チェイン・ブレイク
人狼。それは狼でも人でもない、古来から存在する怪物の一つ。
人に化け、人を食らう、人ならざるその怪物に、かつて、人は恐怖と嫌悪を持って相対していた。
しかし、時が経ち、人は科学という武器を手にし、人外の存在である怪物たちは淘汰されていった。
夜の闇が街の明かりに押しつぶされていくように……。
*****
大海原に浮かぶ一隻の戦艦『レージング』。真っ黒いその無骨な巨体は見る者の心をへし折るような圧倒的な存在感を放っている。
ドレットノート級の大きさに、最新鋭の装備を備えた『レージング』はまさに最強の戦艦と言っても過言ではなかった。
その名を聞くだけで、敵国は震え上がり、海戦を諦め、白旗を揚げざるを得ないようなそんな兵器だった。
だが、今、『レージング』は戦争のために海を進んでいるのではなかった。
その運用目的は護送。とある人物を運ぶためにこの鋼鉄の戦艦は動かされていた。
いや、『人物』というには語弊があるだろう。何故なら、彼女は人ではないのだから。
一際目立つその場所は牢屋のような風貌の部屋があった。
その部屋には二人ほどの軍人が扉の前を見張るように立っている。
「はあ……。せっかく、この艦に乗れたっていうのに。こう毎日毎日部屋の前に立って見張りっていうのはないんじゃないか?」
見張りの軍人の一人はもう一人に愚痴をこぼす。
「そういうなよ。デイビット。これが重要な任務なんだから」
「でもなあ、アレックス。俺は戦争がやりたくて海軍に入ったんだから、もうちょっと心躍ることがあったっていいだろうに」
もう一人の軍人、アレックスはデイビットを窘めるが、デイビットは詰まらないとばかりに溜息を吐く。
「俺だって、最初はこの任務にちょっとはわくわくしたんだぜ? なんせ、伝説の怪物・人狼の護送だって話だ。血肉沸き踊ったさ。でも、やってることはこうやって扉の前を見張るだけ。嫌になっちまう」
デイビットは後ろの牢屋のような部屋を見る。檻の隙間から見えるその姿に嘲りの笑みを浮かべた。
「しかも、期待していた人狼は鎖で全身ぐるぐる巻きで椅子に縛り付けられていて、顔もちゃんと見えやしない」
「仕方ないだろ。純銀製の物を常に触れさせておかないと、危険だって話なんだから」
アレックスはそう言うが、彼自身この任務に対して内心、馬鹿馬鹿しいと思っていた。
軍の上層部からの命令を受けて、この艦はあの人狼と呼ばれる存在を護送しているが、そんな伝説上の生き物など軍艦で護送するなど笑い話だった。
「ほら、真面目に見張りの仕事をしよう。何があるか分からないんだから」
アレックスは隣のデイビットから正面に顔を向けた。
デイビットはそんな生真面目なアレックスをからかうような目を送る。
「はっ、この軍艦に侵入者でも入ってくるってのかよ。この艦は最強の戦艦なんだぜ? 鼠一匹入って来られるもんかよ」
「いや、そうとも限らなくない?」
「んな訳……だ、誰だお前!?」
いつの間にかデイビットの後ろには青年が一人立っていた。
袖の長い黒のシャツに濃い灰色のチノパンツの格好はどう見ても同じ軍人には見えない。
おまけに顔立ちから見て、間違いなく東洋人だろう。
真っ黒い艶のある黒い長髪をポニーテールに束ねたその男は、にやにやした笑みを浮かべて、デイビットの肩になれなれしく腕を絡めている。
「うん? 麿のこと? 麿の名前は蝉麿。職業は専業テロリスト」
流暢に話す英語に一瞬だけ驚き、思考が止まりかけたが、デイビットは腐っても軍人。
すぐに蝉麿の腕を振り払い、携帯していた銃を取り出し、瞬時に蝉麿に向ける。
「アレックス。お前も銃を構えろ! こいつ、間違いなく侵入者だ!」
すぐ近くに後ろに居るアレックスに声だけで呼びかけるが、彼は反応しない。
「おい! 何やってんだ、アレック……」
どさっという音がして、デイビットの後ろで何かが倒れた。
横目で見ると、顔が真っ白になって横倒しになったアレックスと彼の銃が転がっっている様子が見えた。
「彼ねぇ。あんまり健康に気を遣ってなかったみたいで、血がどろどろだったよ。もっと野菜を食べておいてくれたら、美味しかったのに」
舌なめずりをする蝉麿の舌は真っ赤な血が滴っていた。
それを見て、デイビットが目の前に居る男が何者なのかを悟った。
「お、お前……まさか、きゅ、吸血鬼なのか!?」
「いえーす。おう、いえーす。あいあむ、ヴぁんぱいあ!」
口を大きく開いて見せた口内には、人とはかけ離れた鋭い犬歯しか生えていなかった。
蝉麿の口から吐き出させる鉄臭いその口臭の原因は恐らく、アレックスの血を吸ったからだろう。
「う、うあああああああああああっ!!」
喉の奥から恐怖の叫びを上げながら、銃の引き金を引くデイビット。
だが、蝉麿はいくら弾丸を顔や身体に受けて、肉が抉れ、血液を撒き散らそうと、時間が巻き戻されているかのように傷やこぼれた血が瞬間的に治っていく。
弾薬のリロードも忘れて、デイビットはただ泣き叫びながら銃を撃ち続ける。
もう彼の脳を占めているのは目の前の脅威に対する恐怖だけだった。
「純銀製の弾丸か。確かに怪物に対しては有効だけど、それでも無駄だよ。デイビット君……だったっけ? 君じゃ、麿には勝てない。たとえ、どんなに強い兵器を持っていても、恐怖で我を失う人間は怪物には勝てないんだよ」
弾丸が尽きて、カチカチと軽い音がし始めても、デイビットは引き金を引き続けた。
絶対的な強さを持つ存在は目の前に居るだけで、人の心を破壊する。
デイビットは蝉麿の強さを肌で感じ取ってしまった。そして、理解した。
これには勝てない。どうしようもない。死ぬしかない、と。
そう思った時、力が抜けた。
手から銃がこぼれ落ち、膝から崩れ落ちた。
それを蝉麿は優しく受け止める。敗者を労わる勝者として、弱者を称える強者として。
「いただきます」
デイビットの首筋に無数の牙が突き刺さる。
「あっ……」
痛みはなかった。むしろ、どこか得体の知れない安堵感すら感じられた。
そうして、デイビットの意識は闇の底へと沈んでいった。
倒れた二人の軍人を見つめて、蝉麿はぽりぽりと頬を掻く。
「怖がらせすぎちゃったかなぁ……。まあ、しばらくして目が覚めたら、麿のことは頭から消えてるから許してね?」
アレックスもデイビットも死んだ訳ではなかった。二人とも蝉麿に血液を吸血されたせいで気を失っているに過ぎない。
もっとも、身体から一度に結構な量の血を抜いた訳なので、危険はないとは言い切れないが。
そして、吸血鬼である蝉麿の特性は、血を吸った相手の保有する、自分に関する記憶を消去するというものだった。これは吸血鬼が長い時間をかけて得た人間から身を守るための生物としての進化の賜物である。
突然、現れたように見えたのも、吸血鬼としての能力の一つ、『他者の影に潜む能力』を使い、アレックスの影の中に隠れていたためであった。
蝉麿は二人の脈と心音と呼吸音を聞き、安全を確かめた上で後ろに持ってきていたトランクケースから毛布とロープを取り出す。
これは血液を失ったせいで下がった体温を暖めるためであり、万が一、目が覚めた時のための拘束だった。
「ここの床、鉄板だから体温下がらないようにっと」
この蝉麿という吸血鬼は見てのとおり、心優しい吸血鬼で人を殺さないように生きていた。本来ならば、彼は戦艦に侵入して、軍人を襲うなど絶対にしないのだが、そうせざるを得ない理由があった。
「それからそれから……お、あったあった」
アレックスの腰に付けられていた鍵の束を拝借すると二人を毛布で包み、ロープで縛りあげた。
ロープの方は血液が溜まって、鬱血しないように適度に緩めた縛り方をしている。
一旦、蝉麿はぴたりと動きを止めると、気分が悪そうに口を押さえ、嘔吐をした。
「おろろろろろろろ……!」
喉奥から吐き出したのは先ほど身体に撃ち込まれた銀の弾丸。それが赤い血液と胃液に塗れて床に落ちた。
「無理して効かない振りしてたけど純銀、マジ効いたわ……軽く死ねそう……」
涙目でそう言った後に、ズボンのポケットからティッシュを取り出して口を拭う。
弾丸を受けて、即座に傷を塞いで見せていたが、実はかなりの無理をしていた。確かに吸血鬼としての再生能力であれば瞬間的に傷を治癒することなど造作もない。
しかし、その身に受けたのは通常の弾丸とは違い、銀でできた弾丸だった。銀の弾丸が人外には非常に有効なもので、吸血鬼と言えども、これを身体に受ければ無傷では済まない。
銀の弾丸には吸血鬼の再生能力を落とす効果も付随している。
蝉麿が銀の弾丸を受けても平然としていられたのは、次の弾丸が来ることを想定し、撃たれた部分の再生速度を意識的に上げていただけに過ぎない。表面的には無傷のように見えるが、実際のところは体内に受けた傷はまだ完治してはいなかった。
頭を軽く振って、気を取り直すと鍵束をその扉の鍵穴に合わせ始めた。
八個目の鍵を鍵穴に差し込んだ時、奥の方まで鍵が刺さった音がした。
「おっ! ようやくビンゴ」
そのまま刺した鍵を回すとガチャリという音がした。
扉に付いてある取っ手を引いて開くと、蝉麿は牢屋のような部屋に侵入する。
椅子に純銀製の鎖で全身を縛り付けられている姿を見て、蝉麿のへらへらした表情が少しだけ悲しげに歪んだ。
すぐにまた軽薄な笑顔を張り直し、鎖を外すべく鍵穴を探して、それに合いそうな鍵を順番に入れていった。
今度は扉の時ほど、時間は掛からず、簡単に鎖を外すことができた。
「大丈夫だった? 人狼さ……ん?」
身体中を覆うように巻きついていた鎖を解いていくと、中に居る人狼の姿が見えてきた。しかし、その人狼の姿は蝉麿が想像していた以上に小さく、そして幼い外観をしていた。
「人狼、ちゃん……の方が合ってるかな?」
栗色のふんわりとした柔らかそうなセミロングの髪が押させ付けられていた鎖がなくなったことにより露出する。そして、その頂頭部にはイヌ科の獣のような耳が起立していた。
野生的な風貌ながらも美しく整った顔立ちは、人のようでありながらどこか狼を想起させた。
「お前は誰だ……」
低い嗄れた声で忌々しそうに蝉麿へ尋ねる。
大きく円らな瞳には蝉麿に対する拒絶な意思がこめられていた。
だが、蝉麿はそんな人狼の少女の態度にも一向に気にした様子も見せず、鎖を少女から引き剥がしていった。
「麿の名前は蝉麿。君を助けに来た……テロリストってとこかな? 君の名前は? 随分、喉が嗄れてるけど大丈夫? お水飲むかい?」
鎖を全て外し終えると、蝉麿はにこやかに微笑みながらトランクケースからデフォルメされた蝙蝠のイラストが描いてある水筒を取り出した。
そして、上部のキャップを取り、その中に水筒の水を注いで、人狼の少女に差し出す。
「はい、お水。冷たくておいしいよー。何たってこの水筒、日本の製品だからね。保冷機能はピカイチだよ」
けれど、人狼の少女は蝉麿が渡そうとした水の入ったキャップを手で払い除けた。金属性の床にキャップの中の水がこぼれ落ちた。
「……助けに来た? 信じられるか、そんなもの! お前もこの船の奴らと同じでアタシを利用しに来たんじゃないのか!?」
蝉麿を睨むその眼光は酷く攻撃で、自分に近寄るものを一切認めていなかった。
「うーん。やっぱ、簡単には信用できない?」
自分を縛り付けていた鎖を指差しながら、人狼の少女は静かに言う。
「当たり前だろ……。『こんな扱い』を受けてる奴がそう簡単にいきなり現れた奴をほいほい信用すると思ったのかよ……」
「ま、そうだよね。人外ってだけで何度も裏切られたり、見捨てられたりしてるから、甘い言葉は期待できないよね」
そう言って、頬を掻く蝉麿。その態度に人狼の少女は激昂した。
「知ったような口を利くな! お前に人外の苦しみの何が分かる!?」
「分かるよ。麿も人外だし。ほら――」
口を大きく開けて、無数に並んだ牙を人狼の少女に見せた。
人狼の少女は僅かに驚いて、目を丸くする。
「お前……吸血鬼だったのか?」
「そうだよ。日本生まれの吸血鬼。それが麿、蝉麿なのです!
きゃはっ☆」
二十台前半くらいの青年がやるには、少し気持ちが悪い媚びた笑みとウインクをする。
現に人狼の少女はそれを見て、表情を引きつらせた。
「で、信じてもらえたかな?」
媚びた笑顔のまま、蝉麿は人狼の少女に顔を近付ける。
「お前が、吸血鬼だって、分かったくらいで、易々(やすやす)と信じるか……って、顔を近づけるのをやめろ!!」
ぐいぐいと顔を近づけてくる蝉麿を必死で押し返す人狼の少女。
このワンシーンだけを見ると、間違いなく蝉麿は少女にキスを迫る変態である。
「なら、どうしたら信用してくれるのさ?」
「……アタシはもう誰も信じない。お前もこの船の連中も、いや、これから会う奴らも全員……この世の誰も信じない……信じられない」
「…………」
その言葉に拒絶以外の感情がこもっていることに蝉麿は気が付いた。
悲しみと諦め。
この少女は恐らく人を信じていたのだろう。けれど、それは裏切られた。
その裏切りがどのようなものであったかは蝉麿には分からない。
だが、鎖で雁字搦めにされ、軍艦で運ばれていることから考えて、ろくでもない裏切りであったことは想像に難くない。
蝉麿は内心でそれを想像し、義憤の感情が湧き上がってきたが、無理やり鎮火させた。
「ちょっと待ってて」
蝉麿は人狼の少女から一旦離れ、部屋の外に出て、床に落ちている銃を拾う。
その銃はデイビットの弾を撃ち尽くした銃ではなく、アレックスが落とした弾丸が一発も使われていない銃だった。
それを持って、人狼の少女の前に戻ってくると蝉麿はその銃を彼女に渡した。
「麿が君を裏切った時にその銃で麿を撃てばいい。中の弾は銀製だと思うから、吸血鬼にもそれなりに効果あるよ」
「……そこまで」
「うん?」
ぼそりと吐かれた呟きに蝉麿が首を傾げる。
すると、人狼の少女は蝉麿の胸倉を掴み上げて、大声を上げた。
「そこまでする理由は何なんだ!? アタシを助けてお前に何の利益があるんだよ!
教えてよ!? 教えて、くれよ……」
泣きそうな顔。信じたい希望があるに手を伸ばすことができない、そんな表情だった。
蝉麿は思う。彼女がこうなった原因に、彼女自身の落ち度はないのだろうと。
よく見れば、人狼の少女が身に纏っているものは、服とは呼べない布切れだった。裾は擦り切れ、袖は引き裂かれ、ボタンは千切れ飛んでいた。
その布切れから、見えるのはいくつもの痣や切り傷、火傷。
どれだけ、この小さな人狼の少女を悪意が襲ったのだろうか。
どれだけ、この小さな人狼の少女の心と身体は傷付けられたのだろうか。
目の前に差し出された希望を疑うことしかできないほど、磨耗したこの少女を蝉麿は心の底から救いたいと思った。
「麿もね。昔は誰も信じられなくて、ずっと一人で生きてきた。でも、そんな麿に手を伸ばしてくれた人が居たんだ」
「…………」
人狼の少女は口を挟まず、蝉麿の話に耳を傾けている。
「その人にね。何で自分のことを助けてくれるのか、って聞いたんだ。そしたら、その人はこう答えた」
言葉を一度区切る。
蝉麿は絶望の淵に居た自分を救ってくれた恩人の顔を脳裏に思い浮かべた。
「『それは私が大人で、君が子供だからだよ』。そう答えたんだ、あの人は」
「……え? どういう意味だ、それ」
「大人が子供を助けることに理由は要らないんだってさ。麿もそう思う。そうであってほしいと思う。だから、大人の麿は子供の君を助ける」
蝉麿はそう言って、椅子に座っている人狼の少女に手を差し伸べる。
「さあ、人狼のお嬢ちゃん。お前を教えてくれる?」
恐る恐るその差し伸べられた手に人狼の少女は手を伸ばす。怯えながら少しずつ、蝉麿の手のひらへの距離を縮め、そして――。
「リル。アタシの名前はリルだ!!」
蝉麿の手を掴み取る。
「いい名前だね。それじゃあ、ここから出よっか。リルちゃん」
蝉麿はその手を優しく、けれど、力強く握り締めた。
******
「そうだ。リルちゃん、服脱いで」
蝉麿の水筒に直接口を付けて、喉を潤していたリルがぴたりとその動きを止めた。
「………………」
ことりと音を立て床に水筒を置くと、先ほど蝉麿に渡された拳銃を構える。
「……え? ええ!?」
訳が分からず、銃口を向けられて蝉麿はただ慌てふためく。
「このド変態っ!」
叫びと共に銃声が部屋に鳴り響いた。
「……や、やるじゃない、リルちゃん。躊躇なく額狙ってくるとは流石だね……」
額に銃創を作り、血を流す蝉麿。何故か、その表情は誇らしげであった。
心なしか鼻息が荒い気がするが、きっとそれは銀の弾丸を頭部に受けたせいであって、断じて少女に銃で撃たれたことによる性的興奮ではないのだろう。
「いきなり、服を脱げとかお前、そういうのは……だ、駄目だろ。色々と!」
顔を真っ赤にして、リルは両手で自分の身体をかき抱いた。
蝉麿はその様子を見て、リルが早とちりをしていることにようやく合点がいく。
「ああ。誤解させちゃったね。リルちゃんの服がもうボロボロだから、こっちの――」
トランクケースから、フリルの付いたメイド服を取り出した。
「可愛い服を着てもらうと思ったんだよ。むふっ!」
二度目の銃声が聞こえ、蝉麿の頭部にまた新しい傷が追加された。
「あの、リルちゃん。麿でも頭にそう何発も銀の弾丸を食らうと死んじゃうんですけど……」
「死ね! 変態野郎!! 何でそんな服持ってんだよ!」
さっきよりも一層警戒心を強めて、リルは蝉麿から距離を取る。
頭から滴る自分の血でメイド服が汚れないように細心の注意を払いながら、蝉麿は指で銀の弾丸を抉り出していく。
同時にものすごく真面目な表情でリルへの弁解を始めた。
「確かにこの場でメイド服を持っている麿はおかしいかもしれないね」
「かもしれない、じゃなくておかしいだろ!?」
また弾丸で突っ込みを入れたくなったが、弾の無駄使いにしかならないことに気が付き、途中で止めた。
「でも、麿はメイドが大好きなの! とってもとっても好きなの!! だから、メイド服を常日頃から荷物として常備してるの! おっけー?」
「OKな訳あるか!?」
三発目の銃声が鳴り響き、蝉麿の頭蓋骨を穿つ。
「こ、これは『じゃぱにーずかるちゃー』だから仕方がないの。麿の祖国はそういうお国なんだよ」
「絶対そんなのおかしいだろがっ!」
「おかしくないよ。おかしいっていう人がおかしいんだよ。取り合えず、いいから着てみよ? 騙されたと思って、ほら」
「う、うう……ようやく信じようと思った奴がこんな変態だなんて……」
泣きそうな表情を浮かべるリルに蝉麿は土下座をしてまでメイド服を着てもらおうとする。何が彼をそうまでさせるのか。恐らく、それは当人にしか理解しえぬものなのだろう。
それから三分間の着る着ないの応酬を制したのは蝉麿だった。
彼はトランクケースから出したビーフジャーキーと引き換えにリルにメイド服を着せることに成功したのである。
成人男性が涙を流しながらのガッツポーズは見るものをドン引きさせるほどの凄みが感じられた。
ビーフジャーキーを齧りながら、嫌そうな顔をしている獣耳メイド少女を眼前に一人舞い上がっていた。
リルのメイド服姿は彼女の持つ野生的な雰囲気とモノトーンの落ちついたメイド服が妙にマッチし、とても似合っていた。
「ケモ耳メイドとか……本物を間近で見れる日が来ようとは! テロリストやっててよかった!」
「……とにかく、もうここから出ようぜ。こんなところでうだうだしてたら、他の奴らが来ちまう」
獣耳メイド少女こと、リルは蝉麿にそう促すと、部屋から出て行く。
「あ、待ってよ。リルちゃーん」
二人は部屋から出ると、蝉麿はリルの手を無理やり繋いで、楽しそうに廊下を歩き出す。
あまりにも堂々とした蝉麿の振る舞いに嫌悪感よりも不安感が先立ち、訝しげ顔でリルは聞いた。
「だ、大丈夫なのか? こんな風に歩いてたら見つかると思うぞ?」
リルの問いに蝉麿は反対側の手に持ったトランクケースを揺らしながら思案する。
「うーん、この辺りの軍人さんは影に潜みながら、気絶させてたから取り合えずは平気かな?」
「気絶? 殺したんじゃないのか!?」
「一人も殺してないよ。ほら、さっきあった毛布に包まれて縛られている軍人さんが居たでしょ? 皆、あんな感じで気絶させてある」
リルは蝉麿のその行いの理由が理解できずに絶句して蝉麿を見上げた。
彼女からすれば、ここに居る軍人は自分を鎖で縛り上げて、牢屋に閉じ込めておくような悪党でしかない。
それに自分たち人外を迫害し、傷付ける人間という生物に好意的な感情を欠片も持ち合わせていない。
「……何でだ。お前、吸血鬼なんだろ? 何で人間を殺さないんだ?」
リルにとっては人間は害悪でしかなく、人外の生存圏を荒らす邪悪な存在でしかなかった。
故に自分と同じ人外である蝉麿が人を殺さず、わざわざ危険を冒してまで気絶に留めておく理由が分からなかった。
蝉麿はその言葉を聞いて、少しだけ悲しげな笑顔を浮かべると口を開いた。
「リルちゃん。誰かを殺すってことはね、その誰かの家族や友人から恨まれるってことなんだよ。それは人間でも人外でも変わらない」
諭すような口調で蝉麿は足を動かしたまま、ゆっくりと語り出す。
前を向きながら、虚空を見つめるその眼差しは愁いを帯びていた。
リルは蝉麿の歩幅に合わせて歩きながら、彼の横顔を眺める。
「大切な人を奪われたら、どんな温厚な人でも武器を取る。その武器で大切な人を奪った奴を殺すためにね。でも、その大切な人を奪った奴にも家族や友人が居る。……殺されたら殺して返して、ずっと憎しみの連鎖が続いちゃうんだ」
「だったら、どうすればいいんだよ……」
蝉麿はリルを横目で一瞥した。リルのような少女がこんな場所で捕まっていることを考えると彼女の両親が存命である可能性は低いだろう。
彼女の中に割り切らない憎しみがあることを予想し、自分の発言で彼女を傷付けてしまうことを確信した。
しかし、それでもなお蝉麿はっきりと口にする。
「誰かが我慢すればいい。我慢して、憎しみの連鎖を断ち切るんだ」
「そんなことできる訳っ……」
「しなきゃいけないことなんだ。だから、麿はどんなに不利になろうとも人間を絶対に殺さない。たとえ、それが自分から大切な人を奪った人間だとしてもね」
リルの叫びを押し潰すように蝉麿は断言する。
人を殺さないと。誰の命も奪わないと。
それにリルは共感できなかった。
「お前の言ってることは単なる綺麗事だ!」
「そうだよ。でも、綺麗事がなかったらきっと麿たちは生きていけない」
その言葉はリルだけではなく、蝉麿自身が自分に言い聞かせているようでもあった。
「綺麗事ってビタミンみたいなものだと思う。麿たちの心を育てる栄養素の一つなんだ」
「……それでもアタシには無理だ」
前髪で顔を覆わせるようにリルは俯く。
それを蝉麿は優しい笑顔で見つめて、彼女の手を握る力を強めた。
「今はまだ無理でも、リルちゃんも納得できる日が必ず来るよ。だから、そのためにはこんなとこ早く出よう」
その言葉にこくりとリルが頷くのを見ると、蝉麿は彼女と共に廊下を進む。
しばらく歩くと、二人は甲板へと上がる鉄梯子を見つけた。
「ここから甲板に出られるみたいだね」
「甲板に出てどうするんだ? 脱出の当てはあるのかよ」
「まあ、それは見てのお楽しみってことで」
蝉麿はそう言って、意味深な笑みを浮かべると、鉄梯子を上っていく。リルも釈然としないまでも蝉麿に続いて行った。
******
塩の香りと共に海上の風が蝉麿の髪を靡かせた。
空を見上げると、夜空に輝く星が目に映る。
「見てよ。リルちゃん。綺麗な空だよ」
彼の後に上がってきたリルは久しぶりの外の空気を吸い込み、嬉しそうに笑った。
「埃っぽいあの部屋じゃない……ちょっとしょっぱいけど美味しい空気だ」
「それは良かったぜ。――それがお前が吸う最後の外の空気だ」
「え?」
蝉麿以外の人物の声が聞こえたかと思うと、何が弾けるような炸裂音が耳に響いた。
隣に居た蝉麿が吹き飛び、リルの遥か後ろに転がって倒れた。
「な、お、おい! 大丈夫か!?」
何が起きたのかはまるで見当がつかなかったが、とにかく蝉麿の傍に駆け寄ろうとする。
「おっと、動き回るんじゃねぇ、犬っころ」
しかし、蝉麿が吹き飛んだ方向に振り向いた彼女の背中に容赦ない飛び蹴りが入った。
「がはっ……」
うつ伏せで倒れたリルが起き上がれないように足を乗せた男が踏み付ける。
スキンヘッドの三十前半台くらいの軍服を着込んだその男はショットガンを肩に担ぎ、面倒くさそうな目でリルを見下ろしていた。
「おい、そっちのテロリストのジャップもまだ生きてんだろ? さっさと起きて来い」
苛立たしげな声とその言葉遣いは彼がいかに粗暴で粗野な人間かを表していた。
彼の名はジャック・ノリマツ。階級は中尉。
この戦艦『レージング』において、もっとも戦闘能力の高い人間だった。
「やれやれ、いきなり銃撃されるとは……いくら何でもマナーがなってないんじゃないの? 軍人さん」
「軍艦に忍び込んでくるような物好きの歓迎パーティにはぴったりじゃねぇか。盛大に盛り上げてやるから感謝して死ねよ?」
身体の引き起こし、ショットガンの銃撃により弾け飛んだ腹部の肉を押さえ、ジャックを睨み付ける。
「それは何とも最高のパーティだね!」
吐血しそうになるのをぐっと堪え、歯を剥き出しにして不敵な笑みをジャックに見せ付けた。
減らず口を叩きながらも、蝉麿は冷静に状況を把握しようと試みる。
身体の再生速度の遅さから考えて、ショットガンの弾丸は純銀製のものを使用していると見ていい。
また蝉麿がショットガンの一撃を受けても死なないことを知っていたことから推測するに、自分たちは泳がされていたと考えるのが妥当だ。
並みの拳銃では威力が足りなず、殺しきれないと判断して、ショットガンを使うために甲板で待ち伏せていたようだった。
監視カメラを見ている人間は全て気絶させたと思っていたが、どうやらそれ以外の方法で蝉麿を監視していたらしい。
しかし、おかしなことに周囲を横目で確認するが、少なくともこの近くにはジャック以外の人間の姿は見えなかった。
蝉麿のその様子に気付いたジャックは馬鹿にするように喋る。
「ああ。安心しろ。ここには俺以外の奴は出てきてねぇよ。悲しいことにこの艦に居るのは玉なし野郎ばっかりみてぇでな。吸血鬼って名前聞いただけでブルっちまいやがった。ま、その分、俺が遊んでやるから許せよ、ヴァンパイアジャップ」
足の下に居るリルをさらに力を込めて、踏み付けた。
身長はさほど高くない彼だが、身体付きは筋肉質そのもの。そんなジャックに体重を掛けられて踏まれれば、いくら人狼であるリルと言えどもただでは済まない。
「あ……ぐああああああ!!」
リルは苦しそうに悲鳴を上げてもがくが、まるで床に縫い付けられたように彼女の身体は身動ぎしない。
「止めろ! その子に手を出すな!!」
「安心しろ。殺しゃしねぇよ。軍がようやく捕まえた『サンプル』だからな」
苦しむリルを一刻でも早く解放させてあげたかったが、ジャックは胸に重傷を負った今の蝉麿が飛びかかったところで勝てる相手ではない。
蝉麿は腹部の再生させるために断腸の思いで会話を続けて、少しでも傷を癒す。
「サンプル? アンタの軍はその子をどうするつもりなんだ……」
「会話で少しでも回復しようって魂胆か。しゃあねぇな、付き合ってやるよ」
ジャックは蝉麿の目論見を看破した上で、会話を続けた。
「軍はこいつを生物兵器を作るためのモルモットとして使うんだと。投薬と検査、実験のオンパレード。変態研究者どもの玩具って訳だ」
踏み付けているリルを嘲るような視線を送る。
「それに対して、何か感じることはないのか……?」
「ねぇな。こいつやお前みたいな人外に人権はねぇ。どんな理不尽な扱いを受けたって文句は言えない立場なんだよ」
「……なるほど。理解したよ――」
腹部の肉がこぼれ落ちないように押さえていた手を離し、蝉麿は凍えるような眼差しでジャックを見つめた。
「アンタとアンタの軍が心底気に入らないってことにねっ!」
言葉と共に血の着いた手を甲板の床に叩き付けた。
床に着いた蝉麿の血液がまるで流れる水のように動き出し、五本の線となって、床の上を滑ってジャックの足元に進んでいく。
リルが倒れているすぐ近くまでくると、流れる五本の線と化した血液は床をトビウオのように跳ねて、ジャックの足に食い付こうとする。
「ほう。こんな力もあんのか」
ジャックはショットガンの腹で血のトビウオをゴルフのスイングの要領で殴り飛ばす。
その動作に一切の怯えはなく、何の迷いも見せない洗練された動きだった。
血のトビウオは散らされて、再びただの血液に戻り、床に撒かれた。
だが、ジャックが目を離したほんの僅かな隙に蝉麿は月明かりに照らされた甲板の影の中に潜り込む。
この甲板を覆う影全てが蝉麿を隠す暗黒の砦となったのである。
ジャックにとってはこの上ない脅威だろう。しかし、彼は口の端を吊り上げただけだった。
「なかなかどうして楽しくなってきたなぁ!」
影に潜んだ蝉麿の方がぞっとするような獰猛な声に、背筋に冷たいものが走った。
これではどちらが化け物か分からない。内心で自嘲しながら、蝉麿はジャックについて思考を巡らせる。
彼は間違いなく怪物を打倒できる人間だ。恐怖を捻じ伏せ、闇を排他する強靭な精神を持つ人間はこれまでも多くの人外を滅ぼしてきた。
――正面から行けば負ける。
そんな確信めいた予感が蝉麿にはあった。
しかし、逃げる訳にはいかない。このままではリルの未来が奪われてしまう。
蝉麿はこの戦いで自分が死ぬ可能性を覚悟し、それでもリルを救うと己に誓った。
とにかく、リルを確保しなければ話にならない。
影の中を泳ぎ、蝉麿はジャックが居た、つまりリルが踏み付けられている影の元に行く。
手首だけを影の外に出して、リルを掴んでジャックから離そうと試みてのことだった。
影の中には蝉麿以外の生物は引き込むことができないが、影の中に入ったままリルを引っ張って移動すれば、ジャックの足の下から逃がすことができるかもしれない。
そう考えた蝉麿はリルの着ている服に触れるために静かに指を出そうとした。
「おう。そんなところに隠れてたのか。シャイな野郎だな」
楽しげな声がした瞬間、蝉麿の手首を万力のような力で握り締められ、凄まじい速さで上へと浮上させられる。
影の中から出した手をジャックに掴まれ、影から無理やり引きずり出されてしまったのだ。
スマートな体型をしているとは言え、片手で成人男性をあまりにも簡単に持ち上げるジャックの筋力に蝉麿は驚愕する。
「っう……」
蝉麿の手首を掴んだまま、影から彼の全身を出すとさらに上へと持ち上げて、ぶら提げるように持つ。
人間離れした芸当に目を見開いた蝉麿の腹に、ジャックはもう片方の腕で構えていたショットガンの銃口を当てた。
「歓迎のクラッカーで受け取りな!」
微塵も躊躇なく引き金を引く。くぐもった銃声が響き、夜の甲板に一瞬の閃光と大量のトマトを握り潰したかのような赤い液体が迸る。
「ごふっ……!!」
本来なら衝撃で蝉麿が後ろに吹き飛んでもおかしくないが、手首を締め付けるジャック手が蝉麿をがっちりと掴んでそれを許さなかった。
行き場を失ったその衝撃は蝉麿の鳩尾に大きな風穴を開ける。
口と腹部の風穴からだらだらと滝のような血を流す蝉麿。
ジャックに踏み付けられているリルにもその血が降りかかる。
「ぇ……こ、これ……血……?」
ずっと痛みに気を取られて、思考がうまく回っていなかったリルの脳が痛み遮断するのどの疑問に埋まった。
この自分に降りかかる雨のような血液は一体誰のものなのだという疑問に。
否、理解はしている。彼女の意識がその答えを拒絶しているだけに過ぎない。
ジャックが蝉麿の手首から手を離した。
力なく崩れ落ち、ゴムでできた人形の如く、不自然な姿勢で床に這い蹲る。
「お……おい、お前……お前」
リルはうつ伏せで床にジャックの足で縫い付けられた状態で、床に崩れ落ちた蝉麿を揺すろうとした。
「あ……ああ……そんな」
蝉麿の身体に触れたリルの手のひらには尋常ではないほどの真っ赤な血がこびり付いた。
たとえ、吸血鬼であろうとも、命に関わる次元の出血量だった。
「おいおい。大したことなさ過ぎるだろ、吸血鬼。それとも弱ってたのか?」
ジャックのその台詞にリルは、はっとなった。
さっき、自分が彼の頭に銃弾を三発も放ったことを思い出した。
あの時、蝉麿は平然としていたが、本当はかなりの無理をしていたのではないか。
そんな考えが脳裏を過ぎった。
考えなしに銃の引き金を引いてしまった自分に気を遣わせまいと、あえて弱った身体を隠していたのではないか。
蝉麿はただボロボロになった自分の格好を哀れみ、綺麗な服を着させたかっただけだったのに。
彼にしたことに後悔が湧き出してくる。
「ご、ごめん……なさい。アタシ……ごめ……」
身体を襲う激痛などよりも、遥かに苛む自責の念が心を苛む。
涙が浮かび始めた彼女の頭に弱弱しい手が置かれた。
「な……泣かなくていいから。麿は大丈夫だからさ」
息も絶え絶えだというのに蝉麿は笑顔で優しくリルの頭を撫でる。
「まだ息があったのか。安心したぜ」
ショットガンの銃口を横たわる蝉麿の頭に向けて、銀の弾丸を撃ち込む。
ザクロのように蝉麿の頭部が弾けた。
「あ、いや……いやああああああああああああああああああああ!!」
リルの叫び声が甲板に轟く。人のものとは違う、酷く甲高い狼のような慟哭は鼓膜を破るほどの声量だった。
ジャックもこの絶叫には面食らったようで、ショットガンを落として、とっさに両耳を塞いでしまった。
「うるせえな! この犬っころが!!」
踏んでいる背中から足を動かして、骨を砕かんばかりに踏みにじる。
だが、その時、リルの身体が膨れ上がり、モノトーンのメイド服が破れ落ちた。
彼女の顔は狼の頭部に作り換わっていく。身体の方も百七十センチもなかったはずの身長がその二倍、三倍へと伸びていき、布切れと化した服の変わりに突然生え出した体毛が覆っていった。
「ちっ、狼化か。やっかいだな」
すぐにリルから離れ、落としたショットガンを拾い上げるとジャックは臨戦態勢を取る。
素行はチンピラのようだが、流石は歴戦の軍人といったところか。別段焦る様子もなくショットガンを構える彼は面倒そうな表情を浮かべるだけだった。
人型のシルエットをした狼となったリルがジャックの方を振り向いた瞬間、頭部目掛けて銃弾を放つ。
「ガアアアアアアアア!!」
硬質化した人狼の筋肉の鎧に阻まれ、弾丸はリルの顔に傷一つ付けることはなかった。
理性なき獣のように咆えながら、ジャックに走り寄って接近して来る。その速度はとても人間に捉えられるようなものではなく、常人なら棒立ちすることしかできないだろう。
しかし。
「その気合や良し!」
ジャックは普通の人間の範疇に収まらない軍人だった。
襲い掛かってくる三メートルを超える人狼にジャックは逆にショットガンを抱えて、駆け寄る。
客観的に見れば自殺行為にしか見えないが、彼は体格の大きな怪物には懐に入った方が安全だということを経験則から知っていた。
もっとも、そんな度胸と判断力をこの状況下で保ち続けることはそうは居ないだろう。
ジャックが走り寄って来たことにより、リルの目測が外れ、振るわれた鋭い爪を外してしまう。
己の速度の速さが生んだ失態だった。
そして、ジャックという男はその失態を見逃すほど甘い軍人ではない。
「おら、しゃぶれよ! 犬っころ!」
大きく開いていたリルの口内にショットガンの先を突っ込み、即座に引き金を引く。
皮膚が硬くて弾丸が通らないのなら、直接体内に撃ち込もうという目論見だった。
だが、その作戦は人狼の顎の力を甘く見ていたとしか言えない。
口に突っ込まれたショットガンをリルは弾丸が通る前に食い千切る。
チョコレート菓子のように銃身を噛み千切られたショットガンはただのガラクタと化した。
「やるじゃねぇか。楽しくなってきたぞ、おい!」
ガラクタになったショットガンを投げ捨て、腰に付けていたホルスターから拳銃を抜き、リルの眼球を狙い撃ちする。
リルはその弾丸を人外の反射神経を持って、見事にかわした。
「ガアアアアアアア!」
すぐ傍に居るジャックをその大きな両手で掴み上げると、彼の右肩に食らい付いた。
「あぐっ……」
筋肉は勿論、肩の骨をへし折るほどの威力にジャックは握っていた拳銃を思わず、落とす。
右腕を肩の辺りから噛み千切り、切り離されたジャックの腕をリルは飲み込んだ。
されど、ジャック。
「何……人の腕食ってんだ、この獣野郎!」
左手で腰元に付いている軍用のナイフを引き抜き、リルの左目に突き刺した。
「グ、アガアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
急所への攻撃によりジャックを放り出したリルは、眼球に突き刺さったナイフを抜こうとあがく。
甲板に背中から落とされたジャックだったが、右肩から血を流しながら転がって拳銃を拾う。
「たかだか目玉と腕がお互いなくなっただけだろ! まだまだやろうぜ!」
人狼よりも凶暴に笑うジャックだったが、その笑みはリルの変化を見て、霧散する。
リルの三メートルを越える巨体がさらに大きく膨張していた。
目に突き刺さっていたナイフを抜くと、大きな咆哮を上げる。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
その咆哮を吐くたび、五メートル、六メートルと体長を肥大化させていき、優に十メートルを超すほどの大きさになると目の前に居るジャックに大きな牙が乱立する口を見せ付ける。
「……なるほどな。普通の人狼じゃなかった訳か。軍艦まで持ち出すのも頷けるわ、こりゃ」
溜息を一つすると、ジャックは左手の銃を捨てて、左の腰元にある手榴弾を全て取り、残らず歯でピンを抜いて投げた。
「ほら。オードブルだ。食っときな!」
口の中に投げ込まれた手榴弾をリルは噛み砕く。
爆発の光と煙が甲板を覆った。
そして、煙が晴れた時、ジャックの眼前に居たのは平然としたリルだった。
爆発による外傷は一つもなく、左目にあるナイフの傷さえ除けば無傷と言えた。
「お手上げだな。……犬っころ、てめぇの勝ちだ。好きに殺せ」
この期に及んで軽口を叩くジャックだったが、その目にはぎらついた好戦的な色はなく、敗北を受け入れていることが見て取れた。
けれど、リルにとってはそんなものはどうでもよかった。
理性を捨てた彼女だったが、蝉麿を殺したジャックに対する怒りや憎しみだけは彼女の胸に刻まれていた。
「ゴオオオオオオオオオオ!!」
ジャックを噛み殺そうと牙を剥き出して、飛びかかる。
ジャックは目を瞑り、敗者らしく、リルへとその身を差し出した。
「駄目だ! リルちゃん!!」
二人の間に割って入るように人影が躍り出る。
その人影はジャックによって頭を砕かれて死んだはずの蝉麿だった。
今もなお、頭や腹から血液を垂れ流しているが、それでもなお二本の足で立ち、後ろに居るジャックを庇うかのように両手を広げている。
「てめぇ……生きてやがったのか」
「お生憎様。麿は再生力だけが取り柄の吸血鬼だからね」
振り返らないでジャックに受け答えすると、蝉麿は巨大な人狼の姿のリルへの説得を始める。
「ほら、リルちゃん。麿はもうピンピンしてる。だから、元のリルちゃん戻ってよ、ね?」
ふら付きそうになる足取りで完全な怪物へと変貌したリルに近寄って行く。
「麿、言ったよね? 人間を殺さない理由。それは麿の傍に居る人にも適応させたいと思ってる。誰かを殺しちゃったら、楽しい時でも笑えなくなっちゃうからさ」
蝉麿はリルを全身で抱き締める。
自分のその思いをリルへと伝えるために力強い抱擁を彼女へ与える。
「ガアアアアアアアア!!」
しかし、理性の掻き消えたリルには蝉麿のことを敵としか認識できなかった。
涎を垂らした凶暴な彼女の口は蝉麿を腕に噛み付く。
食らい付いたまま、顔を振るい、蝉麿の腕を食い千切る。
真っ赤な鮮血が宙を舞った。
「だ……大丈夫。麿はリルちゃんの敵じゃないよ」
左腕を失い、顔を痛みで顰めながら、蝉麿は優しく笑う。
「麿は君を傷付けない。約束する」
「ウガアアアアアアアアアア!!」
だが、今のリルにはそんな言葉は意に介さない。
彼のもう片方の腕も引き千切る。
それでも、蝉麿はリルに語りかけることを止めない。
「リルちゃん。麿は……君を裏切らない。だから、もう止めよう。こんなことしても、何にもならない。誰かを傷付けることで、一番傷付くのは君なんだよ」
見ている方が泣きたくなるほど優しい笑みでリルを諭す。
両腕の引き千切られたその案山子のような姿で、必死で彼女に届くようにと言葉を紡ぐ。
その蝉麿の穏やかな瞳はリルの心に微かな光を与えた。
「アアアアアアあああああ……!!」
リルの叫びが次第に獣の咆哮から、少女の泣き声へと代わっていく。
それに連れて、彼女の身体が縮んでいき、最終的に元の獣耳の少女の姿に変わった。
ぽろぽろと涙をこぼしながら、蝉麿に寄りかかって、意識を失う。
「戻ったね。リルちゃん……お、おっとっと」
両腕がないため、リルを倒れさせないように蝉麿はうまくバランスを取る。
できることなら、今すぐ彼女の頭を撫でてあげたかったが、物理的にできなかった。
愛しいものを見つめる優しげな目で、蝉麿は自分に縋り付くように寝ている裸のリルを眺める。
その余韻を破壊するような空気の読めない男が蝉麿に声をかける。
「おい。吸血鬼」
「……何だよ、軍人さん。まさか、まだ殺し合いをしようだなんて言わないよね?」
仮にも自分を殺しかけた相手に蝉麿は呆れたような視線を送る。彼も彼で神経が図太いと言える。
「曲がりなりにも命を救ってもらった相手に攻撃するほど根性腐ってねぇよ。俺が聞きたいのはてめぇがどうして、そこまでその人狼の小娘を助けようとするのかだ」
蝉麿のあまりにもリルに対する献身さがジャックの目には異常に映った。
「そいつとは顔見知りって訳でもねぇんだろ?」
蝉麿の素性についてはろくに知らないが、少なくても人狼が吸血鬼と友好関係を結んでいるという情報は聞いたことがなかった。
ジャックのその質問に蝉麿は少し考え込んだ後、彼の顔を見て言った。
「麿はかつて、人狼に拾われて、命を救ってもらったことがあるからかな?」
「その人狼はそのガキの血縁者か何かか?」
ジャックがリルを指差して、そう聞くと蝉麿は首を横に振る。
「ううん。その人は家族は居ないって言ってたから、多分この子とは何の関係性もないと思うよ」
「じゃあ、てめぇは人狼ってだけで、そのガキを助けにこの艦に侵入した訳か?」
「うん。そうだよ」
「馬鹿じゃねぇのか、てめぇ……」
床に座り込んで、腕が千切れた傷口を布で止血し始めたジャックが呆れた顔で言った。
「そうかもね。でも、麿をこんな馬鹿に育ててくれた人狼のママには感謝してる」
「そうかよ。だが、てめぇ、早死にするな」
「何でさ?」
腕を少しずつ再生させている蝉麿はジャックに聞き返す。
あまりにも気安い彼の雰囲気にジャックは頭痛を感じながら答えた。
「……こうやって俺を殺さないところだ。今、装備の内に殺しておかねぇと、次に会った時、俺は確実にてめぇを殺すぞ?」
ジャックのその台詞に蝉麿は朗らかに笑ってこう答えた。
「麿は誰も『殺さないし、殺させない』。」
どれだけ自分が不利に陥ることになろうとも蝉麿は誰も殺さないと決めている。そして、勿論、『殺させない』という言葉には『相手に自分を殺させない』という意味も含まれていた。
誰よりも優しく、そして、誰よりも狂っている彼の台詞にジャックはぽかんとした後に大爆笑した。
「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ! ひーひー……てめぇ、それマジで言ってんだな?」
「マジだよ。大マジ」
笑われたことに少しだけむっとしたが、胸を張って答えた。
だが、少しばかり胸を張りすぎて、リルが倒れそうになり、慌ててバランスを元に戻す。
そして、蝉麿はようやく再生してきた腕を動かすと、姿を巨大な蝙蝠へと変化させた。
まだ気絶しているリルといつの間にやら回収していたトランクケースを足で掴むと真っ黒い翼を羽ばたかせ始める。
「それがてめぇの本性か」
「いや、この姿にもなれるってだけで本来の姿はさっきまでの奴だよ」
腕の止血を終わらせたジャックは胸元に入っていたタバコを取り出し、口に咥えて同じように取り出したライターで火を点ける。
そこで初めて気が付いたように蝉麿に目を向けた。
「そうだ。ヴァンパイアジャップ。てめぇの名前は?」
「うん? 蝉麿だよ。というか何で麿が日本の吸血鬼だって分かったの? 東洋人って言えば普通は中国人だと思うけど」
タバコの煙を吐いて、ジャックは答えた。
「俺が日本人とアメリカ人のハーフだからだ。それと日本人が大嫌いだからだ」
「そうなんだ。ちなみに軍人さんのお名前は?」
流石にこれは答えてくれないだろうと思い、駄目元で尋ねるが意外にもジャックは素直に名前を蝉麿に教えた。
「ジャック・ノリマツだ」
「へえ、ジャックさん……」
「次は確実に殺す。その味噌くさい頭に俺の名前を刻んでおけ」
タバコを突き付けて、蝉麿を睨み付ける。
ジャックの目には殺意の光が浮かんでいた。
殺されかけ、命拾いさせられたことに強い怒りを感じている様子がありありと見て取れた。
「その時はその人狼のガキも返してもらう」
「この子の人生はこの子のものだ。それは誰にも奪わせないよ」
蝙蝠になった蝉麿は最後にジャックにそう言い残し、甲板から空へ飛び立った。
蝉麿は足の抱えたリルが見る世界を案じ、彼は夜の空を舞う。
自分を助けてくれた人狼のように、彼女の人生を守りたい。
心に誓いを立てて、蝉麿は生まれたままの姿のリルを見ながら、ぽつりと呟きを漏らした。
「リルちゃんて、意外におっぱい大きいんだね……」
もしも彼女が起きていれば、銃弾が飛ぶようなセクハラ発言をする。
「新しいメイド服も用意してあげなくちゃね」
自重の二文字を知らない吸血鬼は軍艦を尻目に闇夜の海を駆け抜けた。