信じるからこそ。
正面――ヴェルトの方でも、戦況はゆっくりと、しかし確実に変わり始めていた。
「《ツリー・ウォール》!」
ヴェルトの足元から木の壁が立ち上がる。
だが、さっきのような厚みは、ほんの少しだけ薄い気がした。
そこへ、ブルース李の拳と、ブレイズの大剣がほぼ同時に叩き込まれる。
ドンッ!
ガギィンッ!
重い衝撃音が重なり、木壁にひびが走る。
「っ……!」
樹皮が弾け飛び、根が軋む音が広間に響いた。
木壁越しに伝わった衝撃が、ダメージ判定に届く一歩手前で止められた。
(ヴェルトも、押されてきてる……)
視界の片隅で見える緑のローブ。
ヴェルトはそれでも一歩も引かず、《エア・ブレード》や《ウィンド・スピア》で反撃を続けている。
けれど、さっきまであった「余裕」は、もうほとんど残っていなかった。
防御寄りの魔法が増え、攻撃魔法の間隔がわずかに伸びている。
その原因は、明らかだ。
「はいはい、回復入りまーす」
通路の奥から、ルルアンの軽い声が響く。
「《ヒール》!」
彼女の杖から放たれた光が、ブルース李とブレイズを包み込む。
削ったはずのHPバーが、またじわりと回復していく。
そのときだった。
「ちょっと!削られ過ぎじゃない?」
鋭い声が坑道に跳ねた。
「うるせぇ、こっちは楽しんでんだよ」
「あら、そう?若干押されてるように見えるんだけど?」
クスッとカナタが笑うと弓を放つ。
ヴェルトは後ろに一歩飛んで避けた。
「残念」
「……カナタ」
カナタの影に隠れるようにしていた気配が、瓦礫の奥からぬるりと浮かび上がる。
クロハだ。
その姿は相変わらず影の中に溶けるようで、
けれど声だけは冷たく、筋の通った刃物みたいに響く。
「……デバフ、入れる」
低く呟き、クロハが杖を胸の前で水平に構えた。
次の瞬間、ヴェルトの足元へ細い魔法陣が広がる。
淡い紫の光がぐるりと円を描き、ぞわりと空気が粟立つ。
「《フリーズ・ロック》」
魔法陣から吹き上がる冷気がヴェルトを包もうとした――が。
ぱん、と乾いた音を立てて、光陣が弾けた。
「……え?」
クロハの声が、わずかに震えた。
レジストだ。
ヴェルトがひらりと身をかわしたのでも、魔法で弾いたのでもない。
ただ、効果が通らなかった。
「レジ……?レベル、下なのに……?」
静かな声音が、かえって怒りを孕んでいく。
クロハの眉がぴくりと跳ねた。
すぐに、再び杖が上がる。
「じゃあ――これは?」
足元の影が揺れ、濃い紫の霧が立ちのぼった。
「《ミスト・ポイズン》」
毒霧がヴェルトへ這うように広がる。
スリップダメージがじわじわ削るはずの状態異常魔法。
しかし、またしても、霧が触れた瞬間――ふっと掻き消えた。
レジスト。
「…………」
沈黙の中で、クロハの頬がぴくりと引きつった。
「毒耐性とかの装備、持ってるのかもよ?」
カナタが、視線を矢じりから外さないまま軽く言う。
「……生意気」
クロハがかすれ声で呟いた。
もう完全に怒っている。
静かに、冷たく、芯だけ灼けているタイプの怒りだ。
坑道の空気が、わずかに張り詰めた。
音は何も変わらないのに、肌だけが先に異変を察知する。
杖を高く掲げる。
「カナタ、合わせる」
「了解」
短く返し、カナタが弓をより深く引き絞った。
矢じりに光が凝縮され、空気がピン、と張る。
同時に、クロハの杖先にも紫の魔力光が渦を巻く。
一瞬だけ、世界が静止したみたいに感じた。
次に動いたほうが、確実に何かを失う――そんな予感だけが、背中を撫でる。
二人の照準が――ヴェルトに重なる。
直後。
「《シャドウ・スピア》!」
「《ピア・ショット》!」
魔法と矢が、光の筋を引いて一直線に迫る。
「――っ!」
ヴェルトが即座に杖を振り上げた。
「《ツリー・ウォール》!」
床石が爆ぜるように盛り上がり、太い根が絡み合って壁を形成する。
刹那、二人の攻撃が木壁に直撃した。
矢が深く突き刺さり、影の槍が木肌を抉る。
木片が爆ぜ、衝撃が空気を震わせた。
そこへ――。
「よそ見すんなよ!」
ブルース李が正面から踏み込む。
「潰すぞッ!」
ブレイズが大剣を力任せに振り下ろす。
ヴェルトは木壁を越えてくる二人の圧を受けながら、それでも僕に視線だけを向けた。
(やば……)
喉がきゅっと閉じる。
前衛二人の猛攻。
その真後ろから、中衛と後衛の連携攻撃。
ヴェルトは完全に包囲されている。
そしてその瞬間――僕の身体が勝手に動き始めた。
視界の端で、木壁が軋む。
それだけで、胸の奥がざわりと揺れた。
助けなきゃ。
あの木壁が破られたら、ヴェルトは――。
胸の奥で、判断より先に足が跳ねた。
一歩。
ただその一歩が、ヴェルトの助けになればと願った。
……なのに。
そのほんのわずかな踏み出しが、別の視線を引き寄せる。
空気が――変わった。
「……つれねぇな、俺そっちのけかよ」
耳のすぐ後ろで、低く湿った声が落ちた。
声には苛立ちより、楽しげな温度が混じっていた。
狙われた、というより――選ばれた、に近い。
その声音は、まるで背筋に氷の指を滑らせるみたいに、全身を強張らせる。
呼吸が止まる。
一瞬で理解する。
――やらかした、と。
わずかにヴェルトへ向けた視線。
その隙を、トレッドワンが見逃すはずがない。
影が揺れた――そう思った瞬間、僕の前へ、黒い塊が落ちてきた。
違う。
塊じゃない。
斧だ。
トレッドワンの、振り下ろされる巨大な斧が、視界いっぱいに広がる。
「よそ見すんなよ。お前の相手は俺、だろ」
くぐもった笑い声が刃と一緒に迫ってくる。
逃げ場を塞ぐように、斧の影が僕の動きを完全に奪っていく。
空気がざわりと粟立つ。
ひやりとした冷気が、坑道の湿った空気とは明らかに別の殺気として肌を撫でた。
視界の端で、斧の刃が光を反射する――次の瞬間には、肩口めがけて一直線に落ちてきていた。
あまりにも速い。
僕がヴェルトへ伸ばした足より、ずっと速い。
――逃げられない!
身体が勝手に杖を掲げようとする。
けれど、その動作すらトレッドワンにはすでに読まれている。
「つれなくすんなよ」
背骨に冷たいものが走る。
「ユーマ……俺から目を離すんじゃねぇ」
その言葉とともに、斧の軌跡はさらに深く僕へ食い込んできた。
「《風牙・斬》」
「っ!」
ギリギリで身体を捻り、刃そのものはかわす。
直撃じゃない――それでも、刃が生む圧と風が肌を削り、頬を掠めるように、赤いエフェクトが視界の端でちらりと弾けた。
致命傷じゃない。
それでも、HPバーは確実に削れていく。
「いい顔してんじゃん。……だが、こっちはまだ余裕ある」
トレッドワンのHPバーは、七割以上残っている。
こっちの攻撃は、まともに当てても雀の涙。
向こうの攻撃は、かすっただけでHPバーがごっそり減る。
それでも――今のところ、僕は倒れていない。
「《ウィンド・ブラスト》!」
斧が振り切られる瞬間を狙って、足元へ風を叩きつける。
踏み込みのタイミングが狂い、斧の刃が石床を空振りする。
その隙に、すれ違いざまに杖を叩き込む。
(よし、タイミングはバッチリ。すぐに離れなきゃ)
ヒット&アウェイは基本中の基本。
レベル差があるなら尚更だ。
ずっと一人でやってきたアクションゲームの感覚が、自然と身体の動きに染み込んでいく。
目の前のトレッドワンは、人間だ。
でも、その攻撃は「パターン」として見える。
高く振りかぶる大ぶり。
低い位置からの薙ぎ払い。
盾でのフェイント。
その一つ一つに、「いつなら反撃できるか」の隙間が存在している。
「っらあ!」
斧の根元を狙って杖を打ち込む。
金属と木がぶつかる重い音が鳴り、火花が散った。
HPバーが、ほんの一ミリ分だけ削れる。
「チクチク削ってくるねぇ」
トレッドワンが肩を回しながら笑う。
「ソロがボス相手に、そうやってんだろ……でもな」
斧が、もう一度肩に担がれる。
その構えが、「今度は本気だ」と告げていた。
「人間相手だと、パターン、崩せんだよ」
言葉と同時に、トレッドワンの動きが一段階変わった。
一定だったリズムが、崩される。
早かったり、遅かったり。
わざとモーションを途中で止めて、フェイントに変えたり。
(……っ、読みづら……い!)
頭がフル回転する。
それでも、一撃一撃の重さは変わらない。
斧の縁が腕を掠める。
盾の角が脇腹を叩く。
小さな赤いエフェクトが連続で弾ける。
大当たりじゃない。けれど小当たりは小当たりで、確実に痛い。
むしろ厄介なのは、削れ方がじわじわじゃなく、数字としてはっきり落ちるところだ。
(六割、五割、四割――)
避けているのに、削られていく。トレッドワンの間合いが、それだけ密なんだと理解させられる。
「ユーマさん!」
ヴェルトの声が、遠くで響いた。
そちらを見る余裕なんて、本当はない。
でも、一瞬だけ視線をそちらへ滑らせてしまう。
そこには、ブルース李の拳を《ツリー・ウォール》で受け止め、大剣を《ツリー・ランス》で逸らしながら、必死に踏みとどまるヴェルトの姿があった。
ヴェルトの表情に焦りの色が滲み出ている。
それでも、その背中はまっすぐで、僕の方を、一瞬も見ていなかった。
僕のことが心配で……でも、それでも――。
(僕を信じてるから、だ)
自分の前の敵に集中する、その在り方が、何より雄弁だった。
(だったら、僕も――)
トレッドワンの斧が、横から薙ぎ払われる。
しゃがみ込み、ギリギリでそれをくぐり抜ける。
頭上を、重い風が通り過ぎた。
「《ヴァイン・バインド》!」
しゃがんだ体勢のまま、足元へ杖を突き出す。
蔦が石床の隙間から噴き出し、トレッドワンの足首へ絡みついた。
「っと」
動きが一瞬止まる。
「《ウィンド・ブラスト》!」
すぐさま、蔦の引っ張る方向と逆向きに風を叩きつける。
二種類の力が同時に加わり、トレッドワンの身体がわずかに後ろへ傾いた。
隙ができる。
そこへ、さらに《ファイアボール》を叩き込む。
青い炎が爆ぜ、HPバーが少しだけ削れた。
さっきよりは、ほんのわずか多く――合計で一割ちょっと、くらいか。
「……おいおい」
トレッドワンが、心底楽しそうに笑った。
「マジで初心者か、お前。やってること、完全に熟練ソロ勢だぞ」
「おほめにあずかり光栄です、とでも言えばいいの、かな?」
息が上がる。
HPバーだけじゃない。
MPバーも、確実に削れてきていた。
(残り……三割弱)
ここから、《ウィンド・ブラスト》と《ヴァイン・バインド》を多用すれば、すぐに空になる。
そうなったら、本当に『棒立ちの初心者』に逆戻りだ。
でも、逆に言えば――まだ、三割残っている。
(三割あれば、一手は通せる)
もう、効率とか安定とか、そんなことを考えている余裕はなかった。




