君と並ぶために。
速い。
「っ――!」
視界が揺れる。
さっきまで二、三歩離れていたはずのブルース李が、一瞬で目の前まで詰めてきていた。
拳が――来る。
「《ツリー・ウォール》」
ヴェルトの声が落ちた瞬間、床石の隙間から複数の根がゴッと音を立てて隆起した。
それらは生き物のようにうねりながら絡み合い、一瞬で厚みのある木壁へと姿を変える。
まるで森林の断面をそのまま引き抜いてきたような、重たい質量を感じる壁だった。
ドンッ、と鈍い衝撃が木壁を震わせた。
ブルース李の拳が深くめり込み、木肌が裂け、樹皮が弾け飛ぶ。
衝撃で風圧すら生まれ、僕の前髪がふわりと浮いた。
「おおっと。反応いいね」
砕け散った木片を払い落としながら、彼は軽く笑った。
その足元には、壁を形成した根がまだ生々しく蠢いている。
ヴェルトがその揺らぎを逃さず、すっと腕を伸ばした。
「《ツリー・ランス》」
低く、地を刺すような詠唱。
砕けた木壁の残骸――そこから延びた太い根が、一拍の間を置いて、ぎゅるんッ!と音を立てて伸びる。
土煙を巻き上げながら、根は槍の穂先のように一点へと尖り、弾丸より速く、まっすぐブルース李の胸元を貫こうと走った。
「っと、危ねぇ!」
ブルース李の顔に、初めて本気の色が灯る。
大地を蹴り、上体をひねり――わずか紙一重で槍根をかわす。
根槍は彼の横を掠め、背後の石壁に深々と突き刺さった。
岩肌が悲鳴を上げるようにひび割れ、破片がぱらぱらと降る。
「いい攻撃じゃん」
ブルース李は口元だけ笑わせながら、落ちた破片を踏んで後退した。
だが、その瞳はもう軽口の色ではない。
ブルース李は、獲物を見据える獣のように目を細め、その全身をわずかに沈めた。
筋肉が張りつめ、靴底が石床をきしませる。
――跳ぶ瞬間を、自分の中で確定させた合図だ。
そして次の瞬間、石床を抉るほどの勢いで飛び出した。
狙いは、ヴェルト。
「っ――!」
拳が風を裂き、真正面から叩きつけられる。
ヴェルトは咄嗟に腕を交差させて受けたが、衝撃が肩口まで刺さるほど重かった。
踏み止まれない。
その一撃の圧が背中を押し、ヴェルトは後ろに飛んで衝撃を逃がすように体を滑らせた。
床をかすめながら受け流すその動きは綺麗だったが、ギリギリだったのがわかる。
勢いが殺され、ブルース李の拳は空を切る。
「へぇ、受けるんだ?」
ブルース李は空振りをものともせず、握り拳のまま足元で地面をトン、と叩いた。
その一拍――ほんの一呼吸の間。
床に伝わる微かな振動が、むしろ次の攻撃の号砲のように全身を刺す。
そして、さっき空振りした動きの続きからつなげるように、再びこちらへ踏み込んできた。
影が伸び、視界が一気に埋まる。
「ユーマさん、下がって!」
ヴェルトの声が、必死に空気を裂いた。
その声に身体が条件反射で動いた。
僕は崩れた柱の影へ飛び込むように走る。
その背後で、格闘家の踏み込みと空を割く音が重なった。
「させるかよッ!」
ブルース李が真正面から突っ込んでくる。
そう思った瞬間、右の死角から別の影が跳ねた。
ブレイズだ。
ヴェルトが僕を庇うために前へ出たその背面側。
瓦礫を踏み台にして高く跳び、斜め上から大剣を振り下ろしてきた。
剣圧が床の砂を巻き上げ、部屋全体が震える。
ヴェルトが身をひねって避けるが、刃がかすめただけで淡い赤いエフェクトが一瞬走った。
「ヴェルト!」
「問題ありません!」
ヴェルトはダメージ表示の消える肩口へ一瞥だけ送り、すぐに杖を構え直す。
ローブは無傷だが、今の一撃が本気だったことだけは嫌というほど伝わってきた。
その斜め後方――瓦礫の陰。
カナタが弓を引き絞っていた。
距離を詰めず、一点を狙い続ける前衛と後衛の隙間を射線で支配する位置。
気配を殺しているせいで、逆に存在感がやけに重い。
「こちらも、そろそろ本気を出さないといけませんね」
ヴェルトが低く呟いた瞬間、杖先に淡い緑光が灯る。
「《エア・ブレード》」
空気が震え、刃のような風圧が一直線に走る。
床の砂が巻き上がり、光の筋が弧を描くように伸びていく。
迫っていたブレイズが大剣を構え直し、ブルース李も咄嗟に腕でガードの体勢をとる。
風の刃が二人の目前で爆ぜるように拡散し、二人の身体がわずかに押し返された。
「っ……くそ、風魔法かよ!」
ブレイズが舌打ちし、ブルース李は楽しげに目を細めた。
ほんの数歩――だが、その後退がこちらに与えられた最初の猶予だった。
僕の喉が、乾いた音を立てる。
逃げるためじゃない。
ヴェルトを守るために、いま自分にできることを――。
「……っ、行ける……!」
必死に息を吸い込み、あの練習したばかりの呪文を思い出す。
「《ヴァイン・バインド》!」
僕の叫びと同時に、石床が内側から突き上げられたように盛り上がり、ひびが走った。
その割れ目から、太い蔓が勢いよく噴き出す。
一本、二本――いや、もっとだ。
地面の亀裂が三方向へ裂け、蔓は生き物のように伸び広がった。
ブレイズの足首へ絡みつき、真正面から迫るブルース李の踏み込み軌道へ伸び、さらに後方のカナタの足元へ走って瓦礫を持ち上げ、足場を崩す。
まるで大地そのものが味方をしてくれたかのように、蔓は敵の動きを絡め取り、戦場の流れを一瞬で変えていく。
「っと!」
ブルース李が半歩スライドして蔓を蹴り裂く。
ブレイズは力任せに剣を振り下ろし、絡みついた蔓をまとめて叩き斬った。
木片のようなエフェクトが四散し、光の粒子となって消える。
カナタだけが、蔓の突き上げる瞬間より早く、音もなく後退して距離を保った。
「……やるじゃん、ユーマくん」
ブルース李が蔓を蹴り払いつつ、ニッと笑う。
ヴェルトはちらりと僕に視線を送り、安心したように、しかし戦場の空気にふさわしい静かな声で言った。
「――ありがとうございます。続きは、ここからです」
静かに告げるヴェルトの声と同時に、杖先に宿った緑光が弾けた。
空気が震え、風が巻き、ブレイズが反射で大剣を構える。
「来るな……ッ!」
ブレイズが踏み込む。
その直前、ヴェルトが杖を横に払う。
「《エア・ブレード》!」
風の刃が奔り、床の砂が一斉に逆向きへと舞い上がる。
斬撃の軌跡を読んだブレイズは剣を盾に構えて横へ跳んだが、肩口に浅い光のエフェクトが弾けた。
「ちっ……!」
ブレイズが舌打ちするより早く、ブルース李が影のような速さでヴェルトの横へ滑り込んだ。
「いいねぇ、そっちの魔法も!」
低い体勢からの拳が、地響きのような勢いで突き上がる。
ヴェルトは杖を軸に旋回し、半歩だけ身を引く。
しかし、拳が風圧だけでも頬を撫で、青白い火花が弾けた。
(速……!)
僕が息を呑む一瞬。
その一瞬に、ヴェルトは追撃を許さない。
足元に走った小さな魔法陣が淡く輝き――。
「《ウィンド・スピア》!」
突風が槍のように伸び、ブルース李の腹を正面から打ち抜く。
直撃は避けたものの、ブルース李は後方へ滑るように下がり、笑った。
「ははっ、いい反応してんじゃん!」
その笑い声を割るように、別方向からブレイズが叫ぶ。
「まだまだぁッ!」
上段からの大剣。
ヴェルトが杖で受け止めようとする瞬間。
「《ヴァイン・バインド》!!」
僕の魔法が割り込んだ。
床を走るひびの隙間から蔓が一気に噴き出し、ブレイズの足を絡めて動きを鈍らせる。
「っ……良い判断です、ユーマさん!」
ヴェルトが短く礼を言う。
そのわずかな会話の間にも、戦場は回り続ける。
ブルース李が姿勢を立て直し、後衛のルルアンがブルース李に向かって回復魔法を唱えた。
「ちょっと、何くらってんのよ!ヒール」
ブルース李のHPが回復していく。
せっかく削ったのに。
回復役がいるっていうだけで、また始めに逆戻りだ。
「カナタ」
クロハが声を掛けた。
「わかってる」
瓦礫越しの暗がりで、ひとり弓を構えたまま目を細める影がいた。
カナタだ。
つがえた矢じりが、わずかに光を宿す。
「補助、入れる」
低い声が戦場に流れた。
短い声とともに、カナタは矢を高く放つ。
矢は天井近くでぱん、と弾け、光の粒が雨のように降り注いだ。
それがブレイズとブルース李の輪郭を淡く縁取った瞬間、二人の動きが明らかに強化される。
「バフ矢かよ。いい趣味してんじゃん」
ブルース李が肩を回し、満足げに笑った。
踏み込みの一つ一つが、すでにさっきより重く、速い。
足元の砂が跳ねる音まで鋭さを増している。
(……?)
その瞬間、
ふと、自分の背後――足元の影に淡い光が揺れた。
(え……バフの、光?)
ブレイズやブルース李に降り注いだはずの強化エフェクトが、なぜかほんのわずか、僕の足元にまで伸びている。
(やば……!)
理解が一瞬遅れた。
これは――バフ光が「誰か」を通り抜けて伸びてきたわけじゃない。
僕のすぐ背後に、その「誰か」が立っている。
反射的に前へ跳ぶ。
床の砂が滑り、視界が揺れ、心臓が喉までせり上がる。
走り出しながら振り返る。
――そこにいた。
「遅ぇよ、気づくの」
トレッドワン。
さっきまで姿を見せなかった第三の前衛が、いつの間にか僕の背中の真後ろに立っていた。
振り上げられた斧が、ほぼゼロ距離で振り下ろされる。
「っ――!」
咄嗟に杖を横に構えた。
ガギィン! と金属の衝撃音が響き、腕に痺れるほどの衝撃が走る。
ゲームでなければ、確実に折れていた。
「へぇ、受け止めんのかよ」
トレッドワンが鼻で笑い、さらに力を込めて押し潰そうとしてくる。
押し負ける――!
「《ウィンド・ブラスト》!!」
叫ぶより先に、魔力が杖に集まった。
渦巻く風が一気に爆ぜる。
ドンッ!!
圧縮された風の弾丸が至近距離で炸裂し、トレッドワンの身体が後方へ大きく弾き飛ばされた。
瓦礫へ激突し、砂煙が上がる。
「くっ……!」
腕が震える。
斧を受け止めた反動と、魔力を無理やり叩き込んだ反動が同時に押し寄せる。
(助かった……本当に危なかった……)
背すじに冷たい汗が伝う。
あと一秒遅ければ、頭をかち割られていた。
目の前に真っ赤なエフェクトが散るだけだけど、ゲームとはいえ、そういうのは遠慮したい。
息を吸い込む暇すらない。
胸が上下するその一瞬の間にすら、戦場の気配は刻一刻と形を変えて迫ってくる。
今の奇襲を凌いだだけで終わりではない。
むしろ、ここからが本番だと身体が嫌というほど理解している。
(まずい……このままじゃ押し潰される)
視線を前へ戻した瞬間、空気の圧が一気に押し寄せてきた。
ブルース李の踏み込みはなお鋭く、ブレイズの大剣は獣の息遣いのようにうねり、瓦礫の陰からはカナタの冷たい射線が、じりじりと間合いを詰めてくる。
だが、いま圧をかけてきている三人は、敵パーティの前線の全てではない。
正面にはブルース李、斜め前方からはブレイズ――そして 僕を狙って側面へ回り込んでくるのが、同じ前衛のトレッドワンだ。
前衛三人がそれぞれ違う角度から同時に包囲を狭めてくる。
距離の取り方も、踏み込みのタイミングも、まるで狩りの常習者みたいに淀みがない。
どれか一人に意識を向ければ、他の二人が確実に死角へ入り込む配置だ。
本来、この廃坑に侵入してきた敵パーティは六人編成――前衛三人、中衛一人、後衛二人。
前衛はすでに三方向から圧をかけ、中衛のカナタは距離を維持しながら射線を崩さず弓を構え、後衛のルルアンとクロハは通路の暗がりに潜んだまま、いつでも魔法を差し込める位置に控えている。
つまりこれは、三人の前衛が包囲しながら、中衛と後衛が最も嫌な瞬間を狙う――完全に狩り慣れたパーティの戦い方だ。
一気に襲いかかる必要すらない。
逃げ場を削り取りながら、じわりと追い詰める。
そのためだけに動きが組まれているのが、痛いほど伝わってくる。
前衛は獣のように間合いを詰め、中衛は冷静に射角を計り続け、後衛は姿を見せずに気配だけを漂わせ、まるで全員が落とし穴が開く瞬間を共有しているかのようだ。
こっちは――。
実質、ヴェルト一人が前線を押し留めているだけの、たった二人の弱小パーティなのに。
「ユーマさん、大丈夫ですか?!」
その呼びかけに顔を上げると、ヴェルトがブルース李とブレイズを相手に魔法を撃っている。
二人が相手だと言うのに、一歩も引かずにいなしている。
自分よりも大変なはずなのにヴェルトは僕のことを心配してくれている。
(……弱小……ちが、う)
ギュッと杖を握る手に力が入る。
(ここで、気圧されたら……ダメだっ)
胸の奥で、弱い声と強い声がせめぎ合う。
足はまだ震えているのに、心臓だけは前へ進もうとしていた。
視界の端で、ヴェルトの背中が揺れる。
大剣を受け、拳をいなし、それでも僕へ気を配り続ける後ろ姿。
あの細い背中が、たった一人で前線全部を支えている。
(……守られてるだけなんて、いやだ)
息を吸う。
冷たかった空気が、少しだけ熱を帯びて肺に触れた。
目の前にはトレッドワン。
さっきまで僕を倒しに来ていた男が、まだ踏み込みのタイミングを計っている。
逃げれば追われる。怯めば潰される。
怖い。
だけど、それよりも――
(僕は……ヴェルトと、並びたいんだ)
腹の底で、そうはっきり思った。
「ヴェルト、僕は大丈夫」
僕はジッと前に立つトレッドワンを睨みつけた。




