格上だって関係ない。
喉の奥に残った恐怖を無理やり押し込めて、僕は杖を握り直した。
逃げ腰になりそうな足に力を込め、真正面に立つトレッドワンを見据える。
さっきまで押し潰されそうだった胸の奥に、じわりと熱が灯っていく。
ヴェルトが一人で前線を支えている姿が、視界の端で揺れた。
(……もう、隠れてるわけにはいかない)
斧を構えるトレッドワンの殺気が肌を刺す。
それでも、今はさっきまでの僕じゃない。
震えが完全に消えたわけじゃないのに、足が勝手に一歩、前へ出た。
(戦う。――ヴェルトと並ぶために)
目の前に立つトレッドワンが、わずかに目を見開く。
すぐに、その口元がにやりと歪んだ。
「……へぇ。言うじゃねぇか、初心者」
低く笑いながら、トレッドワンは斧を肩に担ぎ直した。
鉄の刃が、岩壁の灯りを受けて鈍く光る。
盾を構えた左腕が、じり、とわずかに前に出た。
――重い。
視線を合わせただけで分かる。
さっき一度、真正面から受け止めたあの一撃。
もしもVRじゃなくて現実だったら、腕ごと折れていてもおかしくない重量だった。
(でも、ここはゲームだ。レベルとステータスと、プレイヤースキルの世界――)
呼吸を整えながら、意識のどこかで自分に言い聞かせる。
トレッドワンのレベル49――僕より、19も上。
装備も、見ただけで分かる。
胸当ての光沢、肩当ての造形、脚甲のエッジ。
どれも、さっきまで戦っていた「朽ちた騎士」とは比べものにならない、ちゃんと鍛えられた金属の質感だ。
(防御も攻撃力も、ぜんぜん違う。こっちの《ファイアボール》が直撃しても、きっとHPの数パーセント削れるかどうか――)
でも。
(それでも、やる)
杖を握り直し、一歩、前に出る。
足裏に伝わる石床の感触が、やけに鮮明だった。
「トレッド、遊びはここからだぞ」
正面のブルース李が、ちらりとこちらを見て笑った。
その隣で大剣を構えるブレイズも、視線だけ一瞬こっちへ寄越す。
「そうだな。……じゃ、相手してやるよ、ユーマ」
トレッドワンが、斧をゆっくりと下ろした。
構えた瞬間、空気が一段階、重くなる。
――来る。
「っ……!」
次の瞬間、斧の軌跡が視界から消えた。
風を裂く音と、足元の石が砕ける音が同時に響く。
さっきよりも、さらに速い。
(右、上段――!)
身体より先に、視界が動く。
右肩側からの大きな振りかぶり。
斧の重さを活かした、押し潰す一撃。
僕は反射的に左へ飛び込んだ。
地面を蹴った足裏が、砂を巻き上げる。
ほんの一瞬、背中をかすめるように風が抜けた。
ドガァンッ!
斧が叩きつけられた床石が砕け、石片が雨のように飛び散る。
砕けた石粉が白い靄のように舞い上がり、焦げた土の匂いが鼻を刺す。
破片の一つが頬を掠め、ヒリッとした感覚が遅れて走った。
(当たったら、一撃で終わってた……!)
怖気が背筋を這う。
けれど、それより速く、口が動いていた。
「《ウィンド・ブラスト》!」
避けざまに、トレッドワンの足元――踏み込み足へ向けて杖を突き出す。
圧縮した風を叩きつける感覚は、もう何度も繰り返した動きだ。
ドンッ、と空気が爆ぜる。
風の弾丸が足首を弾き、トレッドワンの体勢がわずかに浮いた。
「っと」
バランスが崩れかける。
でも、彼はそのまま転ばなかった。
盾を地面に叩きつけ、支点にして身体を支える。
重心の移動が、滑らかすぎる。
(……やっぱり、うまい)
それでも、ほんの一瞬――動きが止まった。
その隙を、僕は逃さない。
「《ファイアボール》!」
盾と斧の間、胴体の隙間へ狙いを絞り、小さな炎弾を撃ち込む。
青白い炎がトレッドワンの胸当てに弾け、火花が散った。
HPバーが、ほんのわずか――五パーセントあるかないか、削れる。
火花の残滓が揺れながら落ちていき、暗い坑道の天井まで赤い光が一瞬だけ反射した。
その輝きが消える頃には、胸の奥の期待も静かに沈んでいく。
「ハッ……マジかよ」
火花を払ったトレッドワンが、むしろ楽しげに笑う。
(……やっぱり、この差か)
思わず、心の中で呻く。
直撃でこれだけ、だ。
「おーおー。ちゃんと狙って撃てるじゃねぇか」
トレッドワンは、焦った様子もなく胸を軽く叩いた。
燃えかけたエフェクトを払い落としながら、にやりと笑う。
「初心者っつっても、棒立ちでスキルぶっぱするタイプじゃねぇな……ソロでボスとか回してた口か?」
「………さあね」
とっさに逸らした声は、思った以上に軽かった。
本当のことを言う気にはなれないし、かといって否定するほどの余裕もない。
曖昧な返事で誤魔化したつもりなのに、胸の奥がひりつくように熱い。
トレッドワンの目が、その一拍の揺らぎを逃さず射抜いた。
まるで僕の言葉の裏に隠したものを正確に拾い上げたみたいに、彼はわずかに目を細める。
「……なるほどな。言いたくねぇってことは、まぁ――それなりにやれてきたってこった」
低く言いながら、彼の足取りがさらに軽くなる。
ステータスも装備も低いはずの僕が、まだ戦えている理由を見抜かれている気がして、喉がひりついた。
「ステと装備がしょぼくても、動きだけはそれなりにできてんだよ……だからこそ――」
トレッドワンの足が、ふっと消えた。
「余計、狩り甲斐があんだよな」
低く呟いたその声は、もう背中の方へ回り込んでいた。
背後の闇が揺れ、坑道の湿った空気が冷たく肌を撫でた。
気配が形を持たないまま迫ってくる。
「っ――!」
振り向きざま、《ウィンド・ブラスト》を叩き込む。
さっきより出力を抑えた小さな風弾を、斧の軌道にぶつけるように。
風と刃がぶつかり合い、軌道がずれる。
斧の一撃は肩のすぐ横をかすめ、床をえぐった。
赤いエフェクトが視界の端で瞬いた。
かすり傷――それでも、HPバーがごっそり減る。
(……っ、三割……!)
鼓動の音だけがやけに大きく響く。
周囲の喧騒が遠くなり、坑道の冷えた空気だけが鮮明に触れた。
今のは「当たっていない」に近い。
それでも、この削れ方。
初期装備のローブと、向こうの上級装備。
レベル差。
ステータス差。
全部が、数字の形で目に見える。
(だけど――)
息を整える。
(格上だって、関係ない)
胸の中のどこかが、逆に静かになっていく。
(こういうハンデ戦、何度もやってきた)
ソロゲーで、縛りプレイや低レベルクリアに挑んだこと。
ボスの攻撃パターンを、何十回、何百回と見て覚えたこと。
そのすべてが、今この瞬間に繋がっている気がした。
「もう一回だ」
自分に言い聞かせるように、小さく呟き、杖を構える。




