緑の環と、契約者。
――咄嗟に動いた、その指先は。
ヴェルトを助けるための、次の手を探していた。
ブルース李の《衝破拳》は、もう振り下ろされる角度に入っている。
青い光が、拳の輪郭を鋭く縁取って――空気そのものを押し潰すみたいに、坑道の湿り気が一瞬だけ薄くなった。
(間に合わない)
ヴェルトはHP一桁。
僕は一割弱。
この距離、この速度。
次の一撃で、終わる。
終わる、で済むならいい。
リスポーンすればいい。
ゲームなんだから。
(――なのに)
僕の視界の中心に立つ背中が、どうしても『ただの数値』に見えなかった。
あんなふうに、僕の思い出を守ろうとして。
迷いを切り捨てて。
それでも立っている背中を、ここで消させたくない。
だから、指が動いた。
左手を、胸の前で弾くように払って――空間を掴む。
いつもの癖。
メニューを開く、あの動作。
青白い枠が、視界に立ち上がる。
半透明のウィンドウ。
見慣れたステータス画面。
探すなんてしていない。
必死で、視線を走らせた。必要な項目だけを、刺すみたいに拾う。
HP:22/230
MP:17/175
レベル:20
冷たい数字の羅列が、逆に背中を押した。
その下に――普段は見ない項目がある。
淡い緑の文字。脈打つように、ほんの僅かに明滅している。
それはスキル項目にあった。
【緑乱の賢者】
喉の奥が、ひりついた。
(……これだ)
スキル名は、《緑乱の賢者》。
エルドレイズ・アルカディアのストーリーに出てくる『八竜』。
その『竜』と契約することによって手に入る特殊ジョブ。
ヴェルトはその『八竜』のうちの一人。
ヴェルトと一緒にいたくて、契約した。
とんでもない力を持ったジョブ『賢者』。
使うつもり何てなかった。
一緒にプレイするだけだったら、絶対に使わなくてもいい『力』。
だけど、今―――。
(君を助けるために、使うよ)
今、ここで。
ペナルティ?
そんなの関係ない。
ヴェルトを失うほうが、嫌だ。
視界の外側で、ブルース李の拳が迫ってくる。
青い光が膨らみ、拳の輪郭が――殴るという行為そのものの意味を変えるみたいに、重さを持つ。
時間が、足りない。
だから、選ぶ。
ウィンドウに伸ばした指が震えたのは、恐怖じゃない。
迷いでもない。
自分の中の、最後の甘えを断つための震えだ。
指先が、【緑乱の賢者】に触れる。
――カチリ。
クリック音が、やけに乾いて聞こえた。
その瞬間。
濃い緑色の魔法陣が、僕とヴェルトを中心に浮かび上がった。
床の上に幾重にも重なる円環。
葉脈みたいな線。
森の奥の闇を煮詰めたような緑。
それが、ゆっくり回転しながら、僕らの周囲を囲み、深い緑の光が床から天井へと突き抜けた。
ブルース李の拳が――突っ込んできた。
「《衝破拳》――!」
青い光が、緑の輪郭にぶつかる。
――バンッ!
衝撃音が坑道に反響し、湿った空気が震えた。
なのに、光の筒は揺れない。
拳が弾かれた。
「チッ!クソがぁ!!なんだコレは!?」
ブルース李が一歩引き、拳を振って痺れを振り払うような動きを見せる。
それでも顔に出るのは苛立ちと焦り。
今まで、すべてが思い通りに進んでいた奴の、初めての引っかかり。
「なんだ、コレは?!新しい防御魔法か??」
「なになになに???こんなんあった?」
「これ、なに?低レベルで、こんな魔法見たことない」
「なんなのよっ!?」
カナタが矢を番えたまま目を細め、クロハが杖を握り直し、ルルアンが呆気に取られた声を漏らす。
ブレイズは大剣を肩に担ぎ直したまま、舌打ちを一つ落とした。
そして。
トレッドワンだけが――笑っていた。
目が、ぎらついている。
楽しすぎて堪らない、という顔だ。
さっきまでの狩りの空気じゃない。
勝負の匂いを嗅ぎつけた獣の顔。
「……っは!」
トレッドワンの口元が吊り上がる。
「こんな隠し玉があったのかよ!!」
斧を肩に担いだまま、わざとらしく肩を揺らす。
「俺と戦ってたときに出し惜しみしやがって!」
その声が、緑の光に弾かれて少しだけ遠くなる。
魔法陣の内側は、緑光で満ちていった。
濃い、濃い緑。
外側からは中が見えない。
ただ、揺らめく森のような光の壁が、そこに立っているだけ。
ブルース李が、苛立ちを隠さず踏み込む。
「ふざけんなよ……!」
拳を構え直し、もう一度。
「《衝破拳》!!」
バンッ!!
また弾かれる。
「クソが……!」
外側の怒号が、緑の膜を叩く。
けれどそれは、もう届かない。
内側は、静かだった。
湿り気のある坑道の匂いも、ざわつく呼吸も、全部薄膜の向こう。
緑の光の中で、音が丸くなる。
遠い。
まるで、世界が一段奥に引っ込んだみたいに。
僕は――息を吸った。
吸ったはずなのに、肺に入る感覚が薄い。
代わりに、別の“気配”が、胸の内側に流れ込んでくる。
ヴェルト。
目の前に、ヴェルトがいる。
だけど同時に、ヴェルトが――こちらの中に触れてくる。
契約の時の姿だった。
深緑の瞳に、金色の光が宿っている。
髪はシルバーグリーンじゃない。
森の奥みたいな、深い深い緑。
腰まで流れる艶。
結っていた紐は消えて、髪が静かに揺れる。
深緑の長衣。
裾の絞られたズボン。
金糸の細やかな刺繍が光を拾って、まるで葉の縁取りみたいに瞬く。
――いつものヴェルトと、少し違う。
空気が変わった、というより。
『役割』が切り替わった、という感じ。
ヴェルトが、僕を見た。
「使うんですね」
僕は、喉が乾いていた。
それでも、言葉を落とす。
「うん……ごめん」
ヴェルトが、ふっと笑う。
「フフ。なにがごめん、なんですか?」
あまりに、優しい声で。
逆に胸が痛い。
「だって……クエストで使わないって、言ったから」
「クエストでは使ってませんよ」
「あっ……」
自分で言って、自分で引っかかった。
たしかに、今はクエストじゃない。
ヴェルトは視線を外さず、静かに言う。
「これはPKです。あまりお勧めできないPKですが」
「うん……そうだね。でも、使わないって決めたのに」
「別に構わないですよ。仕様の範囲内です」
淡々としている。
でも、その淡々が――ヴェルトの強さだ。
「ですが、想定していたPKとは……かけ離れてしまってます」
「え?」
ヴェルトの眉根が、ほんの僅か寄る。
「PKは、本来、力試しのPvPです。ある程度のレベルに達していれば、勝負したくなるだろうと。そのための仕様だったのに」
そこで、言葉が少しだけ硬くなる。
「それを、こんな風に使うなんて……」
そして、ヴェルトは小さく目を伏せる。
独り言みたいに、途切れ途切れに呟いた。
「でも、あの人は……これを知ってるはず、ですよね……なんで……でも……ああ、これも……のため……」
言葉の断片が、緑の光に溶けていく。
僕の背中に、ぞわりと何かが走った。
「ヴェルト?」
呼ぶと、ヴェルトははっと顔を上げる。
「あっ、すみません。ちょっと考え事を」
誤魔化すように、すぐに切り替える。
「ユーマさん――いえ」
呼び方が、変わった。
「マスター。どうします?」
その瞬間、胸がちくりと痛む。
『マスター』
主。契約者。
友達なのに。
同じ旅の仲間なのに。
なのに、呼び名一つで、線が引かれる。
「マスター、って……?」
ヴェルトはまっすぐ答えた。
「この姿のとき、貴方は私の契約者。主なのですよ」
痛みじゃない。
でも、沈む。
胸の奥に、じんわりと重さが広がる。
僕は唇を噛んで、言った。
「……ねぇ。いつもみたいに、ユーマって呼んでくれてもいいよ」
ヴェルトの表情が、少しだけ揺れる。
困ったみたいに、ほんの僅か眉が下がる。
「すみません。これだけは、譲れないんです」
言葉の奥に、『仕様』の二文字が浮かんだ気がした。
NPC。
その事実を突きつけられた――そんな錯覚。
でも。
顔を上げれば、そこにいるのはヴェルトだ。
瞳の色も、髪の色も、服も違うのに。
僕を見つめる目は、変わらない。
心配そうで、少し戸惑っていて、それでも――僕の選択を受け止めようとしている。
ヴェルトなんだ。
僕は、もう一度ステータスウィンドウに視線を走らせた。
ジョブは【賢者/緑乱】
本来のジョブ【魔術師】は消えている。
【HP99999/MP99999】
HPもMPもカンストしている。
スキル一覧には多量のスキル。
見たことがないものばかり。
多分、賢者専用なんだろう。
その下に赤い注意表示。
転換陣が消失次第、カウント開始。
【代償:レベルが毎分2ずつ低下します】
【レベル1で強制解除】
賢者の力を使うための代償。
ゲームのバランスのことを考えたならこれは当たり前のことだ。
ふと、視線がステータスウィンドから操作している手の上で止まる。
契約の紋章が、浮かび上がっている。
淡い緑の光。
複雑な模様が、皮膚の上に刻まれたみたいに浮いている。
それが、ゆっくりと脈打つ。
鼓動のようにゆっくりと。
自分の鼓動と紋章の鼓動が重なっていく。
僕はヴェルトを見た。
ヴェルトも、僕を見る。
深緑の瞳の奥で、金色が静かに揺れた。
「マスター(ユーマさん)」
呼び方は『マスター』のままなのに。
声に、いつもの温度が混じる。
「……大丈夫です。貴方の選択を、私は否定しません」
それが、余計に胸に刺さった。
僕は、外側――緑の膜の向こうを意識する。
怒鳴り声。苛立ち。焦り。
あいつらは、きっとリスポーンしても繰り返す。
遊び半分で、また狩る。
また、同じように。
僕は言った。
「ヴェルト。あの人たち……リスポーンしても繰り返すよね?」
ヴェルトは迷いなく頷く。
「そうでしょうね。常習犯のようですから」
胸の奥で、火が付いた。
怒り。
明らかに格下を弄び、アイテムを強奪する行為。
庇いあい、助け合う姿を見て、それすら揶揄い馬鹿にする。
それを楽しんでいる歪んだ感情。
(――全部まとめて、許せない)
僕は、言葉を選ばなかった。
「なら……徹底的にやろう」
ヴェルトを見つめる。
契約の紋章が、脈打つ。
同意するかのように大きく脈打った。
「力を貸して、ヴェルト」
ヴェルトは、少しだけ目を細めて――笑った。
いつもの、いたずらっぽい笑みじゃない。
静かで、まっすぐな笑み。
「はい、マスター。仰せのまま」
その瞬間。
ヴェルトの輪郭が、緑の光に溶けた。
緑の光の粒子が明滅すると僕の周りを揺蕩い、優しく包み込む。
光が、僕の胸の内側へ流れ込む。
熱ではない。重さでもない。
ただ、確かな存在感。
――二つの意識が、一つの身体に重なる。
視界が、少しだけ広がった気がした。
背後の気配が、前と同じ見え方で入ってくる。
敵の重心。呼吸。次の動き。
坑道の湿度すら、情報として整理される。
僕はウィンドウを閉じる。
閉じたのに、消えない小さなウィンドが一つ。
【1:00/レベル20】
たぶん、このカウントが0になるたびに、レベルが2ずつ削れる。
レベル1になれば――強制解除。
でも今はそれは関係ない。
気にもならない。
ただ、賢者でいられるうちに倒さなければと思うだけ。
光の外に意識を向けた。
上から見下ろしているような視界。
「おい!中でなにしてんだよ!」
ブルース李の声。
焦りが混じっている。
焦るのは当然だ。
獲物が、突然、檻に入ったんだから。
クロハの低い声が重なる。
「……解除、できないの?」
ルルアンが情けない声を上げる。
「え、え、ちょっと待って、これやばくない?」
カナタが矢を引き絞る音。
ブレイズが剣を振るい直す気配。
トレッドワンだけが、笑っている。
「いいねぇ……!」
興奮で声が弾む。
「見せろよ!その中身!なぁ、ユーマ!!」
緑光の膜に、もう一度衝撃が叩き込まれる。
「《衝破拳》!!」
ブルース李が撃ち込んだ。
――バンッ!!
弾かれる。
緑の膜が、わずかに波紋を作っただけで、びくともしない。
「クソ……!」
外側の怒号が、遠い。
内側で、僕は一歩踏み出す。
……身体が軽い。
どこに踏み込めばいいか。
どう避ければいいか。
どう潰せばいいか。
全部、最初から整理されている。
(……ヴェルト)
内側から、声がする。
口で喋るんじゃない。
思考の端に、そっと置かれる。
(大丈夫です。私が一緒にいますから、マスター)
大切な人が一緒にいる。
姿は見えないけれど、僕の中に確かにいる。
僕は、緑の光に手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、光が震えた。
森の葉が一斉に揺れるみたいに。
そして――開いた。
緑光が、外側へ溢れる。
「……っ!」
ブルース李が反射的に目を細める。
カナタが矢を放つ角度を変える。
ブレイズが剣を構える。
クロハが杖を掲げる。
ルルアンが回復の詠唱に入る。
全員が一斉に動く。
でも。
遅い。
『遅い』という感覚が、初めて腑に落ちる。
僕の身体が速くなったわけじゃない。
世界の動きが、手に取るように見える。
――緑乱の賢者。
僕は、息を吐いた。
そして。
次の一歩を、踏む。
……それは、攻撃の始まりじゃない。
狩りでも、嬲りでもない。
徹底的に終わらせるための、始動。
緑の光が、僕の周囲に渦を巻く。
契約の紋章が、脈打つ。
内側で、ヴェルトが静かに笑う気配がした。
(行きましょう、マスター)
僕は、頷く。
(――うん)
そして、緑光がさらに濃くなる。
外側の景色が、また溶ける。
敵の輪郭が滲む。
坑道の壁が遠くなる。
眩しさじゃない。
濃い森の中に沈むみたいな、深い緑。
その緑の中で、確かに――何かが切り替わる。
カウントダウンが開始される。
でも、その代償を払ってでも。
――守る。
守るために、勝つ。
緑光が、最大まで膨らんだ。
そして。
ふっと、消えた。
魔法陣が消える。
緑の膜がほどける。
坑道の湿った空気が、戻る。
そこに立っているのは――僕だけだった。
ヴェルトはいない。
姿は、ない。
でも、空っぽじゃない。
僕の髪は、深い緑に変わっていた。
瞳も、森の奥みたいな深緑。
身に纏う服は、さっき光の中で見た――深緑の長衣と、裾の絞られたズボン。
金糸の刺繍が、僅かに光を拾う。
そして、手の甲の契約紋章が、静かに脈打っている。
敵の輪が、息を呑む気配がした。




