二ノ宮佳
「佳、私は怒っている。 それは何故か解るか?」
食卓で自分の向かいに座っている父が腕を組んで瞼を閉じながらそんな事を口にした。
勿論、思い当たる節が無い父の一人息子の二ノ(の)宮佳は「さあ?」と両掌を上に向けた。
ドンッ! と佳の父は食卓に一枚の紙を彼の目の前に叩きつけた。
「これが何か解るか?」
そう聞かれた佳は食卓に叩き付けられた紙を見た。
学校で受け取った現代社会のテスト用紙で右上には八八点と赤く記されている。
「この紙がどうしたの?」
さも興味が無さそうに聞いた佳に対して父は深い溜息を一つ吐いて口を開いた。
「お前、最近点数が落ちてきているぞ?」
落ちてきていると言っても高得点なのだがとは口にはしなかった。
「こんなんで良い職場に就けると思っているのか?」
「どんな酷い点数になっても、最終的には職に就けば問題ないのでは?」
「甘い!」ドンッ! と父は両手で食卓を強く叩いた。
「学歴が良ければ雇う側にも信頼されるだろう? 学が無いと能が無い人間と見られ、まともに良い仕事をさせてもらえないぞ?」
口煩い父に佳は少し歯を噛みしめて「はいはい、解った。 解りましたよ。 ようは勉強すれば良いんでしょ?」と煩わしそうに言い放った。
そんな息子のやる気の無さそうな立ち振る舞に父親は「解ったら部屋に戻って勉強しろ!」と激昂した。
五月蠅いな……。 そんなきつく言わなくても解ってるっての!
佳は何も言わずに自分の部屋に戻るのであった。
父さんもあんな言い方しなくて良いものの……。
勉強机にある椅子に寝そべる形で座りながら先程の父の言動を思い出していた。
しかし、父親が自分にあんなに勉強させたがるのは勿論、佳は理解していた。
佳は生まれたと同時に母を亡くしている。
父は男手一つで彼を育てることにしたのだ。
佳が貧しい思いをしない様に、必死に努力して働き、会社では部長まで昇進した。
そんな父を勿論、佳は尊敬している。 しかし、彼にも彼で勉強よりもやりたい事がある。
そう、夢があるのだ。
だが、頭の固い父に言うと一○○パーセントの確率で反対するだろう。
だから佳は夢を叶える為に部屋で密かに執筆していたのだ。 小説を。
正直、就職なんて、作家を目指している佳にとってはオマケ程度でしかない。
適当に就職して、仕事をしながら小説を書ければそれで良かった。
佳はパソコンを起動し、ドキュメントフォルダを開いた。
『大人になるということ』
現在彼が手掛けている小説だった。
内容は人間が嫌いな主人公がある人物と出会う事で人生が大きく変わると言うもの。
実にありきたりな内容である。
しかし、そのありきたりな内容に佳はどうしても書かなくてはいけない気がしたのだ。
だが、正直な所、インパクトが無い。
このままではきっとありきたりな作品で書籍化すらさせて貰えないのだろうと佳は頭を悩ませる。
ここで佳が出した答えは一つ。
どんな事であれ、書くしかあるまい。
彼は父に言われた事などさっぱり忘れて執筆活動に没頭するのであった。
翌日、勉強机に顔を俯かせながら眠っていた佳は、怠そうに瞼を擦りながら目を覚ました。
近くに置いている時計を見ると朝の七時半を廻っていた。
ヤバいと感じた佳はすぐに重い身体を叩き起こして制服に着替え、通学鞄を持ってパソコンの電源を付けたまま家から出た。
何とか学校に間に合った佳はホッと胸を撫で下ろし、教室に入り、自分の席に着いた。
「今日もギリギリだな」
ニシシッと歯を見せて微笑む友達、渡辺友也に対して「うるさい」と佳は恥ずかしい気持ちを堪えながら言った。
「また昨日も没頭していたのか?」
「まあな」
「よくやるねぇ」と夢に夢中になれる彼に感心する友也。
そんな彼に佳は「お前も何か夢は無いのか?」と聴くと「俺は今を生きられればそれで良いんだよ」と笑って返された。
「今を生きられればそれで良い」か……。 もしかした友也は既に夢が叶っているのかもな。
なんて事を思ったりしながら佳は通学鞄に入れている教材を勉強机の中に移した。
いつもと変わらない日常。 いつもと変わらない光景。 いつもと変わらない人たち。
今日も平和だと、この時の佳はそう思っていた……。
夕方五時頃、電車の優先席で共に座っている友也が不意にこんな事を口にしてきた。
「佳は何故作家になろうと思ったんだ?」
その問いにすぐには答えを返せなかった。
何故だろう? 確か、アニメや漫画、小説で納得のいかないシーンや、もし自分がその世界の住人で、主人公たちとの仲間だったらと言う妄想をよくやっていたのがきっかけだった気がする。
それだけじゃない。 色んな作品に影響されて、いつか自分もこんな作品を書きたいと感じたのだ。
佳はその事を友也に語ると彼は「あー、でもその気持ち解る気がする」と少し嬉しそうな笑みを浮かべて共感した。
それが少し嬉しく感じた佳は口元を緩ませた。
『次は、○×。 次は、○×』
電車のアナウンスを聞いて友也は優先席から立ち上がった。
「またな!」とニッと笑って右手を上げながら電車の入り口に移動した。
プシューッ! と扉が開いて友也は電車から降りたのだった。
「ただいま」
素っ気ない感じで自宅に帰った佳はお茶を飲みにリビングへと移動すると食卓に父が腕を組み鬼の様な形相で座っていた。
少し驚いた佳は「何だ父さん。 今日はえらく早いじゃないか?」と冷蔵庫の方へと足を運ぼうとすると「待ちなさい」とドスの効いた低い声で呼び止められた。
「何だよ?」と佳が聴くと父は向かいの席に視線を送り「そこに座りなさい」と言ってきた。
喉が渇いているって言うのに……。
勘弁してくれと思いながら面倒くさそうに食卓に着いた。
「そう言えばこんなに早いと言う事は、仕事はどうしたの?」
「今日は休ませてもらった」
その言葉に驚愕する佳。
以外だったのだ。 普段毎日サボらず真面目に働く父さんが何もないのに休むなんて。
「何か不味い事でもあったのかよ?」
それに対して父は「ああ、実に不味い事だ」と佳を睨みつけ、A4用紙にプリントされた紙束を勢いよく食卓に置いた。
「それは……!?」
佳はその紙束が何なのか理解していた。
「何故それを……?」
「お前の部屋のパソコンの電源が起動したままだったから読ませてもらった。 佳、お前まさか作家になろうなんて考えているんじゃあるまいな?」
「だったらどうしたんだよ?」
沈黙が流れる。
暫しの睨み合い、部屋の中は不気味な程に静かになり、時計の針の音がはっきり解る程に耳に入り込んでくる。 硬直した状態が続く中、シンクの水道管の流出口から水が一滴零れ落ちたと同時に父が口を開いた。
「お前には向いていない。 諦めろ」
刹那、刃物に刺されたかの様な痛みが胸に走った。
何で……、
「何でそんなことを言うんだよ!?」
「目を通して見たが、表現も微妙だし、文法なんてまるでなってない」
父は鋭い眼光で佳の瞳を捉え「才能が無い。 みっともないからもう辞めろ」と威圧した。
才能が無い。 みっともない。
気がつけば佳は自分の部屋の方へと歩を進めていた。
中に入り、真っ先にベッドへとダイブした。
どうして……?
否定された。 自分の『夢』を。
どうして? 何故……?
実の『親』に、否定された。
どうして? 何故? 何でだよ!?
傷ついたその感情は次第に憎悪へと変わっていく。
要らねぇ……、要らねぇよ……。 あんな親……。
そして、佳は願った。
父さんなんて消えてしまえ!
これは、梅雨が明け、蒸し暑い季節に入ろうとした七月上旬に起こった出来事である。
目が覚めた時はやけに日差しが眩しく感じた。
ベッドで仰向けに寝ている佳は鞭を打つ様に上半身を起こし、目を擦りながらも勉強机に置いている時計に目を向けた。
現在朝の六時を回った所。
どうやらいつの間にか眠っていたらしい。
佳は朝食を摂ろうとベッドから降りてリビングへと移動した。
そこに父の姿は無かった。
まだ眠っているのだろうと佳はキッチンに置いてあるトーストを一枚口に加えてTVを付けた。
「ニュースの時間です」
朝のニュース番組に出ているアナウンサーの声をBGMに佳は口に加えているトーストを食べている時、それは起こった。
「この本が凄いランキングの特集です!」
ふと別の明るい系の女子アナウンサーの放った言葉が耳に入った。
アナウンサーは次々と人気の本を紹介していく。
こんな本が流行っているのだなと佳はTVを見もしないままただひたすらにトーストを頬張っていた。
喉が渇き、冷蔵庫に移動しお茶を取り出しグラスに注ぐとそれを口に含む。
「そして一位はなんと! 高校生作家、二之宮佳くんが手掛けた文学小説! 『大人になるということ』です!」
余りの驚きに、佳は口に含んでいたお茶を吹き出した。
え? と耳を疑う佳。
TVに視線を移すとそこには確かに自分の名前が載っていた。
たまたま名前が同じ人が書いた作品だろうと思ったが、画面に映っている小説のタイトルはまさしく自分が現在手掛けているものだ。
盗作? いや、それを実行するのならわざわざ自分と同じ名前にしないはず……。
「この作品は『思春期の悩み』をテーマに書かれた作品で、学生の気難しい人間関係を自分の中でどう上手く生きていくかと言う内容が現代の学生や、当時学生だった人たちに人気を呼んでいるそうです!」
何故こんな事になっているのだ? 新手のドッキリか?
佳はリビングの時計に目を向けた。
現在時刻は六時五〇分を過ぎた所、そろそろ父が仕事場へと向かう時間だが一向にその気配が無かった。
様子を見に父の部屋へと移動し、扉をノックするが返事は返ってこなかった。
おかしいと感じた佳は扉を開いて中に入るとそこには父の姿は無かった。
出かけたのか?
ゆっくりと佳は父の部屋を見回す。
埃が無く、綺麗に整理された部屋。
パソコンが置かれた仕事机。 そして一人で寝るには有り余るだろうダブルベッド。
そう言えば父さんの部屋に入るのは何年ぶりだろうか?
そんなことを考えながらも佳はリビングに戻るとTVの特集は終わっていて特に見るものも無いので自分の部屋に戻って制服に着替え、通学鞄を持って学校へと向かった。
学校の教室に辿り着くと視線が一気に向けられた。
その視線の殆どが尊敬の眼差しの様に見えた。
何故そんな視線を向けられているのか理解出来ていない佳は自分の席に着いて通学鞄に入れている教材を勉強机の中に移した。
すると背後から「よう、有名人!」と半ば嬉しそうに、でもどこかからかう様な声音で友也に肩を組まれる。
「有名人? 何の事だ?」と聴くと友也は「惚けるなよ」とニシシッと笑って一冊の本を佳の目前に出した。
それは、自分が現在手掛けている筈の小説だった。
中身がどう描かれているのか気になった佳はその小説を手に取り一通り目を通した。
内容は今朝TVの女子アナウンサーが言っていた通りだった。
終わり方も自分が理想としていたもので、けどどこかありきたりでインパクトの無い作品だった。
「しかし良かったな。 佳の夢が叶って」
友也の言葉に「あ、ああ……」とつい曖昧な返事をしてしまう佳。
本当にこれで良いのか?
ふとそんな事を思うと友也が口を開いた。
「佳は本当に凄いよ。 一ヶ月前に父親を亡くしたってのに、折れずに戦って夢を叶えるんだからよ」
その言葉に佳は目玉が飛び出しそうになるくらい目を見開き驚愕した。
父さんが……、亡くなった……?
いや、でも父さんは昨日確かに存在していた。 何故?
新手のドッキリかと考えた佳は辺りをよく見回すがカメラマンの気配は感じなかった。
いったい、俺の中で何が起こっているんだ?
佳は念の為、友也に確認を取るが呆れた顔をされて逆に心配された。
どうなっているんだ?
何も解らぬまま、学校が始まってしまったのだった。
本当にどうなってしまったんだ?
もう何度目になるか解らない自分への問いかけ。
限界まで思考を巡らせるがやはり答えは出なかった。
そんな佳の様子に「どうした?」と友也が心配する。
しかし佳は彼の言葉に気づいてないのか反応しなかった。
友也に「おーい」と人差し指で頬を突かれてようやく気が付いた。
「何だ?」
「何だ? じゃねぇよ。 どうしたんだ? さっきから難しい顔しているけど」
「そんな顔をしていたか?」と引き攣った顔で聴くと友也は「おう! こんな顔してた」と言って佳の表情を酷い感じで再現した。
「そんな汚い顔をするのはお前だけだ」と言い切る佳に友也は「えっ!? なにそれ!? 酷くねっ!?」と少し傷ついた表情を浮かべた。
「冗談だよ」と佳が微笑むと友也も「解ってるよ」と言ってニシシッと笑った。
「次は、○×。 ○×でございます」
電車のアナウンスを聞いて友也は優先席から立ち上がった。
彼が入り口に向かう前に佳に呼び止められた。
「何だよ?」と聴かれた佳は今一度確認するかの様に「これはドッキリとかじゃないよな?」と聴くと「ドッキリじゃねえって」と少し呆れた笑いをされた。
電車が止まり、プシューッと扉が開くと友也は「じゃ、また」と軽く手を振って降車した。
見慣れた駅に到着し、帰り慣れた道に歩を進める。
目前には赤く染まった太陽が街全体を橙色に染めて行く。
目を細くしながら佳は自宅へと向かう。
その途中、前方に一人の人影が見えた。
丁度夕日を背に歩いているのでその人物の顔は見辛かった。
余り顔を見つめるのも失礼だと思い、その人物から視線を逸らし、静かに横を通り過ぎた。
刹那、身体中を卑しく舐め回される様な不気味な視線を感じた。
その感じる視線の方を見るとそこには誰もいなかった。
何だったのだ?
考えると恐ろしくなり佳は歩を進めるスピードを速め、自宅へと帰るのだった。
家の玄関に辿り着くが父の履物はそこには無かった。
確認の為に佳は靴棚に並んでいる靴を全て見た。
今更解ってしまった事なのだが父の履物は全て無くなっていた。
『一ヶ月前に父親を亡くしたってのに』
学校で友也が言った言葉を思い出す。
そんな筈はない。 確かに昨日、目の前で自分の夢を否定したのだ。
じゃあ何故どこにもいないのだろうか?
思い当たる節が無い。
これ以上出ない答えを考えても仕方がないので佳は自分の部屋へと戻り、自分のパソコンの電源を起動し、ドキュメントフォルダに保存している自分の小説を見た。
「完成してない……、だと?」
いや、実際昨日まで未完成のものだったので当然と言えばそうだが、そう言う問題でないと言う事も確か。
では、今朝の学校で友也から見せて貰った小説は何だったのか? と言う疑問が佳の脳裏に過る。
どうやら自分は厄介で複雑な状況に陥っているらしい。
佳は得体の知れない恐怖心よりも好奇心が勝ったのか、この奇妙な状況を少し喜んでいた。
これは良いインスピレーションが沸き上がる。
先程まで違和感に頭を悩ませていたのとは打って変わってパソコンの画面と睨み合いながら創作活動を開始したのだった。
翌日、佳のクラスに転校生がやってきた。
「今日から君たちの仲間になる九十九悟くんだ。 皆、仲良くしてやってくれ」
九十九悟。 身長は佳の胸元あたりか、割と小さく、短く切り揃えられた黒い髪、どこを見ているか全く解らない鋭利な黒い目。 お世辞にも格好良いと言える顔立ちではなかった。
外に出ているのかと問いたいくらいに彼の肌は不気味な程に白かった。
こんな感じに九十九を観察していると不意に彼と目が合ってしまい困惑する。
その時、九十九は佳の何を感じたのか、突然不敵な笑みを浮かべた。
背中に悪寒が走った。
視線を外したいが、外したら何だか不味いんじゃないかと思いただずっと九十九と見つめ合う。
親に悪い事がバレたかの様な嫌な感覚がして非常に君が悪い。
誰かこの状況から救ってくれと願うと担任の教師が「それじゃ、九十九。 皆に自己紹介をしてくれ」と彼に声を掛けたお蔭で嫌な視線から逃れた。
対して九十九は何事もなかったかの様に「初めまして、九十九悟と言います。 今日から宜しくお願いします」とクラスの皆に自己紹介するのであった。
「九十九はあの席に座ってくれ」と担任が佳の左斜め後ろの空いている席を指差し、九十九はそれに従ってそこに向かう。
佳の横を通り過ぎる時、
「お前、最近違和感を覚えているだろ?」
その言葉に佳は勢いよく九十九の方を振り向いた時には既に彼は何も無かったかの様に席に座っていた。
不思議な転校生、九十九悟。
彼との出会いが、今後の自分を大きく変えると言う事を、当時の佳はまだ解らなかった。
昼休み、佳は屋上に向かっていた。
その理由は授業中に後ろから手紙が回ってきた。
中身を開くとそこに来るように書かれていたのだ。
送り主は、
「よう、待ってたぜ」
不思議なオーラを感じる転校生、九十九悟。
「用件は?」と佳が聴くと、九十九は「そうだな……、こんな事を聞くのもなんだが」と言って全てを見抜く様な瞳で彼の目を捉えた。
「二ノ宮佳、最近何か違和感を覚えていないか?」
ドクンッ! と鼓動する。
佳は違和感の覚えがあった。 しかし、それをすぐには答えられず「そんな事を聞いて何になる?」と少し九十九を睨みつけた。
彼は顔色を変えずに「まあ色々と面倒な事になるはなるな」と指先で前髪を弄りながらイマイチ説得力に欠ける感じで言った。
何だよそれ……。
佳が飽きれると九十九は「ただ、一つだけ言える事は」と言って彼と顔を合わせて言葉を続けた。
「このままだとお前、大人になれないぞ?」
背筋が凍った瞬間だった。
俺が大人になれない……?
「どう言う事だ?」と若干声を震わせながら九十九に聞く。
すると彼は「どうもこうもない。 お前は自分が大人になる為に大切な存在を消したんだ」と目を爛々とさせ、佳を指差して言い切った。
大人になる為に大切な存在。 その言葉にふと自分の父親の顔が浮かび上がった。
「九十九。 お前……、俺の周りに起こっている状態が何かを知っているのか?」
対して九十九は不敵な笑みを浮かべ「勿論」と得意気に言った。
「お前は何者だ?」
佳が聴くと、彼は手品の様に何も無い所から机と二つの椅子を出した。
それにより佳は驚愕する。
どうやって出したんだと聞く前に九十九が席に座って口を開いた。
「俺は人の人生の悩みを理解しそれを助言するカウンセラー、九十九悟だ」
カウンセラー? 精神科の病院とかでよく耳にするあの……?
仮にそうだとして、何故自分と齢が変わらない人間がその様な職に就いているんだ?
そんな佳の心情をまるで読み取ったかの様に「俺がこの様な仕事に就いているのは企業秘密と言う事で宜しく頼む」九十九は言った。
「まあ、兎に角座れよ」
自分の目前に用意した椅子に指さす彼の指示に佳は黙ってそれに従った。
「それではこれよりカウンセリングを実行する」
「カウンセリングって、いったい何を話せばいいんだ?」
「カウンセリングは簡単に言うと人生相談だ。 常日頃に悩んでいることを相談すれば良い。 安心しろ。 俺たちカウンセラーはそこらの仲の良い友達や呑気な親とは違って話の途中で口を出したりはしない。 全てを聞いた上で適確な助言をする」
騙されたと思って全て話して見なさいと九十九は少しおばさん口調で言った。
常日頃に悩んでいること……。
ふと自分の父親と過ごした日常を思い出す。
無愛想で冷血で、自分が正しいと感じている父親。
自分の夢を否定した父親。
父の顔を思い出す度に怒りの炎が燃え上がり、心の中に黒く禍々しい何かが蠢く感覚を覚える。
そうか……、俺は……、ただ父さんに愛されたかったんだ……。
自分が父に何を求めていたのかを理解すると、佳は顔を俯かせ黙り込んだ。
生ぬるい風が頬を撫でる。
暫くして、佳はゆっくりと口を開いた。
自分の家庭の事情、父との関係、追いかけている夢など、洗いざらい喋った。
対して九十九は教会の神父の様にただ黙って聞いていた。
「これが俺の身の上話だ。 どうだ、実に滑稽だろう?」と自嘲する様に笑うと九十九に真顔で「滑稽な所などあったか?」と返された。
その言葉に、佳は目を大きく開いた。
「お前の気持ちはよく解る。 別に父親の味方をする訳じゃないが落ち着いて聞いてくれ。 お前の父親はお前を愛していると思うぞ?」
「ふざけるな!」と佳はバンッ! と机を強く叩いて咆えた。
「父さんは俺を愛してなんかいない! 愛しているなら……、愛しているなら俺の夢を否定したりしない!」
怒鳴り散らす佳の様子に九十九は焦る事無く、寧ろ愛しい者を見るかの様な表情をしていた。
「二ノ宮佳。 お前が生まれた時と同時に母親は亡くなったんだよな?」
「それがどうした?」
「もし母親が生きていれば、お前の父親はそうはならなかっただろう。 でも事実、生涯のパートナーを亡くして父親は色々と悩んだ筈だ。 再婚したら気まずくなるだろうからあえてそれはしなかったと俺は見ている。 そして父親は決意した筈だ。 『大事な一人息子に貧しい思いはさせない』と。 必死で努力し、今の地位まで上り詰めた筈だ。 一人息子には将来幸せになって欲しいから、絶望して欲しくないから、傷つける事を承知で夢を否定したんだと俺は思う」
「そんなこと……!」
そこで佳の言葉は止まった。
あれ……? 俺は父さんの気持ちを考えた事があるのか……? ただ求めるだけで何もしてやってない気がする。 本当は愛されているのを解っていたんじゃないのか?
次々と浮かび上がる自分への疑問。
才能が無い。
果たしてそれは父の本音だったのか……? 解らない……、解らない……。
「そうだ。 試しに父親の部屋を散策してみるといい。 そこにお前が求めていたものがあるかもしれない」
父さんの部屋を? 何故?
ここで学校のチャイムが鳴り、カウンセリングは中断となった。
夕方五時頃。
自宅へと戻った佳は真っ先に自分の父親の部屋に向かった。
そこにお前が求めていたものがあるかもあるかもしれない。
自称カウンセラー、九十九悟の言葉に騙されたと思って父親の部屋を見回した。
これで何も無かったらどうとっちめてやろうかと考えている途中、不意に父がいつも使っている仕事机が目に入った。
いつも父親が使っている机。
特に何かを感じた訳でもなく、ただ単に何が入っているのだろうと気になり引き出しの中を覘いてみた。
殆どが父の仕事に関係するものばかりだった。
綺麗に敷き詰められた大量の資料に父親がどれだけ大変な仕事をしているのかが伝わってくる。
次第に引き出しを開いていく内に、一つだけポツンと一冊のノートだけが入っていた。
それを手にし、よく確認すると日記帳だった。
どんな事が書いてあるのか、佳は早速一ページ目を開いた。
一九九X年、三月三一日。
佳と言う新たな命を授かったと同時に、最愛の人の命が終わりを告げた。
だが佳は悪くない。 ただ運が悪かっただけだ。
これから佳と共に残りの楽しい人生を過ごすのだ。
驚いた。 まさか自分の父がまさかこんなことを思っていたなんて。
手を震わせながら、佳はページを捲って次々と読んでいく。
一九九X年、○月×日。
月日は流れるのが早い。
佳は五才になって、気が付いてしまったのか「母さんはどこ?」と聴かれてしまった。
「遠い世界にいる」と誤魔化したが、その時は妙に胸が痛かった。
再婚して「この人が佳の母さんだよ」と言うのも余りにも酷だと感じた私は決意した。
どんな手を使ってでも佳は幸せにしようと。
一九九X年、△月□日。
今日は佳が小学生に上がって初めての授業参観だと言うのに、私は仕事で行ってやることが出来なかった。
本当、私は駄目な父親だよ。
その後のページも佳に対して書かれていた事ばかりだった。
学校行事に中々出向いてやれなかったこと、中々一緒に遊んでやれなかったこと、佳が反抗的な態度を取り始めて接し方に困ったこと。
そして、遂にあの日のページを捲った。
二〇〇X年、七月二日。
佳の部屋を掃除してから仕事に向かおうとしたが、どうやら息子はパソコンの電源を消し忘れていったらしい。
電源を消すとき、最初に画面に映ったのは佳が手掛けているのであろう小説の原稿だった。
題名は『大人になるということ』 佳も色々と考えていることがあるのだろう。
しかし、小説家の世界は厳しいものだ。 売れたとしても大した収入にはならない。
佳の為をと思って残酷な決意をした。
リビングで佳に「お前には向いていない。 諦めろ」と言った時、とても悲しそうな表情を浮かべていた。
そこで私は気づいてしまったのだ。
何故夢を追いかける自分の息子を応援しなかったのだろうかと。
何故佳の夢を否定してしまったのだろうと。
勿論、心配だったからだ。 安定した職に就いて安定した生活を送って欲しかったのだ。
でも、そのお節介が実の息子を傷つけた。
取り返しのつかないことをしてしまった。
きっと母さんが生きていれば笑いながらこう言うだろう。
「父親失格ね」と。
まさに今の私に相応しい言葉だと思った。
だから明日、佳に謝ろう。
夢は追いかけるものだと。
本当、私は頗る馬鹿な父親だ。
そこで日記は終わっていた。
ノートを閉じようとしたとき、一枚の写真が落ちた。
佳はその写真を疲労と目を大きく見開いた。
それは、若かりし両親が肩を並んでその間に佳の写真を切り取って張り付けたものだった。
瞳から雫が零れ落ちる。
「違う……」
次々と大粒の涙が頬を伝う。
「違う、違う……!」
膝から崩れ落ちる。
「違う、違う、違う!」
父親は自分を愛していた。 愛を注いでくれていた。
自分は難癖つけてその愛から目を背いていた。
冷血なのは自分だった。 最低なのは自分だった。
「ごめんよっ! ごめんよぉ……!」
泣きじゃくる佳の背後に九十九が音も無くやってきた。
「解ってしまったのだな? 自分の過ちが」
「九十九……」
「これからはちゃんと向き合って生きろ」
「それってどう言う……?」
目が覚めた時、そこは自分の部屋のベッドの上だった。
佳は上半身を起こし、勉強机にある時計に視線を向けた。
七月五日、朝の六時。
先程まで父の部屋に居たような……。 しかし、日が進んでいる。
何が起こったのか理解出来てない佳はリビングへと移動した。
「おはよう」
聞き慣れた声が耳に入り、佳は驚愕した。
「父さん……」
食卓には新聞片手に珈琲を啜っている父の姿があった。
言わなくちゃいけない事がある。
しかし、いざ本人を前にするとそれを口に出来ずにいた。
「佳」
父親が新聞と珈琲をテーブルに置いて口を開いた。
「すまなかった」
謝罪する父に佳は動揺した。
「お前が本気で小説を書いているのはそれを読んでから解っていた。 だが私はお節介にもお前の将来を心配して夢を否定した。 本当は応援しなくてはいけない立場なのにな。 駄目な父親ですまない」
沈黙が走る。
まさか父がここまで後悔していたなんて思いもしなかった。
佳は固唾を呑み込み、持てる勇気を振り絞って口を開いた。
「俺の方こそっ! その、ごめん……。 父さんは俺を愛していた。 それは解っていた。 でも余り納得の出来ないものだと難癖つけて、目を背けていた。 最低な息子だよ」
静寂が二人を包む。
お互い何を言えばいいのか解らないのだろう。
硬直な状態が続く中、シンクの水道管から一滴の雫が零れ落ちた。
「何て言うか俺、頑張るよ。 どんなに辛くても、書き続けてきっと凄い作品を出してみせる」
その言葉に父は少し目を見開き、やがてそれは優しい笑みへと変わっていった。
「頑張れ」
佳が決意を固めた瞬間であった。
学校で自分の教室に着いた時、そこには九十九の席が無かった。
その理由を色んな人間に聴いてみるが、帰ってきた答えはどれも摩訶不思議なものであった。
そう、皆九十九悟の記憶が無いのだ。
しかし、佳は九十九悟との不思議な経験をした記憶がしっかり脳に刻まれてある。
もしかしたら、彼は自分を更生させる神様だったのかもしれない。
そう思うと次第にインスピレーションが湧いたのか、ノートを取り出し、話のネタを書き留めるのであった。
その様子を遠くの建物の上で双眼鏡を使って除き込んでいるカウンセラー、九十九悟は満足がいった様な笑みを浮かべてこう言った。
「これにてカウンセリングを終了する」