37 研究所の長い一日_10
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「そうか、山岡、……ならば訊ねるが、『突然変異』とは一体何だね? まさか鳥類から哺乳類に感染する機序を、意図的に発生させたりしようとは、……していないよな?」
晴子の主任教授が不審そうな表情を浮かべてそう訊ねると、相手はニヤリと笑った。
「いいや、そのまさかだ。ウチの研究室に、こちらの御仁から依頼があってな。今、我々の研究室スタッフ総出で、その研究を急ピッチで進めているところでな!」
晴子は、二人の教授の会話から、何かどす黒い、……不吉なものを感じ取った。
こんなのって、おかしいよっ!!
世の中を良くするための研究をすることが、私達学者が社会から認められた、唯一絶対の使命じゃなかったの!?
その与えられた使命を裏切り、社会に仇なす行為をすることは、私達科学を究めんとする学徒にとって、まさに信義則に反するものなんじゃないの!?
それは、薬学、生物学を情熱と誠実さの二本刀で探求し続けてきた身として、まさに「裏切り行為」そのもののように、晴子の眼に映ったのだ。
「山岡、……感染症研究最前線のオマエが、わざわざ我々の研究室に用事があったのは、一体何故か、……そろそろ話してくれてもいいのではないか?」
「そうだなぁ、……オレとオマエの仲だ。ざっくばらんに話させて貰うよ。実はな、ウチの研究室では、インフルエンザウイルスの『突然変異』を調べている過程で、ウイルスの毒性を強化させることに成功しているのさ!」
「何だって? H5N1亜型の高病原性鳥インフルエンザウイルスが、ヒトに直接感染することは、そもそも稀だったはずなのだが、……。なのに、オマエはその毒性を増すことに成功しているとでも言うのか?」
「あぁ。鳥から哺乳類、哺乳類からヒトへの感染、及びヒトからヒトへの飛沫伝播を通して、その半数どころか全体の9割を死滅させることも可能だよ!」
不敵そうにニヤリと笑う山岡教授を、晴子と主任教授は呆然と見つめた。
この男は、地位と名声と自身の研究の絶対性を上げるためだけに、駆逐されたはずの破落戸達と同じ轍を踏んだのだと晴子は思った。
そして、……晴子は、おもむろにこう訊ねていた。
「山岡教授は、もしかするとウチで現在開発中の薬剤『アイウィルメクチン』こそ、その唯一無二の解毒薬になるとお考えなのでしょうか?」
晴子の言葉を聞いた山岡教授とアルメリアの大富豪は、その場で互いに顔を見合わせると、ニコリと満面の笑みを浮かべた。
すると、先ほどまでずっと黙っていた富豪の男が、晴子の顔をじっと見て、突然その手を握ってきた。
「!?」
晴子は、その瞳の色に、汗ばんだ手の温もりに、……一瞬我を忘れてしまった。
おそるおそる自分の手に目を落とすと、小刻みにか細く震えている。
「そうなんだ。毒だけ作ってその解毒薬がなくては、用意した者まで汚染されてしまうからね! 聖徳晴子女史、……キミの研究は、我々新世代の人類にとって、大いなる前進をもたらすことができると、大いに期待しているのだよ!」
何だろう、この男。かなり、……気持ちが悪い。
「たぶん、……もう人間を辞めてしまったのかも、この男!」と晴子は思った。




