二人で、もう一度
――木の軋む音と、窓を叩く風の音。
まぶたの裏に、やわらかな光が差し込んでいた。
ゆっくりと目を開けると、天井の梁と、明るい木目の壁が目に入る。
見覚えのない場所。
けれど、どこか懐かしい空気が漂っていた。
「……ここ、宿屋?」
寝返りを打つと、柔らかい布団がわずかに沈む。
木の香りが鼻をくすぐり、外から人の話し声や荷車の音がかすかに聞こえた。
どうやら街の中らしい。
あの草原じゃない……なんで?
昨夜、ヴェルトと『契約』を交わした。
緑に輝く紋章。光に包まれた草原。
そして、「また明日」と言った彼の笑顔。
確かにログアウトしたのはあの場所だったのに、目を覚ますとここにいる。
混乱していると、コンコン、とドアが二度叩かれた。
木の扉の向こうから、穏やかで聞き慣れた声がする。
「ユーマさん、起きていますか?」
その声を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
「ヴェルト……?」
思わず名前を呼ぶと、扉がゆっくり開く。
光の粒を背に、ヴェルトが立っていた。
銀緑の髪が朝の光を受けてきらめき、淡い笑みを浮かべている。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「うん……あれ、ここは?」
「アーシュアの宿屋ですよ。街のセーブポイントです」
彼は部屋の中へ一歩進み、柔らかな声で続けた。
「昨日の草原は、契約専用の隔離空間なんです。あそこでログアウトすると、最後にセーブした場所――つまりここから再開される仕組みです」
「なるほど……そういうことか」
少し安心した。
けれど、どこか不思議な感覚が残る。
ゲームのはずなのに、あの草原の光景は夢のように鮮やかで、現実のように温かかった。
「混乱させてしまいましたね。でも、こうして無事に目覚めてくれて、よかったです」
「うん。昨日のことが夢じゃなかったって、それだけで十分」
そう言うと、ヴェルトはふっと目を細めて微笑んだ。
その表情は、どこか人間らしくて――NPCだと分かっているのに、息をするみたいに自然だった。
「さて」
ヴェルトが軽く手を叩く。
「今日の予定ですが……昨日のリベンジ、ですね」
「やっぱり、そうなるか」
「約束ですから」
彼の声は穏やかで、けれど芯がある。
「昨日の戦い、僕も覚えています。あと少しでしたね」
「……うん、正直ちょっと怖かった。あの瞬間、ほんとに勝てないって思った」
「当然です。初めて挑む相手でしたし、あの速度と攻撃範囲では仕方ありません」
ヴェルトはゆっくりとうなずいた。
その仕草には慰めでも同情でもなく、まるで隣に立つ仲間のような信頼があった。
「でも、あなたは逃げなかった。それが一番大事なことです」
胸の奥がじんと熱くなる。
そんなふうに言われるなんて思っていなかった。
「ねぇ、ヴェルト。勝てると思う?」
「ええ」
迷いのない声だった。
「今のあなたなら、きっと勝てます。……そうですね、レベルを確認してみてください」
ウィンドウを開く。
数字を見た瞬間、息が止まった。
「……二十……になってる?」
「はい。ミッションに入る直前まで、ずっと戦ってましたから」
あの時は戦うことに必死で、全然気づかなかった。
「すごい……こんなに上がってるなんて……」
思わず目を見張ってウィンドウを凝視すると、ヴェルトが柔らかく笑った。
ほんの一瞬、ヴェルトがNPCじゃなく、隣にいる友達みたいに見えた。
「レベルも上がった。魔法も増えました。あなた自身も強くなっています」
ヴェルトはそう言ったあと、微笑みながらさらっと聞いてきた。
「……『賢者』の力を、使ってみますか?」
「え?」
問いの意味が一瞬理解できず、言葉を失う。
「契約によって得たあなたの力。竜と同調し、能力を飛躍的に高める――『緑乱の賢者』。あの力を使えば、確実に勝てますよ」
彼は淡々と説明しながらも、どこか探るように僕を見つめていた。
けれど、その視線には圧も誘導もない。
ただ、僕の答えを待っているようだった。
少しだけ考えてから、首を横に振る。
「……使わない。あの力を使ったら、昨日の戦いの意味がなくなる気がする」
「意味、ですか?」
「うん、昨日はヴェルトが倒れるのが怖くなったけど、それでも二人で力を合わせて戦ったのは楽しかったんだ。でも、賢者の力を使うのは……なんか違う気がして……」
言葉にして初めて、自分の中にある確かな気持ちに気づいた。
手に入れた賢者の力は、ゲームでいうところのチートだ。
きっと簡単にクリアできてしまうだろう。
でも、一瞬で終わってそれは『楽しい』のだろうか。
(……そんなの、楽しくない)
勝ちたいだけじゃない。
ずっと一人でプレイしてきた。
でも昨日は負けそうだったけど、誰かと一緒にプレイするのが楽しかった。
だからちゃんと戦いたい。
二人で戦って勝ちたい。
――それが本音だった。
「僕はヴェルトと二人で勝ちたい」
ヴェルトはゆっくりとまばたきをして、それから笑った。
やさしい風が、部屋の中を通り抜けるみたいな笑み。
「いいですね。その答え、私は好きです」
「ほんとに?」
「ええ。だから――二人で勝ちましょう」
思わず笑みがこぼれた。
その瞬間、緊張していた心がふっと軽くなる。
「準備ができたら、行きましょうか。南門の方に出れば、すぐフィールドに出られます」
「了解。インベントリ整理だけしたら行く」
ヴェルトは「待ちます」と穏やかに言い、窓の外を眺めながら待ってくれた。
インベントリを開いて装備とアイテムを確認する。
杖の耐久値はまだ十分。ポーションもマナ薬も揃っている。
「……よし、オーケー」
「準備、整いましたか?」
「うん。待たせたね」
「ふふ、いいえ。では――行きましょう、ユーマさん」
ヴェルトが軽く手を差し出す。
その手を取ると、ほんのり温かい感触が指先に伝わった。
NPCのはずなのに、現実の人と何も変わらない温度。
ふたり並んで扉を開ける。
朝の光が差し込み、柔らかく視界を満たした。
「――昨日、あなたが言ってくれた『また明日』。ちゃんと叶いましたね」
「……うん。ほんとに、また明日だね」
ヴェルトが微笑み、僕も笑った。
木の階段を下り、受付の女性に軽く会釈して宿を出る。
石畳の道に朝の光が反射してまぶしい。
街のざわめきが、耳に心地よく広がる。
パン屋から漂う甘い匂い、屋台の呼び声、遠くで響く鍛冶屋の槌音。
どれも生きていると感じられるほど鮮やかだった。
(行こう。ヴェルトが隣にいるんだから、きっと大丈夫だ)
自然と口元がゆるむ。
心の奥が少し高鳴る。
「リベンジ戦、準備はできてるよ――ヴェルト」
「ええ、私もです」
並んで歩く足音が、石畳に静かに重なる。
一人じゃない。
その音が、二人の冒険の始まりを告げていた。




