第一章
旧い昭和の時代の精神障害者への風当たりのきつさを少しデフォルメして書きました。けれども彼らが「き○がい」と露骨にけなされていたことは事実です。
実際「すみやのキンちゃん」にはモデルになった人物がいます。
誰かが燃やし終えた焼却炉から烟の出ているのが面白いので、ぼくがこっそり蓋を開けて木の棒でつついていると、火が出そうになってくるから、内心どきどきしながら見ていた。
夕まぐれの木枯らしが冷たさを増して、辺りに吹きすさんでいた。そこは小学校の校舎の裏であったが、夕餉時に近いこともあって、人通りはまったくなかった。
ふいに植え込みの向うより「よく燃えるかい。早く帰れよ」と気さくそうな見知らぬ小父さんから、ふいに声をかけられた。
「なかなか燃えない」
そう答えて、ぼくははっとした。ずっと見られていたのだろうか。どきっとして、叱られるかと思ったけれど、彼がにこにこしているので、大丈夫だと思い、ほっとした。
ぼくは当時、街の子から片田舎と馬鹿にされていた、檜町の町はずれの、東山小学校の四年生の児童であった。その日、放課後の掃除も済んで児童は次々に下校していった。課題をただひとりクリア出来なかったぼくだけが、居残り授業をさせられていた。何の授業だったかはこれから話すが、結局課題は翌日に持ち越しとなって、そこからようやく解放された後、やって来たのが音楽室のある別館の、校舎裏の建物の根っこであった。もうすっかり日が暮れて校庭にも裏庭にも誰もいなかった。その頃の校舎は本館も別館も木造であり、校内放送で下校を促すピアノの音楽ももうとっくに終っていた。
ぼくは何故かその日、家へ帰る気になれなかった。ひどくいじけた気分だった。一つには今日出された国語の、クリア出来なかった難題を、家に持ち帰ってまでやりたくないと言うのがあった。友だち同士で手紙を書き合えというのだが、誰に書いたらいいのか判らない。ぼくには遊び仲間みたいなのが少しだけいたけれど、親しく付き合っている級友は一人もいなかった。クラスの遊び仲間に声をかけたら、ことごとく断られた。そのため授業時間中に問題は解決せず、居残りとなった。しかしそれでも片づかない。誰に書いたらいいのか判らない。先生には痺れを切らされ、あきれ果てたように嫌味を言うだけ言われて、結論は持ち越しになった。
「とにかく明日までに書いてきなさい。そして教室で発表して下さい」
だが実際は、持ち越しにする必要なんかなかったと言えた。答えは出ていた。ただみっともない答えで、泣きたかった。それにすぐに言えばまた怒られるし、恥ずかしいから黙っていた。なぜならそれは名案とは言い難かった。勿体ぶらずに言うと、その結論というのは自分に手紙を出すという、ひどく不自然でつまらないことだったのである。それを明日、教室で発表するのも嫌だった。みんなの蔑む声がありありと聞こえてくるような気がした。けれど、他に手紙を受け取ってくれそうな友だちは結局現れなかったし、書くにしても自分にどんな手紙を書いたらいいのか判らない。何を書いてもみんなに嘲られそうな気がする。ちくしょう。そのせいもあってこんな場所でぐずぐずとくすぶっていたのだった。
こんなことを言っては何だが、ぼくは担任の大迫良子先生が好きではなかった。第一街暮らしの長かった先生は田舎である東山小学校とその児童を馬鹿にしていた。口では自然が豊かだとか言っていたが、言葉のはしばしに田舎を侮蔑する態度が露骨に感じられた。また、先生は児童には給食の牛乳を飲めと言っているけれど、それが建前に過ぎないことをぼくは見抜いていた。先生が牛乳嫌いで、よく手つかずのままの瓶の牛乳を、教室の教員用の戸棚に隠して、たびたび腐らせているのを知っていたのである。自分のことを棚に上げて、食べものの好き嫌いを言うなとうそぶき、児童を批判する大迫先生を、ぼくは毛嫌いしていたと言っていい。




