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壮士と小夜

 一方、この春から丸松小学校に入学することになっている中野壮士なかのそうしもまた、幼稚園の構内に現れた浅野に注目していた。先ほどの保人と小夜よりおおよそ倍の年齢であるだけあって、壮士は浅野がここに現れる意味をかなり的確に理解している。


 この時点では、壮士は浅野に恐怖感を抱いている。壮士の兄である功士こうしがいつも言っていることには、浅野は子どもが悪いことをしていると、その子どもを「連れ去って」しまうらしい。この表現は子どもによるものであり、過度に単純化されているが、それでも小学校における浅野の立ち位置を端的に表しているだろう。


 そうであるから、壮士がこのとき注目していたのは、浅野が壮士の同級生である中島菫なかじますみれに話しかけているところであった。浅野は柔和な笑顔で菫と話しているように見えたが、壮士はいつ浅野が菫を連れ去ってしまうのかと気が気ではなかった。


 実際には、浅野の役割は一部の子どもたちを社会的に一般的とされる区分から連れ去ることであって、壮士がイメージしている、浅野が菫の手を引いて恐ろしい異世界に行ってしまうような展開とは少し異なる。とはいえ、特にこのお別れ遠足においては、これは物理的になり得る。しかし、それはこの場面ではない。


 しかしここで、壮士の興味は他に移った。それは自分と関係ある子どもの名前を発見したからである。それは相原小夜であった。


 このお別れ遠足では、園児たちは8人ごとに班分けされている。年長、年中、年少、そしてこの春から幼稚園に入るとされている「プレ」の子どもたちから二人ずつが同じ班に入り、ほとんどの時間行動を共にする。ただの公立幼稚園に明確な男女の偏りがあるはずがないから、一部の例外を除いては同学年の男女が一人ずつ同じ班に入ることになる。ちなみにこの班分けは運動会など他のイベントにおいても固定化されているから、班員は学年が違っても互いに顔見知りである。


 つまりこの日、壮士をはじめとする園児たちが少なからず興奮しているのは、決して泊まりがけの遠足に行けるからだけではない。この二日間は、新たな班員となることがほぼ確実である「プレ」の子どもたちと初めて深く交流する機会であるのだ。壮士の学年と「プレ」の学年が同じ班として行動するのはこの二日間だけだが、それでも親近感は湧く。


 壮士たちは昨日新たな班の名簿を配られていて、仮名なら十分に読める壮士のような子どもたちは、すでに自分と同じ班となる「プレ」の子の名前を把握している。また、すべての子どもたちは本人確認のために(もちろんすべて平仮名で)名札をつけているから、それで壮士は小夜を見つけることができたわけである。壮士は同じ班の子とはできるだけ早く仲良くならなければならないと思っているから、すぐに小夜に話しかけた。


「えっと、相原小夜ちゃん……かな?」


 突然話しかけられた小夜は、こわごわと壮士を見た。


「あ、うん、小夜です、わたし。……えーっと、なかの……こうし、くん?」


 壮士は少し混乱した。


「あれ……その名前は僕の兄ちゃんなんだけど」

「えっ……あっ、しまった。読み間違えたんです。『こ』じゃなくて『そ』だ。『そうし』くん、だよね?」

「う、うん。中野壮士、です。「功士」はひとつ上の兄ちゃんなんだよね。……というより小夜ちゃん、平仮名読めるんだね」


 壮士は素直に感心していた。壮士自身も平仮名を読み間違えることはしばしばあるので、まだ「プレ」の学年である小夜がここまで読めるのは驚くべきことである。小夜のような年齢では文字の知識は断片的であることが多く、そもそも文字という概念をうまく認識できていなくてもおかしくない。


「ううん、今間違えちゃったし……ええと、もしかして壮士くん、わたしと同じ班?」

「うん、そうだよ。今日と明日だけだけど、よろしく、小夜ちゃん」


 壮士は小夜と普通に会話を進めているが、そもそも「プレ」の子どもと会話が成立すること自体が異例のことである。壮士と小夜の他にもあちこちで上級生が「プレ」の子に話しかけているが、「プレ」の子はおおかた話を聞かずに遊んでいるか、話そうとしても意思疎通がうまくいかないかのどちらかである。


 専門家であれば、小夜がすでに「わたし」という一人称を使いこなしていることを高く評価するだろう。会話冒頭でわずかに揺れがあったものの、小夜の一人称はおおむね「小夜」ではなく「わたし」である。これは小夜が自分の名前の取り扱い方をある程度熟知していることをよく示している。


 さて、このような場合であれば年長者が会話の主導権を握るのが通例であるが、小夜は積極的に仕掛けていく。


「えっと、壮士くんが今日と明日だけってことは、年長……ってことだよね?」

「うん、そうだね。四月からは小学生になるんだよ」

「うわあ、すごいなあ」


 いっぱしに反応しているが、小夜はまだ小学生というものについてあまり深く理解していない。あくまでランドセルを背負っている、自分よりはるかに大きな人たちとしか思えないのである。


「ねえ、壮士くんのランドセルの色って何色?」

「え? 黒だよ。やっぱり黒がかっこいいよね」

「黒かあ。私のお兄ちゃんは青なんだよね」

「ん? ……ああ、お兄ちゃんね」


 急に『お兄ちゃん』が登場して壮士は意表を突かれたが、すぐに同じクラスの相原大輝あいはらだいきのことだと合点がいく。


「小夜ちゃんのお兄ちゃんなら、大輝くんのことだよね? 実は僕は同じクラスなんだよ。うん、小夜ちゃんのお兄ちゃんは面白い子だね」

「そうかな」


 ここで壮士は打てば響くように聡明な小夜に感動するあまり気づいていないが、彼が小夜の兄を称賛したとき、小夜の表情があまりほころばなかったのはやや不自然なことであった。そして実は、二人の背後では浅野が大輝とその両親に話しかけていたのである。

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