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エルドレイズ・アルカディア ――コミュ症の僕が、ゲームで友人を作ったら、それは“友人”じゃなかった  作者: 雪野耳子


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29/30

緑の環と、契約者。

 ――咄嗟に動いた、その指先は。

 ヴェルトを助けるための、次の手を探していた。

 ブルース李の《衝破拳》は、もう振り下ろされる角度に入っている。

 青い光が、拳の輪郭を鋭く縁取って――空気そのものを押し潰すみたいに、坑道の湿り気が一瞬だけ薄くなった。

(間に合わない)

 ヴェルトはHP一桁。

 僕は一割弱。

 この距離、この速度。

 次の一撃で、終わる。

 終わる、で済むならいい。

 リスポーンすればいい。

 ゲームなんだから。

(――なのに)

 僕の視界の中心に立つ背中が、どうしても『ただの数値』に見えなかった。

 あんなふうに、僕の思い出を守ろうとして。

 迷いを切り捨てて。

 それでも立っている背中を、ここで消させたくない。

 だから、指が動いた。

 左手を、胸の前で弾くように払って――空間を掴む。

 いつもの癖。

 メニューを開く、あの動作。

 青白い枠が、視界に立ち上がる。

 半透明のウィンドウ。

 見慣れたステータス画面。

 探すなんてしていない。

 必死で、視線を走らせた。必要な項目だけを、刺すみたいに拾う。


 HP:22/230

 MP:17/175

 レベル:20


 冷たい数字の羅列が、逆に背中を押した。

 その下に――普段は見ない項目がある。

 淡い緑の文字。脈打つように、ほんの僅かに明滅している。

 それはスキル項目にあった。


 【緑乱の賢者】


 喉の奥が、ひりついた。

(……これだ)


 スキル名は、《緑乱の賢者》。

 エルドレイズ・アルカディアのストーリーに出てくる『八竜』。

 その『竜』と契約することによって手に入る特殊ジョブ。

 ヴェルトはその『八竜』のうちの一人。

 ヴェルトと一緒にいたくて、契約した。

 とんでもない力を持ったジョブ『賢者』。

 使うつもり何てなかった。

 一緒にプレイするだけだったら、絶対に使わなくてもいい『力』。

 だけど、今―――。

(君を助けるために、使うよ)

 今、ここで。

 ペナルティ?

 そんなの関係ない。

 ヴェルトを失うほうが、嫌だ。

 視界の外側で、ブルース李の拳が迫ってくる。

 青い光が膨らみ、拳の輪郭が――殴るという行為そのものの意味を変えるみたいに、重さを持つ。

 時間が、足りない。

 だから、選ぶ。

 ウィンドウに伸ばした指が震えたのは、恐怖じゃない。

 迷いでもない。

 自分の中の、最後の甘えを断つための震えだ。

 指先が、【緑乱の賢者】に触れる。


 ――カチリ。


 クリック音が、やけに乾いて聞こえた。

 その瞬間。

 濃い緑色の魔法陣が、僕とヴェルトを中心に浮かび上がった。

 床の上に幾重にも重なる円環。

 葉脈みたいな線。

 森の奥の闇を煮詰めたような緑。

 それが、ゆっくり回転しながら、僕らの周囲を囲み、深い緑の光が床から天井へと突き抜けた。

 ブルース李の拳が――突っ込んできた。

「《衝破拳》――!」

 青い光が、緑の輪郭にぶつかる。


 ――バンッ!


 衝撃音が坑道に反響し、湿った空気が震えた。

 なのに、光の筒は揺れない。

 拳が弾かれた。

「チッ!クソがぁ!!なんだコレは!?」

 ブルース李が一歩引き、拳を振って痺れを振り払うような動きを見せる。

 それでも顔に出るのは苛立ちと焦り。

 今まで、すべてが思い通りに進んでいた奴の、初めての引っかかり。

「なんだ、コレは?!新しい防御魔法か??」

「なになになに???こんなんあった?」

「これ、なに?低レベルで、こんな魔法見たことない」

「なんなのよっ!?」

 カナタが矢を番えたまま目を細め、クロハが杖を握り直し、ルルアンが呆気に取られた声を漏らす。

 ブレイズは大剣を肩に担ぎ直したまま、舌打ちを一つ落とした。

 そして。

 トレッドワンだけが――笑っていた。

 目が、ぎらついている。

 楽しすぎて堪らない、という顔だ。

 さっきまでの狩りの空気じゃない。

 勝負の匂いを嗅ぎつけた獣の顔。

「……っは!」

 トレッドワンの口元が吊り上がる。

「こんな隠し玉があったのかよ!!」

 斧を肩に担いだまま、わざとらしく肩を揺らす。

「俺と戦ってたときに出し惜しみしやがって!」

 その声が、緑の光に弾かれて少しだけ遠くなる。

 魔法陣の内側は、緑光で満ちていった。

 濃い、濃い緑。

 外側からは中が見えない。

 ただ、揺らめく森のような光の壁が、そこに立っているだけ。

 ブルース李が、苛立ちを隠さず踏み込む。

「ふざけんなよ……!」

 拳を構え直し、もう一度。

「《衝破拳》!!」


 バンッ!!


 また弾かれる。

「クソが……!」

 外側の怒号が、緑の膜を叩く。

 けれどそれは、もう届かない。

 内側は、静かだった。

 湿り気のある坑道の匂いも、ざわつく呼吸も、全部薄膜の向こう。

 緑の光の中で、音が丸くなる。

 遠い。

 まるで、世界が一段奥に引っ込んだみたいに。

 僕は――息を吸った。

 吸ったはずなのに、肺に入る感覚が薄い。

 代わりに、別の“気配”が、胸の内側に流れ込んでくる。

 ヴェルト。

 目の前に、ヴェルトがいる。

 だけど同時に、ヴェルトが――こちらの中に触れてくる。

 契約の時の姿だった。

 深緑の瞳に、金色の光が宿っている。

 髪はシルバーグリーンじゃない。

 森の奥みたいな、深い深い緑。

 腰まで流れる艶。

 結っていた紐は消えて、髪が静かに揺れる。

 深緑の長衣。

 裾の絞られたズボン。

 金糸の細やかな刺繍が光を拾って、まるで葉の縁取りみたいに瞬く。

 ――いつものヴェルトと、少し違う。

 空気が変わった、というより。

 『役割』が切り替わった、という感じ。

 ヴェルトが、僕を見た。

「使うんですね」

 僕は、喉が乾いていた。

 それでも、言葉を落とす。

「うん……ごめん」

 ヴェルトが、ふっと笑う。

「フフ。なにがごめん、なんですか?」

 あまりに、優しい声で。

 逆に胸が痛い。

「だって……クエストで使わないって、言ったから」

「クエストでは使ってませんよ」

「あっ……」

 自分で言って、自分で引っかかった。

 たしかに、今はクエストじゃない。

 ヴェルトは視線を外さず、静かに言う。

「これはPKです。あまりお勧めできないPKですが」

「うん……そうだね。でも、使わないって決めたのに」

「別に構わないですよ。仕様の範囲内です」

 淡々としている。

 でも、その淡々が――ヴェルトの強さだ。

「ですが、想定していたPKとは……かけ離れてしまってます」

「え?」

 ヴェルトの眉根が、ほんの僅か寄る。

「PKは、本来、力試しのPvPです。ある程度のレベルに達していれば、勝負したくなるだろうと。そのための仕様だったのに」

 そこで、言葉が少しだけ硬くなる。

「それを、こんな風に使うなんて……」

 そして、ヴェルトは小さく目を伏せる。

 独り言みたいに、途切れ途切れに呟いた。

「でも、あの人は……これを知ってるはず、ですよね……なんで……でも……ああ、これも……のため……」

 言葉の断片が、緑の光に溶けていく。

 僕の背中に、ぞわりと何かが走った。

「ヴェルト?」

 呼ぶと、ヴェルトははっと顔を上げる。

「あっ、すみません。ちょっと考え事を」

 誤魔化すように、すぐに切り替える。

「ユーマさん――いえ」

 呼び方が、変わった。

「マスター。どうします?」

 その瞬間、胸がちくりと痛む。


 『マスター』


 主。契約者。

 友達なのに。

 同じ旅の仲間なのに。

 なのに、呼び名一つで、線が引かれる。

「マスター、って……?」

 ヴェルトはまっすぐ答えた。

「この姿のとき、貴方は私の契約者。主なのですよ」

 痛みじゃない。

 でも、沈む。

 胸の奥に、じんわりと重さが広がる。

 僕は唇を噛んで、言った。

「……ねぇ。いつもみたいに、ユーマって呼んでくれてもいいよ」

 ヴェルトの表情が、少しだけ揺れる。

 困ったみたいに、ほんの僅か眉が下がる。

「すみません。これだけは、譲れないんです」

 言葉の奥に、『仕様』の二文字が浮かんだ気がした。

 NPC。

 その事実を突きつけられた――そんな錯覚。

 でも。

 顔を上げれば、そこにいるのはヴェルトだ。

 瞳の色も、髪の色も、服も違うのに。

 僕を見つめる目は、変わらない。

 心配そうで、少し戸惑っていて、それでも――僕の選択を受け止めようとしている。

 ヴェルトなんだ。

 僕は、もう一度ステータスウィンドウに視線を走らせた。

 ジョブは【賢者/緑乱】

 本来のジョブ【魔術師】は消えている。

 【HP99999/MP99999】

 HPもMPもカンストしている。

 スキル一覧には多量のスキル。

 見たことがないものばかり。

 多分、賢者専用なんだろう。

 その下に赤い注意表示。

 転換陣が消失次第、カウント開始。

 【代償:レベルが毎分2ずつ低下します】

 【レベル1で強制解除】

 賢者の力を使うための代償。

 ゲームのバランスのことを考えたならこれは当たり前のことだ。

 ふと、視線がステータスウィンドから操作している手の上で止まる。

 契約の紋章が、浮かび上がっている。

 淡い緑の光。

 複雑な模様が、皮膚の上に刻まれたみたいに浮いている。

 それが、ゆっくりと脈打つ。

 鼓動のようにゆっくりと。

 自分の鼓動と紋章の鼓動が重なっていく。 

 僕はヴェルトを見た。

 ヴェルトも、僕を見る。

 深緑の瞳の奥で、金色が静かに揺れた。

「マスター(ユーマさん)」

 呼び方は『マスター』のままなのに。

 声に、いつもの温度が混じる。

「……大丈夫です。貴方の選択を、私は否定しません」

 それが、余計に胸に刺さった。

 僕は、外側――緑の膜の向こうを意識する。

 怒鳴り声。苛立ち。焦り。

 あいつらは、きっとリスポーンしても繰り返す。

 遊び半分で、また狩る。

 また、同じように。

 僕は言った。

「ヴェルト。あの人たち……リスポーンしても繰り返すよね?」

 ヴェルトは迷いなく頷く。

「そうでしょうね。常習犯のようですから」

 胸の奥で、火が付いた。

 怒り。

 明らかに格下を弄び、アイテムを強奪する行為。

 庇いあい、助け合う姿を見て、それすら揶揄い馬鹿にする。

 それを楽しんでいる歪んだ感情。

(――全部まとめて、許せない)

 僕は、言葉を選ばなかった。

「なら……徹底的にやろう」

 ヴェルトを見つめる。

 契約の紋章が、脈打つ。

 同意するかのように大きく脈打った。

「力を貸して、ヴェルト」

 ヴェルトは、少しだけ目を細めて――笑った。

 いつもの、いたずらっぽい笑みじゃない。

 静かで、まっすぐな笑み。

「はい、マスター。仰せのまま」

 その瞬間。

 ヴェルトの輪郭が、緑の光に溶けた。

 緑の光の粒子が明滅すると僕の周りを揺蕩い、優しく包み込む。

 光が、僕の胸の内側へ流れ込む。

 熱ではない。重さでもない。

 ただ、確かな存在感。

 ――二つの意識が、一つの身体に重なる。

 視界が、少しだけ広がった気がした。

 背後の気配が、前と同じ見え方で入ってくる。

 敵の重心。呼吸。次の動き。

 坑道の湿度すら、情報として整理される。

 僕はウィンドウを閉じる。

 閉じたのに、消えない小さなウィンドが一つ。

【1:00/レベル20】

 たぶん、このカウントが0になるたびに、レベルが2ずつ削れる。

 レベル1になれば――強制解除。

 でも今はそれは関係ない。

 気にもならない。

 ただ、賢者でいられるうちに倒さなければと思うだけ。

 光の外に意識を向けた。

 上から見下ろしているような視界。

「おい!中でなにしてんだよ!」

 ブルース李の声。

 焦りが混じっている。

 焦るのは当然だ。

 獲物が、突然、檻に入ったんだから。

 クロハの低い声が重なる。

「……解除、できないの?」

 ルルアンが情けない声を上げる。

「え、え、ちょっと待って、これやばくない?」

 カナタが矢を引き絞る音。

 ブレイズが剣を振るい直す気配。

 トレッドワンだけが、笑っている。

「いいねぇ……!」

 興奮で声が弾む。

「見せろよ!その中身!なぁ、ユーマ!!」

 緑光の膜に、もう一度衝撃が叩き込まれる。

「《衝破拳》!!」

 ブルース李が撃ち込んだ。


 ――バンッ!!


 弾かれる。

 緑の膜が、わずかに波紋を作っただけで、びくともしない。

「クソ……!」

 外側の怒号が、遠い。

 内側で、僕は一歩踏み出す。

 ……身体が軽い。

 どこに踏み込めばいいか。

 どう避ければいいか。

 どう潰せばいいか。

 全部、最初から整理されている。

(……ヴェルト)

 内側から、声がする。

 口で喋るんじゃない。

 思考の端に、そっと置かれる。

(大丈夫です。私が一緒にいますから、マスター)

 大切な人が一緒にいる。

 姿は見えないけれど、僕の中に確かにいる。

 僕は、緑の光に手を伸ばす。

 指先が触れた瞬間、光が震えた。

 森の葉が一斉に揺れるみたいに。

 そして――開いた。

 緑光が、外側へ溢れる。

「……っ!」

 ブルース李が反射的に目を細める。

 カナタが矢を放つ角度を変える。

 ブレイズが剣を構える。

 クロハが杖を掲げる。

 ルルアンが回復の詠唱に入る。

 全員が一斉に動く。

 でも。

 遅い。

 『遅い』という感覚が、初めて腑に落ちる。

 僕の身体が速くなったわけじゃない。

 世界の動きが、手に取るように見える。


 ――緑乱の賢者。


 僕は、息を吐いた。

 そして。

 次の一歩を、踏む。

 ……それは、攻撃の始まりじゃない。

 狩りでも、嬲りでもない。

 徹底的に終わらせるための、始動。

 緑の光が、僕の周囲に渦を巻く。

 契約の紋章が、脈打つ。

 内側で、ヴェルトが静かに笑う気配がした。

(行きましょう、マスター)

 僕は、頷く。

(――うん)

 そして、緑光がさらに濃くなる。

 外側の景色が、また溶ける。

 敵の輪郭が滲む。

 坑道の壁が遠くなる。

 眩しさじゃない。

 濃い森の中に沈むみたいな、深い緑。

 その緑の中で、確かに――何かが切り替わる。

 カウントダウンが開始される。

 でも、その代償を払ってでも。


 ――守る。


 守るために、勝つ。

 緑光が、最大まで膨らんだ。

 そして。

 ふっと、消えた。

 魔法陣が消える。

 緑の膜がほどける。

 坑道の湿った空気が、戻る。

 そこに立っているのは――僕だけだった。

 ヴェルトはいない。

 姿は、ない。

 でも、空っぽじゃない。

 僕の髪は、深い緑に変わっていた。

 瞳も、森の奥みたいな深緑。

 身に纏う服は、さっき光の中で見た――深緑の長衣と、裾の絞られたズボン。

 金糸の刺繍が、僅かに光を拾う。

 そして、手の甲の契約紋章が、静かに脈打っている。

 敵の輪が、息を呑む気配がした。

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