第5章:母の祈り ――名前を呼ぶ声は、祈りのかたち。
母という存在は、強くて、そして脆い。
誰かを守ろうと、笑いながらも泣いている。
その祈りは誰にも見えないけれど、星の光に似ている。
私はユリの祈りを覚えている。
彼女は、誰にも言えない疲れを抱え、
台所の隅で誰にも見せない涙を流していた。
ユリは幼い子どもを育てていた。
夫は仕事で遅く、家事も育児もすべて彼女の肩にのしかかる。
子どもは理由もなく泣き続け、部屋は散らかり、洗い物は溜まる。
時間だけが容赦なく過ぎていった。
彼女は、少しずつ“自分”を失っていた。
「こんなはずじゃなかったのに…」
ユリは、誰にも聞かれぬよう、洗濯物を干しながらつぶやいた。
その声は空に溶けていった。
しかし、アオトは聞いていた。
アオトは庭の隅に立っていた。
ユリの背中に見えたのは、疲労と痛み。
それは、誰かを守ろうとする人の影だった。
彼はポシェットから星を取り出した。
それは、柔らかな金色の光。
あたたかく、でも少し切ない灯り。
「これ、渡したいんです」
アオトの声は風のように静かだった。
ユリは驚いた。
だが、星を見つめるうちに、胸の奥が少しずつほどけていくのを感じた。
「どうして、私に?」
アオトは少し笑った。
「誰かを守る人ほど、自分のことを忘れてしまうから」
ユリは星を受け取った。
その瞬間、涙がこぼれた。
しかし、それは悲しみの涙ではなく、
祈りが形になったかのような涙だった。
ユリは星を胸に抱いたまま、ふとつぶやいた。
「……アオト」
なぜかその名前が自然と口をついて出た。
その声に、アオトの記憶が揺れた。
川辺の家。
夕暮れの匂い。
母が、父が、名前を呼んでくれた日々。
「アオト、ごはんだよ」
「アオト、寒くないかい?」
「アオト……ありがとう」
その声はユリの声と重なり、
アオトの胸の奥で残り少ない星たちが懐かしさに震えた。
甲羅の色はまた少し薄くなっていた。
…少し息苦しい。
私は母の祈りを知っている。
それは誰かのために灯す光。
時に、その光は自分を焼き尽くす。
だからこそ、星が必要なのだ。
誰かの夜に、そっと灯すために。
ユリは星を受け取り、久しぶりにほんとうの笑顔を浮かべた。
それは、子どもに見せる作り笑いではなく、
自分自身のために浮かべた笑顔だった。
アオトはまた一つ星を渡し、
少しだけ空に近づいた。
――母の祈りは、どこへ続くのだろうか。