしその雄大な姿を眺めた。錦秋の山々を従え、突き出た山頂は早くも冠雪していた。伊吹山を眺めると、かつての社長室から眺めたあの日々を思い出す。そして、幼い真澄を連れて家族三人で登ったあの日も思い出す。それから、社長を譲る覚悟を告げた、あの日の登山、あの日の真澄の笑顔。すべて昨日のことのようだ。清一にとって伊吹山を眺めることは、ある意味自分の人生を振り返る行為そのものと言えた。

過去の記憶を噛み締めながら伊吹山を眺め、足を休めてはまた下へ下へと降りていく。登山が趣味だった清一には、下山のようにも感じられる心地よいひとときだった。

四階の踊り場から景色を眺めていると、清一の視界に意外なものが飛び込んできた。すぐ手前の山の側面を、小さな白い車が縫うように走っていた。こんな山奥を車が走るのを見るのを見るのは初めてだった。いつもは農作業に向かう老人や、役場の原付が走るのをたまに見かけるぐらいで、その道が「道路」である、という認識すらなかったからだ。

うねった道を走る車は、姿を見せたり隠れたりしながら、こちらへ向かってきているようだった。清一は目を凝らしてみてさらに驚いた。サイレンと赤色灯を消して走っていたため気付かなかったが、白い車は救急車だった。

こんな山道をなぜ?

救急車はA棟の遥か西側をぐるっと回って、パラディッソの敷地内へと入っていったように思えた。清一は顔を窓にくっつけてその進路を追ったが、C棟の影に隠れてしまったところで車を見失った。

「あ、おじいさん!」

突然背後から呼びかけられた清一は、跳びあがるように驚き、その声の主の方へと視線を向けた。3階から上がってきたスタッフがこちらを睨んでいた。看護師のようなクリーム色の制服をまとった中年女性は介護スタッフであると一目で分かった。

「階段歩きは危ないよ。非常時以外はエレベーターを使うようにと書いてあったでしょ」

女性は階段の入り口を指し、清一の身なりを足の先から頭のてっぺんまで、じろじろ見回した。まるで入居者の値踏みをしているような目だった。

「いや、たまには足を使わないといけないと思ってね。エレベーターに頼ってばかりじゃ体がなまってしまうから」

いたずらを見つかったような顔で、清一は照れ笑いを浮かべた。

「体を動かすならフロントガーデンで気が済むまで歩いたらいいじゃない。こんなところで倒れられたら、迷惑になると思わないの?」

清一の話を聞き終わらないうちに、女はぶっきらぼうに答えた。こちらの身を案じているというより、転ばれたらかなわない、余計な仕事を増やすな、といった口ぶりだった。

「いったい何階から降りてきたの?上の階はお金持ちの人がたくさん住んでいるから、こんなところをうろうろしているところを見つかると大騒ぎになってしまうわよ」

女は下のステップから、叱りつける目で清一を見た。

「その最上階に住んでいるんだけどね」

清一は不愉快な空気を察知して、ブラックの入居証をポケットから出して見せた。身分証は入居者全員が所持しているもので、顔写真や氏名、入居棟、部屋番号などが記されている。キャッシュ機能も内臓されており、施設内での買い物はこれ一枚で済ますことができる。もちろん入居クラスごとに色分けされており、ブラックはVIPを意味した。パラディッソでこのカードを持っているのは数えるほどしかいない。

女の顔に動揺の色が表れた。言葉遣いも別人のように一変した。

「失礼いたしました。ここは、スタッフが主に利用している階段でして、お客様のような方がお使いになられる場所ではないと思いまして…。それに急いでいる場合などにぶつかって、お客様が転倒されるような事態になれば…」

「余計な仕事を増やすな、ということだね」

「いえ、そんなつもりは…お客様の安全のことが心配で…」女は必死に弁明した。

「君のような物言いをするスタッフがここにいるとは思わなかったよ。君、名前は」

女の胸ポケットに名札がなかったので清一は正した。名札を付けるのはパラディッソ全スタッフ共通の規則だ。ホームのみならず全サービス業に従事する者にとっては基本中の基本。コンビニやファミレスでさえ付け忘れを見たことはない。そんな義務さえ守られていないという事実も清一を呆れさせた。

「き、木内と申します。名札を忘れてしまいまして…」

ポケットをまさぐる女の額に脂汗が浮かんだ。VIPから応対についての苦情が出れば、並大抵の処分では済まない。最悪の事態を想定し、怯えているのが清一にも分かった。

入居証を胸ポケットにしまいながら、これがエブリーなら解雇だなと清一は思った。そして清一はふと、エブリーの各店舗を抜き打ちで視察していた頃のことを思い出した。 

レジ打ちの店員は人件費を抑えるために地元のパートを雇っていたが、その大半はこの女のような中年の主婦であった。研修もなく、先輩社員の仕事を見よう見まねで覚えてゆく彼らには、つり銭を間違えたり、商品の精算が遅かったり、顔見知りの客と話し込んだりするといった不手際も目に付いた。そのようなパートを清一は迷わず次から次へと切っていった。

抜き打ちの視察はエブリーの名物だった。清一は、視察のその場で、店長に解雇を通達させた。社員にとっては災難に違いないが、組織の引き締めのためには見せしめも必要だと考えていた。

しかし、ある日、視察を終えて車に乗り込もうとする清一の目にある光景が飛び込んできた。それは清一から解雇をするように命じられた店長が、レジの社員にその宣告をしている姿だった。彼女は店内の客の視線を一身に浴び、震えながら何度も何度も頭を下げていた。なんとか続けさせてください、彼女はそう言っているようだった。片田舎ではエブリーのほかにパート先などない。

しかし店長はその訴えに全く耳を貸そうとはしなかった。当然だった。オーナーの命令は絶対だ。命令を守らなければ店長自身の身も危ない。店長は困った表情を浮かべながらもなだめるように言い聞かせていた。そして、次の瞬間、彼女の姿がレジから消えた。店長の視線が真下に移動した。彼女は土下座をしたのだろう。

すると入り口の方から、ランドセルを背負った黄色い帽子の少年が彼女の元に駆け寄るのが見えた。彼女の息子であろうことは想像できた。学校帰りに母の顔を見に来ていたのだろう。そしてうずくまった母により添い、母をかばっているようだった。母子は店内の好奇の視線を浴び続けていた。

その光景に少なからずショックを受け、立ちつくす清一に、もうこんなことはやめるべきだと声を掛けたのが、たまたま視察に同行していた真澄だった。会社の重役には冷酷な方針に対する批判もあったろう。しかし、それまで清一の耳に入ってきたことは一度もなかった。むしろ、抜き打ち視察で社員の緊張感が高まるという報告ばかりを得ていた。当時のワンマンぶりを振り返ればそれも当然ともいえる。

だれが自分に苦言を呈すことができようか。

自分の思い上がりを恥じた。裸の王様だったのだ。そして、やはり自分の味方は肉親である真澄のほかにはいないということも確信した。車に乗り込みその場を後にした清一は、その日以来抜き打ちの視察をやめた。平社員への処分を社長の独断で行うことも控えるようになった。

清一はうつむきがちに震えている女を見ていると、あの日の記憶が重なり、次第に彼女が少し気の毒にも思えてきた。この女にもきっと家庭があるのだろう。パートの収入は亭主の少ない稼ぎの足しにしているに違いない。介護は激務だ。介護スタッフの殆どが、多かれ少なかれ経済的な事情を抱えて、その職についているのは明白だ。

それに四階はエコノミークラスの入居者の階でもあり、彼らと入居者が普段気さくに接しているだろうことも推測できた。入居者をおじいちゃんと呼んでしまうことも、ここでは許容の範囲内なのだろう。VIPクラス専属のスタッフと同じ対応を、彼らに求めるのは酷というもの。それに四階は特別介護棟にも渡り廊下で繋がっている。彼女がそこから徘徊老人を追ってここまで来た可能性もある。おそらく日夜の介護労働でストレスも溜まっているのだろう。そんな状況で自分のようなVIPと遭遇するとは夢にも思うまい。

そう考えると、次第に女の態度を許せる気にもなってきた。清一は「真澄に感謝しろよ」と心の中でつぶやいた。

「君は介護スタッフだろ。毎日老人たちの世話をするのは大変なことかもしれないが、もう少し思いやりのある態度で接してくれるとありがたいがね。ここはそこらの老人ホームとは違う。優しさやいたわりに溢れた、年寄りのための理想郷であるはずだよ。そのためには君たちスタッフの一人ひとりがその自覚とプライドを持っていてくれないと。他の入居者の人たちだって、」

そこまで話したところで、清一は背後に気配を感じた。振り向くと、白髪の入居者が階段をゆっくりと下りてくるところだった。

清一は、説教の声のトーンを下げた。前を見ると、木内は伏し目がちに何度も頭を下げて固まっている。清一は、お願いしますよ木内さん、と小声で続け、重苦しい空気を払うように話題を変えた。

「ところで、さっき救急車がパラディッソに入ってくるのが窓から見えたのだが、何かあったのだろうか」

「救急車?」

木内の目つきが変った。

「さあ。裏山は地元の者しか通らないような細い山道しかありませんから、車どころか救急車なんてとても通れませんよ」

「いや、確かに見たんだ。ほら、あの道を」

清一は窓に顔をくっつけ、救急車が通っていった道を指差してみせた。階段を下りてきた入居者も、そば耳を立てて、そちらを見た。木内も一瞬窓の外に視線を向けたが、あきれた顔ですぐに清一に向き直った。

「もし、ホームに急病人が出ても、救急車なら表側の太い道を通って正面ゲートから入ってきます。でもホームには診療所があるから、そんなことは滅多にありませんけど」

たしかにホーム東側には片側一車線の太い道があり、このホームに直結している。村がパラディッソを誘致した時に、わざわざ拡幅したというのは有名な話だ。いつでも大型の緊急車両が直行できるというのもパラディッソのセールスポイントになっている。

「たしかに裏道から入ってくるというのも変だな…。それじゃ、この近くで事故があったんじゃないか?」

なぁ、という顔で、清一は白髪の男性に同意を求める視線を送ったが、男性は外を眺めたままニヤニヤ笑っている。清一とスタッフのやりとりを楽しんでいるようにも見える。彼の存在は清一を一層不愉快にした。

木内はくだらない、という表情を浮かべたが、清一が納得していないようなので手前の山の西の端を指差した。

「あそこに、細長い煙が上がっているでしょう。焼きたてパンが評判のパン屋の煙突なんですけどね」

そこで一瞬にやっと笑って木内は続けた。

「あそこまで、県道が伸びているんです。この山のすぐ向こうに。だから近くで事故とか遭難者が出ても、救急車は向こう側の道を通りますよ。ですからわざわざ手前のけもの道を車が通るなんてことはあり得ません」

きっぱりと話す木内の顔にはいつのまにか、自信が甦っていた。大人が年寄りに向ける絶対的な自信、あれだ。完全に清一の見間違いだと決めつけているのだ。清一に言えることは「確かに見た」ということだけだ。村の地理に詳しいわけでも、あの山道に降り立ったこともないのだから、これはもう自分の目を信じてもらう他ない。しかし、彼女の絶対的な自信の前では、もう何を言っても、こちらが余計バカにされるだけだということが清一には分かった。木内の顔には、さきほどの苛立ちも甦っているようだった。

入居者の前で見世物にされるのもかなわない。清一は、もう何も反論する気にはなれなかった。

清一は、老人に注がれる視線を感じながら、すごすごとその場を後にした。「救急車がなんだって」「それがねぇ、違うんですよ」白髪の男と木内のヒソヒソ声が耳に入る。その先はもう階段を使う気にはなれなかった。

 エレベーターの「下」ボタンを押しながら、清一は屈辱感にさいなまれていた。救急車は確かにいた。いや、白い車だったかもしれない。ホームに入ったのではなかったのかもしれない。

 しかし、白い車は確かに清一の前方を走り去っていった。

どうやって信じさせればよかったのか。なぜ信じてくれないのか。清一は屈辱的な結論に落ち着かざるを得なかった。自分が老いているからだろう、という理由だ。もし自分がもう少し若ければ、せめてここのスタッフと同年代だったならば彼らはもう少し真面目に自分の話を聞いてくれたに違いない。清一はもう考えても仕方がないと諦めた。

 軽やかな到着音とともに一階に着くと、ワンテンポ遅れてエレベーターのドアがゆっくりと開いた。まばゆい光と、フロアに流れる懐かしい演歌のメロディーが入り込んできた。

「ほい、ごめんなさいよ」同時に三人の男たちがエレベーターに乗り込んできた。色や柄は違えどスラックスにセーター。誰もが同じような姿だ。将棋クラブか何かの仲間なのだろう。「あの手はまずかった」「今度は振り飛車勝ちますよ」などと喋りながら四階のボタンに手をかけた。清一は眉間にしわを寄せ、彼らに急かされるようにエレベーターの外に出た。

 

きらびやかな一階のフロアは衣料品や薬局、雑貨店など、一見ショッピングモールと見間違うほど、多彩な店舗が並んでいる。

ただ、地味な柄のベストやサロンパス、老眼鏡、無地の運動靴など、置かれている商品をみると、どれだけ店舗が垢抜けていても、ここが普通のショップ街とは違うことが分かる。つまり高齢者専用。今は昼下がりの時間帯だけに、どの店も数人の客しか入っていないが、入居者は電話で直接部屋に商品を届けさせることも多いため、実際の客入りは十分に多い。

ホームから外に出ても、村にはスーパーやディスカウントショップなどの商業施設はない。もちろん、ホームからは市内へ定期バスが運行されているが、本数は少ない上に、一番近いコンビニでもゆうに三十分はかかる。したがって入居者は必然的にここで買い物を済ますことになる。言い方は悪いが、先の人生を考えずに済む人々に「節約」などといった言葉は無縁だ。しかもここの客層は所得水準が高い。価格にけちをつける者がいるはずもない。各店の値札に特売やセールという言葉は一切見かけず、市内の店より割高なのは一目瞭然だ。

客層が絞られた上に、安定した客入りが保証されている。テナント料には行政からの補助もある。商売としては申し分ない。

頭の中でそろばんをはじくと、清一には店側のしたたかな計算が透けて見えた。

商売する側だった頃は客の足元をみることにはいささかのためらいもなく、むしろ快感すら覚えていたが、今あらためて、彼らの「獲物」の立場になってみると、その抜け目のなさ、欲深さに嫌悪感を覚える。市場原理とはいえ、せめて老人弱者相手のパラディッソにはそういった価値観を持ち込まないで欲しかった。

清一は、にこやかな視線を投げ掛けてくる店員に目もくれず、照明が乱反射するピカピカの床をカツカツと靴音をたてながら、通路をひたすらまっすぐ歩いた。

ショッピング街を抜けると、今度は土産物コーナー。陳列棚には、パラディッソをネーミングにしたケーキやうどん。キーホルダーまである。面会に来た家族に持たせるものなのだろう。壁には週末に開かれる「北海道物産展」のポスター。ここが老人ホームだと考えると気恥ずかしくもなるが、これだけの土産品の山を前にすると、まるで観光施設の中にいるような気分にさせてくれるから不思議だ。

 時計を見るとまだ三時を過ぎたところだった。清一は土産物コーナーの角を左に曲がり、ロビーへと向かった。


「まだ、息子さんから連絡はないんですね」トレーを胸に抱え桐原が心配そうな顔でのぞき込む。

「まあ、仕事も忙しくなってきたんじゃないかな。私の時もそうだった。会社を立ち上げたばかりの頃は、朝から晩まで駆けずり回っていたもんだ。本当、休みなんて全然とれなかった。この間までは景気も良かったから、真澄にも多少の余裕があったのかもしれないが、今は親の顔を見に来る暇なんてないはずだよ。もし来ても、こんな時代に何している!さっさと会社に戻って緊急対策会議を開かんか、と叱ってやるさ」

清一は、真澄がいないソファに向かって怒鳴るふりをした。ははは、と笑ってはみせたが、すぐに真顔に戻った。強がりに聞かれたくはなかった。

「間壁によると、元気にしているらしいよ。ああ、間壁ってのは」

「たしか黒川さんの、成年後見人とかいう…」

「そうそう、前にも話したかもしれないが、いざという時のために私の財産の管理などをやらせているあの男だ。彼はエブリーの顧問弁護士でもあるからね。秘かに真澄の様子も探らせてあるのさ」

清一は人差し指を唇にあてて小声で続けた。

「真澄が顔をみせなくても、あいつの行動は手に取るように分かっている」

桐原は、まあ、と軽蔑するような視線を向けた。清一はそれを見て「親心ってやつだよ。子供はいくつになっても子供なんだ」とおどけてみせた。

「ところで桐原さんはご存知かな。農薬入りギョーザ事件を」

清一はにんまり笑って続けた。

「あの、中国産の冷凍ギョーザですよね。たしか東京や大阪で死亡する人も出たとかいう。以前、ニュースで見ました」

「間壁が教えてくれたんだがね。あのギョーザ、うちも店にも並ぶ予定だったらしい」

桐原は、えっと上げた自分の声に驚いて、口を押さえながら周りを見渡した。VIPロビーに人がいないことを確かめ、一般ロビーの他の老人にも会話を気付かれていないことを確認すると、清一に向き直った。

「大丈夫だったんですか」

心配する桐原をよそに、清一はうれしそうに言った。

「だから、それを真澄が止めたんだ。店に並ぶ直前に気付いて、全店ぎりぎりで並ばずに済んだらしい。間壁が教えてくれた」

桐原は、ほっとした表情で、よかった~、と漏らした。

「それを聞いて、私も感心したんだよ。あいつもよくやっているんだな、って。もしお客に万が一のことがあれば、エブリーも無傷では済まない。その危機を救ったんだ。大金星だ。今回直前で気が付いたのは運かもしれないが、あいつになってからエブリーは伝統の安売り戦略を品物の安心安全路線に転換したからね。その姿勢がよかったんだよ。私がやっていたら、間違いなくギョーザは店頭に並んでいた。やっぱりあいつは先見の明があるよ。私よりも経営者の器だ」

清一は誇らしげに話し、視線を窓の外へ移した。大きな雨雲が、ゆっくりと前庭を覆い始めていた。正面ゲートから上がってくる車は見当たらなかった。 

それを見て、桐原は「きっと近いうちにいらっしゃいますよ」と微笑んだ。


 時間がそろそろ四時になるのを確かめて、清一は入浴セットを小脇に抱えソファーから腰を上げた。この時間に大浴場に行けば、一番風呂に入れる。清一は、もと来た方向へ戻り、土産物コーナーをそのまま横切った。しばらく進むと店舗は姿を消し、ガヤガヤと騒がしい声がしてきた。クラブ活動中の入居者の声だ。

 左手には、所々にステンドグラスがはめ込まれた、巨大なガラス窓が続いている。窓の向こうには、静かな山々の景色が続いている。

手前前方に目をやると、幼稚園の芝生の遊戯場も見えるが、園児の姿は見えなかった。この時間からすると、もう送迎バスが出た後なのかもしれない。

しばらく歩くと、右手には大きな広間が三つ並んで姿を現した。多目的ホールだ。

どれも百人は入るホールだが、室内に間仕切りを置くことで、複数のクラブが同時に活動を楽しんでいた。最初のホールの入り口にある、背丈ほどの垂れ幕の半紙には、「本日、将棋・囲碁クラブ、生け花、茶道」と大きな字で書かれていた。どのホールも大きな扉が開け放たれたままになっており、外からでも中の楽しそうな様子が覗けるようになっている。おそらく誰もが足を踏み入れやすいように、との配慮であろう。最近は清一もここを通るたびに、彼らの輪に加わりたい、という素直な衝動にかられる。隣のホールからはロマンチックな曲が流れ出していた。今日は社交ダンス教室も開かれているのだろう。自然と心が躍る。

「あら~お上手ですこと」「それなら今度ご一緒していいかしら」「ぜひ遊びにいらして」

高齢女性特有の甲高い話し声が入り口から溢れ出ていた。どの声も活気にあふれている。

一方で、彼らの笑い声や話し声が混ざった音は、まるで嵐のようにも感じられた。静寂の山々に囲まれた、静寂の宮殿の中にあって、この一角だけが異様な熱気を帯びている。

社会の中では、かき消されてしまうであろう、老人たち一人一人の小さな会話や小さな笑い声。それらが、このパラディッソの一室に、吹き溜まりのように流れこみ、そして互いにぶつかり合っている。絶えず流れ込むエネルギーのために気付かないが、先に流れ込んだものから順に、エネルギーは衰え、消滅してゆく。そのサイクルを思うと、清一は、彼らと交わりたいという気持ちはしぼんでしまうのだった。いったんこの渦に入ってしまったら、もう外の世界には戻れない、そういう気がしてならないのだ。清一は嵐の引力に抗うかのように早足にその場を通り過ぎた。

 ホールが遠ざかると、やがてパラディッソはいつもの静寂を取り戻していた。白い玉砂利の上に石灯籠を配置した、枯山水風の屋内庭園の脇を回り込むようにC棟に入ると、そこが大浴場だ。


 この日の大浴場は少し様子が違っていた。

清一のほかに客の姿が見当たらなかったからだ。清一は普段から一番風呂を目指しているとはいえ、実際は五、六番目になるのが常だった。もともと開場ジャストの時間を狙っている訳ではなく、クラブ活動終了直後のラッシュを避けることが目的なのだ。しかし入居者の中には開場前からベンチに腰掛けて、オープンを今か今かと待つ「常連」も何人かはいる。だが、その馴染みの顔がきょうは一つもなかった。

時計を見ると三時五十八分だった。時間には二分早い。

 一番乗りも悪くはないな、清一はそう思いながら暖簾をくぐった。いつもの靴箱にサンダルをしまい、脱衣場に入る。まだ湯気にさらされていない、ひんやりとした空気が妙に清潔に感じる。浴室から湯を浴びる音や洗面器を床に転がす音が聞こえてこないところをみると、やはりまだ誰も来てはいないのだろう。

五十人は入れる大浴場だから、脱衣場も普段から広いとは思っていたが、こうやって一人で着替えると、改めてその広さに気付かされる。大浴槽に一番に足を沈める優越感に期待を膨らませながら、その栄光を逃してはなるまいと、清一は着衣を急いで脱いでいった。一方で、後続が暖簾をくぐる気配にも注意を払ったが、誰も入ってくる気配は無かった。

清一が最後の一枚を脱いだあたりから悪い予感はしていたが、前を押さえ、浴室のガラス戸を開けた瞬間に、その予感は寒気とともに的中した。見ると浴槽に湯は張られていなかった。

「やられた」ガランとした浴室を前に、清一は、一瞬にして鳥肌に覆われた全身を小さく丸めながら、急いで戸を閉めた。怒りと恥ずかしさが込み上げてくる。

一体何だ。時間前だからか?いやそれなら湯が張ってあってもよさそうなものだ。臨時休業?だったら入り口は閉まっているはずだ。いろんな推測とスタッフへの怒りが頭をぐるぐる駆け巡ったが、清一はとにかく服を着るということを最優先した。石鹸と髭剃りをテーブルに叩きつけ、ブリーフを慌てて履いたその瞬間だった。

「ぐおおーー おおおー」

 遠くで獣がうなり声を上げているような、かすかな音が浴室から聞こえてきた。清一の背筋に冷たいものが走った。人の叫び声にも聞こえなくはない。ぞっとするような音だった。

清一は固まった。下着のシャツに通しかけた手を止め、もう一度耳を澄ませた。

おそらく聞き違いだろう。しかしその聞き違いを確かめなくては、気が済まないほどの不気味な音だった。清一はゆっくりシャツの首から頭を出すと、ガラス戸越しに浴室を覗いた。誰もいないようには見えるが、そこから判断するには十分とは言えなかった。

 浴槽の中で誰かが倒れていて、助けを呼んでいるのかもしれない―。

清一は意を決して、再び浴室の中に足を踏み入れた。

「誰かいるのかー」

清一は声を掛けながら、浴室をぐるりと見渡した。そして浴槽をひとつひとつ覗いて回った。しかし、どこにも音の主の姿はなく、呼び掛けには何の反応もなかった。

人の悲鳴じゃなかった。

清一は、ほっと胸を撫で下ろした。と同時に、次第に心の落ち着きを取り戻すと、一体何の音と聞き違えたのかを突き止めたくなってきた。何でも歳のせいにはしたくないし、されたくはない。たしかに聞こえたのだ。清一は少し冷静になって、さきほどの怪音を頭の中で再生した。

おそらく先ほどの音の発生源は浴室の中ではない。自分の発した声の反響音と比較してもそれは明らかだ。では、浴室の窓ガラスの向こうから聞こえた音なのだろうか。そうだとしたら、野犬の鳴き声や風切り音という可能性もあるだろう。もし仮に人の叫び声であったとしても、それなら園庭の巡回スタッフが駆けつけてくれているはずだ。

清一は左右を見回しながら、窓ガラスの脇に立った。夕焼けに染まった山々のパノラマ風景が眼前に広がった。湯煙に曇っていないそのクリアな光景は、いつもここから見る風景とは別物に思えるほど見事だった。清一は、もう一度うなり声が聞こえるのを待ってみたが、この風景のどこからも、そんな異音が響いてくる気配は感じられなかった。清一は寒さで震える体を擦った。

「やはり、聞き違いか」

清一がきびすを返そうとした瞬間だった。

「うおーーー」

この音だ。清一は音のする方向へ目を向けた。外からではない。壁だ。清一は西側のタイルの壁に近づいた。怪音はさっきよりも、はっきりと聞こえる。一体何の音なのだ。風でも犬でもない。人?もし人の声ならば尋常ではない事態だ。

壁の向こうで一体何が起きている?

壁に近づくに従って、清一の足の速度は落ちた。恐怖で足がガクガク震えるのが分かった。その時だった。

「おい、そこで何をしている!」

浴室に男の怒鳴り声が響いた。清一はビクリとその声に驚いた。振り返ると、黄緑色のスタジャンを着た、体格のいいひげ面の中年男が脱衣場から顔を出していた。こんな色のスタジャンを見たことはない。おそらく裏方のスタッフなのだろう。眉間に皴を寄せた攻撃的な表情に清一は一瞬身がすくんだが、黙って怒鳴られている場合ではなかった。

「お、おい、ここから、ここから!」清一は壁に指をさして訴えたが、あまりに焦ってろれつが回らなかった。

「今日は大浴場の点検整備日だって、表に書いてあったろ。勝手に入ってきちゃダメだろうが!」

男は清一の様子を気にもせず、そのまま、ずかずかと清一の方に向かって来た。どうやら力ずくで清一を外にひっぱり出す気らしい。清一は腕を掴まれて、下着姿のまま、その場にへたり込んだ。男の足に頭がぶつかりそうになった。よく見ると男は土足だった。

「はやく、ここを出やがれ!仕事になりやしねえ」

清一を無理やり起こそうとする男を、清一は見上げた。こんな乱暴なスタッフを見たことがない。しかし清一は力を振り絞って叫んだ。

「大変だ! か、壁の向こうから人の叫び声が聞こえる!はやく見てきてくれ!」

「壁?」

男はきょとん、として壁を見た。しかし声はすでに消えていた。

「何を言ってるんだ。人の声なんて、するわけねえんだ」

男は一層力を込めて清一を引きずり上げようとした。

「たしかに聞こえたんだ!なあ、あの音を聞いてくれ!」清一の懇願を無視して、男は引きずるように清一を脱衣室に放り込んだ。

脱衣場には男の他に、二人の男がいた。二人とも黄緑色のスタジャンを羽織っている。ひとりはひげ面と同じく体格の良い男だが、年はずっと若く、丸坊主で無表情だった。もう一人は彼らとは対照的に、華奢で眼鏡をかけていた。ひげ面が清一を引きずるように脱衣所に運び入れると、眼鏡の男が慌てて、ひげ面を叱責した。

「山中君、お客さまに、そんな乱暴しちゃいかんじゃないか!」

眼鏡の一言に、山中は子供のように小さくなり頭を掻いた。

「ど、どういうつもりなんだ。君たちは」

清一は床にへたり込んだまま三人を見上げた。弱々しいが、語気には怒りが満ちて震えていた。

「手荒い真似をいたしまして、まことに申し訳ございません。お怪我はございませんか。この者にはきつくきつく言って聞かせますので」

上司とみられる眼鏡の男が差し伸べるその手を払いのけ、清一はゆっくりと立ち上がった。

「VIP会員の黒川だ。どういうことか説明したまえ。説明次第じゃ、ただでは済まさんぞ」

清一は怒りを込めた目で眼鏡を睨んだ。黒川、という言葉に三人の目の色が一瞬変わったように思えた。眼鏡は山中の頭を両手で押さえつけるように清一に謝らせ、自らも何度も頭を下げた。

「今日は浴室の定期点検日でして、大浴場は休みとさせて頂いておりました。この者に作業を急がせたあまり、失礼をはたらき、どうぞお許し下さい」

「休業なんて書いてなかったぞ!」

清一はすぐさま言い返すと、眼鏡は再び申し訳ないと繰り返した。

「自らのミスで客をこんな目に合わせて、おまけに乱暴をはたらくなど、パラディッソのスタッフとして失格だ!きっちり責任はとってもらう」

清一が続けると、いままで黙っていた坊主頭がぼそっとつぶやいた。

「入り口に休業とあったろうが」

「なにを!」

清一が坊主を睨みつけると、眼鏡が坊主にお前は黙ってろ、と低く鋭い声で制した。

「ともかく、こちらの不手際です。重ねてお詫びします」

しかし、清一の怒りは収まらなかった。

「それに、壁から人の叫び声が聞こえているんだぞ!何かあったと思わないのか」

「叫び声?」眼鏡はちらっと浴室の方を見た。

「それをこの男が話を聞きもしないで、年寄りをこんな目に合わせて」

清一は掴まれた腕の部分を見て、うっすらとあざになった箇所を眼鏡に差し向けてから、引っ込めた。清一が自分のことを年寄りと称したのはこれが始めてだった。清一の中で少し違和感が残った。

「すぐ調べたまえよ。誰かが助けを呼んで、」

清一が続けると、坊主頭がくくっと笑った。するとそれを眼鏡がまたも目で制した。

「なにがおかしい」清一は坊主頭を睨んだ。

坊主頭は初めて清一の目を見ていった。笑いをこらえていた。

「壁の向こう?ボイラーの点検中だよ」


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