出会いは、路地裏の猫と共に。
翌朝、僕はいつもより少し早く目を覚ました。
昨日の夜、初めて『エルドレイズ・アルカディア』の世界に降り立った興奮がまだ残っているのか、身体が自然と動き出すような感覚だった。
でも、焦ることはない。今日はたっぷり時間があるんだから。
リビングへ行くと、母が朝ご飯の準備をしていた。
「悠真、ちょうどよかったわ。朝ご飯できてるわよ」
「うん、ありがとう」
席につくと、父は新聞をめくりながらコーヒーを飲んでいる。
「俺たちはこれから買い物に行くから、留守番頼むぞ」
「わかってる」
「お姉ちゃんは友達と映画に行ったから、夜まで帰ってこないわよ」
「ふーん……」
家族の予定を聞きながら朝ご飯を食べる。
普段と変わらない休日の朝。
だけど、僕の胸の内は少し違っていた。
(早く、あの世界に戻りたい)
食事を終えて、食器を片付けると、両親はさっさと準備をして家を出ていった。
「それじゃ、行ってくるわね」
「ちゃんと鍵閉めとけよ」
「はいはい」
玄関のドアが閉まり、家の中が静かになる。
ふぅ、と息をつきながら部屋に戻った。
(よし……始めよう)
ベッドに腰を下ろし、VRデバイスを装着する。
視界が暗転し、ログイン画面が浮かび上がった。
心臓が高鳴る。昨日見た、あの世界がすぐ目の前に広がる。
――ログイン開始。
次の瞬間、目の前には昨日と同じ街並みが広がっていた。
朝の光が差し込み、昨日よりも人の数が多い。
白い石畳の道を行き交う人々。遠くの広場では、大道芸人のようなNPCがパフォーマンスを披露している。
焼きたてのパンの香りが鼻をくすぐり、どこかの店先では、果物を並べるNPCたちの声が響いていた。
「……やっぱり、すごい」
まるで本当にこの世界で生活しているような感覚になる。
街を見渡しながら、僕はゆっくりと歩き出した。
心の中はワクワクでいっぱいだ。でも――
(プレイヤー……多いな)
視界の隅に映るプレイヤーたちの頭上には、白色の名前に黒い縁取りが表示されている。
一方、NPCの名前は水色の名前に黒い縁取り。
だから、見分けるのは簡単だ。
(でも、あんなにたくさんのプレイヤーがいるのに、僕は……)
話しかける勇気がない。
それどころか、話しかけられるのも怖い。
誰かと視線が合わないように、できるだけ目を伏せ、静かに歩く。
なるべく人が少ない道を選び、そっと路地を抜ける。
(ここなら、誰もいない……)
ほっと息をつく。
(よし、NPCに話しかけてみよう)
それなら僕にもできるはずだ。
まずは、果物屋の前に立っている水色の名前を持つ女性NPCに話しかけてみる。
「あの……こんにちは」
「あら、いらっしゃい。今日はおいしいリンゴが入っているわよ」
「えっと……美味しいですか?」
「もちろん!食べてみる?」
「……いや、大丈夫です」
思わず首を横に振る。
NPCはニコニコと笑ったまま。
ああ、なんだか変なことを聞いてしまった気がする。
でも、怒られたり呆れられたりはしない。
(……意外と、普通に会話できるかも)
ちょっとした成功体験に気を良くして、僕は次々にNPCに話しかけていった。
パン屋の店主、武器屋の親父、雑貨屋のおばあさん――みんな笑顔で応じてくれる。
僕の緊張も、少しずつほぐれていく。
(こうやって、街を歩いてるだけで楽しいな)
そんな風にNPCとの会話を楽しみながら歩いていた時だった。
「初心者?」
ドクッ、心臓が跳ね上がる。
突然の声に驚き、振り向くと、そこには白色の名前に黒の縁取りを持つプレイヤーが立っていた。
短髪の男の子。
年齢は僕と同じくらいだろうか?
けれど、その何気ない一言が、僕には恐怖の引き金になった。
(どうしよう……どう返せばいい? なんて答えれば……)
頭が真っ白になる。
視線を泳がせながら、口を開こうとするけど、何も言葉が出てこない。
気まずい沈黙が流れる。
「あっ、ごめんなさい! いや、その、えっと……!」
咄嗟に謝って、僕は走り出した。
わけもわからず、ただ逃げる。
背中に刺さるような視線を感じながらも、振り返らずに路地へと駆け込んだ。
その時、ピピピピッ、とアラーム音が響いた。
(……お昼!?)
ステータス画面を開き、時計を確認すると、すでに3時間が経過していた。
いつの間にか夢中になっていたらしい。
とりあえず、一旦休憩しよう。
ちょうど路地裏だったので、そのままログアウトをした。
VRヘッドを外したところでグゥとタイミングよくお腹がなる。
「なんか、あったっけ?」
階段を下りて台所へ移動し、冷蔵庫を開けるとラップがかけられたオムライスが置いてあった。
『温めて食べてね』とメモがついていた。
電子レンジに入れて、温める間、ぼーっと画面を眺める。
NPCと話しているうちに、もう3時間も経っていたのか。
(楽しかったな……でも、他のプレイヤーは、やっぱり怖い)
チンッと音が鳴り、オムライスを取り出す。
ふわっと広がるケチャップの香りに、少しだけ気持ちが落ち着いた。
スプーンで一口食べると、懐かしい味が口いっぱいに広がる。
(美味しい……)
ゆっくり食べ終え、食器を片付けると、また胸の奥が高鳴る。
(もう一度、あの世界へ行こう)
僕は部屋に戻り、VRデバイスを装着した。
視界が暗転し、ログインすると先ほどの路地裏だ。
そこからこっそりと表の通りを確認する。
さっき話しかけてきたプレイヤーはいないようだ。
ホッと胸をなでおろす。
(よしっ、いくぞ)
またNPCと話しながら、今度はより細かい路地へと足を踏み入れた。
街の喧騒が遠ざかり、静寂が広がる。
そこで――僕は見つけた。
「……猫?」
タルの上に、丸くなっている一匹の猫。
黒と白の毛が混ざった、小さな生き物が気持ちよさそうに丸まっている。
僕は思わず近づく。
(すごい、本物みたいだ……)
そっと手を伸ばし、撫でてみる。
すると、猫は気持ちよさそうに目を細め、「にゃあ」と鳴いた。
(本当に、生きてるみたいだ)
そう思った瞬間、ふいに背後から声がした。
「かわいいよね」
――ドキッ。
一瞬、心臓が跳ね上がる。
(誰!?)
驚いて振り向くと、そこにはふんわりとした柔らかい声を持つ存在がいた。
路地裏の静寂の中、微かな風が吹き抜ける。
そこに立っていたのは、淡いシルバーグリーンの髪を持つ青年だった。
長めの前髪がわずかに揺れ、額にかかるが、それを気にする様子はない。
深い緑の瞳が、まるで森の奥深くを覗き込むような静かな光を宿し、じっと僕を見つめていた。
どこか穏やかで、しかし、その瞳の奥にはまるで僕のことを昔から知っているかのような、妙な親しみを感じるような眼差し。
彼は薄く微笑みながら、一歩、静かに近づいた。
僕の手の下で、猫が喉を鳴らし、小さく鳴いた。
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