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父さん、というのはあの老人のことだろう。
「イリスという神様に時間をもらった。礼は言ったが、機会があればよろしく頼むってね」
どうやらあの老人はイリスのことを話したらしい。一気に広まってしまったが、後悔はしていない。ただ、これ以上はあまり広まってほしくないのだが。
「他に知ってる人は?」
そう短く聞けば、すぐに答えてくれた。
「この場にいる全員と、あと二階にいる母さんぐらいだね。心配しなくても、誰かに話すつもりはないから安心してほしい」
「ん……。まあ、信じるよ」
この男なら信じられるだろう。イリスは頷いて、席に座ることにする。今日はどこの席も空いているので、自由に座っていいらしい。それならばとイリスとフィアは、前回と同じ窓際の席に座った。
「さて、ハンバーグでいいのかい? 要望があれば、作れるものは作るよ。もちろん、お金はとらない。何でも言ってほしい」
それはとても嬉しい申し出だ。だが残念ながら、これといって食べたい料理はない。美味しいものは何でも食べたいが、今はとにかくハンバーグの気分だ。そう言うと、男は笑いながら、そうかと頷いた。
「それじゃあ、もし食べたいものができたら、かなを通して連絡をもらえるかな? 休みの日に作ってあげるよ。何度でもね」
「本当に!? 甘えるよ? すっごく甘えるよ?」
「ははは。いいよいいよ。ただし、作れるもの限定だからね?」
なんでいい人なのだろう。神様がいる。料理の神様がいる。
男は、それではしばしお待ちを、と奥へと引っ込んでいった。
――これでお店を探し回らなくてもすむね。
――うんうん。でもとれたての食べ物はどうしようかな。
――そういうのはね、その場で食べるのがいいんだよ。食べたい料理はここで、食べたい食材は現地で、でいいんじゃない?
――なるほど!
さすがハルカだ。頼りになる。
そう考えていると、店の奥から香ばしいいい匂いがただよってきた。いい匂いが漂ってきた。いい匂いが! 漂ってきた!
「お姉ちゃん、よだれ」
フィアに指摘されて、慌てて口元を拭う。これだけ美味しそうな匂いなのだから仕方ない。そう、私は悪くない。とても早く食べたいだけだ。
くう、と可愛らしいお腹の音がなる。先に言うが、イリスではない。だからハルカ、そんな疑わしそうな気配を向けてこないでほしい。
フィアを見ると、顔を真っ赤にして俯いていた。
「楽しみだね」
「う、うん……」
気づかないふりをしてあげよう。それが優しさというものだ。
「かわいいお腹の音だったね」
「…………」
――優しさどこいった。
フィアの反応がかわいいのが悪い。自分は悪くないと主張したい。
しばらくして、男が皿を持って戻ってきた。それをテーブルに置いてくれる。皿には分厚いハンバーグが載っていた。デミグラスソース、というものがかかっていて、とても美味しそうに見える。付け合わせに、サラダとフライドポテトも盛られていた。この店の特製ドレッシングを使っているらしい。さらにご飯を盛ったお皿と、コーンスープ。フルコースだいい仕事だもういいよねよし食べよう。
――うちの腹ぺこドラゴンがすみません。
ハルカが何か言っているが、気にしない。どうぞ、という男の言葉を聞いてすぐに、イリスとフィアは手を合わせた。いただきます。
ナイフとフォークを手に取る。使い方は習得済みだ。指導者は望。間違っていたら望を怒ってほしい。つまりは最低限しか知らないということだから。
フォークでハンバーグを切る。抵抗なくすっと切れて、断面から肉汁が溢れてきた。楽しい。細切れにしたくなるが、意味の分からない衝動は我慢して小さく切った方を一口食べてみる。柔らかいハンバーグに特製のデミグラスソースが絡み合って、濃い味なのにしつこくないという絶妙なバランスになっている。肉汁も計算に入れられたそれは、美枝が作ったものとは比べものにならない。さすが本職。これが料理人。
「そこまで美味しそうに食べてくれると、料理人冥利に尽きるね」
だらしなく頬を緩めながら食べていると、男が笑顔でそう言う。美味しいのだから仕方ない。幸せだ。
――うんうん。美味しそうだね。……ところでオムライスとどっちが美味しい。
――オムライス。
どこか拗ねたようなハルカの問いにイリスが即答すると、ハルカは何故か言葉に詰まったようだった。どうしたのだろうかと首を傾げるが、ハルカはしばらく無言だった。
――えっと……。ありがと。
何のお礼だろうか。あのオムライスは至高の一品だ。人類の到達点だ。いや、ドラゴンすら含む生物の到達点だ。その評価は未だ変わらない。
――逆に怖いよそれ。
意味が分からない。……オムライスが食べたくなってきた。作ってほしいとハルカに言えば、嬉しそうな声で、帰ったらね、という返答をもらった。楽しみが増えた。
そうして話している間に、完食。ハンバーグだけでなく、付け合わせのフライドポテトなども美味しかった。是非ともまた食べたい。
「ごちそうさま。すっごく美味しかった」
「美味しかったです!」
「うん。そう言ってもらえると嬉しいよ。食後のケーキはいかがかな?」
「欲しい!」
フィアと二人で同時に返事。男は思わずといった様子で噴き出して、そしてすぐにケーキを用意してくれた。大きなホールのケーキだ。今日は店が休みの中このケーキだけ作ったので、どうしてもホールになってしまったそうだ。
「余ったら箱に入れてあげるから、持って帰って……」
「全部食べるよ」
「はい?」
こんなに美味しい物を残せるだろうか。いや残せない。食べ始めたら止まらない。
とりあえずケーキを切ってもらう。豪快に二等分だ。改めて見るとなかなかの量だが、余裕だ。間違い無い。たださすがにフィアは厳しいのか、半分のケーキをさらに半分にしてかなちゃんと二人で食べることにしたようだ。仲がよさそうで見ているこちらも笑顔になる。
さて、とケーキを食べ始める。うん。先日と同じでとても美味しい。
「ああ、そうそう。食べたいものが菓子の場合は、恵が作ってくれるそうだよ」
「んー……。だれ?」
「だれって、かなの母で僕の奥さん……、ああ、自己紹介してなかったね」
男が、忘れてた、と苦笑した。イリスとしても、正直に言えばあまり関わり合いになることはないと思っていたのでわざわざ聞くほどのことでもないと思っていた。しかしこの先も協力してもらうことになるのなら、聞いておいた方がいいだろう。
「改めて、僕は誠司。古川誠司だ。妻は恵。よろしくね」
「誠司と、恵だね。うん。よろしく」
これからお世話になるのだからしっかりと覚えておく。
「あとは、食べながらでいいんだけど、他に何かできることはあるかい? まあ、できる範囲だけど」
「んー……。ハンバーグでお腹いっぱい」
とりあえずこれで今回の目的は達された。美味しいケーキを食べて、ハンバーグを食べて、フィアにも友達ができて。これ以上求めるのは我が儘というものだ。
「うん。また次何かあったら、お願いします」
そう言ってイリスが頭を下げると、誠司はこちらこそと笑った。
その後の期間はのんびりと新橋家で過ごしながら、フィアと一緒に町へと繰り出して買い食いを繰り返した。とても短い時間だったとはいえテレビにも出たためか、この町ではすっかり有名人だ。しかも望か健一かは分からないが、イリスが美味しいものを探していると皆が知っているようで、商店街ではよくいろんな食べ物をもらっている。
とてもいい町だ。美味しい町だ。素晴らしい。
――順当に餌付けされてるね。
――んー。美味しい。幸せ。
――あはは。イリスが幸せそうならいいことだ。
今は美枝から頼まれて買い物をしているところだ。商店街でお肉を買ったら、お肉屋さんにコロッケをもらった。さくさくほくほくしている。美味しい。
「ふへ……。美味しい……」
「おう。そうかい。メンチカツもいるかい?」
「もらう!」
もらったメンチカツは二つ。一つは隣のフィアに。フィアも一心不乱にコロッケをさくさく食べている。リスみたいでかわいい。
メンチカツもさくさくで、こちらは肉汁があふれてきた。素晴らしい。
「えへへ……」
幸せそうに頬を緩めるイリス。そうした表情が見れるのが嬉しいのか、イリスに自分の店の料理を渡す店主は皆が嬉しそうで、そしてどこか誇らしげだ。ごちそうさまでした、と頭を下げてイリスたちが立ち去ると、主婦さんが大勢そのお肉屋さんに集まってきた。
周りが食べたくなるほど美味しそうに食べることでも有名になりつつある。ただしイリスはそれを知らない。美味しいものが食べられるのなら、何でもいい。
「イリスちゃん! 冷たい飲み物はどうだい? りんごジュースだよ!」
「もらう!」
ほいほいと。声をかけられれば何でももらう。もちろんフィアもヒナのようについていく。誰もがその様子に頬を緩めていた。
少しずつ、少しずつイリスはこの町に溶け込みつつあった。
・・・・・
テレビというものは不特定多数の大勢が見るものだ。例え視聴率が低くても、人数で言えばかなりの数になる。
その中に。
「え……? お姉ちゃん……? イリスって、まさか……」
楠家が含まれていても、おかしくは、ない。
壁|w・)第四話終了。
ハルカの妹さん再登場です。
でもその前に閑話、なのですよー。