08
「よくぞ参った、人間の娘よ。そなたの願い、この我がかなえでっ……」
「…………」
「…………。痛い」
なんなのだろうか、この状況は。フィアが天使で、イリスがドラゴンで、そしてなんだか幻想的で威厳のある雰囲気だと思ったら、いつも通りに弛緩して。
「お姉ちゃん! 撫でてあげる!」
「んー」
大きなドラゴンが首を下げて舌を出す。フィアが、いたいのいたいのとんでけー、とその舌を撫でる。久しぶりにそれを聞いた気がする、と少しだけ現実逃避。ともかく、この緩い雰囲気はイリスとフィアで間違い無いようだ。
「さて! 気を取り直して!」
イリスが咳払い。ただし威厳はどこにもない。
「かなちゃん、そのおじいちゃんのところに送ってあげるよ。私の背に乗せてあげる」
それは、本当にいいのだろうか。ゲーム好きとしては、ドラゴンに乗るというのは、夢に見るほどの憧れだ。
「いいんですか?」
「いいのいいの。減るものじゃないし、たまに健一とか乗せてるし」
へえ。
「そうなんだ。ふうん……」
「あれ? ちょっと、かなちゃん?」
「いえ。あとでちょっと、お話しないといけないなと思っただけなんで」
「あー……。うん。まあ、いっか」
イリスはそう言うと、ほいっと、と気の抜けた声を発した。するとかなの体が宙に浮かぶ。突然のことに凍り付いている間に、かなの体はイリスの背中に乗せられた。
今のは、何だったんだろうか。魔法だろうか。
かなが思考しつつ固まっていると、その後ろにフィアが降り立った。見ると、翼を動かしていたようだ。どうやらその翼で飛んできたらしい。すごい、とかなが言うと、フィアは照れたようにはにかんだ。
「えへへ……。でもこの翼、姿勢の制御ぐらいしか使えないんだよ。飛んでる方は魔法。それも、私は浮かび上がるぐらいしかまだできないし」
それでも十分にすごいと思うのだが。普通の人ならまず浮かび上がることすらできない。
そうしてイリスは、ふわりと飛び始めた。
最初の目的地は、かなの家だ。先ほど、お母さんもお願いしますと頼んだところ、快く引き受けてくれた。
視線を下に向ければ、今まで住んでいた街並みが後方へと流れていく。なかなか不思議な光景だ。当たり前だが、普通では見ることのできないものである。家屋から漏れ出る明かりが幻想的だ。
かなの家にはあっという間にたどり着いた。空をひとっ飛びなのだから、当然と言えば当然か。もう少し景色を見ていたかったが、急がなければならないのでそうも言っていられない。
「おかあさああん!」
イリスの背中から母を呼ぶ。すると母が飛び出してきた。きょろきょろと周囲を見回している。どうやらかなのことを探しているらしい。
「どうして気づかないの?」
こんなに大きいのに。かなが首を傾げて、イリスが答える。
「光を曲げたりして見えなくしてるからね。人の肉眼だと見えないよ」
「へえ……。って、え? どうすればいいの?」
姿が見えないと呼びようもないのだが。
「待ってて」
フィア翼を広げて下りていく。一定のところまで下りると、どうやら姿が見えるようになったらしく、母が宙を、フィアを見て凍り付いていた。普段では絶対に見ることのない表情だ。
母とフィアが何か会話していることは分かる。しかし、どういった会話なのか聞こえない。もどかしく思いながらもそのまま待っていると、やがてフィアがこちらへと大きく手を振ってきた。どうやら話がまとまったらしい。イリスが頷くと、母の体がふわりと浮いた。
「え? なにこれ!? なにこれ!?」
母の取り乱した声。新鮮だ。
母がこちらへと浮かんでくる。隣にはフィアも一緒だ。そして途中で、イリスの姿が見えるようになったのだろう、口をあんぐりと開けて絶句している。気持ちは分かる。痛いほどに分かる。誰だって驚く。
「お母さん!」
かなが呼ぶと、母はかなを見て安堵のため息を漏らした。どうやら心配をかけていたらしい。反省しつつ、隣に立った母に抱きついた。
「これは……、何がどうなっているの……?」
母のもっともな疑問。
「このドラゴンはね、イリスさんなんだよ」
「え……? フィアちゃんと一緒にいた、あの子よね?」
「そう」
「え? え?」
どうやらかなり混乱しているらしい。
「フィアちゃんが、天使で、イリスちゃんが、ドラゴンで……、ここはいつからゲームになったの?」
「お母さん、落ち着いて。私も詳しくは分からないけど、今までのことは話すから」
とりあえず母を落ち着かせる方がいいだろう。そう思ったのだが、しかしイリスから待ったがかかった。それを話す前に、と前置きしてから、イリスが言う。
「先におじいちゃんの家の方角だけ教えてもらえる? あと、だいたいの距離」
「うん。お母さん」
「え? あ……。はい……。えっと、方角は……」
母が思い出すように視線を彷徨わせ、やがて一点の方向を指差した。ただ、真っ直ぐとなるとはっきりと分からないそうで、だいたいこちらの方向、という程度のものだ。まあ仕方ないね、とイリスは頷いた。
「じゃあ時折止まるから、見覚えのある景色があったら教えてね」
「分かりました……?」
「なんで疑問系なの?」
イリスが楽しそうに笑う。なぜと聞かれても、正直なところ、かなですら状況についていけていない。母なんて未だに混乱の最中だろう。そんな二人の状況などお構いなしに、イリスは翼を広げた。
「しゅっぱーつ」
気の抜ける声。それなのに、突然と流れ始める景色。徐々に上がるのではなく、いきなりの加速だ。しかし不思議なことに、風圧などは感じられない。
「かな。ちょっと、話をして」
母に促されて、かなは今のうちにこれまでのことを話すことにした。昼にフィアから聞いた龍の神様の話から、少し前に社でフィアとイリスに会ったこと。そして、おじいちゃんに会いたいというフィアの願いを叶えてくれることを。
全て聞き終えた母はどことなく疲れたような表情をしていた。
「フィアちゃん。あなたたちのことは教えてもらえるの?」
母が、イリスの頭に座っているフィアへと叫ぶ。フィアはこちらへと振り返って、次にイリスの方へと視線を下げる。どうやら決めるのはイリスの方らしい。言葉を交わしていないが、何かしらのやり取りがあったらしく、分かったとフィアが頷いた。
「ごめんなさい。今はちょっと話せません」
やはり、そうか。予想はしていたが、少し残念に思ってしまう。フィアが続ける。
「でも、一応言っておけば、私はこの世界で言うところの天使じゃないですし、お姉ちゃんは神様じゃありません。私は天族っていう翼を持つ種族で、お姉ちゃんは普段は人間に変身しているだけのドラゴンです」
天使や神様ではなくても、十分に驚く内容が多かった。特にイリスだ。人間の姿の方ではなく、今の姿が本来のものらしい。にわかには信じられないが、こうしてドラゴンの背中で空を飛んでいることを考えると、疑うこともできない。
ただ、かなとしては、どうしても確かめたいことが一つある。
「フィアちゃん」
かなが呼ぶと、フィアは何故か体を大きく震わせた。恐る恐るとこちらの様子をうかがってくる。その姿に、思わずかなは笑みを零した。
「友達でいいんだよね?」
「え……」
フィアが固まる。ただそれは、嫌なことを言われた、とかそういった不快な感情からくるものではなかったようで、すぐにその顔は満面の笑顔になった。
「うん! 友達!」
「そっか。それなら、私はそれでいいよ」
友達のふりをしているだけ、とか言われたら、立ち直れなかったかもしれない。かなにはフィアの本心なんて分からないが、分からないからこそフィアの言葉を信じることにする。友達の言葉を疑うようなことはしない。
フィアと一緒に笑い合う。うん。新しいこの友達は、やっぱりとても可愛らしい。
「まったく……。これじゃあ、私からも何も聞けないじゃない」
母はそう言って、苦笑しながら肩をすくめていた。