13
「あ……」
イリスの口から小さな声が漏れる。フィアの体は、ケルベロスの牙に貫かれていた。それを見て、イリスの頭は真っ白になっていた。
人間に興味がある。ただそれは、ただの興味だ。別に人間の友達が欲しいとか、そんな感情ではなかった。今も、それは変わっていないと思っていた。
けれど。今。小さな体を牙に貫かれてぐったりとしているフィアを見て、イリスは、自分でも分からないほどに衝撃を受けていた。悲しい。つらい。憎い。感情が、あふれ出しそうになっている。なんて都合のいい感情だろうか。
つい先ほどまで、見捨てるつもりだったのに。
「ではさらばだ。明日、またもらい受けに来る」
ケルベロスはそう言うと、空中を蹴って北へと去って行った。
その後は、蜂の巣をつついたような大騒ぎだ。全ての村人が広場に集まっている。フィアの母は泣き崩れ、フィアの父だろう男に背中をさすられていた。その父も、涙を流していた。
「どうしてこんなことに……!」
「ドラゴンに守られているんじゃなかったのか!」
誰かが口々に叫ぶ。ドラゴンに守れている事実は聞いたことはないが。
「おい、こりゃ何の騒ぎだ?」
不意に、広場の入口から声がした。皆がそちらへと振り返ると、大柄な男が不思議そうに首を傾げていた。イリスも見覚えがある。この村に最初に来た時に、クイナと共にいた男だ。そう言えば最近は見かけなくなっていた。
「実は……」
近くにいた村人が説明すると、男は苦々しげに顔をしかめた。
「そうなったか……。俺からも悪い報告だ」
男が、言う。
「山からドラゴンがいなくなっていた」
誰もが言葉を失った。皆が顔色をなくし、絶望にうちひしがれる。
「見てきたの?」
いまいち経緯が分からずにイリスが聞くと、男は頷いて、
「ああ。魔獣の様子がおかしいのは少し前からあったからな。長に命じられて、様子を見に行ってきたんだよ。北の森と山の洞窟には一人だけが通れる安全なルートがあるからな」
そんなものがあったとは知らなかった。男が言うには、一年に一度、村の誰かがそこを通り、山を訪れているらしい。ドラゴンがいることをそっと確認して、戻ってきているのだそうだ。
「ドラゴンは、抑止力だ」
クイナがため息交じりに言う。
「ずっと昔、ドラゴンがこの村を庇護下に置いた。それ以来、北の魔獣はこの村に手出しをしてこない。やつらといえど、ドラゴンの逆鱗には触れたくないんだろうね」
「その……。じゃあ、ドラゴンがいなくなったら……」
「こんな上等なえさ場、放っておかないだろうね。北側だけじゃなくて、よそからも魔獣が来るに決まってるさ。ドラゴンがいなくなったから、より強い魔獣がこちらに来て、ケルベロスたちを支配して、人間を食うことになった。そんなところだろうね」
それは、つまり。
――私が、悪い……?
あの山を任された後、少ししてすぐに村に訪れている。その後は一日の大半を村で過ごし、あの洞窟には寝に帰っていただけだ。戻る時も転移で直接戻っていたし何よりも最近は常にこの人間の姿だ。周囲の魔獣はドラゴンの姿を見ていないだろう。
つまり魔獣たちは、イリスという新たなドラゴンに気づいておらず、この地からドラゴンが去ったと思ってしまった。
なんということはない。フィアが連れ去られたのは、イリスの責任だ。
――イリス……。
ハルカが名前を呼んでくる。イリスはそれに何も言えずに、俯いてしまう。
――でも、それでも、人の社会のことだから、あまり関わるのはよくなくて……。
――フィアを助けたくないの?
――そんなこと、ないけど……。
――うん。じゃあ、いいじゃない。
あっけらかんと言うハルカに、イリスは、へ、と間抜けな声を漏らした。
――イリスのお父さんは、イリスにあの山を任せたんだよ。じゃあ、好きにしていいってことだよ、きっと。イリスの好きなように、動いていいよ。
好きなように。それは、つまり。
――助けに行っても、いいのかな?
――いいよ。行こうよ。フィアがいなくなるのは、嫌でしょ?
ああ、そうだ。それは、嫌だ。
イリスは薄く微笑む。確かに、父は好きにしていいと言っていた。だから、好きにしよう。
イリスはそっと、集団から抜け出して、北の門へと向かう。
そうして誰にも見つからずに北の門まで来た思ったのだが、
「イリス!」
クイナには気づかれていたようで、呼び止められてしまった。
「あんた、まさか、一人で行くつもりじゃ……!」
「うん。私のせいだから。私が行ってくるよ」
「何を言ってんだい! あんたの責任なんかじゃ……!」
「私の責任だよ」
そう言って、イリスはおもむろにフードを取った。
露わになるのは銀に輝く髪。風に揺れるその髪を見て、クイナは絶句した。
「あんた、それ……」
「うん。まあ、そういうことだから。待っててよ」
にっこりと、クイナに笑いかけた。
「ドラゴンは貴方たちを見捨ててなんかいないから。それを、証明してあげる」
そう言って、呆然と立ち尽くすクイナを置いて、イリスは村を後にした。
森に入ったイリスは、クイナが見えなくなったことを確認してから、勢いよく走り始めた。音を置き去りにして、ひたすらに走る。空と違い地上には木々があり、さすがにそれを粉砕しながら走るのも憚られるので、通り道には簡単な結界で道を作っている。イリスが走る影響はあまり出ていないはずだ。
時折、魔獣らしき姿がこちらを見ようとしていたようだったが、それよりも早く駆け抜けているので結局視認できてはいないようだ。他の場所よりも強い魔獣らしいが、所詮は魔獣。ドラゴンであるイリスにはただの動物と大差ない。
――なんというか……。ドラゴンって、規格外だよね……。
――それは褒めてるの? 貶してるの?
――一応褒めてる。
――じゃあ……。えっへん。
――ああもう! ぎゅってしたい!
なにやらハルカが悶えているが、気にせずに走る。
それほど時間がかかることもなく、目的の場所にたどり着いた。
そこは果て無き山のすぐ近く。大量の木を伐採して作られたらしい広場だ。そこに、他よりも大きな魔獣が三体いた。巨人のような魔獣と、大きな植物のような魔獣、そしてケルベロスだ。
「なんだ、貴様……?」
ケルベロスが警戒しつつこちらを睨み付けてくる。イリスはそれを気にすることもなく、じっとある一点を見つめていた。
三体の魔獣の奥に、一匹、違うものがいた。漆黒の毛並みを持つ犬だ。大きさもそれほど大きくなく、人族の大の大人程度の大きさだろう。だが、見た目とは違い、その犬から感じる魔力は他よりも圧倒的だった。
「あなたが新しい王様?」
イリスがそう聞くと、その犬は少し驚いたように目を見開いた。ゆっくりと立ち上がり、三体の前へと進み出る。
「いかにも。俺の名はディアボロ。炎の魔獣と呼ばれたこともある」
「ふうん……。初めて見る魔獣だ」
「そうだろうな。俺も俺以外を見たことが……」
「まあ私にとってはケルベロスってのも初めて知ったんだけど」
「おい……。俺はともかく、こいつはかなり有名なはずだが……」
ディアボロと名乗った魔獣が呆れたような目を向けてくる。イリスはそっと目を逸らした。
壁|w・)次話は……18時まで、は厳しいかもしれないので、19時までには更新したいです。