05
「それでも不安なら、あっちの私の拠点で待ってもらってもいいけど……」
「あ、それならそっちの方が安心……」
「ケルベロスとかそれより強い魔獣とかに囲まれるけど、いい?」
ファナリルの頬が引きつった。当然の反応だ。ケルベロスたちは、人間からすればやはり恐怖の対象だ。それらに囲まれるとなると、人族の家にいるより危険かもしれない。実際のところは、むしろケルベロスたちが守るので他よりもよほど安全なのだが。
「こ、この家で待たせていただいます……」
どうやらファナリルは人族を選んだらしい。少しだけ残念だ。
「ケルベロスたちの遊び相手ができるかなと思ったんだけどね」
イリスがそう言うと、何故かファナリルが真っ青になった。意味が分からない。
「それじゃあフィア。この人は龍人族のファナリル。私はちょっと出かけてくるから、ファナリルお姉ちゃんに遊んでもらってね」
「はーい」
フィアはいつも素直だ。ファナリルの元へと駆け寄ると、にっこりと微笑んだ。釣られるようにファナリルも笑顔になる。さすがフィアだ。ずば抜けた人心掌握だ。
――純粋なはずなのに真っ黒に聞こえるよ!
それはハルカの心が汚れているだけの話だ。
――そんなことないよ! 私はいつだってとても綺麗で真っ白でホワイトだよ!
――そうだね。
――流された!?
騒ぎ始めたハルカを放置して、イリスは出発することにした。
喫茶店は営業中だったので待たないといけないだろう、と思っていたのだが、パティシエの恵はすぐに作ってくれると言ってくれた。お菓子なので恵の担当なのだとか。ただ、量が欲しいと言えば、さすがに時間がほしいということになったが。
恵には望が買ってくれた芋を各種二個ずつ渡しておいた。閉店後に受け取りに行けばいいだろう。
時間ができてしまったので、この世界での用事を終わらせることにする。
――ということで、やってきました楠家! でもどうしよう、どうしたらいいのかな、チャイムかな、入っていいのかな、ねえハルカ!
――どうどう。落ち着いて。イリスなら勝手に入っても何も言われないとは思うけど、不安ならチャイムを鳴らそう。
――了解! とう!
来客用のチャイムを鳴らす。ぴんぽん、と軽い音が響く。ちょっと楽しそうな音だ。もう一度鳴らしてもいいだろうか。
――やめなさい。
ハルカに止められたので我慢する。しばらく待つと、はい、と直子の声が聞こえてきた。
「あ、その……。イリス、だけど、響子はいる……?」
何故か妙に緊張してしまった。一瞬の間の後、家の中から誰かが走ってくる音がして、勢いよくドアが開かれた。出てきたのは、楠家の三人だ。
「イリス、いらっしゃい!」
響子が嬉しそうに顔を輝かせる。健蔵と直子も微笑んでいて、妙に照れくさい。と、そこで直子が違うでしょう、と口を開き、
「おかえり、イリスちゃん」
イリスが大きく目を見開いた。
「ああ、そうだった! おかえり、イリス! ほら入って入って!」
「落ち着きなさい。まったく……。ほら、イリス。何をしているんだ? 入りなさい」
なんだろう。ちょっと、あったかい。
――あはは。ほら、イリス。待ってるよ。
――うん……。
なんとなく、心がぽかぽかしてくる。三人が待つ家の中にイリスは入る。以前も一度入った、どこにでもある普通の家なのだが、温かみを感じられる。
「えっと……。ただいま……」
イリスがそう言うと、三人の笑顔が深まった。
直子お手製のオムライスに舌鼓を打ち、満足してから響子にセルディからの手紙を渡した。セルディからと聞くと、響子は分かりやすいほどに驚いていた。
「手紙を届けてくれるなんて思ってなかったよ」
「気まぐれだからね。たまにだからね。日本に来る時ぐらいは、まあ、いいかな、だからね」
「あはは。うん。またお願いします。……あ、私も預けて良い?」
「むう……。オムライス代、ということでなら、引き受けてもいいよ」
本来なら手紙を届けるぐらいそれほど手間でもないのだが、かといって無制限に引き受けているときりがなくなってくる。それに、こう言っておけばまたオムライスが食べられるかもしれない。直子のオムライスはとても美味しいのだ。
――それ絶対そっちが本音だよね。やっぱりお母さんのオムライスの方が美味しい?
――いや、ハルカの方が美味しいけど。
なんだかハルカの声が拗ねているそれになっていたので、先に訂正しておく。それに、これは紛れもない本心だ。以前ならばともかく、今はハルカのオムライスの方が美味しいと思っている。
ハルカは一瞬戸惑っていたようだったが、すぐに嬉しそうな気配になった。
――お世辞でもそう言ってもらえると嬉しいね。うん。
――本心だよ?
――あ、うん……。ありがとう。
イリスにはハルカが照れる理由が分からない。素直に本当のことを話しているだけなのに。
目の前の響子に意識を戻せば、丁度読み終わったのか手紙を畳んでいるところだった。大事そうに畳む響子は、優しげに頬を緩めている。
「あの騎士の子だな。元気そうなのか?」
イリスの向かい側に座る健蔵が言って、響子が頷いた。
「元気みたい。不安そうにしていた罰もなかったみたいだね。ただ、どうしてか知らないけど、扱いが貴族みたいになって困ってるって書いてあったけど」
「貴族? どうしてそんなことに……。…………。ああ」
全員の視線がイリスへと向く。まるで、どうせイリスだろう、と言わんばかりだ。さすがにちょっと失礼すぎではなかろうか。思わず、少しだけ頬を膨らませて反論する。
「なに? 私は何もしてないよ? 私の影響はあったみたいだけど、直接的には何もしてないからね?」
「多分、それじゃないの? 何も言われていないから、どうしていいのか分からなくて、結果的に波風立てないように今の扱いになっていると思うのだけど」
「…………。あー……」
直子の指摘に妙に納得してしまった。イリスとしてはこれ以上介入するつもりなどないのだが、彼らからすれば、そんなことは知らないわけで。イリスの機嫌を損ねないように、という彼らなりの配慮なのだろう。
「んー……。まあ、いいか。セルディって子もそのうち慣れるでしょ」
人間というのは環境に慣れやすい生き物のように思う。適応力が高いと言うべきだろうか。ともかく、特に助けを求められたわけでもないので気にしなくていいだろう。
「響子がどうにかしてほしいなら、連れ去って別の村に預けるぐらいはするけど」
ちなみにこの別の村は、当然ながら果て無き山の麓の村を指す。
響子は少し考えるような素振りを見せたが、すぐに首を振った。
「大丈夫。手紙にも困ってるとは書いてるけど、助けてほしいようなことは書いてないから」
「ならいっか」
「ところで響子、私にも見せてくれない?」
「別にいいけど、多分読めないよ?」
直子が言って、響子が手紙を渡す。直子は興味津々といった様子で手紙を開き、すぐに首を傾げた。当然だろう、とイリスは思う。セルディがこちらの世界に来た時は会話に困らないようにと翻訳の魔法を使っていたが、今回は何もしていない。異世界の文字など、この世界の人にとっては意味不明な記号の羅列と同じだろう。
読めないわね、と直子は肩を落として響子に手紙を返した。笑いながら響子が言う。
「うん。普通は読めないよ。私は女神様から加護をもらったから、何となくで読めちゃうの。……そう言えば、この加護っていつまであるのかな?」
後半はイリスへと向けられたものだ。しかしイリスも、自分でかけた魔法ならともかく、女神の加護の効力なんて知るわけがない。
「さあ……。機会があれば女神様に聞いておくけど、あまり期待はしないでね」
「うん。お願い」
自然と、また来る約束をしてしまっていることに、イリスは気づかない。
どうしてか、ハルカが機嫌良く笑ったような、そんな気がした。