プロローグ
壁|w・)よろしくお願いします。……うん、また憑依なんだ。すまない。
綺麗な水をたたえる美しい湖の側で、それは気持ちよさそうに眠っていました。体を丸めて熟睡しているのは、白銀の鱗を持つドラゴンです。人の家屋ほどの大きさのドラゴンで、とても幸せそうに眠っていました。
不意に、白ドラゴンが目を開きました。欠伸をして、湖の水を飲みます。冷たく澄んでいて、とても美味しいお水です。ただ、この水がどこから湧き出しているのか白ドラゴンは知りません。
美味しいお水をたくさん飲んだ白ドラゴンは、少し体でも動かしたくなったのか、翼を広げ、飛び上がりました。そうするとこの島がよく見えます。
大陸ほどではありませんが、それでも大きな島です。いくつかの山があり、草木が緑の絨毯のように広がっています。あちらこちらでドラゴンがのびのびと過ごしています。こちらに気づいて手を振ってくるドラゴンに手を振り返しながら、白ドラゴンは島の端へと向かいます。
島の端は切り立った崖です。そしてその崖の下は、雲海が広がっています。
そう、この島は空に浮いた島なのです。ドラゴンたちはこの島を浮島と呼んでいます。そのまんまです。
地上の生物がここをどう呼んでいるかは分かりません。この島に気づいているかも分かりません。常に雲に隠されている島です。大きな雲、程度にしか見られていないかもしれません。
白ドラゴンは島の端っこに立つと、大きな声で吠えました。ぐおおお、と。
意味はありません。他のドラゴンもたまにやります。意味はありません。
満足した白ドラゴンは先ほどの湖に戻りました。
この湖は、どこからか水が湧き出しているという不思議な湖です。お父さん曰く、異世界から浄化された水が湧き出しているそうですが、白ドラゴンには難しいことは分かりません。美味しければいい、と答えたら、お父さんは呆れながらも笑っていました。それもそうだ、と。
もうちょっと飲もうかな、と白ドラゴンは湖に顔を近づけて、そしてそれを見つけました。
きらきらと光を反射する湖面。その中に、小さな光の玉がありました。反射している光ではなく、本当に小さな光の玉がそこにありました。
気になります。食べていいかな。食べちゃえ。
ぱくっ。ごっくん。
食べてみてもよく分かりません。何だったのでしょうか。
白ドラゴンは首を傾げながらも、また眠気が襲ってきたのでその場で丸くなりました。おやすみなさい。
――起きて! 起きてってば!
気持ちのいい眠りでしたが、不意に頭の中に響いた声に白ドラゴンは目を開きました。何でしょうか、この声は。
――あ、やっと起きた。
声が嬉しそうに笑います。白ドラゴンは不思議そうに首を傾げました。
――誰? どこにいるの?
――私はハルカ。楠遙。あなたの名前も聞いていい?
――私? イリス。龍王レジェディアの娘、イリス。
白ドラゴンがそう名乗ると、声は驚いたようでした。
――わあ! ドラゴンってだけでもびっくりなのに、王様の子供だなんて! じゃあお姫様?
――んー……。よく分かんない。それで、ハルカだっけ? どこにいるの? 私に何か用?
こうして声を聞いて知り合ったのも何かの縁です。手伝ってほしいことがあるのなら、協力してあげるのもやぶさかではありません。こうして声を届けられるのですから、相手もきっとドラゴンでしょうし。そう思っていたのですが、違いました。
――どこにいるかと聞かれれば、イリスの魂の側、かな?
――はい?
何それ。イリスはどれどれ、と意識を集中して自分の魂を見ます。普段、自分の魂を見ると、白い大きな玉があるだけです。そう言えばこれ、湖に浮いていたものと同じような。そう考えながら見てみると、その大きな玉に寄り添うように、小さな玉がありました。ちょっとだけくっついています。
それを見て察しました。やってしまいました。やらかしてしまいました。
どうやらイリスが食べてしまったのは、人間の魂だったようです。異世界から水が湧き出るという不思議現象を起こしているのですから、異世界の魂を呼び出していてもおかしくはありません。いや、珍しいことだとは思うのですが。
つまりは。異世界の魂を食べて、取り込んでしまった、と。そういうことなのでしょう。
幸いイリスの方が魂としての格が高いのか、イリスが取り込まれる形にはならないようです。むしろこの先、イリスの魂が異世界の魂を取り込むことになるでしょう。つまりこの声が聞こえるのは今だけです。
――あー……。やっぱり私、消えちゃうのか。
ハルカが寂しそうに言います。自分が原因なので、少し申し訳ないです。ですが、どうにもこのハルカという少女、とても軽い性格のようでした。
――まあいいか! 仕方ないね! じゃあ残りちょっとの時間、お話しようよ。
それをこの子が望むなら、それもいいでしょう。消えてしまうまでの間、恐怖を紛らわせるためにも話ぐらいはしてあげましょう。
――うん。いいよ。
イリスが快諾すると、ハルカは嬉しそうにありがとう、とお礼を言いました。
私が悪いのに。
異世界は魅力がいっぱい。イリスが学んだことです。
――このオムライスがね、とっても美味しいんだよ! イリスにも食べてほしい!
――いいなあいいなあ! 興味ある! 食べたい!
イリスはすっかりこのハルカという少女と意気投合してしまいました。ハルカの話は食べ物ばかりです。それがとても美味しそう。羨ましい。私も食べたい。
――ここにも美味しいものがあるでしょ? イリスは何かないの?
ハルカの問いに、イリスは申し訳なさそうに俯きました。
――ないよ。
――へ?
――私たち純粋なドラゴンは魔力を取り込むことで栄養とできるの。食べる、飲むは娯楽でしかない。この島には美味しい食べ物はないかな。
この島にもドラゴン以外の動物はいますが、食べることはお父さんによって禁止されています。木の実などは食べてもいいのですが、これもハルカの世界の果物ほど美味しいわけではありません。とても残念です。
――そっか……。じゃあ今度こっちの世界に来てよ。案内してあげる!
――うん。ハルカはもうすぐ消えちゃうけどね。
――おっとそうだった! あっはっは!
本当に、とても明るい子です。話しているととても楽しくなります。このまま、消してしまうのは寂しいと思ってしまいます。
ならばやることは一つ。
――ねえ、ハルカ。相談なんだけど。
――ん? なになに? もうすぐ消えちゃう私でも良ければ何でも聞くよ!
――このまま消えたい? それとも、消えたくない?
回りくどく聞くなんて、イリスにはできません。実際にところ、あまり時間も残されていないのもあります。だからこそ、はっきりと聞きました。
――消えたくない。
ハルカのか細い声が、届きました。今にも泣きそうな、そんな声です。
――死にたくなんてなかった。このまま消えたくない。怖いよ。すごく、怖い……。
それが、この子の本音なのでしょう。さっきまでのは、強がりか、虚勢か。それでも、すごいとイリスは素直にハルカのことを尊敬しました。それを隠して、あれだけ明るく振る舞っていたことに。
――じゃあ、ハルカに選択肢をあげる。
――へ?
――ハルカに体をあげることはできない。でも、私と一緒に共生することぐらいなら、できる。これ以上私に取り込まれないように、ハルカの魂を保護してあげる。だから、選んで。
このまま消えるか。
それとも、不便を承知でイリスの中で生きていくか。
そう問いかけると、ハルカは戸惑いながらも言いました。
――どうして、そこまでしてくれるの?
――ハルカのことが気に入ったから。それだけだよ。ねえ、ハルカ。
私と、友達になってよ。
イリスがそう言うと、ハルカは黙り込みました。それはまるで、呆然としているような、そんな無言です。しばらく待っていると、
――ずるいなあ……。
そう、ハルカがつぶやきました。
――本当にいいの? 私、イリスにとっては邪魔じゃないの?
――邪魔じゃないよ。私はハルカと一緒がいいな。もっとたくさんお話しようよ。
何の打算も邪気もない、本心からの声です。それが分かったのでしょう、ハルカが嬉しそうに笑いました。
――それじゃあ、よろしくお願いします。
――はい。よろしくお願いされました。
そう言って、二人で笑いました。
魂の保護。イリスは簡単に言いましたが、実はそれはとても難しいことです。魂という本来なら見ることも触ることもできないものに魔法をかけるのですから。しかし、イリスにとっては面倒ではあるけれど難しくはありません。これでも龍王の娘、いろいろと教わっているのです。
――完成。
イメージとしては、ハルカの魂に結界の膜をかけました。イリスの魂と繋がってしまっている部分は切り離せませんが、それでもこれ以上の吸収は防げるでしょう。これで、この楽しい友達とのおしゃべりは継続できます。
――それじゃあ、ハルカの世界の話、もっと聞かせて!
――了解! お任せあれ!
イリスはとても機嫌良く、ハルカの話に耳を傾けました。
人間ってすごい。区切りのいいところまで話を聞き終えたイリスの感想です。
人間は他の多くの動物よりも弱い生き物のようですが、それを様々な道具を作って補ってきたようです。ハルカの世界では科学というものを発展させて、多くの人間が生活しているようです。数千数万の数をこえて、数億数十億の人間がいるそうです。イリスには想像もできません。
――すごいなあ……。この世界の人間も、そんななのかな?
――いやあ、どうだろう? 私の世界には魔法なんてなかったし……。
魔法。イリスの世界にはあって、ハルカの世界にはないものです。
魔法とは、特定の法則を用いて精霊に働きかけ、様々な事象を起こす技術です。法則は詠唱であったり魔方陣であったりと様々です。とても便利なのですが、それがハルカの世界にはないということに驚きました。
――私も正直、この世界がすごく気になるんだけどね?
ハルカがそう言います。どうやらハルカはイリスと同じように、この世界に興味津々なようです。そしてそれはイリスも同じです。ハルカの世界も気になりますが、自分の世界の人間がどのような生活をしているのか、とても気になります。
もしかしたら、とても美味しいものがあるかも。
そうと決まれば、善は急げです。
――よし、決めた!
――何を?
――下に行こう! 人の生活を見に!
決定。ですがその前に、一応許可をもらっておきましょう。誰にかと言えば、もちろんドラゴンの頂点に。つまりは自分の父に。
――では出発!
――大丈夫かなあ……。
イリスの勢いに少しだけ不安を覚えたハルカでしたが、この世界についてはイリスの方が大先輩です。大人しく任せることにしました。
イリスが向かったのは、浮島の中央、他よりも一際大きい山の頂上です。そこに、父である龍王レジェディアがいます。
「お父さん!」
イリスが呼ぶと、天を仰いでいた漆黒のドラゴンが、父がゆっくりとイリスへと振り返りました。
――うわ、おっきい……。
ハルカのこの感想も当然でしょう。イリスが民家程度の大きさとするなら、レジェディアは貴族の屋敷程度の大きさがあります。もう少し具体的に言えば、イリスと同程度の大きさのドラゴンが十集まったのと同じぐらいの大きさ、でしょうか。
「イリスか。どうした?」
そんなレジェディアはとても優しい瞳でイリスを見つめています。
イリスは今までにあったことを説明しました。湖で人間の魂を食べてしまったこと。その魂を保護していること。友達になって色々とお話をしていること。そして、人間の生活に興味を覚えて、見に行きたいと思っていること。
全てを聞き終えたレジェディアはなるほどと頷いて、
「その人間の魂、消してくれようか」
どうやらレジェディアはハルカの魂を危険だと判断したようです。ですが、それを黙って聞いていられるイリスではありません。
「は?」
思っている以上に低い声が出ました。
今、この父は、せっかくできた友達を、消そうかと言ったのです。ああ、そうです。許せませんとも。
イリスの目がゆっくりと細められます。不機嫌を隠そうともしていません。むしろはっきりと怒りを露わにしています。それに気づいたレジェディアは、気まずそうに目を逸らしました。
「む……。冗談だ。忘れてくれ」
「次言ったら、お父さんのこと、嫌いになるから」
「ごめんなさい」
巨大なドラゴンが自分よりも小さなドラゴンに誠心誠意頭を下げているという、ある意味シュールな光景が繰り広げられています。他のドラゴンが見れば、幻滅する、ということはなかったりします。誰もが思います、またか、と。
龍王レジェディアの子煩悩はドラゴンの間では周知の事実です。
――なんだかなあ……。
ハルカは少しだけ複雑そうでした。第一印象は威厳のあるまさにドラゴンの中のドラゴン。今の印象はただの親ばかです。
「で、なんだったか。人間の世界を見に行きたい、だったか?」
「そうそう! どんな生活が気になるし、美味しいものもありそうだし、あとは……、美味しいものもありそうだし!」
「つまりは一番の目的は食べ物だと」
レジェディアはどこか呆れた様子でしたが、それでも優しげな瞳は変わりません。レジェディアはふむ、と少し考えるように空を見上げ、そして唐突に吠えました。大きく大きく、吠えました。
少し待つと、イリスと同程度の大きさの赤いドラゴンがこちらへと飛んできました。それはもう大急ぎです。レジェディアの目の前までやってくると、その場の地面に伏せました。
「お呼びでしょうか、王」
「ああ。例の件だ。進めろ」
「おお……。なるほど」
赤ドラゴンがイリスを見て、どこか嬉しそうに目を細めました。何のことか分からないイリスはしきりに首を傾げます。赤ドラゴンは気にするなとばかりに笑うと、レジェディアに頭を下げて飛んで行ってしまいました。
「イリス」
レジェディアに呼ばれて、イリスはそちらへと向き直ります。レジェディアが言います。
「地上にも我らの土地がある。最も高い山、人間たちが『果て無き山』と呼ぶ山だ。そこを、イリス、お前に任せよう」
「へ……? いいの?」
まさか山一つをもらえるとは思っていなかったので、イリスは思わず聞いてしまいました。とても嬉しいのですが、さすがにそれは職権乱用というものではないのでしょうか。
「構わない。もともと、あの山はイリスに任せるつもりだった」
「なんで?」
「お前には世界を知っておいてほしいからだ。私の娘として、この世界を、ここで暮らす命のことを知ってほしい。まあ、そんなところだ」
何となく。何となくですが、父が全てを話していないことは分かります。何かをイリスに隠しています。ですが、父が話すべきではないと判断したのなら、きっとイリスの頼みでも教えてはくれないでしょう。
いずれ分かる時がくる。そう判断して、イリスは気にしないことにしました。
「果て無き山はお前の好きにするといい。誰を招き入れようと、お前の自由だ。ただし、人に譲ることは許可しない。お前が管理するべき場所だ。いいな?」
「うん。分かった。がんばる!」
イリスが片手を上げてそう宣言すれば、レジェディアは楽しそうに笑いました。
「ああ、任せた。何か手が必要になれば、いつでも頼りなさい。私たち龍族はどんなことでもイリスに協力しよう」
「ありがとう、お父さん。大好き!」
イリスがそう言って父に抱きつけば、父は何も言わず、ですがおもいっきり相好を崩していました。だらしなく笑っています。先ほどまでの威厳が嘘のようです。黙って様子を見守っていたハルカはいろいろと考えることをやめてしまっています。
レジェディアははっと我に返ると、咳払いをして言いました。
「では行くといい、イリス。しっかりと楽しんできなさい」
「はあい! いってきます、お父さん!」
元気よくイリスは片手を上げて、猛スピードでその場を後にしました。
そして残されたレジェディアは、
「寂しいなあ……」
イリスとしばらく会えないことに悲しみ、黄昏れていました。
そうしてイリスの、特に目的のないぶらり旅が始まります。のんびりまったり、おっきな山を拠点にしての世界を巡る旅です。強いて目的をあげるなら、美味しいものが食べたいという欲求がありますが。
お供は幸か不幸か、イリスに憑依してしまった人間の女の子です。大切な大切な友達です。
――人間の世界! 楽しみだね、ハルカ!
――あはは。私も異世界の生活には興味があるから、楽しみだよ。
心の中で談笑しながら、イリスは浮島の底、雲海の底、地上へと向かいました。
壁|w・)今回の憑依ちゃんは突っ込み役、かもしれない。
次話は12時前に投稿予定。予定は未定!