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猫好きに悪い人はいない。

 腰まで伸びたシルバーグリーンの髪を紐で束ね、穏やかな笑みを浮かべている。

 深い緑の瞳は、どこか懐かしさを覚えるほどに優しく、柔らかい光を帯びていた。

 それなのに、彼の白く表示された名前が、僕の心をざわつかせる。

(プレイヤー……なのに、なんでこんなに落ち着いているんだろう)

 誰もいないと思っていた路地裏に、彼は静かに立っていた。

 まるで最初からそこにいたかのような自然な佇まい。

 驚くほど馴染んでいるのに、どこか目を引くものがあった。

 猫が小さく鳴く。

 彼の視線が僕の手元の猫に落ちる。

「猫は好きですか?」

 落ち着いた声音に、思わず息を飲んだ。

 今度こそ、逃げるわけにはいかない。

 でも、どうすればいいのかもわからない。

 ――心臓が、ドキドキとうるさいくらいに鳴っていた。

 喉が渇くような緊張感が、僕の中に広がる。

 目の前の彼は、僕をじっと見つめていた。

 その視線に圧を感じるわけではない。

 むしろ、穏やかで、優しくて、まるで春風のように柔らかい。

 それなのに、僕の鼓動は速まるばかりだった。

(どうしよう……)

 何か言わなきゃ。でも、どうすれば……。

 変なことを言ったら、どう思われる?

 また、あのときみたいに、咄嗟に謝って逃げるのは……嫌だ。

 ――怖いけど、ここで逃げたら、ずっと同じままだ。

「……す、好き……です」

 自分でも驚くほど小さな声が、喉の奥から絞り出される。

 けれど、彼はしっかりと聞き取ったようで、ふっと目を細めて微笑んだ。

「そうですか、私も好きです。可愛いですよね」

 それだけ言って、彼は静かに膝を折ると、僕が撫でていた猫へと手を伸ばす。

 するりと撫でられた猫は、気持ちよさそうに喉を鳴らし、体を彼の指先へとすり寄せた。

(あ……)

 さっきまで僕の手の下で鳴いていた猫が、まるで当然のように彼の方へと寄っていく。

 少し寂しさを覚えると同時に、彼の自然な振る舞いが不思議だった。

 動物は懐きやすい人をすぐに見抜くというけれど――まるで、彼が本当にこの世界の一部であるかのように、猫も違和感なく受け入れている。

 しばらく、彼は猫を撫でながら、ゆっくりと口を開いた。

「この街では初めてお会いしますね」

(え……)

 何気ない一言だったけれど、僕は思わず息をのんだ。

 それってつまり――いや、違う。

 彼は僕の装備や動きを見て、そう判断したのかもしれない。

 初期装備のローブを着て、歩き方にも迷いがある僕が、どう見ても初心者に見えたのだろう。

 言われてみれば、ヴェルトの動きは無駄がなく、立ち姿ひとつとっても洗練されているように思える。

 だからこそ、彼の言葉は自然なものなのに、なぜか僕は妙に意識してしまう。

「……えっと」

 言葉に詰まり、何か返さなきゃと焦る。

 でも、僕はこのゲームを始めたばかりで、本当に初めてこの世界に来たプレイヤーで――。

「ああ、驚かせてしまいましたか? すみません」

 彼は僕の戸惑いを察したのか、ゆっくりと立ち上がると、優しく笑った。

「私はヴェルトです。この街でのんびりと過ごしているんですよ」

 白い名前に黒い縁取り――確かにプレイヤーだ。

「あなたの名前も、知っていますよ。ユーマ・フォレストさん、ですよね?」

(……そうだ。名前は、頭の上に表示されてるんだった)

 僕が頷くと、ヴェルトは小さく微笑み、抱き上げた猫の頭を軽く撫でた。

「この辺りには静かな場所が多いので、ゆっくり歩くにはちょうどいいですよ」

 ヴェルトは猫を腕の中で優しく抱え直しながら、ふわりと微笑んだ。

 まるで何度もここで誰かを案内してきたような、そんな落ち着いた雰囲気だった。

(この街に詳しいのかな……)

 ふと視線を上げると、ヴェルトの瞳が穏やかに細められた。

 どこか懐かしむような表情で、周囲の街並みを眺めている。

 その横顔には、ただ"知っている"だけではなく、"慣れ親しんでいる"ような雰囲気があった。

「少し、この街を歩いてみませんか?」

「え?」

「初心者の方なら、まだわからないことも多いでしょう。初めての街歩きは、誰かと一緒の方が楽しいですよ」

 穏やかで、押しつけがましくない誘い。

 でも――プレイヤーと一緒に行動するなんて……僕にはまだハードルが高い気がする。

(どうしよう……でも……)

「何かわからないことがあれば、お答えしますよ」

 ヴェルトは柔らかく微笑みながらそう続けた。

 ただの親切な申し出。でも、その言葉がどこか心に引っかかる。

 たしかに、僕はこの街のことを何も知らない。

 このあと、一人で歩いていても、きっとまたNPCに話しかけるくらいしかできないし……あとは街の外に出て探索くらい……それも勿論一人で。

(……でも、本当に大丈夫だろうか……もし、僕が変なことを言ってしまったら?ヴェルトは呆れたりしないだろうか。それに……誰かと一緒に歩くなんて、やっぱり怖い)

 でも、それでは今までやってきた他のゲームと同じになってしまう。

(……でも、もう一人は嫌だ)

 そんな小さな声が、心の奥で響いた。

 ヴェルトの抱える猫の安心しきった様子と、彼の穏やかな微笑みを見て、僕は、決意した。

 一瞬の静寂が訪れる。

 鼓動が、一度、大きく響いた気がした。

 僕は、小さく息を吸い込み、勇気を振り絞る。

「……お願いします」

(僕はずっと、一人でゲームをすることしか考えてこなかった。誰かと一緒に歩くなんて、想像もしなかった。

でも――今日は、一歩踏み出してみよう)

 そう答えた瞬間、ヴェルトは優しく微笑んだ。

 ヴェルトの微笑みは、まるで僕の背中をそっと押してくれるようだった。

(これが、誰かと一緒にいるということなのかな)

 そんなことを思いながら、僕もつられて、少しだけ笑い返した。

 誰かと一緒にゲームの世界を歩くなんて、今まで考えたこともなかった。

 でも……不思議と嫌な感じはしない。

 もちろん、不安がないわけじゃない。

 けれど、ヴェルトの静かな微笑みや、柔らかな声が、不思議とその不安を和らげてくれる気がした。

(たったこれだけのことで、胸がこんなにドキドキしているなんて……)

 街の喧騒が遠くから聞こえてくる。

 今までなら一人で歩いていただろうこの場所を、今日は誰かと一緒に歩くことになる。

(……どんな風になるんだろう)

 まだ少し緊張は残っている。

 けれど、それ以上に、これからの時間に対する小さな期待が心の奥で膨らんでいくのを感じた。

 ヴェルトの抱えた猫の小さな鳴き声がまるで僕の決断を歓迎するかのように響いた。

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