三和雅
季節は秋の始め。
まだ夏の蒸し暑さと蝉の鳴き声が聞こえる中、怠いと感じつつも学校に向かう生徒や肌からにじみ出る汗をタオルで拭ってブツブツとこの暑さに文句を言いながら歩く生徒などの姿がある。
そんな中、一人だけ上品に小洒落たフリルのついた薄ピンクの日傘をさして日光から身を守っている生徒がいた。
三和雅。 白鳥高等学校二年。
痛みの無い艶のある腰まで伸びた黒い髪。 その可憐にも美しい顔つきは女性なら誰もが羨むだろう。 華奢な身体つきをしており、背筋を真っ直ぐに伸ばしているが故に気品がより一層際立たせる。
自然と近くの生徒たちは雅の方へと視線が行く。
今日も可愛い。 今日も気品に溢れている。
次から次へと耳に入る賞賛の声。
しかし、そんな容姿端麗な三和雅にも二つ程悩みがある。
一つ、
「よっ、三和!」
よく自分の話し相手になってくれているクラスメイトの神崎直輝に恋心を抱いていると言うこと。
そしてもう一つは、
「おはようございます」
自分が『男』だと言うこと。
「今日も学校、頑張ろうな!」
眩しい笑顔を向けてくる直輝に少し見惚れながらも直ぐに自分が男だと言う現実を思い出し、なるべく表情に出さない様に返事をした。
この時、雅は思った。
何故自分は女として生まれなかったのだろうかと……。
放課後、雅は屋上に呼び出された。
自分を呼び出した相手は思い人、神崎直輝。
屋上に辿りつくと、中央辺りにどこか緊張した様子で立っていた。
彼の方に歩み寄ると「すまないな、こんな所に呼び出して」とぎこちない笑みを浮かべてそう言ってきた。
お互いに目を合わせ、暫く沈黙が続く。
頬を撫でる微風が彼の背中を押したのか、遂に口を開いた。
「俺、三和の事が……、その、好きなんだ!」
鼓動が鳴った瞬間だった。
「だからっ、そのっ! もし三和が良ければ俺と付き合ってくれ!」
勢いよく頭を下げる直輝。
まさか告白されるとは雅も思わなかった。
思い人が自分を好きだったと言う喜びに反面、自分は男なのだと言う絶望が襲う。
すぐにでもOKを出したかった。 しかし、彼と同性と言う事実がそれを邪魔した。
故に、出した答えは、
「凄く嬉しいです。 でも、少し考えさせて頂けませんか?」
と言う曖昧なものになってしまった。
これが悪いことだと言う事は自分でもよく理解している。
だが、彼とは付き合いたい。 彼の恋人になりたいとも思っている。
自分が男だからと言う理由で簡単に諦めたくなかったのだ。
そんな雅の曖昧な答えを聞いた彼は何を感じたのか「そうか……」とどこか残念そうな表情を浮かべた。
きっとフラれたのだと勘違いしているのだろう。
直輝はどこか低い声音で「帰ろうか」と気まずそうに言った。
対して雅はそれに「はい」と弱々しく返事をすることしか出来なかったのであった。
夜、自宅で雅は学校でもないのに勉強机の椅子に姿勢を正して座って今日のことを振り返っていた。
『もし三和が良ければ俺と付き合ってくれ!』
嬉しかった。
でも、自分は男だから。 だからと言って、諦めきれるのでしょうか?
雅は中学生の頃、自分が男だと言う事で悩んでいたことを母に相談した時「雅が本当にありたい自分でいなさい」と言われた記憶がある。
その言葉に救われた雅は『心』の中では女性としてあり続けることにしたのだ。
いつかは素敵な殿方と交際し、ゆくゆくは家族になりたいとも考えている。
今、その為の巨大で分厚い壁が目の前にある。
この時、雅はこれ程以上に自分が女であればと感じた瞬間だった。
明日になったら女性に変わってないでしょうか……。
何て見た目に反してお馬鹿な事を考えながら、部屋の明かりを消して、ベッドに横たわる雅であった。
早朝、ベッドの近くにセットしていた目覚まし時計の鐘が激しく鳴りながら眠り姫の耳を襲う。
横向きに寝ている雅は素早く手だけを動かし目覚まし時計の鐘を止め、そのままゆっくりと重たい上半身を起こし、欠伸しながら背伸びをした。
もう朝ですかとベッドから降りようと足を床に付けた時、身体に違和感を覚えた。
何か胸回りと股に違和感があった。
試しに薄ピンクのパジャマのボタンを上から二つ程開いて中を覘いてみると、女性が上半身に身に付ける黒をベースにしたピンクのフリルに赤いリボンのついた下着が身に付けられていた。
心なしか、少し胸が膨らんでいる様なそんな気がした。
そして何より、自分が何故この様な下着を身に付けているのか? いつの間に着けられたのか?
雅は軽く股の方に触れてみた。
無い……。
昨日までついていた筈の男性のシンボルが無くなっていた。
彼女は素早く全体を見通す鏡の前に移動して自分の身体を見た。
よく身体を眺めてみるとどこか骨格女性に見える。 いや、紛れもなく女性そのものだろう。
まだ自分は夢を見ているのでは無いかと試しに白く細い指で頬を抓った。
痛い。 夢じゃない。
まさか、自分は本当に女性になってしまったのだろうか?
雅はリビングに移動し、朝食を用意している母に問いかけてみた。
すると母は雅を可笑しな娘を見るような表情を浮かべ、
「雅は生まれた時から女の子だっわよ」
と少し呆れる気味に答えた。
その時、雅は奇妙に感じた。
昨日まで自分の身体は男性だった。
なのに何故女性の身体になってしまったのか?
限界まで思考を巡らせるが一向に答えは出ないまま、雅は朝食を摂り終え、いつもの様に女性用の制服に着替えて学校へと向かった。
雅が校門の中を歩いていると背後から「おはよう」と声を掛けられた。
声の主は思い人の神崎直輝であった。
いつもより胸が異常に高鳴った。
彼に告白されたからか、耳が熱くなっている様な気がした。
「お、おはよう……、ございます……」と少し神崎から視線を外して挨拶を返した。
すると自分が向けていた視線に神崎が入り込んで「どうした? 顔が赤いけど大丈夫か?」と額に手を当ててきた。
それにより雅は茹蛸の様に顔を真っ赤に染めた。
「熱は無さそうだな」
彼が手を放すと雅は「あっ……」と少し寂し気な表情を浮かべた。
「ん? どうした?」
自分の心情に気付いていない神崎に対して、雅は少しだけ眉根を寄せ彼を睨み「失礼します」と足早に自分の教室に向かった。
それから教室で神崎に「どうしたんだ?」と聴かれるが雅は頑なに口を閉ざしたままだんまりを決め込んだ。
しかし、授業中では彼の方をチラチラと視線を送っていた。
たまに目が合い、神崎に小さく手を振られるが雅はプイッと彼から視線を外した。
もしかしたら、自分が女性になってしまったのもいるかどうかも解らない神様からの贈り物なのでしょうか?
もしそうであるのなら……。
雅は決意したのであった。
学校が終わると雅はすぐに神崎の許へと向かい「今日、宜しければ一緒に帰りませんか?」と言った。
近くで聴いていた男子生徒たちが「何だとっ!?」と首が捥げる様な勢いで雅たちの方へと振り向く。
「神崎どう言う事だよ」などと言った言葉が飛んでくる中、神崎は「こう言う事だよ」とニカッと相手を煽る様な笑みを浮かべて雅と共に下校を始めた。
「しかし、三和から誘ってくれるなんて意外だったよ」
「そうでしょうか?」と雅は帰り道の途中にある人気の無い公園の入り口の前に止まり「少しここに寄って行きませんか?」と言った。
特に断る理由も無かったので神崎はそれを承諾し、公園の中に入った。
二つ並んであるブランコに腰を下ろす雅と神崎。
それから暫くして雅が口を開いた。
「昨日のことなんですが……」
その言葉を耳にした神崎は何故か背筋を伸ばす。
「本当に嬉しかったです」
もしかしてと神崎は心を躍らせる。
「もし、もし私で宜しければ……。 その……、お付き合いお願いします」
予想外の答えに神崎は思わず飛び跳ねてそのまま背中から転んでしまった。
「だ、大丈夫ですか?」
雅が手を差し伸べるとそれを少し恥ずかしそうに笑いながら握り返し身体を起こした。
「すまない、嬉しくてつい……」
素直な気持ちを述べる彼に雅は頬を少し朱に染めながら口元を微かに緩めるのだった。
あれから神崎と日曜日にデートする約束をしてその日は別れた。
雅はまだ胸の高鳴りが止まらないでいた。
明日から自分たちの距離がもっと縮まると思うと堪らなかった。
しかし、一つだけ不安があるとすれば、自分の身体についてだった。
今日は女性の身体だった。
それもあって告白の返事を返したのだが、もし明日自分の身体が男性に戻っていたらどうしようかと考える。
兎に角、先の事を考えても仕方がないと感じた雅は部屋の明かりを消して眠りにつくのであった。
次の日も身体は女性のままだった。
やはりこれは神からのささやかな贈り物なのだと思い、雅は今日の学校生活を満喫した。
休み時間の合間は神崎と触れ合い、昼休みでは一緒に弁当を食べてとまさに理想の学校生活だった。
それから日が経ち、日曜日。
夢にまで見た神崎の初デート。
その日は近くのテーマパークを廻ることにした。
ジェットコースターに乗ったり、メリーゴーランドに乗ったり、昼には雅が作った弁当を二人で食べたり、一つのカップに入った飲み物を二つのストローを使って二人で飲んだりと、とても幸福に満ちた一日だった。
自分に対する微かな疑念を除けば……。
夕方、帰り道の途中で神崎と別れた雅は一人で自宅へと歩を進める。
至福の時間だった。
それなのに、雅は度々自分に対しての疑問を抱いていた。
数日前まで、自分は男だった。
男だったが為に、神崎にはこのまま黙っていて良いのかと感じていた。
だが、自分は現在女性の身体をしている。
でもそれもいつまで続くのか。
そう考えると不安で堪らなくなった。
いつも帰り慣れた道なのに、とても幸せな一日を送れたのに、何故か歩を進める足は重く感じた。
見慣れた人気の無い住宅街を眺めながら歩いていると、前方から一人の人影が見えた。
丁度夕日がその人物の背中から射しかかっているので顔はよく見えなかった。
余り凝視するのも失礼だろうとその人から視線を外し、横を通り過ぎた。
その瞬間、身体を撫でまわされる様な気持ち悪い視線を感じた。
すぐに雅は視線を感じる方へと振り返った。
しかし、そこには通り過ぎた筈の人物が既にいなかった。
何か良くない事を察した彼女はそこから逃げる様に自宅へと帰った。
時間は深夜〇時を回った所。
雅の帰り道の途中にある公園のブランコで腰を下ろしている一人の少年が居た。
ユラユラとブランコで遊んでいるとポケットに入れているスマートフォンのバイブレーションが鳴る。
少年はそれを取り出し、通話のマークをタップし耳に当てた。
「俺だ。 ああ、見つけたぜ。 明日その学校へ潜り込む。 ああ。 解っているよ。 そんな心配するな。 いつも言っているだろ?」
夜空に浮かぶ月を見上げながら少年は言った。
「俺たちはただ、悩める患者にカウンセリングするだけだって」
翌日、雅の教室に転校生がやってきた。
「本日から君たちの仲間となる九十九悟くんだ。 皆、仲良くしてあげてください」
九十九悟。
身長は雅より少し下回る位か、黒い髪を短く整えており、全てを見通す様なその鋭利な黒い瞳はどこか不気味な者を感じた。
何も食べていないのではないかと心配してしまう位に身体が細く、肌は病人の様に白かった。
観察していると不意に転校生と目が合ってしまった。
彼は雅の何かを読み取ったかの様に不吉な笑みを浮かべた。
ドクンッ! と鼓動が激しく鳴った。
九十九は自己紹介を終えると担任に雅の後ろに空いている席に移動する様に指示され、それに従った。
雅の横を通り過ぎようとした時、九十九は「お前、本当にそれで良いのか?」と囁いた。
それにより、雅は不安に駆られた。
もしかして、自分の事を知っている?
色々とモヤモヤとした何とも言えない感情に襲われながら朝礼を受けるのであった。
昼休み、神崎に昼食の誘いを受けたが「少し済ませなければならない用事がありますので」と断り、雅は屋上へと向かった。
「よう、三和」
そこには奇妙なオーラを見に纏った転校生、九十九悟がいた。
「こんな所に呼び出して、何の用ですか?」
すると彼は不敵に笑って「なに、そう身構えるな」と言ってその鋭い瞳で雅の目を捉えた。
沈黙が走る。
今日は特に暑い訳でもないのに雅の頬には一滴の汗が伝った。
「三和雅。 お前、本当にそれで良いのか?」
ズキッ! とまるでナイフに刺されたかの様に胸が痛んだ。
「本当にそれで良いのか、とは……?」
若干声を震わせながら雅は聴いた。
「お前、『何か』を隠しているんじゃないのか?」
その言葉に雅は「それは……」と気まずそうに目を逸らした。
まさか、バレている……? もし、そうだとしたら何故一度も会った事が無い人間がそれを知っているのか?
そんな雅の心情を見透かしたかの様に九十九は口を開いた。
「一つだけ言わせて貰おう。 三和、お前はこのままだと『本当の自分』ではいられなくなるぞ?」
背中に悪寒が走った。
『本当の自分』と言うフレーズに心が震える。
「今の私は『偽り』だと?」
「今のお前の姿は『偽り』と言うよりは『願望』と言うものに近い」
『願望』
そのワードに微かに身に覚えがあった。 そしてそれを読み取ったかの様に九十九は口を開いた。
「同性同士じゃ色々と不味いもんな。 子供も作れやしないし。 でも思い人とは交際をしたい。 その為には女性の身体が必要だからな。 考えていただろ? 『女性になれたらな』と」
雅は肩を竦め、次第にどこか諦めたかの様な表情を浮かべた。
「貴方は何者ですか?」
すると九十九は不敵に笑い「俺は、悩める患者の気持ちを理解し、的確な助言を送るカウンセラー、九十九悟だ」と言った。
カウンセラー。 テレビでたまに耳にしたことがあります。 精神科の病院とかで日頃のストレスが溜まった患者の悩みを聞くあの……? 何故この様な自分と対して齢が変わらない人間がそんな職に就いているのでしょうか?
「まあ、俺みたいな学生が何故こんな職に就いているかは企業秘密と言う事で察してくれ」
そう言いなから九十九はまるで奇術師の様に何も無い所から机と二つの椅子を出現させた。
彼は席に座ると「まあ、立ち話もなんだしそこに座りなよ」と自分の目前に空いている席に誘導した。
雅はおそるおそるとその席に腰を下ろした。
「では、これよりカウンセリングを実行する」
「あの……」
「どうした?」
「カウンセリングとは、いったい何から話して良いのやら……」
その言葉に九十九は口を横に広げ「俺たちカウンセラーは言わば悩める患者の人生の相談者だ。 日常で悩んでいること、人には中々話せない悩みを洗いざらい喋ってくれたらいい。 そこらの友達や親とは違って話の途中に首を突っ込まずに全部聞いた上でアドバイスする。 まあ騙されたと思って喋ってみなよ」と不吉なオーラから一変、全てを包み込む様な優しい雰囲気を出して言った。
その言葉に背中を押されたのか、雅はゆっくりと自分の悩みを打ち明けた。
自分が男だと言うこと。 でも心は女性だと言うこと。 好きな男性が出来てしまったこと。 女性になりたいと願ったこと。 気が付いたら身体が女性に変化していて、親の記憶も自分は元からそうだったと書き換えられていたこと。 デートの日、神崎と幸せの時間を過ごしている時、これで良いのかと度々疑念を抱いていたこと。
全てを話し、雅はどこか悲哀の漂う笑みを浮かべながら「どうです? とても面白いでしょう?」と言った。
「全然」
キッパリと九十九は言い切った。
意外な彼の反応に雅はまん丸と目を開いた。
「三和雅。 お前は相手を思いやれる良い人間だ。 こんなに思い人の事を考えて、そいつは幸せ者だな。 でも、身体が求めていたものに変わったからと言って、嘘を吐くのはいけないな。 その姿はお前の本当の姿じゃない」
雅は表情を曇らせ「やはり、本当の事を話した方が良いですよね……」と弱々しく言った。
「ああ、話した方が良い」と九十九は答えた。
「でも……、打ち明けたとして、神崎くんは私を受け入れてくれるでしょうか……?」
彼女が一番不安に感じている悩みを話すと九十九はどこか優しい父親の様な笑みを浮かべ、ゆっくりと口を開いた。
「『真実の愛』って、何だと思う? ちゃんと男女が交際することなのか? 結婚して、子供を作ったら幸せなのか? 同性同士だって、子供は作れなくても、愛し合う事は出来る。 言わばこれも一つの『真実の愛』だと俺は考えている。 別に自分の正体を明かして、それが原因で別れる結果になったとしてもそれがなんだ。 そいつはお前を『ただの女』として見ていただけだ。 他に自分を受け入れてくれる男性を好きになれば良い」
俺が見た所、と彼は言葉を続けた。
「神崎直輝はお前が思っている程、つまらない男じゃないと思うぞ?」
保証は出来ないけどな、と少し困った笑みを浮かべた。
無責任な発言だ、だがこの自称カウンセラーが言っている事は一理あると雅は感じた。
私はちゃんと、思い人に『自分』と言う存在を知って貰った上で交際を続けたいと。
ここで学校のチャイムが鳴り、カウンセリングはここで中断する形になってしまった。
それから雅は何事も無かったかの様に普通に授業を受け、神崎と次の日曜日に再びデートする約束をしたのだった。
日曜日の朝、目覚ましに叩き起こされた雅は鞭打つ様に重たい身体を素早く起こし、ベッドから降りて着替えを始めた。
身体はカウンセリングを行った次の日から元に戻っていた。
母親の記憶もちゃんと元通りになっていた。
雅は気品のあるお嬢様の様な格好へと着替え「よしっ!」と小さく気合を入れると共に家を出た。
待ち合わせをしていた場所で神崎と合流し、不安を募らせながらも平静を装って以前デートしたテーマパークへと向かった。
そこで雅と神崎は色んなアトラクションを回り、昼には彼女が作った弁当を二人で食べ、時間は刻々と過ぎて行った。
夕方、帰りの途中にある公園で二人はブランコに肩を並べて腰を下ろしていた。
「いや今日も楽しかったわ!」
ご満悦な神崎。
言うならこのタイミングでしかない。
雅は神崎の服の袖を摘まんだ。
「どうした?」
彼の異変に気付いた神崎は少し心配する感じで聴いた。
「あの……、その……」
ドクンッ! ドクンッ! と心臓が激しく脈打つ。
次第に、彼の袖を摘まむ手は小さく震えていく。
言わなくては……、言わなくては!
「私は……、神崎くんに黙っていたことが……、あるんです……」
「黙っていたこと?」
雅はコクンッと首を縦に振った。
「私は……、実は……!」
その先が言えなかった。
言ってしまったら、全てを失う気がしたから。
神崎直輝はお前が思っている程、つまらない男じゃないと思うぞ?
不意に九十九悟の言葉を思い出し、それが雅の臆病な背中を後押ししたのか、彼は遂に言った。
「実は私、男なんです!」
沈黙が走った。
神崎は瞼を大きく開いていた。
「またまた冗談を」と笑うと雅は「冗談じゃありません」とそれを否定した。
「え? マジで……?」
驚愕する神崎。
「ごめんなさい。 貴方を騙すつもりではなかったのです」
深く謝る彼に「俺が好きだと言う事は?」と神崎は聴くと「神崎くんが好きだと言うのは嘘ではありません。 本当に、今でも好きで仕方がないのです……!」と涙を流しながら雅は言った。
「そうか……」と呟き彼はブランコから立ち上がると「そろそろ暗くなるし、帰ろうか」とどこか哀しそうな笑みを浮かべて言った。
それに雅はただ「はい」と従うことしか出来なかった。
全てを失った。
そう心に深く刻まれた一日になったのだった。
それから雅は学校に行くも、神崎と話す事も、ましてや目を合わせる事も無かった。
あの自称カウンセラー、九十九悟の姿もどこにも無かった。
聞いたところ、転校生すらやってきてないと言う奇天烈な答えが返ってきた。
神崎に他の生徒たちに自分が男だと言うことが言いふらされていないのは唯一の幸いか。
雅はもう二度と誰も傷つけない様に人との関係を絶つことを決めた三日目の放課後だった。
なんと神崎が自分からやってきて「一緒に帰ろう。 伝えたい事があるんだ」と誘ってきた。
断る理由も無かったので雅は黙ってそれを承諾し、共に下校することにした。
帰り道の途中でいつもの公園を見かけ「少し寄って行こう」と神崎に言われたので雅は黙ってそれに従った。
ブランコに肩を並べて座る二人。
重い空気の中、神崎が口を開いた。
「本題に入るな」
雅はブランコの鎖を強く握り締めた。
嗚呼、罵倒されるのかな。 と瞼を閉じて、言葉を待った。
「俺さ、あの日三和から自分は男だと言われた時、確かにショックを受けた」
でも、と神崎は言葉を続ける。
「それでも、変わる事が無かったんだ」
神崎は立ち上がり、雅の方へと身体を向けて彼の両肩を掴んだ。
「お前が……、三和雅が堪らなく好きだと言う事を!」
刹那、心の闇に光が射しかかった感覚を覚えた。
「えっ、えっ……?」と雅は狼狽えた。
「だから!」
力強く真っ直ぐな瞳で雅の目を捉えた。
「雅が良ければ、俺と……! 俺と付き合ってくれ!」
頬に一滴の雫が伝った。
その言葉が嬉しくて、次第にボロボロと涙を流れた。
「こちらこそ……! 宜しく……、お願いします……!」
神崎は雅を抱きしめた。
強く、優しく、慈しむ様に。
雅も彼の背中に手を回すのであった。
その一部始終を公園の入り口の影に隠れて黙って見守っていたカウンセラー、九十九悟はホッと胸を撫で下ろし、バレない様に静かにその場から立ち去った。
「これにてカウンセリングを終了する」