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あすなろ先生

 二月も終盤となったその日、丸松まるまつ小学校の一室に数人の大人たちが集まっていた。本来はこの部屋は一年生の教室であるはずなのだが、現在は放課後であり、児童たちの姿はない。教師たちも本来ならば定時を過ぎているはずだが、もちろん教師という職業は残業が当然であり、うるさい子どもたちが完全に帰ってしまったこの時間帯は、むしろ事務仕事がはかどるというものだ。そして、この時間帯の一般教室は、密談には絶好の場所である。


梶浦かじうら先生、横山よこやま先生、浅野あさの先生、本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます」


 そう言って頭を下げたのは、長沼美智子ながぬまみちこである。だが、実は長沼は小学校教師ではない。隣接する丸松幼稚園の幹部教師なのである。この時間帯、一般の親たちが定時で仕事を終え、子どもたちの大半にお迎えが来た直後は、幼稚園教師にとっても忙しくない時間で、だからこそこの密談に参加しているわけである。


「いえいえ、長沼先生こそお忙しいでしょうに、わざわざありがとうございます。とはいえ、そろそろ三月も近いですし、ある程度固まってきたと思います。我々も『そこ』については、早めに動いておかないといけませんからね」


 梶浦義富かじうらよしとみがじわりと本題に切り込む。梶浦は新年度に一年一組の担任になることが内密に決定している。横山貴音よこやまたかねは一年二組の担任になる予定だ。


「そうですね、ではこちらがデータになります」


 長沼が他の三人に資料を渡す。


「やはりこの時期になってくると、子どもたちの意識も上がってきます。急激に伸びてきている子もいますし、無意識に最後の追い込みをしているのかもしれません。もちろん高月齢を中心とする上位層は牽制し合っているので大きな動きはありませんが、うまくいっていない子もいるのが現状です」

「なるほど、なるほど……」


 横山は資料をパラパラとめくりながら、しきりに頷いている。


「でも、実際に注意すべきラインにいるのは十人に満たないようですね。突発的なことがなければ、新たに新年度時点で『登録』または『移行』となる子はいなさそうですが」

「私も同じ考えです」


 横山に同意したのが、浅野智枝あさのともえである。この浅野こそが今回の密談を仕掛けた張本人であり、児童たちから『あすなろ先生』と呼ばれる彼女の真の姿であるのだ。


「思ったより頑張っている子が多い印象ですね。おおむね安心して大丈夫だとは思いますが、『登録』される一人と『移行』される一人は円滑な引き継ぎも必要ですので、お別れ遠足は例年通り私も参加することになります。もちろん、そのついでに全体的な状況の確認と、最終的な判断をすることになりますが」

「ありがとうございます。それと、浅野先生にはできれば今年も『プレ』の子たちをちょっと確認してほしいのですが」

「もちろんです。私も少し調べていますが、やはり何人か気になる子がいますね。そちらもよろしくお願いします」


 だが、教師たちがこのように子どもたちを見定めていることを、もちろん子どもたちは知らないのである。


⭐︎


 青嶋保人あおしまやすとは列に並んでいた。別に深い理由はないーートイレを待っているだけである。丸松幼稚園では、園児用のトイレは男女混合で、三つの男児用小便器と三つの洋式トイレがある。実際にはキャパオーバーしているようであり、だからこそ行列ができやすいのだが、保人はそのことは事前に把握していたし、それに男子である保人は回転率の面では有利な立場にある。


「ひゃー、こんなに並ぶのかぁ。すごいなあ……」


 保人の横で圧倒されているのは、保人と同学年の相原小夜あいはらさよである。女子である小夜は回転率では不利であり、また三月生まれの小夜は月齢的にもハンデがある。しかし、保人は小夜が実際には余裕があることを知っている。


「まあ、園児全員と僕たちが一度に並んでいるからね。これくらいは覚悟していたよ。小夜も最近はうまくいっているし、心配しなくていいさ」

「それはそうなんだけど、でも大事なところでやらかしちゃうのが私だから……」


 小夜は早くも予防線を張っているが、しかし保人は小夜が超がつくほどの慎重派であることを知っているから、あえて心配することはない。おそらくバスの中と寝るときはオムツで過ごすのだろう。保人はすでにぼんやりと理解しているが、保人と小夜が(あくまで幼稚園入園直前の「プレ」の対象として)参加しようとしている丸松幼稚園のお別れ遠足の目的はあくまで「月齢を含めた実年齢に対する発達段階の検査」であり、要するに月齢に応じてある程度の補正が適応される。加えて、あくまで保人や小夜たちが入学しようとしているのはただの公立小学校であり、よほどのことがなければこのお別れ遠足での評価が子どもたちの人生に致命的な影響を与えるわけではない。


 それでも、ここで注意しなければならないのは、たとえ公立小学校であっても、必ずしも無条件で入学できるわけではないということである。一見入学試験はないように見えるが、実際は原理的には入学試験といえるようなものが行われているわけである。ただ、ほとんどの子どもたち(もしかするとその保護者たち)は、その事実に気づいていない。それは、その試験は、大部分の子どもたちが当然クリアするものであるからである。


 そして保人と小夜が(いささか本能的にであったとしても)この仮想的な試験について理解しているのは、それぞれ身近にそれを意識せざるを得ない人を持っているからである。それは二人の視線が、どこからともなく現れた浅野智枝ーーいわゆる「あすなろ先生」に向けられたことからもわかる。

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