罪
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冬の夜は、異様に静かだった。
暖房の唸り声だけが部屋を震わせ、外の風の音はかすかに窓の向こうでこだまする。
「兄ちゃん、俺、人殺しちゃった」
湊の声は、氷すら溶かさない冷たさで響いた。
俺はリモコンを落とした。
床に響く乾いた音が、世界の秩序を破壊するようだった。
数秒間、部屋は音を失った。
暖房の音も、俺の呼吸も、何もかもが止まったようだった。
胸の奥が凍る。喉が鉄線で締め付けられたようだ。
湊の手首の血痕は黒く乾き、誰かの終わりを告げていた。
「どうしてだよ」
問いの意味すら理解できない。理由なんて無意味なのに。
湊は首をかしげ、淡々と答える。
「たぶん、俺の中で何かが壊れたんだと思う」
笑顔は泣きも怒りもなく、ただ説明を終えた人間の顔。
不自然で、美しいほど静かに歪んでいた。
俺は何も言えず、視線だけが床の染みを追った。
吐き気と寒気が同時に押し寄せ、椅子に座ったまま体が固まる。
「兄ちゃん……俺、多分、止まれない」
その言葉に、世界の色が一瞬で灰色に変わった。
呼吸が滞り、時間が遅くなる。
俺は震える手を握りしめ、何をどうすればいいのか分からなかった。
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玄関の床に広がった黒いシミは、どれほど擦っても消えない。
湿った土と鉄の匂いが、鼻を突き、吐き気を伴う。
「兄ちゃん、無理しなくていいよ。これは消えない」
その言葉の重さは血よりも冷たく、胸を押し潰す。
「死体は、生きてる人より軽い」
「骨は押しただけで折れる、“ぱきっ”って。気持ち悪いくらい綺麗な音」
「冷たくなる途中の温かさ……命の余韻だよ」
壊れていない。もっと悪い。
壊れる過程を味わっている目。
俺はただ床の血の色を見つめるしかなかった。
夜明け前の道路、霧が立ち込める。
湊は軽やかに歩き、靴底の血が罪の破片となってアスファルトに落ちる。
「兄ちゃん、どこ行くの?」
「……とりあえず、ここから離れる」
胸の奥が焼け、心が沈む。
湊の足取りは罪を脱ぎ捨てた者の軽さ。
その無邪気な笑顔が闇に浮かび、現実を歪める。
「兄ちゃんってさ……俺がいると怖いのに安心するんでしょ?」
図星を刺され、息が止まった。
闇の中で異様に明るい湊の顔。
壊れている。しかし、その壊れ方は美しく、残酷だった。
霧の向こうの街灯が歪み、建物がぐにゃりと曲がる。
湊の存在によって、現実が崩れ始めたことを俺は感じていた。
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古びたモーテル。壁紙は剥がれ、蛍光灯はチカチカと光る。
人影はなく、湿った空気だけが息を詰まらせる。
「兄ちゃん、散歩してくる」
嫌な予感が背骨を走る。
止めるべきだと分かっていたが、言葉を飲み込む。
止めれば湊の中の何かが爆ぜる――。
数分後、扉がノックされ、湊は血まみれで戻った。
「兄ちゃん……またやっちゃった」
笑いも泣きもなく、罪の報告だけ。
「兄ちゃんがいなかったら、俺の中が空っぽ」
「空っぽが痛いんだ」
倫理も正しさも揺らぎ始め、俺は赤く染まった床を見つめるしかなかった。
湊の手についた血を洗う。
冷たい水が赤に染まり、床に流れる。
その色の美しさに、俺はぞっとした。
「兄ちゃん、誰かを殺しても、俺のこと好き?」
否定すれば壊れる。肯定すればさらに堕ちる。
答えは小さく、歪んだ愛の確認。
「……嫌いになれないよ」
湊は安心し、さらに俺に依存する。
兄弟の歪みは深く絡み、もう戻れない。
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「兄ちゃん……俺、小さい頃から胸が寒かった」
手を胸に当て、目を閉じる湊。
「抱きしめられても届かない。人の温もりじゃ、何も変わらなかった」
そして吐き捨てる。
「でも、ひとつだけ温かくなる瞬間があった。苦しめた奴が痛がった時だ」
空気が止まる。痛みで得た快感――幼い湊の心に刻まれた歪み。
「殴られるより、殴った時のほうが温かかった」
「兄ちゃん、俺ね……兄ちゃんのためなら殺せるよ」
倫理は消え、残るは依存と恐怖だけ。
夜空には星もなく、霧が街を溶かしている。
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夜霧が濃く、ぬかるみに足を取られる山道。
湊は犬のように震え、声を小さく絞り出す。
「兄ちゃん、捕まるの嫌だな」
「……怖いのか?」
「死んでもいい。でも、離れるのは嫌」
俺は答えた。「……分かった」
霧は足跡を呑み込み、夜の森は死体の匂いに似た土の匂いで満ちていた。
沈黙が、夜を、俺たちを飲み込む。
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管理小屋、冷たい風が吹き抜け、穴だらけの壁。
湊は毛布にくるまり、静かに告げる。
「兄ちゃんがいなかったら、俺、また殺す」
依存が依存を呼ぶ歪み。夜は永遠に長く、俺たちを包み込む。
湊の目は真っ黒に染まり、光すら吸い込む。
夜明け、外で足音。
扉が破られ、警察の光が全てを白く染める。
胸元から刃物を抜いた湊は、自らの喉に突き立てた。
血が噴き出し、湊は俺の腕で崩れる。
最後の言葉。
「兄ちゃん……もう……こわくないよ……」
世界は沈黙。
救いも希望も正しさもゼロ。
俺は最愛の弟の死体を抱え、完全に終わった。
夜霧と血の匂いだけが、俺たちの沈没を証明していた。




