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第二章

 寒いから手袋をして、坐る物がないので焼却炉のところにあった灯油缶の上に坐り、宿題のことを考えた。考えても、いいアイディアは何にも浮かばなかった。正直途方に暮れていた。どうしよう。そう言えばさっきから「すみやのキンちゃん」という綽名の、普段ぼくの遊び相手をしてくれる少し頭のおかしな近所の若者が、そわそわとした様子で、ここらを徘徊していた。声をかけたけれども応えない。 あ、ところでキンちゃんに手紙を書くのはどうだろう。先生はクラスメイトでないと駄目だなんて言っていなかったし。そうしようか。自分宛てに書いて笑われるより、キンちゃんに心のこもった手紙を書いてみたいと思った。それならたとえ笑われても後悔なんかしないだろう。十歳年上のキンちゃんは本名神崎欣二。ぼくのいちばん親しい仲間だった。けれどそれにしても、今日のキンちゃんはどうしたのだろう。いつもはぼくを無視するような薄情な青年ではない。ぼくはさっきまでいたキンちゃんに、宿題のことを訊こうと思って、彼を捜したけれど、キンちゃんは見つからなかった。その日キンちゃんは明らかに変だった。いつも変と言えば変かも知れないが、いつも以上に変だった。


 年は離れていたけれど、ぼくは天真爛漫なキンちゃんのことが好きだった。キンちゃんはぼくにとって、何でも心おきなく話せるいい兄貴だった。遊び仲間の中には、キンちゃんの意味不明に思えるさまざまな奇行を気味悪がって、目の敵にしている子もいた。あくどい子は彼に石を投げつけた。「♪キ印キンちゃん、うんこ踏め♪」とキンちゃんを取り囲んで囃したてるこどもたちもいた。不良高校生の「愚連隊」と言われる連中は、キンちゃんに小便入りのどぶの水を飲ませた。ぼくは止めに這入ったこともあったけれど、逆に嫌というほど蹴飛ばされた。

 毎日のようにつらい目に遭っているのに、キンちゃんはいつもにこにこしていた。「笑い仮面」と誰かが言った。確かにそうかもしれない。だけれどもぼくが思うに彼は笑顔を装うことで、傷つきやすい心をカモフラージュしていたのだ。きっと必死だったのだろう。キンちゃんはそれでもえへらえへらと笑っていた。笑顔はキンちゃんが身につけざるを得なかった性癖だった。今だからこそ判る気がするのだが、彼はにこにこしながらも目いっぱい傷ついていたんだと思う。笑っている目尻が恐怖や衝撃のために引きつっているのを、ぼくは幾度も見たことがある。楽しいか。と、連中はキンちゃんに訊いた。キンちゃんは笑顔で応えた。そうするしかなかったんだろう。楽しいものか。考えなくてもわかるじゃないか。それなのにこの豚どもは薄ら笑いを浮かべて訊くのだ。

 あれから数十年の歳月が流れ去ったが、少年たちや世間にとって、無邪気なキンちゃんのどこが気に障るのか、どこがそんなにいけなかったのか、ぼくには未だにわからない。

 いつだったか、ぼくはキンちゃんと川釣りに行ったことがある。釣りの苦手な少年のぼくに餌の付け方から教えてくれた。キンちゃんは教え方が上手だった。よくひとりごとを言っていたけれど、細かいことを気にしなければ、こんなにやさしい兄貴もいないと思った。キンちゃんは哀しみをおもてに出さなかった。歯を食いしばって我慢していたのかも知れないと、今では思う。けれども未だにぼくがたびたび思い出すのは、キンちゃんの天使のような笑顔と、彼とともに過ごした楽しい日々のことなのである。

 キンちゃんは蛙が好きであった。トノサマガエル、ヒキガエル。それらをそれぞれ水槽に飼っていた。ある時不注意で一匹のトノサマガエルを死なせてしまったことがある。彼が大泣きするのを、ぼくはこの時初めて見た。キンちゃんは大粒の涙をぽろぽろこぼしながら言った。

「オレに飼われなければ、この子はもっと長生きできたんだ」

「そんなことないと思うよ。運が悪かっただけだよ」

「オレがき○がいだから」

「キンちゃん」

「オレなんか生まれてこなければよかった」

「そんなこというと、お母さんが泣くよ」

「なんでみんな、オレに死ねって言うのかな」

 それを聞いて、思わずぼくは心中でうめいた。キンちゃんはさらに言った。

「オレが悪いやつだから?」

 ……なんでみんな、オレに死ねって言うのかな。オレが悪いやつだから? この言葉はぼくの胸に深く刺さり、心の奥まで沁み入って消えなかった。キンちゃんはほんとうに悪いやつだったろうか。神さまもそう言うだろうか。もしこの世に神さまがいるのなら、どうして毎日死ぬほどつらい目に遭っているキンちゃんを、助けてくれなかったのだろう。神さまは平等じゃないのだろうか。

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