全身全霊全力で!
床一面に広がった影が、波打つようにせり上がった。
悪霊の足元。
そこから広がっていた黒い影が、床のひび割れや崩れた瓦礫に絡みつき、じわじわと形を変えている。
さっきまで騎士たちの足元へ伸びていた細い線は、もうない。
代わりに――影そのものが、部屋の構造に食い込んでいた。
「影の繋がりは、騎士から“この部屋そのもの”に移りましたね」
ヴェルトが息を整えながら呟く。
HPバーは瀕死まではいかないものの、まだオレンジ色。
僕もMPは底が見え始めている。
(ここから、どうする……? でも――)
胸の奥で、恐怖と一緒に、妙な高揚が跳ねた。
ゲームでピンチに追い込まれたときの、あの感覚。
間違えたら一瞬で“ゲームオーバー”だけど、だからこそ、正解を引き当てたくなる。
悪霊が、ゆっくりと腕を広げた。
ザザザッ――。
床一面の影が、鋭い棘の群れのように立ち上がる。
それは一斉にこちらへ向かって、槍のように伸びてきた。
「《ウィンド・ブラスト》!」
反射的に風を叩きつける。
だが、影の槍は物理的な手応えが薄く、押し返しきれない。
風は確かに当たっているのに、影の輪郭がぶれて、すり抜けるみたいに形を持ち直す。
(くそ……! 仕様がわからないと、こういうところで差が出るんだよね)
「影は、形になっていても半ば術そのものです。押し返すより、受ける場所をずらした方がいいですね」
「先に言って!?」
ひときわ太い影の槍が、さっきまで僕の胸があった場所を貫いた。
石床に深々と突き刺さり、ひび割れが四方へ走る。
(まともに喰らったら、あれも即死コースだ……ゲーム的には)
ほんの少し、背筋が冷える。
でも、痛みがないぶん、怖さよりも「どう避けるか」の計算がすぐに頭の前に出てくる。
足元の影がざわざわと揺れ、次の一撃を狙っている。
「ユーマさん、影の核を探してください」
「核?」
「ええ。さっきまでは騎士たちの足元でしたが、今はこの空間のどこか――必ず、濃度が高い場所があります」
言われて、僕は荒れた床を見回した。
割れた石床。
騎士の残骸。
崩れかけた柱。
そのあたり一面に影は広がっているけれど、たしかに――
(あそこだけ、濃い)
岩の段差と床の境目。
悪霊の玉座の真下あたりに、墨を何度も重ねたみたいな真っ黒な影の溜まりがあった。
「あそこ、だよね」
「ええ、おそらく核の一つです。とはいえ――」
悪霊が、ゆっくりと影の剣を持ち上げた。
刃先に黒い光が集まり始める。
「さっきまでの小技とは、明らかに質が違いますね」
ヴェルトの声が、わずかに低くなる。
ただの冷静な分析じゃなくて、「ここからギミック第二段階ですよ」という合図みたいに聞こえた。
「ユーマさん、伏せて!!」
叫びと同時に、ヴェルトが僕の肩を掴んで引き倒した。
次の瞬間――
ズゴォォォォォン――!!
黒い奔流が走り、岩を抉り、天井を震わせた。
爆発音のような衝撃が空気を裂き、鼓膜がビリビリと震える。
天井の一角に大きな亀裂が走り、ざらざらと砂と小石が落ちてきた。
さっきまで僕が立っていた場所の床が、跡形もなく削れている。
(なに、あれ……!? ビーム兵器じゃん……!)
ゲームでしか見ないような大技が、目の前で現実味たっぷりに暴れている。
怖い、というより――正直、ちょっとテンションが上がった。
(こんなの、絶対パターン読み切って叩き込みたいやつじゃん……!)
視界の端で、ヴェルトのHPバーが赤に染まる。
「ヴェルト!!」
起き上がろうとした僕を、ヴェルトが押さえつける。
「……動かないで。まだ撃ってきます」
悪霊の剣先に、再び黒い光が収束していく。
今度は、横薙ぎだ。
広間を丸ごと薙ぎ払うつもりらしい。
「避ける場所、限られますね……」
ヴェルトが周囲を一瞥し、短く息を吸う。
その横顔は、緊迫しているのに、どこか楽しげですらあった。
「ユーマさん、天井を見て」
「え?」
見上げると、悪霊の頭上の岩天井に大きなひび割れが走っていた。
さっきの影の奔流がかすめた部分だ。
黒く焦げた岩肌が、不気味に――いや、攻略対象みたいに、今にも崩れそうに軋み続けている。
「あそこを、落とします。悪霊の射線上に」
「ええっ!?」
「やるしかありません。あれは、受けていい攻撃ではありません」
ヴェルトの瞳が、まっすぐ僕に向く。
「《ファイアボール》で、ひびの中心を撃ち抜いてください」
「そんなピンポイントで……!」
「できます。ユーマさんならきっと」
迷いの欠片もない声。
僕のほうが、不安なのに。
でも――。
「昨日のあなたなら難しかったでしょう。でも、今日は違う」
胸が熱くなる。
言葉だけじゃなくて、ここまで一緒に戦ってきた体感が、そのまま背中を押してくる。
(あのとき――飛び出せたんだから)
怖い。
外したら、クエスト失敗。
ここまで積み重ねたものがリセットされるかもしれない。
(でも――今の僕なら……きっと)
ワクワクと、ほんの少しの怖さが混ざり合って、手の震えが前のめりなものに変わっていく。
「……やる」
深く息を吸い、杖を天井へ向ける。
「お願いします」
ヴェルトの囁きが、震える心を静かに押し上げた。
(狙うのは――ひびの弱いところ)
黒く焦げた亀裂が集中している部分だ。
「――《ファイアボール》!!」
炎の球が一直線に天井へ。
視界が狭まり、炎と岩しか見えなくなる。
「当たれ――っっ!!!!」
小さな爆発。
ひびの中心が砕け、鈍い音とともに岩が剥がれ落ち始めた。
巨大な岩塊が、悪霊の真上へ落ちていく。
同時に、悪霊の黒い奔流が解き放たれた。
ドゴォォォォンッ!!
岩と影の衝撃がぶつかり合い、広間に爆風が巻き起こる。
砕けた岩片と鉱石が雨のように降り注ぎ――悪霊の姿が、爆煙で一瞬だけかき消えた。
「今です!!」
ヴェルトの叫びが響く。
悪霊の足元。
さっき真っ黒だった影の溜まりが、爆風で薄く引き伸ばされていた。
(影が――崩れてる)
床のあちこちで、影が途切れ、形を保てずに震えている。
「ユーマさん、影の根ごと縛ります!」
「うん……!」
「――《ヴァイン・バインド》!」
僕は、悪霊の足元から広がる影全体を狙うように、床へ蔦を走らせた。
緑の光を帯びた蔦が、割れた石床の隙間から一斉に飛び出し、黒い影を絡め取って締め上げる。
ギチギチギチ……ッ。
黒い影が、蔦とぶつかり合って火花のような黒いノイズを散らす。
「《ブレイク・スピア》!」
ヴェルトが続けざまに、影の核を狙って槍を放つ。
濃度の高かった影の塊が、内側から破裂して霧散した。
悪霊の身体が、大きくよろめく。
ボスHPバーが、目に見えて削れた。
(さっきまでとは、違う……!)
じわじわとしか減らなかったゲージが、ここに来てようやくボス戦の第二形態らしい削れ方を見せ始める。
怖い、というより――このまま押し切れるかどうかのラインを読みたくて、目が離せない。
騎士たちという盾はもういない。
今は影の防御も崩れかけている。
ようやく、本体に届き始めた。
「ユーマさん。ここからは――」
「分かってる。もう、逃げないよ」
僕は、自分でも驚くくらい自然にそう答えていた。
炎と風と、蔦と木。
賢者の力じゃなくて、今の僕とヴェルトにできる全部で。
(ここで、ちゃんと倒す。負けたくない。ヴェルトと一緒に勝ちたい)
杖を握り直し、悪霊の濁った瞳を真正面から見据えた。
黒い靄が、最後の悪あがきみたいに渦を巻く。
その中心にある、かすかな青白い光――このボスの核。
そこを、撃ち抜くために。
「ユーマさん」
肩越しに、ヴェルトの声がする。
振り返らなくても、彼が微笑んでいるのが分かった。
「最後くらい、派手に決めてもいいですよ?」
「派手って……」
チラッと目配せされた先に、はっとする。
崩れた天井。
ひび割れた床。
そして――広間の中央に立つ一本の岩柱が目に留まった。
さっきの光線の余波で、根本に大きなひびが入っている。
ちょうど、悪霊と僕たちの中間あたり。
(あれ、落とせるか……? ……いや)
狙うのは、柱『だけ』じゃない。
悪霊を、その下に引きずり込む。
(こういうの、ソロゲーで散々やってきた。ギミック利用は僕の得意分野だ)
「ヴェルト」
「はい」
「悪霊の前、開けられる?」
「もちろん」
ヴェルトが立ち上がる。
杖を剣のように構え、悪霊に向き合った。
「――こちらですよ」
小さく囁き、わざとらしく大きく杖を振る。
影の槍をかわしながら、悪霊の注意を一手に引きつける。
黒い瞳が、ヴェルトを追う。
足元の影が伸び、槍となって彼を貫こうとする。
「《ウィンド・ブラスト》!」
僕は側面から、悪霊の足元を押し込むように風を叩きつけた。
影の足場が一瞬だけ崩れ、悪霊の身体がわずかによろめく。
視線が一瞬だけ、僕の方へ逸れた。
(今!)
悪霊の立ち位置が、柱の真下のライン上に重なったのを確認する。
床を蹴る。
柱の根元まで駆け寄り、ひび割れの中心に杖を叩きつける。
「そこだァァァ!!」
「――《ファイアボール》!!」
小さな爆発が柱の根元を抉る。
火花と石片が飛び散り、柱がゆっくりと傾いた。
ゴゴゴゴ……ッ!
岩柱が、悪霊の方へ倒れ込んでいく。
黒い影が慌てたように形を変え、支えようとするが――
「《ヴァイン・バインド》!」
僕はその影ごと、柱と足元を蔦で縫いとめた。
逃げ場を塞がれた悪霊の上に、巨大な岩塊がのしかかる。
ドシャァァァァンッ!!
重い衝撃が広間を揺らし、黒い靄が爆ぜた。
ボスHPバーが、一気に残り一割を切る。
同時に、床一面の影が、ひび割れたガラスみたいに砕け散った。
(あと、ちょっと……! ここまで来たら、絶対落としきる!)
そう思った瞬間――岩の下から伸びた悪霊の腕が、鞭のようにしなってこちらを払った。
「っ……!」
避けきれない。
横からの衝撃で、僕の体が宙に浮いた。
HPバーが、残り1ミリくらいまで削られる。
視界の端で、警告表示が赤く点滅する。
床に背中から叩きつけられ、息が詰まる感覚だけが走り抜けた。
(まだ、死んでない……! 続けられる……!)
ぼやける視界の向こうで、岩柱の下から悪霊がふらふらと立ち上がる。
黒い霧はほとんど残っていない。
骨ばった体がむき出しになり、今にも崩れそうに揺れていた。
「ユーマさん――!」
ヴェルトの声が聞こえる。
でも、たぶん、彼ももう動けない。
(だったら、ここで)
僕が、やる。
床に手をつき、無理やり身体を起こす。
足に力が入らない。
それでも、膝でにじるように前へ進む。
MPバーを確認する。
ギリギリ、一発分。
(この一発外したら、多分終わる……でも)
不思議と、心は静かだった。
ここまで削って、ここまで来て、その上で撃てる最後の一発。
「……最後まで、付き合ってよ……!」
震える手で杖を構える。
悪霊の胸の奥――さっき自分の炎を叩き込んだ場所を狙う。
短く、息を吸い込んだ。
「――《ファイアボール》っ!!」
炎の球が、ふらつくような軌道で飛んでいく。
一瞬、外れたかと思った。
けれど、炎は悪霊の胸の穴に吸い込まれるようにして消えた。
次の瞬間。
ドッ――という、鈍い音が広間に響いた。
悪霊の胸の中から、緑がかった炎が噴き上がる。
黒い霧が内側から焼かれ、骨が音を立てて崩れ始めた。
「――――アァァァァァァァァ……!!」
耳をつんざくような咆哮。
だけど、もう怖くはなかった。
長かったボス戦の『終了演出』が始まった、と身体のどこかが理解していた。
炎に包まれながら、悪霊の体がゆっくりと崩れていく。
黒い影が霧散し、青白い魂の光が空へと昇っていった。
やがて――すべてが、静かになった。




