爪の中の石-間宮響子-
最初に異変に気づくのは、大抵のところ鏡だ。
それは、間宮響子が長年の経験から培い学んできたことだった。
得体のしれぬもの――霊というものは、窓や暗闇より先に、必ず“自分を見る場所”へ現れる。
だから相談者の家へ行くと、彼女は最初に洗面所を見る。
鏡。
排水口。
髪の毛。
湿気。
そして――アクセサリー置き場。
その日、依頼人の女性は指輪を外せなくなっていた。
「もう、切断するしかないって病院でも……」
女性の名前は高瀬理香、年齢は三十五歳。
都内のマンションに住む独身の会社員。
顔色は異様に悪く毒でも煽って来たかのようなどす黒い血色の肌をしていた。そして、理香の右手の薬指だけが、不自然なほど赤黒く腫れていた。
問題の指輪は、女性の小指の爪ほどの大きさの小さな緑色の宝石が埋め込まれている。
それは翡翠にも見える。
見方によってはエメラルドにも見える。
だが、光がどこか濁っていた。
まるで水死体の眼球みたいに。
響子は見た瞬間、咄嗟に視線を逸らした。
理由は簡単だった。
石が――見返してきた。
「これは――中古の品ですか?」
響子が聞くと、理香はうなずいた。
「アンティークショップで……。お手頃な価格で――安かったんです……」
「どちらで購入されたの?」
「代官山の……小さい店」
「そのお店の店名は?」
「……お、覚えてません……」
少し妙だった。
普通、買った店くらい覚えている。
響子は静かに煙草を消した。
「買ったあと、何か変わった?」
理香はしばらく黙った。
それから震える声で言った。
「つ、爪が……伸びるんです」
「爪?」
「はい……爪です。異常に……」
右手だけ。
特に薬指。
一晩で数ミリ。
しかも、奇妙なことに。
爪を切ると――中から硬い音がする。
カチ、と。
まるで石を叩くような。
響子は何も言わなかった。
ただ、胸の奥で底知れぬ嫌な予感だけが息を吸い込むごとに膨らんでいった。
こういう話には“核”がある。
表面の怪異ではない。
もっと――深いところに。
見たくない原因が。
夜。
響子は依頼人である理香の部屋に泊まり込み調査を始めた。
午前一時を回った頃。
洗面所から音がした。
――パチン。
爪切りの音だった。
理香は規則的な寝息をたててぐっすりと寝ている。
響子は冷たいフローリングの廊下を静かに歩く。
湿った冷気。
なぜか甘い匂いがした。
腐った花の匂い。
洗面所の電気は消えている。
だが。
鏡だけが、ぼんやり明るかった。
そこにいた。
それは女性の姿だった。
黒髪。
異様に痩せている。
俯いている。
顔は見えない。
だが指だけが異常だった。
長い。
細い。
そして爪が――宝石だった。
爪そのものが、半透明の鉱石で形成されている。
赤。
青。
緑。
紫。
光を飲み込むように鈍く濡れている。
女性は静かに爪を切っていた。
パチン。
落ちた爪は、床で転がり――
小さな宝石になった。
女が言った。
「返して……」
響子は動かなかった。
「わたしの、指を……返して……」
鏡が揺れた。
女性がゆっくり顔を上げる。
その瞬間。
響子は理解した。
顔がなかった。
皮膚が剥がれ、肉の代わりに。
無数の宝石が埋め込まれていた。
眼窩に黒曜石。
歯に真珠。
頬にルビー。
額に割れたオパール。
そして唇の裂け目から――
砕けた指輪が覗いていた。
「あなたも……欲しいでしょう?」
鏡の向こうから。
女が微笑んだ。
「綺麗になれる」
次の瞬間。
洗面所の床一面に。
無数の指輪が転がった。
音もなく。
増えていく。
増えていく。
増えていく。
まるで虫の卵みたいに。
翌朝。
理香の右手薬指は、黒く変色していた。
医師は壊死だと言った。
だが違った。
響子にはわかっていた。
あれは――石化だ。
指の内部から。
人間ではない何かに変わっている。
そして理香が眠っている間。
響子は見てしまった。
理香の切った爪の断面を。
そこには爪ではなく。
透明な結晶があった。
しかも。
内部に小さな気泡のようなものが蠢いていた。
まるで。
誰かが呼吸しているように。
調査で判明した事実は、さらに最悪だった。
その指輪は昭和初期、北海道の炭鉱町で見つかったものだった。
ある宝石職人が、妻の遺体を砕いた骨と歯を宝石加工してアクセサリーにした。
愛ゆえに。
永遠に一緒にいるため。
だが妻は、生前。
夫に殺されていた。
逃げられないように指を砕かれ。
装飾品に変えられ。
身体を少しずつ“石”にされた。
遺品は市場に流れ。
所有者が変わるたび。
同じ現象が起きた。
爪。
指。
装飾。
石化。
そして最後に。
身体が宝石箱になる。
理香は一週間後、消えた。
部屋だけが残った。
警察は失踪扱いとした。
だが響子は知っている。
洗面所の排水口から。
毎晩、小さな石が出てきた。
誰もいないのに。
カラン。
カラン。
と。
音を立てて。
最後に見つかったのは。
小さな緑色の指輪だった。
サイズが妙に小さい。
女性用にしては細すぎる。
まるで。
誰かの――薬指そのものみたいに。
この話には後日談がある。
響子は、それ以来。
初対面の人間を見ると、無意識に手元を見てしまう。
指輪。
ピアス。
ネックレス。
中古品。
アンティーク。
フリマ。
遺品整理。
そういう言葉を聞くたび。
胸の奥が冷える。
なぜなら。
呪物は呪われた顔をしていない。
綺麗なのだ。
異常なほど。
だから人は身につける。
そして、気づく。
ある夜。
爪を切ったとき。
――カチ。
と。
少しだけ。
硬い音がしたことに。
たとえば今。
あなたの指輪。
ネックレス。
ピアス。
あるいは昔、誰かにもらった石。
引き出しの奥に眠るアクセサリー。
もし今夜、外した場所が少し違っていたら。
捨てたはずなのに戻っていたら。
鏡の前で。
ほんの少し。
光り方が濁って見えたなら。
もう一度だけ確認したほうがいい。
石の中に。
何かが、瞬きしていないか。
―(完)―




