祐飛と亜美
壮士は幼稚園の建物上部に掛かっている時計を確認した。時計はおおよそ8:50を指している。正式な集合時間である9時まではあとわずかであり、壮士は最終確認をすることにした。班員は全員揃っている。菫が輪から離れて本を読んでいるのもいつものことである。中途半端に時間が余っているので壮士は昨日配布されているお別れ遠足のパンフレットを見直すことにしようとしたが、そのとき壮士はまた声をかけられた。
「やあ、壮士。『プレ』の子たちとはもう仲良くなったかい?」
声の主は年長組の男子である友成祐飛である。祐飛も年長の中ではしっかりしている方で、こういう時はすでに下級生たちを引率して中庭に誘導し終えているタイプである。壮士が普段最も仲良くしているのが祐飛であり、やや冒険的で多少の無理や規則破りを厭わない祐飛は、どちらかといえば慎重な壮士にとってはやや憧れの存在でもあり、また壮士自身も自分の無謀を止めてくれる人として祐飛に信頼されている。以前の縦割り班でのイベントのときも壮士と祐飛は機会があれば話し合って、互いの班の課題を解決してきた。
「とりあえず二人ともと話ができたよ。どちらも良い子だと思うのだけど。ほら、あそこで文弥たちと話しているのが『プレ』の二人さ」
「……それはよかった」
ここで壮士は祐飛の異変に気づいた。いつもの祐飛なら、ここで間髪入れずペラペラと自分の班の今朝の様子がどうなっていたかを説明するものである。だが、祐飛は浮かない顔で、自分の後ろにいるであろう班員たちに対して目をそらそうとしているようにも見える。
「……で、祐飛の班はどんな感じだ?」
何も言わないわけにはいかないので壮士は質問したが、祐飛はやはりやや戸惑ったような顔である。
「……あれを見てほしい。俺はどうすればいいのかわからないんだ」
壮士は祐飛がやっと振り向いて右腕を広げた方向を見たが、壮士もそこで目を見開くことになった。
「あれは……車椅子、なのか!?」
「どうもそうらしい。あの子は俺の班の『プレ』の子で——瀬川亜美というそうだが——生まれつき足が悪いらしい。『私の腰より下は動かないと思ってください』と言っていたんだ」
「ははぁ……」
壮士は祐飛の様子がおかしかった理由にやっと納得した。壮士も世の中には壮士たちが当たり前のように可能である『自由に足を動かし、歩き、走る』ということが難しい人たちがいることはなんとなく理解していたが、まさかそれが急に自分の前に現れてくるとは思っていなかった。そして壮士はこの年頃の子どもたち、もしくは祐飛が確実に気にすることに合点がいった。
「なるほど、そうすると……祐飛は自由時間にいつものようにみんなで鬼ごっこでもするわけにはいかないということか」
「そういうことだ。でも、もしあの亜美ちゃんでもできる遊びを考えるとしてそれはみんなが納得するのか?」
「あー、そこが難しいわけか。他の子たちは外でパーッと遊びたいだろうし」
壮士はなかば祐飛に同情し始めていた。もし壮士自身が亜美のような子と一緒になったとして、どう対応すればいいのだろうか? 足が悪い子が一人だけ鬼ごっこに入れないからといって室内遊びをすることにしても、班員たち、特に年少の二人はそのことに納得できるのだろうか? 壮士は自分でもこの問題に答えを出せるとは思えず、そして亜美と同じ班になったのが自分でなくてよかったと内心ほっとしていた。ところがそこで壮士は、誰も怖がって近づかないため周囲に人はいないはずの亜美の車椅子に近づいていく勇者を見た。それは凛であった。
「おはよう。私、野村凛っていうんだけど、あなたのお名前は?」
壮士は凛が単刀直入に亜美に話しかけたことに驚いたが、それと同時に得体の知れない人と交流するときには凛のようにやや強引にでも会話の糸口を作ることが大事なのかもしれないともぼんやりと感じていた。特に何をするでもなく遠くを見ていた亜美は、凛に話しかけられて首だけを回して振り返った。
「あっ、こんにちは。瀬川亜美です。あの、私この通り車椅子なんですけど、いったいどうしたんですか?」
「いやまあ、車椅子の人に会うことなんてなかったから、ちょっといろいろ聞いてみようと思って。で、どういうことなの? 足が動かないってこと?」
凛の質問は本来なら失礼にあたるものだったかもしれないが、亜美は平然としている。
「だいたいそういうことです。一応リハビリはしているのでまったくというわけではないんですけど、腰から下はほぼ使い物にならないと考えてください」
「リハビリ?」
「えーと、ちょっとした訓練のようなものです。それから腰から上も人並みに動くとはとてもいえないので、どうかよろしくお願いします」
「は、はぁ……」
「あ、いや、どうか怒らないでください。私もいきなり普通の子たちの中に放り込まれて途方に暮れてるんです。できることはしようと思うんですけど、どうしても困ることは起きるはずなので」
壮士と祐飛は凛に何かあったときのために少し凛と亜美に近づいていたが、しかし壮士は頭が混乱しつつあった。それは亜美があまりにすらすらと喋っていたからである。亜美は本来3歳児であるとは思えないほど流暢に凛と話しており、もはや壮士と同じか、むしろ小学二年生である壮士の兄の功士に近いように思われた。歩くことすらできないという面で見れば亜美は1歳にも及ばないわけなのだが、壮士は亜美が単なる大きな赤ちゃんではないということを実感するよりなかった。
「でも、実は私、亜美ちゃんと同じ班ではないの。だから私にできることはあんまりないかも」
こう凛が言ったところで、壮士はここぞとばかりに亜美の前に出た。
「おはよう亜美ちゃん。僕は中野壮士っていうんだけど、僕と亜美ちゃんの班の祐飛くんは大親友で、いつも班としてはだいたい一緒に行動しているんだ。で、そこの凛ちゃんは僕の班なんだけど、とにかく僕たちの班はいつも亜美ちゃんの班の近くにいるはずだから、亜美ちゃんが困ったことがあれば、少しは助けることができるかもしれないんだよ」
亜美は急な壮士の登場に最初は驚いていたようだったが、壮士の話を聞くうちにそれを理解したようだった。
「ほんとですか! あの、絶対たくさん迷惑かけることになると思いますが、今日と明日はよろしくお願いします! 私も凛ちゃんは優しそうな人だと思ってたところなので、一緒にいろいろできるならとってもうれしいです!」
むしろ壮士の提案に顔を輝かせている亜美を見て、壮士は亜美に好意を抱いていた。亜美は純真そのもので、壮士は亜美を嫌う要素がまったくなかった。亜美のこの笑顔の前では、亜美の体が不自由であることは些細な問題でしかなかった。そして祐飛もまた、最初は警戒していた亜美とうまくやっていけるかもしれないという希望を持ち始めていた。
ところが、壮士たちの楽しい時間は、突然の「あああああああああああ!」という謎の絶叫によって乱されることになった。