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第三章

 現在キンちゃんはこの世の人ではない。あるクリスマスの晩、首を吊って自ら命を絶ったのだ。そのことは親族とごく親しい人しか知らない秘密だった。葬儀の日、世間体を気にしてか、表面上は「病死」ということにされた。

 ぼくはその当時一六歳、高校一年生だった。神崎のご両親にぜひ葬儀に出てほしいと請われ、冬休みに入っていたこともあって、彼の友人の高校生として葬儀に列席した。

 キンちゃんを産む前に神崎のお母さんは一度流産している。キンちゃんを産んだのはお母さんが三八歳の時だった。キンちゃんは神崎さんご夫婦のたった一人のこどもだったのである。

 彼のお母さんは葬儀の日の席上で、必死に叫びたい気持ちをこらえているかのような、たまらない表情をしていた。たった一人の息子を失ったショックで、発狂しそうな心をどうにか持ちこたえているという印象だった。お父さんは心ここにあらずといった風情で、あらぬ方向を見据えていた。


 幼い頃のキンちゃんは内気で気が弱かったけれど、利口なこどもだったという。小学校に上がると彼は才気を発揮し始めた。ものを覚えるのが早く、小学二年生の時、小学校だけでなく中学で習う漢字もすべて覚えてしまったという。

 華奢で頭でっかちのせいかよく転んだ。そのため周囲から嘲られた。中学に上がると、体格が貧弱なせいで、不良たちの荷物持ちをさせられた。一日中小突きまわされた。「腹筋の鍛錬」と言って腹を殴られたり蹴られたりした。「みぞおち」に決まって、彼が悶絶していると、連中は「ストライク!」と言って喜んだ。気絶するまで暴力は止まなかった。

 彼の「奇行」が始まったのは中二の終りの頃からである。授業中に大きな声でひとりごとを言ったり、何の前触れもなく泣き出したり、わけもなく笑い出したり、突然叫び声を上げ、席を立って飛び出して行ったりした。

 休み時間が終わって授業が始まると、キンちゃんがシャツの袖と手を血まみれにして、教室の入口に立っている。見ると手の甲がぱっくりと裂けて肉が見えている。

 病院へ連れて行って、手当てをし、事情を聞くと、

「真っ赤な牛乳を飲んでみたかった」と言う。言うことがどうもおかしいので、精神科に相談した。結果強制的に入院することが決まった。

 結局彼は二年近く入院した。退院した時、かつての秀才の面影はかけらもなかった。いつもぼうっとしていて、人の話を聞いているのかいないのか判らないと言われた。彼は町の特殊学級に無理やり入れられ、ようやく一七歳で中学を卒業した。そしてふるさとの東山に戻った。

 当時片田舎では精神障害者への風当たりがきつかった。「き○がい」と平気で罵られた。こどもの頃は秀才だったけれど、特殊学級から進学なんて出来なかった。社会で働くにも、「き○がい」を雇ってくれるところなどどこにもなかった。働くことをあきらめるしかなかった。またキンちゃんは働くことが恐ろしかったとぼくに告白した。家業であるガソリンスタンドと小売店を兼ねた「すみや商店」の店番もさせられたが、務まらなかった。

 ぼくとキンちゃんが出逢ったのはその頃のことである。ぼくは小学校へ上がったばかり。変なこどもで、放課後になると一旦家へ帰り、家から縦横高さが三十センチもあるような、お菓子の大きな缶を抱えて、小学校の校庭で日が暮れるまでひとりで遊んでいた。その日も砂場でぽつんと遊んでいるところに、やって来たのがキンちゃんだった。話してみるとキンちゃんは凄く物知りだった。雑学の大家だった。ぼくとキンちゃんはお菓子を分け合って食べながら、いろんな話をした。恐竜の話とか、シロナガスクジラやマッコウクジラの話とか。かつて地球にいた巨大な哺乳類の話とか。ゴキブリと三葉虫の話、アンモナイトの話とか。その後ぼくはキンちゃんの小学生時代を親から聞いて知った。とは言っても、ぼくの両親は精神病者に寛容だったわけではなく、ただキンちゃんのかつての秀才ぶりをよく知っていた。以来キンちゃんはぼくの「偉大な先輩」になり、兄弟のいないぼくにとって大好きな兄貴のような人になった。


 ぼくとキンちゃんの九年の歳月はぼくにとってかけがえのない日々だった。命の日々と言ってよかった。最後にキンちゃんに逢ったのは、死の前日であった。それは日曜日で、クリスマス・イヴのことだった。キンちゃんはお弁当を持ってサイクリングに行こうと言った。象山(ぞうやま)と言われる山の、ふもとの公園まで行った。近くに滝のあるところだった。お昼には、ぼくはキンちゃんとお互いのお弁当を交換して食べた。キンちゃんのお母さんが作るお弁当には、必ずクマさんの形に鶏のそぼろが入っていた。キンちゃんは恥ずかしかったと言うが、ぼくはこのお弁当が好きだった。ぼくのお弁当には例のタコさんウィンナーとぼくの大好きな鶏の唐揚げが入っていた。ぼくはキンちゃんがウィンナーもぼくと同じく唐揚げも好きなことを知っていた。けれども彼は唐揚げを食べず、必ずぼくに全部くれた。自分はウィンナーを食べるからいいって言う。そういう風にぼくを思いやってくれる青年だった。その日の帰り道でのことだ。あずま橋の欄干に手を置いて、河の流れをしばし見つめた後で、淋しそうに笑いながら、帰りぎわに「さよなら」と、そう言ったのだった。いつもは「また明日」と言うキンちゃんなのに。「さよなら」なんて滅多に言ったことがないのに。妙な胸騒ぎがしたけれど、他の誰にも言えなかった。相談できる人がいなかった。それが、ぼくの聞いたキンちゃんの最後の言葉だった。

 ぼくは思った。こんなことになるのなら、誰かに助けを求めればよかったと。けれどみんなキンちゃんを毛嫌いしていて聞く耳を持たなかった。当時はいわゆる「いのちの電話」なんて、あるのかどうかも知らなかったし、誰の助けも呼べなかった。思うに世間の人間どもすべてが、ぼくにはキンちゃんを死に追いやった加害者に思えた。葬儀の日、ぼくは腹を立てていた。参列した連中は、誰もが一人残らず人殺しじゃないのか。自分だってその一人だ。ぼくは今もって世間が憎い。ひとりのか弱い青年を、むざむざ死へと追いつめた偏見に満ちた冷たい視線と、彼のような精神病者に対して、無慈悲で無関心極まりない世間というものが憎くてならなかった。

 働くこともできず、近所をうろついているキンちゃんに、世間の大人たちは容赦なく、揃ってこう言った。

「おい、穀つぶし。邪魔だ。どけ」。

 こんな言葉を平気で言える人たちは、家ではいい父親であったり、母親であったりするのだ。世人の論理ではキンちゃんは悪で、健常者は善なのだ。だからキンちゃんがひどい目に遭って死ぬのは当然なのだ。これが勧善懲悪という奴か。よってキンちゃんに小便泥水を飲ませた連中は、カッコいい正義の味方、ヒーローなのだ。世間とはそんなに偉いのか。


 遺書はなかったと神崎のお母さんは言った。ただ、「お父さん、お母さんへ」と書かれた封筒が机の上に置いてあった。開けてみると中には何にも入っていなかった。これがキンちゃんの言いたかったことなのだろう。キンちゃんには両親も「あっち側の人間」だったのかもしれない。社会との断絶。両親との断絶。キンちゃんには信頼できる人などどこにもいなかったのだろうか。

 享年満二六歳。

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