私の番
夕暮れ時のラッシュアワー、電車内は湿った空気と人々の熱気に満ちていた。人波に押し流されるように座った桃香の隣の席に、一人の若い女性が座っていた。華奢で、どこか儚げな印象の女性だった。
突然、その女性が激しく咳き込み始めた。まるで肺の奥底から何かを振り絞り出すような、ひどい咳だ。
桃香は思わず身を乗り出した。心配そうな眼差しで彼女を見つめる。
「大丈夫ですか?」
声をかけ、思わずその激しく震える背中に手を伸ばし、そっとさすった。汗ばんだ背中は、ひどく熱を持っていた。
すると、若い女は咳の合間に、桃香にだけ聞こえるほどの小さな声で囁いた。
「ごめんね。でも、そのうち、あなたの番になるよ」
その瞬間、彼女の顔が、明かりの加減か、一瞬にして深い影に覆われた。濁った眼差しが桃香の瞳を射抜く。まるで、これから起こる悲劇の目撃者のように。桃香はハッと手を引っ込めた。全身に悪寒が走る。次の駅に着くと同時に、女は一言も発さずに人ごみへと消えていった。
アパートの自室で桃香は一人、テレビを見ていた。チャンネルはいつもの刑事ドラマだ。物語は佳境に入り、犯人と刑事が薄暗い倉庫で激しく揉み合っている。緊迫したシーン。次の瞬間、鈍い音と共に、犯人の持つナイフが刑事の腹部に深く突き刺さった。
その瞬間、ブラウン管の画面が「ジジジッ」という耳障りな音を立てて激しくチラつき始めた。まるで古いフィルムが焼き付いたかのように、映像が乱れ、色がおかしくなる。
「んっ、テレビ壊れた?」
桃香がリモコンを探そうとした、その時。テレビのチラつきがピタリと収まった。画面には、口から鮮血を流す刑事の顔が、顔面の皺まで見えるほどのアップで映し出されている。周囲の背景は完全に消え去り、映っているのは血塗られた顔だけ。
すると刑事は、カッと目を見開いたかと思うと、画面の向こう側から桃香を射抜くような視線を、真っ直ぐに執拗に見据えた。
その口元が、わずかに動いた。血に濡れた唇から紡がれた言葉は、ドラマの台詞ではなかった。
「残念だけど、やがてお前の番だ」
桃香は悲鳴を飲み込み、反射的にリモコンを掴んでテレビを消した。部屋に広がる、深い静寂。胸の鼓動だけが、耳の奥でドクドクと不気味に響いていた。
桃香は自宅のマンションのベランダに出た。眼下には、オレンジ色と紫色のグラデーションに染まる、夕焼けの街並みが広がっている。季節は秋から冬へと移り変わる頃。空気はヒリヒリと冷たく、何とも言えない寂寥感に襲われる。
(そろそろ部屋に入ろう)
そう思ったとき、視界の隅で何かが動いた。一羽の鳩が、マンションの前に立つ古びた電柱の先端に、ふらふらと降り立ったのだ。その鳩は異様だった。羽はボロボロで、尾羽も不揃い。体全体が泥に汚れ、まるで長い旅の末、命からがら辿り着いた亡霊のようだった。
鳩は弱々しく震えていたが、やがて、その小さな顔をゆっくりと桃香の方へと向けた。
ビー玉のように真っ黒な目が、遥か上のベランダにいる桃香を、まるで人を見るかのように、じっと見つめている気がした。
「気持ち悪い…」
その瞬間、鳩がわずかに嘴を開いた。普通の鳴き声ではない。まるで人間の喉から絞り出されたような、甲高い声が、冷たい風に乗ってベランダまで届いた。
「しょうがないだろ、いつかはあんたの番になるのさ」
桃香は恐怖でベランダのガラス戸を乱暴に閉めた逃げるように室内に入った。鳩の目は、ただの鳥の目ではなかった。そこには、逃れられない運命を知っている者の、冷酷な嘲笑が宿っていた。
休日、桃香は友人の麻美と、街で最も高層なホテルにある最上階のラウンジで優雅にお茶をしていた。煌めく景色と、心地よいジャズ。束の間の安らぎを感じていた、その時だ。
『ウーッ、ウーッ、ウーッ』
突然、けたたましい非常ベルの音が鳴り響いた。
続いてすぐに、ホテルのアナウンスが響く。「ホテル内で火災が発生しています。エレベーターは使用できません。これより従業員が誘導いたしますので、非常階段を降りて避難してください。慌てず騒がずにお願いします」
桃香と麻美は顔を見合わせ、急いで非常階段へと向かう。
階段を降り始めたが、途中まで降りたところで、階下から濛々たる黒煙が激しく立ち上ってきた。思わず咳き込む。
「火の回りが早いようです。このまま非常階段を降りるのは危険です。近くのフロアに退避します」
誘導していた制服姿のホテルの従業員が叫んだ。促されて出たフロアは、客室が並ぶ閑散とした廊下だった。このフロアの人々は既に避難したのだろう。がらんとしていて、人の気配は全く感じられない。
「こちらです。火が出ている場所とは反対側の客室に一旦避難しましょう」
従業員の誘導に従って廊下を進もうとした、そのとき。桃香はふと、麻美がいないことに気づいた。いや、麻美だけではない。避難するために階段を一緒に降りていたはずの他の客の姿も、誰一人として見当たらない。
今のこの廊下にいるのは、私と、先を歩くこの従業員の二人だけだ。
「どういうこと…?」
戸惑いに足が止まった桃香に、先を歩いていた従業員が、ゆったりとした動作で振り返った。その顔には、先程までの焦りの色はなく、すべてを悟ったような笑みが浮かんでいた。
「言った筈です。…必ずお客様の番が来ると」
その言葉と同時に、従業員の瞳が、黒い闇のように深く広がる。彼は手をゆっくりと上げ、その指先が、桃香の額を、まるで的を射るかのように、真っ直ぐに指し示した。ドアの隙間からは濛々と黒煙が部屋の中に入り込んできていた。
ハッと息を吐き、桃香は目覚めた。辺りはまだ暗く、時計を見ると深夜2時を少し過ぎたところだった。冷や汗で濡れた寝間着のまま、桃香はベッドから体を起こすと、がっくりと項垂れた。
ベッドから力なく立ち上がり、ふらつく足取りでキッチンへと向かう。冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し、コップに注ぎ、一気に飲み干す。渇いた喉に冷たい水が染み渡る。
トイレをしてもう一度寝よう。そう思ったとき、ふとした違和感が桃香の足を止めた。
ユニットバスの扉が、いつもはしっかり閉まっているはずなのに、わずかに開いている。闇の中から、何かがこちらを覗いているような気がした。
桃香は恐る恐る手を伸ばし、扉を押し開ける。そして、躊躇うことなく電気のスイッチを押した。パッと明かりに照らされたユニットバスの中は、いつもと変わったところはなかった。
「気のせいか…」
そう安堵した瞬間、背後から、ガッと肩を強く掴まれた。
腐敗したような臭いが鼻腔を突き、耳元に荒い息遣いが吹きかけられる。
振り向くと、頬が深く痩せこけ、無精髭を生やし、髪がボサボサの年老いた男が、粘つくような笑みを浮かべて桃香を見上げていた。桃香を見つめるその男の目は、狂喜に満ちていた。男は手に持ったナイフを桃香の顔に近づけた。
「待たせたな。…あと少しでお前の番だ」
男は、桃香の足元から頭の先まで舐めるように見ると下卑た笑い声を出した。
東京に上京し、大学に入学したのが8年前。初めてこの夢――いや、この奇妙な出来事を体験し始めたのも、その頃だった。
それから幾度、この夢を見たことだろう。
最初は、訳が分からず、ただただ恐怖に怯えていた。自分の番が来たら、一体何が起こるのか。それを考えると恐ろしかった。
しかし、何年もそのようなことが続き、一向に自分の「番」が回ってこないことに、桃香は次第に焦燥を感じ始めた。いつしか、桃香の中では恐怖より、この不確実な日常からの脱却を求める待ち遠しさが上回るようになっていた。
だから、あの年老いた男の言葉を聞いて目覚めた瞬間に、桃香は歓喜に震えた。そこには恐怖はもうほとんどなかった。あるのは、長きにわたる順番待ちからの解放感だった。
「遂に、私の番が来る」
何が起こるのか。漠然とした少しの不安と、そして大きな期待が混ざった激しい胸の高鳴りの中で、桃香は恍惚の表情を浮かべた。その顔は、まるで永遠の愛を約束された花嫁のように、美しく輝いていた。
午後の柔らかな日差しを浴びて、桃香は公園のベンチに座り、キャッチボールをして遊ぶ子供たちの嬌声を聞いていた。
冬の冷たい風が吹くたびに、身体から体温が奪われるような気がする。
そろそろ家に帰ろうとベンチから立ち上がった桃香の足元に、ボールが転がってきた。
ボールを追いかけ走って近づいてきた男の子が、桃香の前に立ち止まると、顔を上げ桃香を見つめた。男の子と視線が合うと、男の子は口を歪め笑った。
「ついに、次がお姉ちゃんの番だよ」
桃香は足元に転がるボールを拾って男の子に差し出すと、嬉しそうに微笑んで、そして静かに深く頷いた。




