異世界でイケメンの王子様をゲットしたと思ったら背中にファスナーがついていた
―――――それは目を疑うような光景だった。
春風に吹かれ、窓辺に吊るされたアイボリー色のカーテンがふわりと舞う。
茶を基調とした、落ち着いた色調の部屋に、午後の陽光が差し込んだ。その光の中で、部屋の主である男は、彫刻のように整った顔と体に滴る、宝石のような汗の粒を拭っていた。汗を追って腕を背に滑らしたとき、私は見てしまった。
背筋に沿うように這わされた銀色に光る―――――ファスナーを。
「少し眠そうだね。昨日はよく眠れなかった?」
20人は軽く着席出来るだろうテーブルに、所狭しと並べられた色とりどりの料理を、欠伸をかみ殺しながら見入っていると、耳元で掠れた声がした。
「きゃっ」
耳を押さえて振り返ると、そこに予想通りの人物を認めて、私は上目遣いに彼を軽くねめつけた。
「もう! テオったら」
「おはよう」
少し中性的な甘い顔に、草原を渡る初夏の風のような爽やかな笑顔を浮かべると、テオは私の頬にそっと口付けた。
太陽の光を紡いだようなブロンドが目の前でさらりと揺れる。一見すると冷たくも見えるアイスブルーの瞳に、今は温かな光が宿っている。
柔らかい唇の感触が離れていくと、私はさっと目を伏せた。
そんな私の様子を見て、テオはくすくすと小さな笑い声を立てる。
「可愛いね、サオリは。でも、これがこちらの挨拶なんだから、そろそろ慣れてもらわないと」
俯いた私の頬にさらに唇を押し付けると、テオは楽しそうに笑いながら自分の席に着いた。
頬へのキス。それは確かにこの国における、挨拶の一種だ。
親愛と、敬意を示して行われるそれを、初めてテオからうけた時には、それは驚いた。真っ赤になって、口をぱくぱくと動かし、その場からしばらく動けなかったものだ。
で、も、ね。
いくら絶世のイケメンだろうが、毎日毎日されてりゃあ、慣れるっての。
今では若白髪の宰相が白けた顔で見ていようが、衆人環視の中だろうが、正直へでもない。
だがしかし、「慣れてもらわないと」というテオの台詞が本心から来ていないことなど、恋の駆け引きの何たるかも知らぬような初心な少女の目にだって明らかだろう。
「これでも努力はしてるんだから。あんまりからかわないで」
特に赤くなっているわけでもない頬を押さえ、もじもじと拗ねたように抗議の声を上げる。
壁一面に控える、侍従や侍女の「やってられねえぜ」という心の声が聞こえるようだ。
「そうだね。努力は認めるよ、努力はね」
幼い頃より人の目に晒され続ける事になれたテオは、そんな彼らの胸裏など微塵も気にも留めず、先程果実を絞ってつくられたばかりの新鮮なジュースが入った容器を傾けた。
ただジュースを飲む。そんな日常的な何気ない動作までもが絵になるように美しい。
テオフィルス・バルツェ・ベン・何とかかんとか・クラウジウス。
無駄に長い名前を持つ彼は、押しも押されぬ、この国の第一位王位継承者。つまり、紛うこと無き王子様! である。
しかも、大陸最古の歴史を持ち、大陸最大の国土を誇り、また恵まれた気候と肥沃な大地に後押しされた、豊かさにおいても並ぶものの無い大国エオス=ロス国の、だ。そのうえイケメンときている。
傍で見ている人間がタライで殴りたくなるぐらい、カマトトぶってでも、ゲットしないと嘘だろう。
私、橘沙織が故国日本から、人智の及ばぬ超常現象により地球儀に載っていないこの国に流されてきたのは、今から半年ほど前だったか。
神事の真っ最中だった王子様の頭上に、光と共にやってきた私を、祭司どもは神の降臨と崇め奉りひれ伏した。
地に額を擦り付けて震える宗教オタクの祭司達とは違い、テオは常識的な思考の持ち主だった。同じ人の形をしているとはいえ、突如として目の前に降って沸いた、未知の生物である私を、当初、彼は引き気味に眺めていたと思う。
腰を抜かして座り込んだ私を、恐らく勇気を出して抱き上げ、医務室に連れて行ってくれたあの日の、引きつったテオの顔はよく覚えている。
王子としての矜持か、男としての意地からかは分からないが、表面上とはいえ、私に畏怖することも嫌悪することもなく、接してくれたのは、ここに来た当初はテオだけだったと思う。
私を神と呼び、目を合わせるのも名を呼ぶのも恐れ多いと平伏しまくる祭司達に囲まれて「あれ? 私って本当に神なんじゃない?」と、とち狂ってしまわなかったのは、偏に彼――――――――と、部屋の隅っこで、ぺらぺらと書類を捲っている最近宰相に任命されたばかりの若白髪の男のおかげといっていいだろう。
神殿の一角に軟禁されていた私の元に足しげく通い、取り乱して泣き叫ぶ私から根気強く話を聞き出し、そこいらの人間と変わらないと判断して、神殿から解放してくれた、いわばテオに次ぐ第二の恩人なわけだが、私はこの宰相がどうにも苦手だった。表情が一切出ない仮面のような顔で書類に目を通す宰相の灰色の髪を見て、私は小さくため息を漏らした。ったく、お忙しい宰相様がどうして朝食の席にいらっしゃるんだが。
まあ、仕事人間の宰相の話は置いておいて、世にも珍しい空から降って沸いた私と、そんな私に紳士的に接しながらも、どこか線を引いていた麗しの王子様テオが、なぜ冒頭のようなラブラブな仲になったかと言うと、『私の努力の賜物』この一言に尽きる。
王子が散策に出るのを見計らって、植え込みの陰でほろほろと涙を流してみたり。王子が視察に出るのに先回りして、転んだ市井の子供を助け起こしてみたり。王子が通りかかるのに合わせて、雨の中子犬を保護してみたり。王子狙いのお偉方のご息女にいびられた時には、それとなく王子にちくり、なおかつ、王子の前で彼女達を庇ってもみせた。大家族に生まれ、小さな頃から他の兄弟達との熾烈な生存競争に勝ち残るべく鍛えた秘儀「嘘泣き」は、王子様相手にも遺憾なく威力を発揮してくれた。
努力が実り、王子から愛を告白された私が正式に婚約者となる前夜、以前から私を煙たがっていた前宰相の娘に呼び出された。友好的な雰囲気を醸しつつ、異物の混入された菓子を差し出され、私は迷う事無くそれを食ってやった。食ってやった上で、事前に手配済みだった王子の到着を待って、娘のドレスに盛大にげろった。学校をずる休みするために編み出した奥義「オートリバース」の効果は絶大だった。
入れられていたのはかなりやばい薬だったらしく、吐いていなければ命が危なかったと、ベッドの上で現宰相の小言を聞いた時には、ぞっとして、以降この技の封印を誓ったっけ。
結果として、娘を使い、私を陥れようとした前宰相は罷免され、刑務所と変わらない田舎の尼寺のような場所で俗世と隔絶された厳しい生活を送らなければならなかった娘は、今、私の差し沿いをやっている。
父親にあれこれ吹き込まれ、異世界からやってきた魔女(私のこと)から王子と国を救いたい一心で行ってしまった出来心であったこと、また娘が薬の内容を睡眠薬だと聞かされていたことに同情し、私が救ったのだ。というのは表向きで、救ったのには違いないが、理由は同情ではない。娘は王宮内の細々とした規律、習慣に明るく、また貴族連中の顔もよく知っていた為、使えると思ったからだ。側に置くのはろくに謀略も読めない脳みそお花畑にかぎる。
そんなこんなで粒粒辛苦して今のこの地位を築いた私の未来は、まさにばら色だった。……………ほんの一日前までは。
地位、財力、顔。どれをとっても申し分のない王子様に、まさか、まさか、ファスナーがついていたなんて!
等と言うと、幸せの余り、頭がどうにかしてしまったんじゃないだろうかと思われそうだが、違う。断じて違う。
私は確かに見たのだ。
遠乗りから帰った王子様がチュニックの紐を緩めて、汗を拭っていたその時に、彼の背中に銀色のファスナーが光り輝いているのを。
その時のショックといったら、ちょっと言葉では表せない。
「おーまいがっ!?」
と叫ばなかった自分を褒めてやりたい。
あれは一体なんなのか。
何で、どうして、ファスナーなのか。
中身はどうなっているのか。
中の人が存在するのか。
王子はきぐるみなのか。
それとも遠隔操作されているのか。
生まれてこの方18年、こんなに混乱したことはなかった。
この世界に飛ばされてきた時の衝撃の方が遥かにましだった。
花の香りのするふっかふかのベッドに横になって一睡もせずに考えた。このまま王子と結婚していいものか。悩みに悩んで朝を迎え、私はある事実に気付いた。
王子以外の背中を見た事がない。
この国の衣装は基本的に大きく肌を見せないつくりになっている。男女共に襟は詰まり、胸ちらもなければ、背中見せもない。
さらに、私の悩みを深くしたのは、他人の背中を見た事がないだけではなく、私自身の背中を、この世界の人間に見られ事がないという事実だった。
世界最古の王朝だが、どんなに貴い血筋の人間も介護が必要にならない限り自分の事は自分でする文化のせいで、侍女に無理やりお風呂にいれられて………というセレブ堪能イベントが発生しなかったのだ。いつ何時資産家のイケメンに迫られてもいいように、磨きに磨いた自慢の体を披露出来なくてがっかりだった。
「ちょっと、王子に取り入ったあの女! 顔だけじゃなく、体もすごいのよ! くやしい、負けたわ。きー」
と影で侍女達がハンカチを噛み締めて悔しがる姿が楽しめるに違いないと心待ちにしていたというのに………。
足もデコルテも染み一つない背中も見せられない鬱憤を思い出しながら、卵料理をつついていると、目の前に灰色の影がさした。
「殿下、本日査察予定のアレンス伯の荘園についてですが、こちらの書類に目を通していただきますようお願い申し上げます。それから、本日は予定が立て込んでおります。どうぞお早目のご出立を」
若白髪の宰相がいたのはテオを急かすためだったらしい。
自身がチェックしていた書類を差し出すと、宰相は黒い瞳を私に向けた。
「サオリ様は兵の鍛錬を視察にいらっしゃるとか。未来の妃殿下がいらっしゃったとなれば兵士達の士気もあがるでしょう。ですがご婦人であらせられますサオリ様には少々刺激がお強い場所かと存じます。ご無理をなさいませぬよう」
慇懃に頭を下げる宰相に「分かっているわ。心配してくれてありがとう」と微笑んだ。テオはそんな私達の様子を温かい眼差しで見守っている。
彼の眼には王子の婚約者を気遣う出来た宰相と、謙虚な未来の嫁とでも映っているのだろう。
「女が鍛錬を見て何が楽しいのか知らんが、余計な事はせずにさっさと帰れよ」「うるさいな、お前に迷惑かけなきゃいいんだろうが」水面下で交わされた言葉に気付かない彼は幸せ者だ。
宰相の言うとおり、私は今日、兵士達の鍛錬場への視察を申し出ているが、何も慰問に訪れるのでも激励に訪れるのでもない。
彼らの背中を見に行くのだ。
王子の背中を見た時、私は彼がマイノリティに違いないと思いこんだ。だが、そうではなく、この世界の人々にとって背中にファスナーは当たり前に付いているものである可能性に思い当たり、震え上がった。
私こそがマイノリティ、私こそが異端であれば、空から降ってきた以上のマイナス要因になるだろう。
王子や周囲の人間に悟られぬよう、他人の背中をチェックする必要に駆られた私がどうやって他人の背中を見るかと考えた末に編み出したのが今日の視察なのだ。
侍女や側近、宰相を初めとした臣は、皆隙無く服を着込んでいる。ならば兵士だ。彼らなら、薄着にもなるだろうし、汗も拭くだろう。
と、思って意気揚々と出かけたのだが、甘かった。
奴ら、精鋭ぞろいの猛者だった。
隙がない!
全くない!
どこにもない!
見慣れた近衛の制服は当然のように詰襟だったが、鍛錬中の兵士は目論見どおり簡素の服装をしていた。服の上から凹凸でも分かればと目を皿にして見回したのだが………。
着いて早々まず模擬試合を見せてもらったが、動きが早くてさっぱり見えない。
業を煮やして、声をかけたいからと近づけば、号令一つで電光石火の集合整列。背中なんて一瞬も見せちゃくれない。
優に頭一つ高い筋肉の壁に立ちはだかれ、私は敗北を喫した。
「いかがでございましたか?」
その日の夕方、能面宰相に呼び止められて感想を求められた私は、「さすがエオス=ロスの兵ですね、素晴らしい兵ばかりでした。ですが、未婚の若い兵は自由に街へ出られないばかりか、彼らが女性と会うのに随分と厳しい規則があると聞きましたよ。優秀な彼らが結婚し子を生すのを阻むのはどうかと思います。月に一度でも彼らと未婚の女性との出会いの場を設けられてはいかがですか?」と上から目線で語っておいた。風紀が乱れて隙をみせるようになればいい。
「尤もですな。さすがサオリ様、ご婦人からの貴重なご意見、重く受け止めさせていただきます」と深々と頭をさげる宰相の心中は読めなかったが、後日、本当に出会いの場が設けられるようになったとか………。若白髪め、当てこすりのつもりか?
とまあ、宰相の事は放っといて、兵士達の背中を見られなかった、私が次に思いついたのは城の下働きの面々に会う事だった。
掃除、洗濯、炊事に、無駄に広い庭の手入れ。恐らく眩暈がするほどの人数が働いているだろう。彼らならば、そうそう服装に気も使っていられまいし、兵士のように隙がないなんてこともあるまい。
と、思って、城の中をあちこち探索したのだが、甘かった。
あいつら忍者。
まじで忍者。
湯気を立てた料理に、干している途中の洗濯物、刈り込み途中の植木。さっきまで確かにそこに居た気配があるのに、私が訪れるとどういうわけか、人っ子一人いないのだ。
むきになって下水の側溝まで覗いたけれど、誰一人として発見できなかった。
これは一体どういう事かと、前宰相の娘コンスタンツェに尋ねると、下々の者が働いている姿を高貴な人々に見せるなどもっての外、かつて、うっかり姿を見られた庭師がその場で打ち首になった事もあったとか。
アホか。
苛々として扇を掌に打ち付けていると、背後で衣擦れの音がした。
「サオリ様、近頃城内のいたる所をご見学とか。しかし、今日はまた随分とご気分がすぐれぬご様子。何かお気に召されぬことでもおありでございますか?」
出たな。若白髪。
私は優雅にドレスの裾をゆらして振り返り、ぱらりと扇を広げて口元を覆った。
「ええ、大変遺憾に思うことがありましてよ。下働きの者達の待遇はどうなっているのですか? 身分高き方々に姿を見せただけで刑罰だなどと、野蛮にも程があります。彼らなくしてこの城が維持出来ますか? 出来ないでしょう? 労働とは貴いものであるべきです。彼らの身分の向上と待遇の改善をお考えになってはいかがかしら」
身分制度なんて良く分からないけれど、超上から目線で語ってやった。庭師がタンクトップ一枚で誰に憚る事無く背中を見せて仕事に励む日がくればいい。
「これは、公明正大な御心をお持ちのサオリ様ならではのご意見ですな。全く耳が痛いお話でございます。サオリ様がかように下々の者にまで心を砕かれておいでとは、このヴェルンス、感服致しましてございます」
慇懃無礼を地で行く宰相の態度に私の苛々は益々増した。
「驕る者久しからず、と申します。そのお言葉に嘘がおありでないなら、早急に対策をお考えになって下さいね」
「はっ」
ヴェルンスが灰色の頭を下げるのを見て、私は勢いよく扇を閉じた。パチンと小気味のよい音がして、 ほんの少し溜飲が下がる。楽しいわね、これ。
それからしばらくの間、私は扇パチパチにはまった。
高圧的で中々楽しい。
すっかり扇の扱いにも馴れたある日、庭園を散策していると、簡素ながらもこざっぱりとした衣服に身を包んだ、よく日に焼けた男達が一斉に駆け寄り、足元にひざまずいた。
なんなの!? と目を丸くする私の横で、コンスタンツェがにこにこと微笑みながら説明してくれる。曰く、彼らはこの城の庭師で、私のおかげで立場が改善され、高貴な人々の前に姿を現しても鞭打たれることがなくなった。仕事も捗り人として矜持も持てるようになったと。一言お礼を申し上げたくて参ったとか言われてもねえ………。そんな事はどうでもいいから、背中を見せなさいよ。背中を!
なんであんた達もそんなきっちり着込んじゃってるのよ。作業しにくいんじゃないの? え? 害虫から肌を護るために宰相が服を作ってくれた? それに貴人の目にふれるならば見苦しくない格好をしなければ?
―――――――あんの若白髪め。余計な真似を!
目論見が外れて、きりきりと扇を絞る日々を過ごしていた時、ふと、王子が私に関心を示されたばかりの頃に嫉妬丸出しで突っかかってきたご令嬢方の事を思い出した。
そうだ、兵士も、庭師も駄目ならば、貴族をターゲットにすればいいじゃない。
しかし彼らもまた、揃いも揃って、きっちりと詰襟の服を着込んでいる。
さて、どうやって脱がしたものか………。今が盛りの花々に囲まれた庭で、昼食をとりながら私は考えた。考えた末に、料理長自慢のデザートを食べながら、仮面舞踏会を開こうと思いついた。
エオス=ロスのこれまでの舞踏会は、日中に開かれる、夫婦あるいは家族同伴の面白みも何もないものばかりだったのだ。
夜もふけてから幕の上がる、身元の分からない同士で酒を酌み交わし踊り楽しむ舞踏会。さぞかし貴族連中の心は開放的になりくんずほぐれつ刺激的でだらしない光景が見られるだろう。ついでに乱れた服の隙間から背中を見せるがいい。
これは妙案。鉄は熱いうちに打てとばかりに、私はすぐさま準備にとりかかった。
結果、最初は戸惑っていた貴族達も回を重ねるごとに大胆になり、乱れた。
政治的に。
あいつら男女の密会の場としではなく、悪行の密約の場として利用しやがった。
挙句に、主催者が私だと知るや否や、何を勘違いしたのか知らないが、大量の袖の下が贈られるようになり、私は頭を抱えた。
「……………はあ」
カウチに置かれたクッションに身をゆだね、パチパチと扇を打ち鳴らしていると、目の前に品の良いチャコールグレーのズボンに包まれた足が二本現れた。
「これはサオリ様。今日はまた一段と顔色が優れませんね。最近は随分と楽しい宴を催されていると小耳に挟んでいたのですが…………何か憂い事でもございましたか?」
妖怪鉄仮面だった。
まったくこいつは、毎度毎度、私が何かするたびにちくちく言いにきやがって。
私はクッションに持たれたまま、手にした扇ですっとカウチ横のキャビネットを示した。
「一番下、二重底の下段に、貪官汚吏共の名簿と証拠の品々がそろっております。お好きに処分してくださいな」
私はあくまで、背中を見たいだけなのであって、権力を手中に収めて実権を乗っ取ろうだなんてしち面倒くさい事を考えているのではない。政なんてものはテオがやればいいのだ。
ただ、テオの美しい顔を眺めながら、その横で贅沢な暮らしが出来ればいいだけなのに、なぜこうも上手くいかないのだろう。
キャビネットから取り出した書類を手にした宰相は、それに目を通しながら、唇を微かに吊り上げた。
「さすが、サオリ様。これだけの首が飛べば、さぞかし国庫も楽になりましょう」
鳥肌が立つような冷たい微笑を浮かべて、静かにそう言うと、若白髪は踵を返して去って行った。
まあ、自業自得だしね………し―らない。
宰相ヴェルンスのぞっとするような本性を垣間見たあの日から、私はにわかに忙しい日々を過ごすようになっていた。
「またなの………」
室内に投げ入れられた文を目にして、がくりと肩を落とす。
何故か知らないが近頃、貴族から相談を持ち掛けられたり、兵士から嘆願書を手渡されたり、誰とも知れぬ相手から密告文を投げ入れられたりと息をつく間もない。せっかくテオの資産でゆったり遊んで過ごそうと思っていたのに。
「なになに、『西塔の食糧庫の役人が商人に賄賂を要求している』」
…………知るか! 自分で何とかしろ! 私はテオの寵妃であって、検非違使でも、警察でも、裁判官でも、ましてや目安箱でもないっての。
「コンスタンツェ」
握りつぶしてしまいたいのを堪えて、側に控える娘に文を渡す。
「西塔の役人といえば確か無類の女好きだったわね。侍女達に、お酒を手土産に労を労ってくるように伝えて頂戴。そうね、ドリスに、カタリーナ辺りが適任かしら」
すっかり従順な私の手足と化した前宰相の娘は、雑用を押し付けられたというのに、目を輝かせて文を受け取り、勇ましく部屋を出て行った。
あーあ、今日は街に下りて、目一杯宝飾品を買い占める予定だったのに!
面白くないわ。
行儀悪く扇で結い上げられた頭をかいていると、視界の隅に灰色の影が差した。またか。
「ご機嫌麗しゅう、サオリ様」
思わず扇を投げつけそうになったが、ここで苛つきを表に出しては女がすたる。
私はにっこりと微笑むと、扇で顔を覆った。
「これは、宰相様。近頃よくお顔を合わせますわね」
「全くですな」
そう言うと、宰相は足を引いて腰を折り、最敬礼の形をとってみせた。
「サオリ様の国政へのご尽力、まこと敬服いたします。最早サオリ様は、テオ様にとっても、この国エオス=ロスにとってもなくてはならぬ御方」
若白髪の賛辞の数々に、私は眉を顰めた。
何が言いたい?
「ですので、日頃のご協力に謝意を表しまして、本日は貴方様がお知りになりたがっていた事をお伝えに参りました」
「な、なんのことかしら?」
気圧されながらも立ち向かう私を、宰相はいつぞや見た冷酷な微笑を浮かべながら見る。
「テオ様の背中にあるものについてでございます」
はい、直球勝負来たよ!
「テオ様の背が何か?」
喉から手が出るほど欲しい情報だが、喰い付いては何を言われるか分からない。悠然と扇を動かし白を切った。
「現在、王家直系の男子であらせられるのはテオ様ただ御1人、故にテオ様以外にあれを背負う者はおりませぬ。無論、兵にも、下々の者にも、貴族の中にも、誰一人としておりません」
ばれてやがる。
つうと冷たい汗が背中を伝った。
「サオリ様におかれましては、この国の成り立ちをご存知でいらっしゃいますか?」
「え? 何でも戦ばかりで疲弊した荒野であったところに、神の使いが現れて人心をまとめ、国を興した………と、聞いておりますが」
思いがけない質問に、私は退屈な歴史の講義で聞かされた話を思い出して答えた。
「左様にございます。この国の王はこれ即ち神の御使い」
権力者を神聖化して、治世を図る。よくある話だよね。
「テオ様は人ではございません」
よくある話なんだけど、テオの場合は洒落にならないよね。
「……本当に?」
恐々と尋ねれば、宰相は神妙な面持ちで頷いた。
「はい。王家直系の男子は、成長の過程からして人とは異なります。生を受けて3年は人の子と同じように成長いたしますが、それ以降は3年から5年に一度、脱皮をして大きくおなりになります」
脱皮。
なにそれ、ドン引きなんだけど。
「人の成人は18と定められておりますが、王家直系の男子の成人は25歳となり、脱皮は成人するまで続きます。以降はまた人の子と同じように歳を重ねられますので、現王にはすでに背にあれはないことになります」
3歳から25歳まで脱皮。
あの世にも美しい顔で脱皮。
「で、でも、何でファスナーなの? 脱皮って私のイメージではこう、あー、不敬罪とか言わないで頂戴ね。爬虫類が薄い皮を脱いでいくようなイメージなんだけど」
「ああ、あれはファスナーというものだったのでございますか」
え?
宰相の言葉の意味が分からず、扇をあおぐ手を止めて、彼の顔を凝視した。
「こちらには王子の背中以外には存在しないものですので」
そういえば、衣服に使われているのを見たことがない。
「かつて、脱皮はそれは大変な変化で、脱皮によって命を落とされる王子もおられたとか。あまりに凄惨な現場をご覧になった時の賢者が、代々の王子を不憫に思い、簡単に脱皮が出来る様にと施された術であると聞いております」
いや、だからなんでファスナー。
「賢者もまた、人にあらずと言われ、ある日どこからともなく現れたと記されております。案外、賢者はサオリ様と同じ世界からいらっしゃったのかもしれませんね」
「地球から…………」
そんな事があるのだろうか。かつて私と同じ世界から来た人間が、王子の背中にファスナーを………。 まさか、そんな。
私は扇を閉じて震える声で宰相に尋ねた。
「その賢者の名前は?」
「セキ・シンイチ様とおっしゃられたとか」
真一、殺す!
「もうお亡くなりです」
「あんたは人の頭の中が読めるの!?」
「お顔を拝見すれば、邪悪なお考えをなさっていることぐらい分かります」
言うに事欠いて邪悪とは随分ないい様じゃないか。
王家の人間が人間じゃないのも、脱皮が大変なのも分かったよ。だからって、何でファスナーをつけるかな!? もっと他の方法はなかったのか、信一!
「何故、今になって私にそんな話を? ずっとファスナーのことで悩んでいたのは知っていたんでしょう?」
「先ほども申しましたように、貴方様が、この国に無くてはならぬお方と判断したからにございます」
神殿よりサオリ様をお助けしたのは、神官共にいらぬ力を持たせぬため。城内で過ごされる様になられましたばかりの頃は、とるに足らぬ小娘と思うておりましたが、いやはや、私としたことがとんだ見込み違いを致したものです。今や、兵士達は月に一度のご夫人方との邂逅を、サオリ日と申すようになりまして、貴方様の人気は鰻上りでございます。下働きの者たちもしかり。怪我をした子供を優しく助け起こした女性が、殿下の御婚約者と知った城下の街の者もまた。さらに心無い貴族どもは、貴方様を恐れ、反対に忠臣は貴方様を慕っております。
淡々と語られる話に眩暈がした。サオリ日って何よ。私はバレンタインか!
しかも、ああそう、私を神殿から出してくれたのは善意じゃなくて、そんな裏があったのね。あんたみたいな悪人面が、善意で人助けなんておかしいと思ったのよ。
で、今になって、使えるから懐に入れようってか?
ご冗談。私は楽しく楽して生きたいの!
そりゃあ、テオの事は愛してるよ。彼の地位と、財産と、何より顔を。
でも、脱皮って……脱皮って……。
テオ(地位・財産・顔)と脱皮を量りにかけてみたけれど、どちらにも傾かない。
「テオの脱皮はあと何回?」
「テオ様は現在22歳ですから、あと1回で終わりかと存じます」
一度の脱皮と、この先の生活。じりじりとテオに心が傾きかけた時だった。
「ただ、前回の脱皮からあわせまして5年分、一度にご成長遊ばされますので、少々容姿は変わるやもしれませんね」
ね。って、ね。って、私は彼のあの顔を愛しているんですけど!
「脱皮して出てきたら、ケツアゴだったり、毛むくじゃらのオヤジになってたりするわけ?」
「可能性がないとはいいきれません」
くそー、こうなったら政権奪って後宮(男バージョン)でも作ってやろうかしら。
「ああ、そうそう、大事な話を忘れておりました。現在この国が他国からの侵略に怯えなくてよいのは、神の使いたる、王やテオ様がいらっしゃるからです。他国も人ならざるテオ様方の存在に畏れ抱いて国境を侵すことはありませんが、テオ様方がいなくなるとするとわが国の兵力ではとてもとても………努々物騒なお考えはもたれませぬな」
だから、あんたは人の思考を読むのをやめろ。
「驕る者久しからず、と申します。このさき王妃として豊かな暮らしをお望みであれば、今まで通りお励み下さりませ」
飼い殺し。そんな言葉が頭を巡った。わなわなと震える私に、深々と頭を下げると、扉に向かった宰相は、ふと足とをめて、「それから」と振り返った。
「私は若白髪ではございません。サオリ様の世界では有り得ない色味かもしれませんが、産まれた時よりこの色でございます」
うるさい。さっさとはげちまえ!
私は扇をヴェルンスに向かって投げつけた。
宰相は涼しい顔でドアを少し閉め、飛んでくる扇から身を護ると、また頭を下げて部屋を出て行った。
これから後数十年を、私は宰相ヴェルンスの鼻を明かすのを生きがいに、それなりに充実した日々を過ごす事になるのだが、それはまた別の話………。