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作者: レモン
掲載日:2025/11/16


---



冬の夜は、異様に静かだった。

暖房の唸り声だけが部屋を震わせ、外の風の音はかすかに窓の向こうでこだまする。


「兄ちゃん、俺、人殺しちゃった」


湊の声は、氷すら溶かさない冷たさで響いた。

俺はリモコンを落とした。

床に響く乾いた音が、世界の秩序を破壊するようだった。


数秒間、部屋は音を失った。

暖房の音も、俺の呼吸も、何もかもが止まったようだった。


胸の奥が凍る。喉が鉄線で締め付けられたようだ。

湊の手首の血痕は黒く乾き、誰かの終わりを告げていた。


「どうしてだよ」


問いの意味すら理解できない。理由なんて無意味なのに。


湊は首をかしげ、淡々と答える。

「たぶん、俺の中で何かが壊れたんだと思う」


笑顔は泣きも怒りもなく、ただ説明を終えた人間の顔。

不自然で、美しいほど静かに歪んでいた。


俺は何も言えず、視線だけが床の染みを追った。

吐き気と寒気が同時に押し寄せ、椅子に座ったまま体が固まる。


「兄ちゃん……俺、多分、止まれない」


その言葉に、世界の色が一瞬で灰色に変わった。

呼吸が滞り、時間が遅くなる。

俺は震える手を握りしめ、何をどうすればいいのか分からなかった。


---




玄関の床に広がった黒いシミは、どれほど擦っても消えない。

湿った土と鉄の匂いが、鼻を突き、吐き気を伴う。


「兄ちゃん、無理しなくていいよ。これは消えない」


その言葉の重さは血よりも冷たく、胸を押し潰す。


「死体は、生きてる人より軽い」

「骨は押しただけで折れる、“ぱきっ”って。気持ち悪いくらい綺麗な音」

「冷たくなる途中の温かさ……命の余韻だよ」


壊れていない。もっと悪い。

壊れる過程を味わっている目。

俺はただ床の血の色を見つめるしかなかった。


夜明け前の道路、霧が立ち込める。

湊は軽やかに歩き、靴底の血が罪の破片となってアスファルトに落ちる。


「兄ちゃん、どこ行くの?」

「……とりあえず、ここから離れる」


胸の奥が焼け、心が沈む。

湊の足取りは罪を脱ぎ捨てた者の軽さ。

その無邪気な笑顔が闇に浮かび、現実を歪める。


「兄ちゃんってさ……俺がいると怖いのに安心するんでしょ?」


図星を刺され、息が止まった。

闇の中で異様に明るい湊の顔。

壊れている。しかし、その壊れ方は美しく、残酷だった。


霧の向こうの街灯が歪み、建物がぐにゃりと曲がる。

湊の存在によって、現実が崩れ始めたことを俺は感じていた。


---




古びたモーテル。壁紙は剥がれ、蛍光灯はチカチカと光る。

人影はなく、湿った空気だけが息を詰まらせる。


「兄ちゃん、散歩してくる」


嫌な予感が背骨を走る。

止めるべきだと分かっていたが、言葉を飲み込む。

止めれば湊の中の何かが爆ぜる――。


数分後、扉がノックされ、湊は血まみれで戻った。


「兄ちゃん……またやっちゃった」


笑いも泣きもなく、罪の報告だけ。

「兄ちゃんがいなかったら、俺の中が空っぽ」

「空っぽが痛いんだ」


倫理も正しさも揺らぎ始め、俺は赤く染まった床を見つめるしかなかった。


湊の手についた血を洗う。

冷たい水が赤に染まり、床に流れる。

その色の美しさに、俺はぞっとした。


「兄ちゃん、誰かを殺しても、俺のこと好き?」

否定すれば壊れる。肯定すればさらに堕ちる。

答えは小さく、歪んだ愛の確認。


「……嫌いになれないよ」


湊は安心し、さらに俺に依存する。

兄弟の歪みは深く絡み、もう戻れない。


---



「兄ちゃん……俺、小さい頃から胸が寒かった」


手を胸に当て、目を閉じる湊。

「抱きしめられても届かない。人の温もりじゃ、何も変わらなかった」


そして吐き捨てる。

「でも、ひとつだけ温かくなる瞬間があった。苦しめた奴が痛がった時だ」


空気が止まる。痛みで得た快感――幼い湊の心に刻まれた歪み。

「殴られるより、殴った時のほうが温かかった」


「兄ちゃん、俺ね……兄ちゃんのためなら殺せるよ」


倫理は消え、残るは依存と恐怖だけ。

夜空には星もなく、霧が街を溶かしている。


---



夜霧が濃く、ぬかるみに足を取られる山道。

湊は犬のように震え、声を小さく絞り出す。


「兄ちゃん、捕まるの嫌だな」

「……怖いのか?」

「死んでもいい。でも、離れるのは嫌」


俺は答えた。「……分かった」


霧は足跡を呑み込み、夜の森は死体の匂いに似た土の匂いで満ちていた。

沈黙が、夜を、俺たちを飲み込む。


---



管理小屋、冷たい風が吹き抜け、穴だらけの壁。

湊は毛布にくるまり、静かに告げる。


「兄ちゃんがいなかったら、俺、また殺す」


依存が依存を呼ぶ歪み。夜は永遠に長く、俺たちを包み込む。

湊の目は真っ黒に染まり、光すら吸い込む。


夜明け、外で足音。

扉が破られ、警察の光が全てを白く染める。

胸元から刃物を抜いた湊は、自らの喉に突き立てた。


血が噴き出し、湊は俺の腕で崩れる。

最後の言葉。


「兄ちゃん……もう……こわくないよ……」


世界は沈黙。

救いも希望も正しさもゼロ。

俺は最愛の弟の死体を抱え、完全に終わった。


夜霧と血の匂いだけが、俺たちの沈没を証明していた。



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