久しぶりに人と歩いたので、距離感がわかりません。
ヴェルトの腕の中で猫が満足そうに喉を鳴らしている。
その穏やかな音を聞きながら、僕はヴェルトと並んで路地を抜け、アーシュアの大通りへと歩みを進めた。
ヴェルトが猫をそっと地面に降ろすと、それは小さく鳴きながら尻尾を揺らし、ゆっくりと歩き出した。
「さて、ユーマさん。どこから回りましょうか?」
ヴェルトは僕の隣に並びながら、にこやかに問いかける。
(……ユーマさん、かぁ……))
そう呼ばれることに、なんだかむずがゆい気持ちになる。
ゲームの中とはいえ、こんな風に名前を呼ばれるのは久しぶりかもしれない。
「えっと……どこがいいかな……?」
歩きながら、周囲を見渡してみる。
始まりの街――「アーシュア」
中世ヨーロッパ風の石畳の道が広がり、温かみのある木造の建物が立ち並んでいる。
昼下がりの穏やかな時間、街のあちこちでプレイヤーやNPCたちが行き交い、活気ある声が響いていた。
さっきまで一人で歩いていたはずのこの街が、ヴェルトと並んで歩くだけで少し違って見える気がする。
「そうですね。まずは大通りを歩きながら、お店を覗いてみるのはいかがでしょう?」
ヴェルトは軽やかに提案する。
「武器屋や防具屋、雑貨屋……アーシュアには色んな店があるんですよ。あ、もちろん市場もありますし、美味しいパン屋さんなんかも!」
楽しそうに話すヴェルトを見ていると、彼が本当にこの街を気に入っていることが伝わってくる。
なんだか、観光案内をしてもらっている気分だ。
「ユーマさん。この街はもう歩いてみましたか?」
ヴェルトが気さくな声で尋ねてくる。
さっき出会ったばかりなのに、彼の話し方はまるで昔からの知り合いのように馴染んでいて、思わず戸惑った。
「えっと……少しだけ。でも、ほとんどNPCに話しかけるばかりで……」
「ああ、それは素晴らしいですね!」
ヴェルトがぱっと表情を明るくする。
「アーシュアのNPCたちはみんな個性豊かですからね。何か面白い話は聞けましたか?」
「え、えっと……鍛冶屋の親方が『武器は相棒だ!』って熱く語ってくれたり……パン屋のおばあさんが『朝はやっぱり焼きたてが一番』って……」
「ふふ、それは確かにこの街らしいですね」
ヴェルトは楽しそうに笑う。
「ユーマさんは、NPCと話すのが好きなんですね?」
「……うん」
言葉にするのは少し恥ずかしかったけど、ヴェルトの穏やかな雰囲気のおかげで、自然と答えが口をついて出た。
「いいことですよ。NPCはただのシステムではなく、この世界を形作る大切な存在ですから」
彼の言葉に、なんとなく心がくすぐったくなる。
それを察したのか、ヴェルトは少しだけ僕の方に顔を寄せてきた。
「とはいえ、この街にはもっといろいろな魅力がありますよ。例えば……」
ヴェルトが指をさしたのは、アーシュアの中心に広がる広場だった。
噴水が心地よい音を立てて水を湛え、その周りには露店が並んでいる。
果物や焼き菓子、アクセサリーなどが所狭しと並べられ、行き交う人々の笑い声が心地よく響いていた。
「市場ですね……」
「ええ、美味しいものもたくさんありますよ。せっかくなので、何か食べてみませんか?」
「えっ!? で、でも……お腹は膨れないし……」
「もちろん。でも、味は感じられますよね?」
ヴェルトはにこりと微笑みながら、一つの露店の前で立ち止まった。
香ばしい匂いが漂ってくる。店主のおじさんが鉄板の上で焼いているのは―――。
「おお、これはアーシュア名物の『ハニーバターパンケーキ』ですね!」
「……は、初めて聞いた……」
「ふふ、甘くてふわふわで、とても美味しいんですよ」
ヴェルトはさっと注文し、焼きたてのパンケーキを受け取ると、僕の方に差し出した。
バターがじゅわっと溶け、はちみつがたっぷりかかったそれは、見るからに美味しそうだった。
「どうぞ、ユーマさん。まずは一口」
「え、いや……それ、ヴェルトが頼んだんじゃ……?」
「いえいえ、僕はあとでもう一つ頼みますので。さあ、遠慮せずに」
ヴェルトがにっこり微笑む。
なんとなく断りづらくなってしまい、おそるおそるパンケーキを手に取ると、一口かじってみた。
「……!」
ふわっとした食感と、じゅわっと広がるバターの風味。
甘いはちみつが舌の上でとろけて、ほんのりとした塩気が味を引き立てている。
「お、美味しい……!」
思わず感想がこぼれると、ヴェルトは満足そうに微笑んだ。
「でしょう? 美味しいものは、それだけで幸せになれますよね」
「……うん」
体力が回復するだけのアイテムかもしれない。
でも、こんなに美味しいものを食べて、幸せな気分になれるのなら、それはただの回復アイテムじゃない。
そんな気がした。
「他にも美味しいものがたくさんありますよ。あ、あそこの肉まんもおすすめですし、そこの屋台のフルーツタルトも絶品です」
ヴェルトが楽しそうに次々とおすすめを挙げていく。
「ヴェルト……なんか、めちゃくちゃ詳しくない?」
「ええ、まあ、この街には長くいますからね」
ヴェルトはさらっとそう言うけれど、なんとなくその言葉には深い意味がある気がした。
でも、今はそれを出会ったばかりの僕が聞くのは拙い気がした。
「……じゃあ、次はその肉まん、食べてみようかな」
「いいですね! それでは、行きましょう!」
ヴェルトの明るい声に、僕はつられるように歩き出した。
アーシュアの街並みの中を、ヴェルトと並んで歩く。
こんなふうに誰かと一緒にゲームの世界を歩くのは、初めての経験だった。
(……悪くないかも)
そんなことを思いながら、僕はもう一口、ハニーバターパンケーキを頬張った。
甘いはちみつの風味が口いっぱいに広がって、思わず頬が緩んだ。
「ふふ、気に入ってもらえて良かったです」
ヴェルトが満足そうに微笑んだ、そのとき―――。
「あ、頬にはちみつがついてますよ」
クスッと笑いながら、ヴェルトが僕の顔を覗き込む。
「えっ……?」
驚く間もなく、ヴェルトの指がすっと伸びてきた。
指先がそっと僕の頬を撫でるように、ついたはちみつを掬い取る。
そして、何のためらいもなく、その指先を舐めた。
「っ……!?」
一瞬、頭が真っ白になる。
そんなこと、普通する!?
思わず心臓が跳ね上がる。
「どうしました?」
ヴェルトが不思議そうに小首を傾げる。
その無邪気な仕草が、さらに追い打ちをかけてきた。
(な、なんでもない……! なんでもないから!!)
慌てて目をそらしながら、僕はぎこちなく首を振る。
「う、ううん、なんでもない……!」
ヴェルトはふふっと微笑んだだけで、特に気にする様子もなく、次の屋台へと視線を移した。
「さて、次はあそこの肉まんにしましょうか」
そう言いながら、軽やかに歩き出す。
―――が、僕は動けなかった。
体が固まって、足が一歩も前に出ない。
心臓がドクドクとうるさいくらいに鳴って、顔が熱い。
(い、いやいやいや……!? ちょっと待って!? え、今の……え!?)
意識すればするほど、頬の感触がじんわりと残っている気がして、さらに熱が上がる。
それに加えて、指を舐めたあの仕草……思い出しただけで鼓動が早くなる。
(……お、落ち着け……! ゲームだぞ、これゲームだから! こういうことも……ある……のか……?いや、ないだろ!?普通に考えて男同士でこんなことするか!?)
そこであることを思い出す。
(もしかして、ヴェルトの中身は女の子とか……いや、もしかしてお姉さま、とか……)
しばらく固まっていると、ヴェルトが振り返った。
「ユーマさん?」
「ひゃいっ!?(噛んだ!!)」
咄嗟に変な声が出てしまい、慌てて咳払いする。
「え、えっと……い、今行く……!」
必死で平静を装いながら、ようやく足を動かす。
でも、まだ心臓が落ち着かない。
(やばい……ヴェルト、近すぎる……!)
それでも、ヴェルトはいつもの穏やかな笑みのまま、屋台の方へと向かっていた。
僕はその背中を追いかけながら、必死に深呼吸を繰り返す。
(……た、ただの食べ歩きのはずなのに……なんでこんなに落ち着かないんだよ……!)
肉まんの湯気がふわりと漂ってくる。
けれど、僕の顔の熱はまだ引かないままだった。