02
イリスたちの世界について、望はほとんど知らない。イリスがご飯を求めて日本に来るぐらいなのだから、あまり美味しいものはないのだろう、という程度の認識だ。だから、黒い穴から出た場所がこれほど暗い場所だとは思っていなかった。
真っ暗な闇だ。とても広い空間のようだが、詳しくは分からない。下手に動くこともできず望が固まっていると、腹に響く音が聞こえてきた。とても重い足音だ。ゆっくりと、こちらに近づいてくる。思わずつばを飲み込み、しかし望は動かずに待つ。ここにいるということは、きっとイリスの知り合いだろうと判断した。
足音が目の前に来て、ようやく声が降ってきた。
「 」
何かを言われた。しかし、意味が分からない。そこでようやく思い出した。イリスの世界は当然ながら言葉が違う。どうしてイリスやフィアと通じていたのか聞いてみれば、イリスの魔法という驚くべき内容だった。
つまりは、望は今、この世界の者と会話する手段を持たない。
どうするべきかと焦る望に、しかし救いは目の前の何かからもたらされた。
「ふむ。こちらの言葉か?」
目の前の何かが日本語を発した。望は驚きつつも頷いて、言う。
「ああ、そうだ。イリスにどうしても伝えたいことがあって来たんだが、イリスはいるか?」
「姫様なら王都へと向かわれた。しばらく戻ってこないぞ」
それを聞いた望は、思わず悪態をついていた。普段唐突に現れるくせに、なぜ必要な時にいないのか、と。異世界のあてはイリスだけだというのに。もう手詰まりだ。
平静とは思えないだろう望の様子が気になったのか、声が言う。
「急ぎか?」
「ああ……。できるだけ早く、伝える必要があったんだけど……。くそ、どうすればいい……」
「そこまで言うのなら、こちらから足の速い魔獣を伝言に向かわせよう」
「いいのか?」
「ああ。むしろ、無視した方が後が怖いからな」
どこか達観したような声音だった。苦労しているらしい。少しだけだが親近感がわく。
「苦労してるんだな、あんたも」
そう言ってやると、声は否定も肯定もしなかったが、小さく笑ったようだった。
「さて、内容を聞こうか」
「ああ。ハルカの妹の響子が、攫われた。変な魔方陣が出てきて、いきなりだ。こちらでも手は尽くすが、協力してほしい。そう伝えてくれ」
「承知した。では、出口はそのまま後ろに下がったところだ。気をつけて帰るといい」
声がそう言い残すと、あの足音が今度は遠ざかっていく。どうやら早速動いてくれるらしい。安堵しつつ、しかし油断はできない。イリスが知っているとも限らないのだから。
「一先ず、俺のできる範囲で、だな」
望は一人頷くと、声に指示されたように数歩下がり、自分の世界へと戻っていった。
・・・・・
「イリス! もうちょいで到着や!」
背中からの声に、イリスははーい、と気の抜ける返事をして、飛行速度を落としていく。眼下に広がるのはどこまでも続く大草原だ。地平線の果てまで続くそれは緑の絨毯のようで、とても美しい光景だった。所々に人が住む村が点在しているが、それもまたいい味を出している、ような気がする。
この世界に戻ってきてから一週間。イリスはフィアとケイティ、クレイ、そして馬車を一台乗せて、王都へと向かっているところだった。ケイティとクレイが王都へと向かうことを聞き、背中に乗せて送る代わりに、王都で遊ぶお金をもらうことになっている。
ポーションを売っているお金もあるが、多いに越したことはない。いい宿にも泊まれそうだ。ちなみに宿を探すのも協力してくれるらしい。
――王都ってことは、この国で一番大きな街なんだろうね。異世界の街かあ……。楽しみ。
――うん。美味しいものあるかな。あるよね。楽しみ。
きっと村や街とも違う、そしてそれよりもずっと美味しいものがあるはずだ。そう期待している。日本の料理も美味しいが、こちらはこちらでまた違った良さがある。
まだ見ぬ料理に心を躍らせていると、やがて大きな城壁が見えてきた。その城壁だけで、王都の大きさが分かるというものだ。
城壁は北から南まで、ずっと延びていた。緩やかに曲線を描いていることから、円形かもしくは楕円形をしていることは分かるが、今の高度では全貌は分からない。それでも、先日までの西の街がいくつもすっぽりと入ってしまうことだろう。だがこれだけ広いと、管理しきれないと思うのだが。
ケイティにそう言ってみると、ケイティは神妙な面持ちで頷いた。
「うん。まさにその通りやな。王都は広いけど、中心以外は他の街や村と似たようなもんや。それどころか、街とかよりもスラムの規模は大きい」
「スラム?」
「職を失った者、親を失った子供、真っ当な職につけない人らが集まる場所や。盗みや殺しは当たり前やからな。王都の兵も、わざわざスラムにまで行かへんし」
「なる、ほど?」
他の人が助けたりはしないのか、など思うところはあるが、人間の社会のことなのでイリスが介入するべきではない。面倒事は避けたいので、近寄らないようにだけしておこう。
「まあ懸命な判断やな。でもな、王都の兵の見回りがないってことは、秘密の取り引きをやりやすいってことでもあるんやで」
「ふうん」
「興味なさそうやな」
興味はない。ケイティのような商人ならそういった場は有り難いかもしれないが、イリスには関係のないことだ。観光程度に見に行く程度ならいいかもしれないが、余計なことには首を突っ込みたくない。
――今更すぎる。
――うるさい。
自覚はしている。ただ、今回こそは平穏に過ごしたいものだ。
だが、すでに嫌な予感もしている。昨日のことだが、この先の王都から妙な空間の揺らぎを感じた。イリスのように穴を開けたのではなく、無理矢理何かを引きずり込んだかのような揺らぎだった。もしかしたら、誰かが異世界から何かを取り寄せたのかもしれない。人か物か、それすら分からないのだが。
「どうかした? お姉ちゃん」
イリスの憂慮を感じ取ったのか、頭に乗っていたフィアが聞いてきた。イリスの頭はフィア専用の場所になっている。もちろん問題なんてないのだが。
「ちょっと気になることがあるだけだよ。まあ、気にせず観光を楽しもう」
「うん!」
王都はフィアも楽しみにしている。一緒に楽しめることがたくさんあれば、いいな。
王都から少し離れた場所で下りて、そこからは馬車で移動する。しばらくの間、馬は怯えてなかなか動かなかったが、フィアに慰められた後は歩き始めてくれた。フィアには動物使いの才能があるのかもしれない。
――親馬鹿みたいになってるよ?
――いや、そんなことは……。
――お父さんみたい。
――よし分かった気をつける。
さすがに父と同じようだと言われると、あまり穏やかにはいられない。色々と振り返って気をつけるとしよう。
――言った私もなんだけど、お父さんの扱いが……。
いたっていつも通りだ。気にする必要はない。