九十九悟
小さな田舎の街にある公園のトイレに入り込み、便器を流すボタンを押した。
すると、便器ごとエレベーターの如く下に降りていった。
チンッと音が鳴ると同時に止まり、目の前の扉が開かれた。
中に入り、九十九は受付の所へ足を運ぶ。
「お疲れ様です」と受付嬢が言うと九十九は「院長はいるか? 現状報告がしたい」と愛想を振る舞う事無く要件を述べた。
それに気にする事無く受付嬢は「解りました」と微笑み電話を取った。
「お疲れ様です。 九十九悟様がお見えになりました。 はい、解りました」
電話を元に戻し「院長室へ向かう様にとの事です」と告げられ九十九は「解った」とお礼する事無く院長室へと足を運んだ。
扉の前まで移動し、三回ノックを鳴らすと中から「入れ」と聞き慣れた女性の声が耳に入ったので九十九は「失礼します」と扉を開いて入った。
「やあ、悟」
神野理。 この不思議なカウンセラーを纏める最高責任者。 そして、九十九悟を拾い、育て上げた師匠だ。
「御無沙汰しています。 院長」
すると悟理は残念そうに鼻で溜息を吐き「二人の時は理姉さんで良いと言っているだろ?」と拗ねた素振りを見せる。
対して九十九は「誰が見ているか解りませんからね」と至って冷静に答えた。
寧ろ誰も見てない所なら姉さんと呼んでくれるのか? と淡い期待を抱く神野理。
その如何わしい心情を読み取ったのか悟は「例え誰も見ていなくても呼びませんよ?」とくぎを刺すと理は「お、私の心が読めるようになったのか?」と少し驚いた。
「いいえ。 今でも院長の心は読めません。 そうですね、雰囲気を感じ取ったとでも言っておきましょうか」
その言葉に理はどこか嬉しそうに口元を少しだけ緩めた。
「それにしても、悟がカウンセラーデビューを果たしてもう一年経とうとしているのか」
早いな、としみじみと感じていると九十九は「そうですか?」とさも興味も無さそうな態度を取った。
そんな彼に気にする事無く理は口を開いた。
「最初は不安で仕方なかったが、まあちゃんとやっている訳だし安心したよ」
「散々貴方に扱かれましたからね」と九十九はまるで遠い昔の事を思い出す様に言った。
「何だ? まだそんな事を覚えているのか?」
まるで珍しいモノを見る様な表情を浮かべる理。
「忘れる訳ないですよ。 何せ今の自分でいられる様になった出来事だったので」
そう、それは今から遡ること八年前。
普通の家庭で生まれた九十九悟。
三才になった頃にそれは身についてしまった。
口にしてもいないのにその人物の声が聞こえるのだ。
最初は気のせいかと思ったが、次第に段々気づいていった。
自分は人の心が読めると。
当時の九十九は幼かったが故に、人の内に秘めた気持ちをはっきりと口に出してしまう。
それが原因で、周りは悟を遠ざける様になり、両親は離婚。
そして八歳の誕生日。
母がとうとう決意したのか、祖父の家に悟を預けた。
そんな母の暴挙に対し憤り感じた祖父が物申すが彼女は聴く耳を持たなかった。
九十九が「行かないで!」と母の腰に縋るが、彼女はそれを払い除け「アンタなんて産まなきゃよかった」と吐き捨て目の前から去って行った。
目の前が真っ暗になった瞬間だった。
それから九十九は毎日、学校で騒ぎを起こせば人気の無い公園でブランコに腰を下ろしてユラユラと揺れていた。
今日も良い事は一つも無かった。
「そんなことは無いよ」
急に背後から声を掛けられたのでビックリした悟ブランコから飛び降りてそちらに振り向いた。
声の主は微笑みながら「やっ!」とこちらに手を振っていた。
年齢は中学生くらいだろうか。 そこらで見かけるセーラー服を身に纏っている。
腰まで伸ばした艶のある黒い髪。 美しさと凛々さを兼ね備えた顔立ちをしているが、大きな瞳はどこを見ているのかまるで見当がつかない。 身長は悟の頭三つ分くらい高く、スリムな体系をしている。
「脅かせやがって」と九十九はその場から去ろうとした時、女性は「待って、待って!」と彼の手を取りそれを止めた。
「放せ!」
「無理だね。 君を放っておく訳にはいかない」
キレイごとを! と舌打ちを鳴らしながら女性を見るが、不思議な事に彼女の心が読めなかった。
何故? と思った時、不意に女性が笑い、口を開いた。
「何故、私の心が読めないか知りたい?」
ビクッ! と九十九は身体を震わせた。
この人、今俺の心を読んだ……?
対して彼女は余裕な表情を浮かべて「うん。 読み取ったよ」と言った。
「何故俺はお姉さんの心が読めないの?」
悟の問いに女の子は不敵な笑みを浮かべてそれに応えた。
「私の仕事上、人の心を読むのが当たり前で、読まれない為に心に壁を張っているのだよ」
仕事? 心を読むのが当たり前? 心に壁を張っている?
疑問は深まるばかりだった。
九十九は順を追って質問した。
「仕事って?」
「ああ、少し特殊な施設で人の悩みを和らげる仕事をしている」
「心を読むのが当たり前なのは?」
「私も、そして他の仲間たちも皆心が読めるから、自分の心を読まれない様に訓練して壁を張っているんだ」
「どうして心が読めるの?」
その問いに彼女は顎に手を添えて「そうだな……」と考える。
結果「他の人間はどうかは知らないが私は生まれた時から人の心が読めていた」と言う答えが返ってきた。
同じだ、と九十九は感じた。
「同じだよ」と彼女も笑った。
「姉さんも俺みたいな感じになったことある?」
すると女性は九十九を愛しい者を見るかの様な表情で「あったよ。 それもたくさん、ね」と懐かしむ様に答えた。
「ちょうど君くらいの齢だったかな。 心が読める事が原因で色んな人たちと問題を起こしてはよく人気の無い公園に逃げこんでは泣いていたかな」
「どうやって立ち直ったの?」
彼女は明後日の方向へと視線を向けてゆっくりと話した。
「何日か経って、いつもの様に公園で寂しく遊んでいると私と同じ境遇にあったことがある人物がやってきたのだ。 その人は私にこう言った」
九十九に視線を向け、
「その力を使って人の役に立ってはみないか、と」
静かに微笑んだのだった。
「人の心を読める、と言うことは人の本当の気持ちが解ると言うことだ。 人間は何かに悩み苦しんで生きている。 何に悩んでいるかを知り、助言する」
人の悩みを知り、助言する。
「君も良かったらやってみないか? と言っても、最初は厳しい訓練から入るのだがな」
「俺にそんなこと、出来るのだろうか……?」
「人間は案外、単純な生き物でな、考え方次第でどんな人間に変わる事も出来る。 君は見た所、まだ八才に見える。 そう、まだ八才だ。 何にでも挑戦でき、何にでも生まれ変わる事が出来る。 それに……」
「それに?」
「私や君の様な人間が施設にはたくさん存在する。 私たちの気持ちを解ってくれる人がいる。 無理強いはしない」
だが、と彼女は九十九に手を差し伸べ「興味があるのなら、私と共に来い」と強い眼差しで彼の目を捉えた。
九十九は雰囲気に呑まれたのか、はたまた彼女に魅了されたのか、差し伸べられた彼女の手を握り返した。
「私の名は神野理。 君は?」
「悟。 九十九悟」
今日は良い事があった。 そんな気がした。
それから九十九は理がいる組織に入り、厳しい訓練を受けた。
仲間に自分の心を悟られない特訓や患者との接し方など色々。
八年の年月をかけてようやくカウンセラーになれた。
一六歳と言う若さを生かし、思春期の子ども達の悩みを解消する担当を任され、患者を見つけてはその学校に裏の手口を使って転校する。 それの繰り返し。
「最初は心配で堪らなかったよ。 何せ悟には嫌な過去があったからな。 うっかり患者を絶望させないか冷や冷やしたよ」
「確かに、もし理さんと出会わなかったらそんな事になっていたかもしれません」
でも、と悟は言葉を続けた。
「理さんや、この施設の仲間たちは皆、俺と似たような経験をしている為か、俺だけじゃないと言う気持ちにもなれましたし。 ああ言った特殊な患者たちと触れ合って『こいつらもこいつらなりに苦労しているんだな』と言う感じになれたのです」
教え子の成長ぶりに感動したのか、理は「そうか」と言って少しだけ口を横に広げた。
「以前、私が悟に教えた『人間の悩みの種類』を覚えているか?」
「はい、覚えています。 確か大きく分けて四種類でしたよね?」
「そうだ。 『生きること』、『老いること』、『病むこと』、『死ぬこと』の四つだ」
「未だに信じられませんがね」と悟は一つ鼻で息を吐いた。
「だが、どの悩みも元を辿ればその四つの内に入る。 その四つを元に、人は様々な悩みを抱えるのだよ。 恋人のことや、友人、親子との関係とか他様々。 ストレスを溜めて内に次第にそれが周りに影響を及ぼしてしまう」
「だから俺たちが助言するのですよね?」
「そうだ」
理は嬉しそうに微笑んだ。 悟もそれにつられて笑みを零す。
「まだ早いが、一年間お勤めご苦労だった。 どうだ、久しぶりに夕飯でも食べにいかないか?」
彼女の誘いに悟はまんざらでもない小さな笑みを浮かべ、静かに首を縦に振った。