その指先にあるもの。
トレッドワンの斧が、低く唸った。
肩に担がれた刃は、まだ振り下ろされていない。
けれど、その溜めそのものが圧だった。
踏み込めば、終わる。
下がれば、追われる。
(……詰めてくる)
直感が、そう告げる。
次の瞬間、斧が振り上げられた。
軌道は高い。
けれど――途中で止まる。
(フェイント!)
反射的に横へ跳ぶ。
だが、その動きすら見越していたかのように、盾が突き出された。
「――っ!」
受け止めきれない。
身体が弾かれ、石床を滑る。
赤いエフェクトが、視界の端で弾けた。
小さい。
けれど、確実に。
――当たっていないはずなのに、減る。
(削られてる……!)
トレッドワンは追ってこない。
いや――追わないのではない。
待っている。
こちらが立て直す、その瞬間を。
「ほらほら、止まるなよ」
楽しそうな声。
だが、視線は一切逸れていない。
次は、低い薙ぎ。
しゃがむ。
風圧が、頭上を撫でる。
すぐに立ち上がり、《ウィンド・ブラスト》。
斧の振り抜き終わり。
そこしかない。
風が叩きつけられ、トレッドワンの身体がわずかに揺れる。
――今!
すれ違いざまに、杖を叩き込む。
金属音。
火花。
HPバーが、ほんの一ミリ動いた。
「いいねぇ」
笑う。
本当に、心から楽しんでいる。
「ちゃんと殴り合いになってる」
その言葉に、背筋が冷えた。
遊ばれている。
けれど、完全な手抜きじゃない。
こちらの動きを読む対象として見ている。
だからこそ――次の一撃が、速い。
さっきより、半拍早い踏み込み。
さっきより、低い斧。
反応が、遅れる。
盾がぶつかり、体勢が崩れた。
赤いエフェクト。
また一つ。
(……まずい)
HPバーが、2割を切った。
避けている。
確かに、直撃はしていない。
それでも、間合いの中にいるだけで削られる。
トレッドワンの攻撃は、そういう質のものだった。
斧。
盾。
身体そのもの。
全部が、判定。
(このままじゃ……)
視界の端で、ヴェルトが見える。
前衛二人を相手に、必死に耐えている。
こちらを見ていない。
――見られない。
集中している。
僕を信じて、前だけを見ている。
それが、逆に――
「よそ見すんなよ」
低い声。
気づいたときには、もう遅かった。
斧が、真横から迫っている。
「っ!」
身を捻る。
刃そのものは外れた。
だが――。
圧。
風。
赤いエフェクトが、連続で弾けた。
(110……95……)
視界の端で、数字だけが冷静に減っていく。
「いい顔してるじゃん」
トレッドワンの声が、近い。
「必死で、考えて、避けて……それでも削れる」
斧が、再び担がれる。
「だから面白いんだよ」
その瞬間だった。
最初に異変を感じたのは、音だった。
剣戟でも、魔法の炸裂音でもない。
もっと静かで、乾いた――何かが「切り替わる」ような気配。
ヴェルトの背後。
瓦礫の陰に溶けるように立っていたクロハが、ゆっくりと息を吐いた。
「……はぁ」
それは溜息だった。
苛立ちを隠そうともしない、露骨なそれ。
「もう、めんどくさい」
その呟きに、感情はほとんど乗っていなかった。
あるのは、ただの処理。
『片付ける』という判断だけ。
クロハの杖が上がる。
狙いは――僕じゃ、ない。
(――ヴェルト!?)
前衛二人を正面に抱え込み、
《ツリー・ウォール》を軸に必死で耐えているヴェルト。
背中。
完全に、無防備だ。
赤い魔力が、杖先に凝縮される。
熱が、空気を歪ませる。
「《ファイア・バレット》」
放たれた魔法は、一直線だった。
迷いも、遊びもない。
「ダメッ――っ!!」
叫びながら、身体が先に動いた。
トレッドワンの間合い。
斧の射程。
盾の圧。
そんなこと、考えていられなかった。
「《ヴァイン・バインド》!!」
床を叩いた瞬間、蔦が噴き上がる。
狙いは、クロハの足元。
絡みつく。
引き倒すほどじゃない。
でも――体勢は、崩れる。
「……っ」
クロハの視線が、一瞬だけ揺れた。
そのほんの一瞬で、十分だった。
《ファイア・バレット》の軌道が、わずかにズレる。
ヴェルトを外れ――
代わりに、こっちへ。
(――来る)
距離が近すぎる。
回避動作に入る前に――赤い光が。
衝撃が、胸を打ち抜いた。
「――っ!!」
熱が走る。
内側から焼かれるような感覚。
視界いっぱいに、赤いエフェクトが弾けた。
HPバーが、一気に削れる。
一割。
数字が、無慈悲に表示される。
その瞬間。
「……ッ!!」
トレッドワンの空気が、完全に変わった。
「何度も――」
踏み込み。
地面が鳴る。
「何度も言わせんなっ!!」
怒声が、坑道を震わせる。
「よそ見すんなって言ってんだろうが!!」
斧が、真正面から振り上げられる。
「《ウィンド・ブラスト》!」
反射的に撃つ。
風が叩きつけられる。
――止まらない。
盾で押し切られる。
距離が、一気に詰まる。
(まず――)
HP一割。
この距離、この速度。
避けきれない。
そう理解した、その刹那。
視界に、緑が割り込んだ。
「――っ!?」
視界に割り込んできた影を見て、息が止まった。
ヴェルトだ。
「ヴェルト! やめ――!」
叫ぶより早く、トレッドワンの斧が振り抜かれた。
魔法は――出ない。
《ツリー・ウォール》もない。
ただ、身体ごと。
ヴェルトが、真正面から踏み込んだ。
重たい衝撃音が響く。
刃そのものではない。
けれど、盾にも、壁にもならない身体で受け止め、確実に判定を生む。
赤いエフェクトが、ヴェルトの全身に弾けた。
HPバーが、一気に削れる。
十。
九。
八――。
一桁。
ヴェルトの身体が、ぐらりと揺れた。
それでも、倒れない。
倒れずに、僕の前に立ち続けている。
VRゲームだ。
痛みで動けなくなることはない。
骨が折れて、立てなくなることもない。
――それでも。
数値が、すべてを語っていた。
「……なんで……」
喉が詰まり、声が掠れる。
ヴェルトは振り返らない。
僕を見ない。
ただ、前だけを見据えたまま、低く息を整えている。
「ユーマさん」
その声は、不思議なほど落ち着いていた。
「……大丈夫です」
大丈夫なわけがない。
あと一撃で、リスポーンだ。
それでも。
「あなたを、守れた」
そう言って、ヴェルトはほんの少しだけ、口元を緩めた。
その背中が、はっきりと語っていた。
――信じている。
この状況でも。
数値が一桁になっても。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
その瞬間。
「――っらあっ!」
僕は考えるより先に、身体を動かしていた。
斧を振り抜いた直後で、重心が前に残っているトレッドワンの腹部へ――蹴り。
渾身でも、必殺でもない。
ただ、距離を作るためだけの一撃。
「チッ」
トレッドワンの身体が半歩、後ろへずれた。
それで十分だった。
「……仲間思いじゃん」
ブルース李が、にやりと笑う。
いつの間にか、僕とヴェルトを中心に、円を描くように位置取りが変わっていた。
逃げ道を潰す配置。
前にも、横にも、背後にも――敵がいる。
「なぁ、提案があるんだけどよ」 軽い口調。
けれど、拳はすでに構えられている。
「そのアイテム、渡してくれたらさ」
視線が、僕の首元――ペンダントを指さす。
「見逃してやってもいいぜ?」
息が詰まる。
それを渡せば。
ヴェルトは、これ以上攻撃されない。
(……渡す?)
その選択肢が、はっきりと頭に浮かんだ。
アイテム一つ。
それだけで、ヴェルトがこれ以上攻撃されずに済むなら。
リスポーンすることもなく、ここを切り抜けられるなら――。
(それくらい、安い……?)
一瞬、心が揺れる。
初めてのボス戦で手に入ったアイテム。
それはそれで大事だと思う。
だけど、所詮はアイテムなのだ。
失っても、ゲームは続けられる。
ヴェルトが目の前で倒されるのを見るくらいだったら。
ヴェルトが助かるなら。
そう思った、その瞬間――。
「……それは」
低く、けれどはっきりとした声が、前から飛んできた。
ヴェルトだ。
僕に背中を向けたまま、ブルース李を見据えている。
「それは、ユーマさんが――」
迷いのない声が響いた。
「初めて、ボスを倒して手に入れた戦利品です」
坑道の空気が、わずかに張りつめた。
「そのときの、達成感も」
ヴェルトは一度、ぎゅっと指を握りしめた。
まるで、その瞬間の手応えを、もう一度確かめるみたいに。
「怖さも」
一瞬だけ、呼吸が浅くなる。
背中に走った緊張を、今でも覚えているように。
「嬉しさも」
その言葉だけは、少しだけ柔らかく落とされた。
一つひとつを、確かめるように。
「全部が、詰まっています」
ヴェルトの声は、感情的ではない。
けれど、揺れていなかった。
「……思い出の品なんです」
その一言が、はっきりと『線』を引いた。
渡さない。
譲らない。
交渉は、成立しない。
その事実が、静かに確定する。
――絶対に、渡さない。
「ハッ」
ブルース李が鼻で笑う。
「思い出?そんなの大事に取っといたって、インベントリ圧迫するだけだろ」
拳をぶら下げたまま、半歩だけ前に出る。
殺気が薄れたが、その分、余裕が露骨だった。
坑道の湿った空気の中で、靴底が石を擦る音だけがやけに大きく響く。
周囲では、ブレイズが大剣を肩に担ぎ直し、
カナタは弓を下ろさないまま、こちらの動きを値踏みするように視線を走らせている。
逃げ場はない。
囲まれている、という事実だけが、静かに押し付けられる。
ブルース李は肩をすくめた。
まるで雑談でもするみたいに。
「まぁ、レアなら保管しとく価値はあるけどな」
その軽さが、胸に刺さった。
(……渡そうとしてた)
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
ほんの少しでも。
迷った自分が、確かにいた。
アイテム一つで、助かるなら。
ヴェルトがこれ以上、傷つかずに済むなら。
そうやって――逃げ道を探していた。
(最低だ)
ヴェルトは、僕の思い出を守ろうとしてくれた。
それなのに僕は――勝つ前に、逃げ道を探していた。
交渉で済ませる?
差し出して終わらせる?
(……心が、負けてた)
恥ずかしくて、情けなくて、喉の奥が、ぎゅっと詰まる。
――違うだろ。
勝たなきゃ、意味がない。
守りたいなら、逃げるな。
「……じゃ、交渉決裂ってことで」
パンッと、一拍。
「とどめ、さしてやるよ」
拳に、青い光が宿る。
「《衝破拳》」
空気が鳴った。
一瞬で距離が詰まる。
ダメだ。
ダメだ、ダメだ。
ヴェルトが倒されるなんて、ダメだ。
わかってる。
これはゲームだ。
リスポーンもある。
――それでも。
目の前にいるのは、
NPCなのに、普通の人間みたいに話して、笑って、信じてくれる――。
僕の、初めての友達だ。
ここで見捨てるなんて、できない。
「――っ!」
咄嗟に、僕の指が動いた。




