一ノ瀬愛美
「別れよう」
刹那、雷に打たれたかの様な衝撃を覚えた。
彼氏の問題発言に戸惑いを隠せない一ノ瀬愛美は声を震わせながらその訳を聞いてみた。
すると彼氏は面倒臭そうに頭を掻きながら「もう君とはこれ以上付き合いきれない」と答えた。
理由になっていないと愛美は言い寄るが彼は「五月蠅いな! 別れるのに理由なんて要らないだろ!」と怒鳴り突き飛ばしてそのまま去って行った。
なんなのよ……。
納得のいかない別れ方をされてスッキリしない気持ちを抱いたまま愛美は帰路につくのであった。
自宅に無事還った愛美は「ただいま」と魂の籠っていない声音でそのままリビングへと向かった。
「あら、おかえり」
聞き慣れた母の声が耳に入ってきた。
愛美はそれに応える事無く、ただ虚ろな表情を浮かべたままソファに腰を下ろした。
いつもと様子が違う彼女に「どうしたの?」と母が声を掛けるが愛美は虚ろな表情を浮かべたまま何も答えなかった。
下手に今日起こった出来事を話すと子供想いの母は心配するに違いないと感じたから。
大好きな母には迷惑を掛けまいと、愛美はあえて答えなかった。
しかし、それが仇となったのか、彼女に彼氏がいることを知っていた母は何かを察し、優しく愛美の頭を撫でた。
ばれてしまったかと愛美は若干苦い笑みを浮かべながら母に身を寄せそのまま瞼を閉じた。
愛美が目を覚ましたのは夜の一〇時を回った頃であった。
目の前が真っ暗だった為に少し焦ったが、すぐに呼吸を整え冷静さを取り戻した。
足もとに掛かっている毛布により、自分はあのまま眠ってしまったのだなと理解する。
暗闇に目が慣れた所で愛美はリビングに明かりをつけた。
視界に最初に入ったのは食卓の上に並べられた今日の夕食だった。
それと同時にクウッと可愛らしくお腹が鳴る。
愛美は食卓の方に足を運び、今晩の献立を確認した。
千切りされたキャベツに湯掻かれた薄切りの豚肉が盛られた何ともヘルシーな料理だった。
眠っていた自分に気を使ってのメニューだと気が付くのにそう時間はかからなかった。
愛美は逆さに置かれた茶碗を手に取り、炊飯器の中にある米を盛った後、冷蔵庫から青じそドレッシングを取り出し食卓についた。
いただきますと合掌し、箸を手に取り食事を始めた。
青じそドレッシングをかけた豚肉とキャベツを口に運び咀嚼する。
青じその酸味と豚肉の香り、そしてキャベツのシャキシャキとした歯ごたえが絶妙なハーモニーを奏でている。
美味しい。 そう感じた時、頬に何かが伝った。
この冷めた夕食が、まるで母から慰めて貰っている様な感覚がしたのだろう。
愛美はその頬に伝う何かをあえて気にせず食事を楽しんだのであった。
翌日、目覚まし時計に叩き起こされた愛美は気怠そうにベッドから降りてリビングへと向かった。
「おはよう」
聞き慣れた母の声が耳に入る。
対して愛美は「おはよう」と軽く返してフラフラと食卓へと座った。
その様子に母はクスリと笑い、作っていた朝食を愛美の前へと並べた。
目玉焼きが乗ったトーストにサラダ。
料理の香りが鼻を擽り食欲がそそられる。
愛美は「いただきます」と合掌し、朝食を摂り始めた。
昨日の落ち込んでいた状態が嘘みたいに美味しそうにトーストを口に運ぶその様に母は安堵の息を吐いた。
朝食を食べ終えた愛美は「よしっ!」と気合を入れ、食器をそのままにソファに置いていた通学鞄を手に取り「行ってきます!」と元気に家を出た。
学校に辿り着き、愛美は自分の教室に通学鞄を置いて廊下へと出た。
そのまま元彼の教室へと向かっていると数メートル先から聞き慣れた男の子の声が耳に入り込んだ。
声の方へと視線を向けるとそこには自分を振った人物、杉谷公平がこちらに向かって歩いていた。
杉谷公平。 学歴は学年トップ一〇に入り、運動神経抜群。 見た目もそこそこに良く、人当たりも良い事で男女共に人気がある。
流行に敏感で、自分が面白いと思ったものは何でも取り込む。
特に他人を笑わせるのが好きなのか、人気芸人のモノマネを披露したりする。
まさに眉目秀麗と言う言葉が似合う男の子が何故、自分を振ったのか? その真相を突き止める為に、愛美は震える手を力強く握りしめ、こちらに歩いてくる元彼に声を掛けた。
「杉谷くん」
しかし、杉谷は彼女の横を通り過ぎた。
それも、そこに愛美が居なかったかの様な立ち振る舞いで。
「めげてたまるか!」ともう一度食い掛かろうとした時、学校のチャイムが鳴り、これ以上の追及を諦め、昼休みにまたチャンスを伺う事にした。
チャイムが鳴り、昼休みに入ったと同時に愛美は足早に元彼の教室へと向かった。
教室に辿り着く手前で目的の人が友人を連れてどこかへ向かおうとしていたので彼女は気づかれない様にその跡を追った。
辿り着いた場所は屋上だった。
ここでよく公平が友達と会話をしているのを思い出し、愛美は屋上に出ずにその場で彼らの会話に聞き耳を立てた。
「なぁ、杉谷。 お前何で一ノ瀬ちゃんと別れたんだよ?」
開始早々聞きたい内容が飛んできた。
「そうそう。 あんな可愛いコ、滅多に付き合えないぜ?」
そうよ、そうよと愛美は心の中で相槌を打った。
すると杉谷はハァッと深く息を吐き、つまらないモノを見たかのような表情を浮かべて応えた。
「つまらなかったんだよ」
「つまらなかった?」と友達Aは聞き返す。
「ああ。 あいつはつまんねぇ女だ」
「何がつまらなかったんだよ?」
友達Bの言葉に杉谷は面倒臭そうに頭を掻きながら真相を明かした。
「あいつエッチしてくれないんだよ」
場の空気が死んだ瞬間であった。
愛美はフラれた時よりも酷い衝撃を覚えた。
「え、何? エッチしてくれないの?」
友達Aの問いにガッカリしたかの様に頷く杉谷。
「何でまた?」と友達Bが聴くと元彼は「何でも、エッチは大人になってからでないと駄目なんだってさ」と溜め息交じりに答えた。
「マジかよ! じゃあ初めてはまだなのか!?」
酷く興奮する友達Aに対して杉谷は「じゃない?」とさもどうでも良さそうに言った。
「マジかよ! 俺狙っちゃおうかな!?」とはしゃぐ友達Bに杉谷と友達Aは「お前じゃ無理!」とバッサリ切り捨てた。
ギャハハッと下品な笑い声が沸き上がる。
いてもたってもいられなくなった愛美はその場から走り去った。
廊下で横を通り過ぎた教員の怒鳴り声など気にする事無く、彼女は通学鞄を取りに行く事も無く学校から走り去った。
思い切り、本気で、全速力で帰り慣れた帰路を走った。
ハァッ! ハァッ! と強く息を切らしながら自宅へと辿り着いた。
扉に手を掛けるが開くことは無かった。
両親が仕事でいないことを思い出し、愛美は肩で息をしながらもブレザーのポケットにあるスペアの鍵を取り出し、扉を開いて中に入った。
真っ先に自分の寝室に向かい、ベッドにダイブした。
布団の中に潜り込み、身体を丸め、真っ白なシーツを強く握りしめた。
最悪だ。
ふとそんな言葉が脳裏に浮かんだ。
最悪だ、最悪だ。
瞳から涙が溢れ出てくる。
最悪だ、最悪だ、最悪だ!
自分が愛した元彼は遊び人だった。 自分の身体が目当てだったのだ。
そう思うと悔しい気持ちが止まらなくなり、愛美は心の中で叫んだ。
あんなヤツ、馬に蹴られて死んでしまえばいいっ!
愛美はそのまま瞼を閉じたのだった。
目が覚めた時はもう夕日が射しかかっていた。
もう一度このまま寝ようかと考えたが、生活リズムを崩す訳にはいかないかと自分に言い聞かせ重い身体に鞭打ってベッドから降りリビングへと向かった。
珍しく、母はまだ帰っていなかったので愛美はテーブルにあるリモコンを手に取りTVを付けた。
現在午後四時四〇分。 ニュースしかやっていない。
そろそろ学校も終わり、帰宅部の生徒は下校する時かなと考えながらTVの画面を眺めていた。
本当に嫌な一日だったと思う。
昼休みの出来事を思い出す度に胸がなんとも言えないモヤモヤした気持ち悪いものがグルグルと駆け巡る。
何故あんな人と付き合ってしまったのだろう?
「まあ好きになってしまったからなんだけど」と少し自嘲気味に笑い、また虚しい気持ちに襲われる。
喉が渇いた。 お茶を飲もう。
愛美はキッチンにある冷蔵庫を開けてボトルに入った麦茶を取り出しグラスに注ぎ、それを一気に飲み干した。
ほのかな麦の香りが口いっぱいに広がる。 そしてキンキンに冷えている為にとても美味しかった。
使ったグラスを流しに置いてリビングのソファへと腰を下ろす。
するとTVから『次のニュースです』と言う言葉が耳に入り、愛美は画面に映るニュースキャスターの方へと視線を移した。
『今日の夕方四時五〇分頃、○×市に通う星翔高等学校の男子生徒三人が馬に襲われると言う事件が発生しました』
ドクンッ! と心臓が強く鳴った。
『内二人は無事で一人は意識不明の状態だそうです』
星翔高校は愛美が通う学校だった。
男子生徒三人は少しだけ見当がついていた。
『助かった二人は「帰り際に突然頭に角の生えた黒い馬に襲われた」と供述しており、警察側は精神的な病にかかっていると見て一度カウンセリングを受けさせて事情を調べる予定だそうです』
以上ニュースでしたの言葉と共にコマーシャルに入る。
愛美は空いた口が塞がらなかった。
しかし、状況を理解すると共に少しだけ口元を緩ませた。
罰が当たったのよ。 いい気味だわ。
先程TVに流れたニュースでどこか報われた気分になった。
悪い事もあれば、良い事もある。
天は私を見放さなかったとここぞと言う時だけ神に感謝する愛美。
小さな幸せの余韻に浸っていると「ただいま」と母が帰ってきた。
リビングに入ってきた母に普段クールでいる愛美は柄にもなく笑顔で「おかえり」と迎え入れた。
その様子に母は「何か良い事あったの?」と聴くと娘は「別に」と未だに顔を綻ばせていた。
彼女の中で何が起きたのかは解らないが、取り敢えず自分の愛する娘が元気を取り戻した感じなので安堵するのであった。
夜九時半を廻った頃、愛美は寝室で椅子に座りながら今日起こった出来事を振り返っていた。
元彼が自分の身体目当てで付き合っていたと言う事実。 今思い出すだけでも期待を裏切られたかの様な感情に駆られ、胸の中で何とも言えないモヤモヤとしたものが巡る。
でも、彼は事故と言う名の神の鉄槌を受けた。 それだけでもよしとした。
明日から普段通りの生活が送れると思うと心が躍る。
愛美はフフッと小さく鼻で笑い椅子から立ち上がった刹那、自分の身体の隅から隅まで舐め回されているかの様な不気味な視線を感じた。
その奇妙な感覚が収まると、愛美は少し身震いし、すぐに窓のカーテンを閉め、明かりを消してベッドに潜り込んだ。
今の気持ちの悪い視線はいったい……?
考えると恐ろしくなるので愛美は瞼を閉じて、いつもよりも強く掛け布団を握りしめた。
愛美が就寝した同時刻。 彼女の寝室の窓を眺めやすい位置にある一軒家の屋根の上で一人の少年が獲物を捕らえる様な鋭い眼光でそこに視線を送っていた。
パーカーのポケットの中からバイブレーションが鳴る。
少年は「はいはい」とバイブが鳴るスマートフォンを取り出し、通話マークをスライドして耳に当てた。
「俺だ。 ああ、いたぜ。 患者が一人。 なに、解ってるさ。 大丈夫かって? 愚問だな」
少年は夜空に浮かぶ満月を見上げ「俺たちはただ、迷える子羊にカウンセリングするだけさ」と電話の向こうにいる相手に伝えた。
翌日。 午前八時四〇分。 教室でそれはやってきた。
「今日から君たちの仲間となる九十九悟くんだ。 よろしくしてやってくれ」
転校生、九十九悟。
身長は愛美より少し高いくらいか、細身で病人の様に肌が白い。 日に当たった事が無いんじゃないのかと聞きたいくらいに。 黒い髪の長さをある一定で整えており顔立ちはお世辞でもカッコいいと言えるものではなかった。 ただ一つ特徴的なのは目だった。 鋭利でどこを見ているか解らない。 人の心を読むのが得意とした目に見える。
そんな感じで暫く転校生を見つめていると不意に彼と目が合った。
すると転校生は突然不敵な笑みを浮かべた。
ゾッ! と背中に何かが走った。
人に知られたくない秘密がバレたかの様な感覚だった。
そんな彼女から視線を外し「九十九悟です。 よろしく」とさも普通の転校生の様な自己紹介をした。
担任の先生はあそこに座ってくれと空いている席を指差し、九十九はそれに従ってその責に移動する時、愛美の横を通り過ぎる瞬間「お前、最近嫌な事があっただろう?」と微かな声音で言った。
ドクンッ! と心臓が鳴った。
愛美が九十九の方を振り向いた時には既に彼は席に座っていた。
彼女はただ、不思議で奇妙な転校生がやってきたと戦慄するのであった。
昼休み。 愛美は母が作った弁当を食べ終え、残りの時間をどう有効活用しようかと考えていた所にそれらはやってきた。
「愛美ちゃん」と軽快な発音で声をかけるは元彼、杉谷の友人A。 隣にオマケな感じで友達Bもいる。
彼らはそこらにある机と椅子を寄せて目の前に座った。
「杉谷と別れたんだって?」
向かい合って最初の話題が元彼と縁を切った話。
本当、デリカシーの無い男たちである。
「あいつも最悪だな。 こんな良い女の子と別れるなんて」と友達Bがさも愛美に同情してますみたいな口振りで言ってきた。
「まあ、あんな奴の事は忘れてこれからは俺たちと仲良くやろうぜ?」
杉谷がいない事を良い事に、好き勝手に口を開く友達A。
そもそも君たち二人は杉谷と仲が良かったのではないのかと問いかけたくなるのを愛美はあえて言葉にはしなかった。
「そうそう、俺たちと一緒にいると楽しいよ?」
心にも無い事を口にした友達Bに対して愛美は悟った。
こいつ等も私の身体が目当てだ。
多分杉谷は病院で眠っている筈なのに、その話もしない。
所詮その程度の関係だったと言うことか。
汚い……。
愛美の胸中に黒い何かが蠢く。
汚い、汚い……。
「俺たちは杉谷とは違うからさ!」
その言葉が引き金となった。
汚い、汚い……。 汚い! 馬に蹴られて死んでしまえ!
刹那、窓ガラスを割って何かが侵入してきた。
それと同時に騒ぎ始める生徒たち。
愛美は何事かとそちらに目を向けるとそこには、
「ブルルッ……!」
額に鋭い角を生やした墨の様に黒い馬がいた。
杉谷の友達AとBはその馬に見覚えがあるのか椅子から勢いよく転げ落ちて酷く身体を震わせていた。
そんな事を知らない黒馬は「ヒヒィーンッ!」と甲高く鳴いて教室中を駆け回る。
恐怖でクラスメイトは波の様に次々と教室から逃げていった。
漆黒の馬は未だ腰を抜かしている友達AとBに向かって走る。
「俺たち、ここで死ぬのか」と目を瞑った時、転校生の九十九が疾風の如く二人の襟首を掴んで教室から連れ出した。
それを追いかける為に黒い馬は教室から飛び出し学校中を騒がせたのだった。
あれから教員の力もあって、黒い馬はどこかへと逃げていった。
生徒たちを安心させる為に、学校側は急遽終わる事になった。
「一ノ瀬愛美」
下駄箱で靴を履き替える時、その者はやってきた。
不思議なベールに包まれた転校生、九十九悟。
彼は思わず取り込まれてしまいそうな黒い瞳で彼女の目を捉え、含みのある笑みを浮かべ「少し話がある」と言って下駄箱から靴を取り出し履き替えた。
愛美の帰り道の途中にある人気の無い公園に二人はやってきた。
「話って何?」と愛美は聴くと九十九は再び吸い込まれる様な黒い瞳で彼女の目を見て口を開いた。
「お前、最近嫌な事があっただろう?」
ズキッ! と胸が痛んだ。
自分が元彼にフラれて傷ついているのが顔に出ていたのだろうか?
「あ、貴方には関係ないでしょ?」と九十九から目を逸らして答える愛美。
しかし彼は「そう言う訳にもいかないんだよな」と言って先程学校で暴れていた額に角を生やした黒い馬の写真を見せてきた。
「これ、何だと思う?」
「さっき学校で暴れていた黒い馬でしょ?」と愛美は少し冷たく返す。
「何故、角が生えていると思う?」
その言葉に愛美は答えが出ず、黙りこくった。
そう言えば何故、何故黒い馬には角が生えていたのだろう?
黒馬について思考を巡らせている時、九十九は問いかけた。
「この黒い馬に心当たりはないか?」
背中に悪寒が走った。
愛美は緊張し始めた身体を落ち着かせ「そんなのある訳無いじゃない」と平静を装った。
そう、元彼にフラれたその日、呪いをかけるかの様に『あんなヤツ、馬に蹴られて死んでしまえばいい』と願った事は覚えている。
実際にニュースで元彼は馬に襲われた。 でもそれは『たまたま起こった出来事』ではないのか?
そう考えていると九十九は一人勝手に口を開き始めた。
「お前、最近彼氏と別れたらしいな?」
転校してきたばかりの貴方が何故それを?
「いや、解れたと言うよりはフラれたと言うべきか」
何よ、嫌味な言い方して。
「何でも、その元彼は身体目当てだったとか」
もう、止めて……。
「ショックだったよな。 まさか愛した彼氏が色情魔だったなんて」
止めて、止めて……。
「ショックの余り、お前はこう願った筈だ」
止めて!
「『あんなヤツ、馬に蹴られて死んでしまえ』と」
愛美は膝から崩れ落ち項垂れた。
対して九十九は何もない場所から一つのテーブルと二つ椅子を出現させた。
「貴方は何者なの?」と愛美は得体の知れないモノを見るかの様な目で聴くと、彼は「人の悩みに対して助言する『カウンセラー』だ」と答えて椅子に座った。
カウンセラー? 精神科の病院にいるあの? その様な人間が何故学校に? そもそも何故私と変わらない齢でカウンセラーをやっているの?
そんな愛美の疑問を九十九はまるで見通したかの様に口を開いた。
「まあ、色々と疑問が浮かぶだろうがそこは企業秘密と言う事で」
取り敢えず座れと促されて愛美はフラフラと危ない足取りで彼の向かいの椅子に座った。
「ではこれよりカウンセリングを開始する」
「カウンセリングって、私は気が狂う程悩んでないわよ?」と少しため息交じりに言った。
しかし九十九は「カウンセリングは普段、人には言いにくい日常の悩みを思う存分吐きつけられる。 カウンセラーはそこらの友達や教師、親とは違って話の途中に口を挟まないし、最後まで聴いた上で、的確な助言をしてくれる」とさながら仏を思わせる様な優しい笑みを浮かべた。
不覚にも愛美は彼のギャップのある微笑みにドキッとした。
『人には言いにくい日常の悩み』か……。
愛美は顎に手を添えて思考を巡らせ、暫くして決意が固まったのか、騙されたと思って別れた彼氏との話をした。
何もかも洗いざらい話した。
話の途中、何度も溢れ出そうな涙をグッと堪え、自分の悩みを全て明かした。
九十九は真剣に彼女の話に相槌を打ちながら聞いた。
全てを話終えると愛美は「どう? 笑っちゃうでしょ?」と自嘲する様に笑った。
「笑える要素などあったか?」
キッパリ言い切る九十九に唖然とする。
「はっきり言わせて貰おうか、一ノ瀬愛美」
彼は気を許すと取り込まれてしまいそうな漆黒の眼で愛美の瞳を捉えた。
緊張が走り、愛美は固唾を呑み込む。
暫くの沈黙。
生ぬるい風が頬を撫でたその時、彼はゆっくりと口を開いた。
「お前、素晴らしく良い女の子だ」
ガクッ! と愛美は膝から崩れ落ちた。
「何それ?」
どう言う事? と若干呆れ顔で溜息を吐いた。
「お前も本当は杉谷とエッチがしたかった。 だが万が一、誤って子どもが出来てしまった時、お互い責任を取れない。 お互いの未来をそんな事で潰したくない。 だからあえて奴との性行為を拒んだ」
九十九は言葉を続ける。
「一ノ瀬愛美。 もう一度言おう。 お前は素晴らしく良い女だ。 自分だけでなく、相手の事も思いやれる良い女性だ。 俺はお前を尊敬する」
気が付けば、愛美の頬には一滴の涙が流れていた。
嬉しかったのだ。 自分の考えている事を認めて貰える人がいたから。
喜びの余り、ボロボロと涙が止まらなくなった。
そんな彼女に九十九はズボンのポケットの中にある紺色のハンカチを取り出してそれを渡した。 愛美は「ありがとう」とそれを受け取り、涙を拭った。
「ブルルッ……!」
公園の入り口の方から先程学校で暴れていた黒い馬が二人の前に現れた。
危険を察して身構える愛美に九十九は「落ち着け」と冷静に言った。
「あの馬は何なの? 何故額に角が生えているの?」
「あの馬はお前の負の感情そのものだ。 故に身体は闇の様に黒く、角はお前の怨念で出来ている」
愛美は目を見開き「あれを私が生んだと言うの?」と聴くと九十九は静かに首を縦に振った。
「あれをどうにかする方法はあるの?」
その問いに対して彼は「一つだけある」と答えた。
「どうするの?」と愛美が聴くと九十九は彼女の瞳を見て言った。
「受け入れるんだ」
「受け入れる? 何を?」
「先ほども言った様に、あの馬はお前の負の感情から生まれた生霊の様なものだ。 簡単に言えば怒りや憎しみ等を受け入れれば全てが終わる」
怒りや憎しみを受け入れる……? そんなの……、
「そんなの無理よ!」
「一ノ瀬愛美」
九十九は愛しい者を見るかの様な瞳で言葉を続ける。
「大人になる為には、色んな嫌な事を受け入れなくてはいけない時もある。 どんなに辛い事が訪れても一人で立ち向かわなくてはいけない時もある。 もし、また何か悩み、落ち込む様な事があれば……」
彼は少年の様に無邪気な顔でこう言った。
「また俺が相談に乗ってやる! お前は独りじゃない!」
刹那、愛美の胸中に蠢いていた黒い何かが割れた様な感覚がした。
そうよね……。 私は独りじゃない!
愛美は頬に涙を流し、黒い馬へと歩を進める。
手が届く距離まで詰めると、彼女は「ごめんね? ありがとう」と慈愛に満ちた笑みを浮かべながら優しく黒馬を抱きしめた。
すると、漆黒の馬の身体が金色に輝きはじめ、やがて光の粒へと化して彼女の身体へと戻って行く。
その様子を見守っていたカウンセラー、九十九悟は口元を緩ませ「これによりカウンセリングを終了する」と呟いた。
こうして全ては終了したのだった。
翌日、愛美が学校へ向かった時には九十九の姿は無かった。
教員に聴いてみるが、まるで綺麗さっぱり忘れたかの様に彼の事に関しての記憶が消えていた。
クラスメイトにも聞き回ったがそんな生徒は転校してきてすらなかったらしい。
だが、杉谷は病院に入院している。 それも、帰り道で事故にあったと言う理由で。
あれは夢だったのか? いや、でも自分の中には九十九悟との確かな記憶がある。
まだちゃんとお礼もしていないのに……。
愛美は教室の窓へと移動し、空を見上げた。
空ってあんなに青かったのね……。
彼女は思わず微笑んだ。
「また会えるよね? 九十九くん」
何たって、彼は白馬の王子様だから。 なんて事を考えた。