約束の呪文は「また、明日」
――草原を渡る風が、ふたりの髪を静かに揺らしていた。
静けさの中に、ほんの微かな草のざわめきと、星が瞬く夜の匂いが溶けていく。
夜気はやわらかく、二人の間にそっと降りてきて、どこか現実離れした時間だけが流れていた。
契約の証として手のひらに刻まれた小さな緑の紋章は、夜の星明かりの中でほのかに輝いている。
指先が微かに震えていた。
光の粒が漂っているように見えて、その全てが夢と現実の間に浮かんでいるような気がした。
ヴェルトはそっと僕の手を取る。
その温もりは、まるで森の中の木洩れ陽みたいにやわらかかった。
体温は高くも低くもない。
ただ、安心できる温もりだった。
「それじゃあ――そろそろ帰りましょうか」
ふと、ヴェルトが肩越しに夜空を見上げる。
銀緑の長い髪が風にそよぎ、星の光がその輪郭をやわらかく照らす。
彼の横顔は相変わらず静かで、だけどどこか誇らしげだった。
その表情に、一瞬だけ迷いの影が走った気もするけれど、夜の闇がすぐに包み込んでいく。
「この契約のこと、他の人には秘密です。少なくとも、しばらくは」
彼の声は冗談めいていて、けれど静かな本気が混じっていた。
僕は無意識に頷く。
今の出来事を誰かに伝えたい気持ちもあったけど、きっとそうするべきじゃないのだと分かっていた。
口を開いたら、どんな言葉をこぼしてしまうかわからないほど、胸がいっぱいだった。
「でも、これからは少し大変になりますよ?」
「……え?」
声が震えた。
自分でも情けないくらい、まだ現実味を帯びていない。
ヴェルトは一度だけ、真っすぐ僕を見つめ返してきた。
星明かりを湛えた緑の瞳。
その奥には、計り知れない深さがあった。
「この力は、ちょっとだけ特別です。きっと、いろんなことが――君を待っています」
ヴェルトは僕の手をそっと離す。
触れていた指先が静かに空気に溶けていく感触が残った。
手のひらに残る温もりが消えそうで、思わずぎゅっと握りしめる。
「でも、大丈夫です。私が一緒にいますから」
夜風がふたりの間をそっと通り抜けた。
草の匂いと、ほんのり土の香り。
それだけで、心の中が不思議と落ち着いていく。
それでも、少しだけ心細くなってしまうのは、きっと新しい世界の始まりを感じているからだ。
「緑乱の賢者として、これからの冒険でも、きっと何かが変わっていきます」
静かにそう告げると、ヴェルトはいたずらっぽく微笑んだ。
その微笑みは春の芽吹きみたいで、言葉の端に柔らかな光が宿っていた。
「とりあえず、今日はここまでにしましょう」
「えっと、もう少し」
名残惜しいげにそう伝えるとニコッとヴェルトが微笑んだあとに「ダメです」と答えた。
「もうあちらの時間では夜中です。『人』は休まなといけないと……から聞いてますから」
誰から聞いたのか聞き逃してしまって、聞き返そうとしたらその前にヴェルトが口を開いた。
「ちょっと寂しいですが、また、明日です」
「……うん、また明日」
心の奥底に灯った光が、消えないようにと、そっと自分の胸に手を当てる。
ほんのり熱い――それはきっと、勇気の残り火。
「ありがとう、ヴェルト」
「ふふ、どういたしまして」
彼は少しだけ、何か言いかけてから言葉を飲み込んだような顔をした。
でもその代わり、目だけはずっと僕を見ていてくれた。
そうして、僕はゆっくりと目を閉じた。
草原の夜風が優しく頬を撫でていく――
風の中に、さっきまで隣にいたヴェルトの気配がまだ残っている気がして、思わず瞼を閉じたまま深く息を吸い込んだ。
◆ ◆ ◆
――視界に広がっていた草原の星空が、音もなく消えていく。
僕はヘッドセットを外した。
頭を包んでいた重みがふっと消え、現実の空気が一気に肺の中に流れ込んできた。
静かな自分の部屋の天井がぼやけて見える。
蛍光灯の柔らかい明かりが、さっきまでの幻想的な光とは違って、どこか現実離れした感覚を呼び戻していた。
枕元に転がしたヘッドセットに手を伸ばして、そっと並べる。
髪に残る微かな締めつけの感覚。
首筋にかすかに汗が残っている。
息を吐く。
さっきまでの出来事が、本当に現実だったのかどうか、未だによく分からない。
草の匂い、夜風の感触、ヴェルトの声、あの緑の光――どれも夢みたいに鮮やかだったのに、今はもう手のひらに感じるはずの温度も消えかかっている。
手をそっと見つめる。
ゲームの中で『契約の証』として刻まれた、あの緑色の紋章。
指先にそっと力を入れてみても、現実の自分の手のひらには何も描かれていない。
けれど、何となくまだそこに温もりが残っている気がした。
(……夢、じゃないよな)
ぽつりと独り言のように呟く。
部屋は静かで、窓の外の夜風がカーテンをほんの少し揺らしていた。
カーテン越しの外の闇は、草原の夜よりもずっと重たくて、何も語りかけてはくれない。
それなのに、部屋の中の空気だけは、ほんのりあたたかい。
深く息を吸い込む。
現実に戻ると、さっきまでの自分が遠い世界の住人だったような気さえしてくる。
けれど、頭の中には今もはっきりと草原の夜の空気が残っていた。
心の奥がじんわり温かいまま、しばらくベッドの上でぼうっと天井を見上げていた。
現実の音――時計の針が進む音や、家の外を通る車のエンジン音――そうしたものが、どこか他人事のように耳に入ってくる。
それがまるで別世界の効果音みたいに思える。
もう一度、手を胸の上に乗せる。
ヴェルトの手の温もりや、あの不思議な『リンクした』感覚。
全身を包み込むような優しい力。
それが、自分の中に微かな振動となって残っていた。
心臓の鼓動がまだ少しだけ早い気がして、ゆっくりと深呼吸する。
目を閉じると、すぐに草原の星空が蘇る。
風の音、夜露の匂い。
――ああ、本当に、現実だったんだ。
ほんのわずかに涙腺が緩む。
でも、それは悲しいとか、寂しいとかじゃなくて、何かを手に入れた嬉しさに近かった。
なんだか、ちょっと泣きそうなほど、安心した気持ちと、嬉しさと、ほんの少しだけ寂しいような――そんな不思議な余韻に包まれていた。
不意に、喉が渇いていることに気づいた。
ベッドの端に腰かけたまま、首を伸ばして枕元の水を探してみるけど、なにもない。
立ち上がって、部屋を出る。
ドアノブを回す指先が、かすかに震えていた。
家の中はもう静かで、家族の部屋からは小さな寝息が聞こえてくる。
リビングの明かりは消えていた。
自分の足音が、やけに大きく響く。
キッチンで冷蔵庫を開け、水をコップに注ぐ。
冷たい水が喉を滑る。
その感触は間違いなく現実のもので、身体がじんわりと目を覚ます。
手を洗面台の前で洗う。
鏡に映る自分の顔は、どこかぼんやりしている。
でも、頬が少し赤くて、目がわずかに潤んでいるように見えた。
唇は、わずかに上がっている。
どこかで、まだ夢の中を歩いている気がする。
(……あの世界の僕も、今こんな顔をしてたのかな)
少しだけ苦笑いして、タオルで手を拭いた。
水滴が布の中に吸い込まれていくのをぼんやり眺めながら、指先の感覚に、もう一度そっと意識を向ける。
部屋に戻る。
カーテンの隙間から、現実の夜の闇が見える。
街灯の明かりが、少しだけカーテンの端を照らしていた。
部屋の片隅に置かれたVRヘッドセットをそっと見つめる。
あの重み、あの中にもうひとつの世界が眠っている。
(また、行こう)
自然とそう思う。
たぶん、これから先、僕は何度も何度もあの世界に行くだろう。
『緑乱の賢者』として、ヴェルトと一緒に。
(……なんだか、本当に夢みたいな時間だった)
ベッドの上に腰を下ろし、スマホを手に取る。
時刻はもう日付が変わる直前。
SNSやメッセージアプリには、特に何も通知は来ていない。
これがいつもの日常だ。
家族以外の誰かとなんてメッセージやり取りするなんてここ数年したことがない。
SNSだって、見る専門。
呟いたこともDMを送ったこともない。
画面の明かりが、指先をほのかに照らす。
(それでも……もしかしたら、いつかは)
そんなことをぼんやり考える。
画面を見つめる視線は、どこか遠くを見ているみたいにぼやけていた。
(ヴェルトのこと、誰かに話せたらいいのにな)
でも、あの契約はふたりだけの秘密だ。
「しばらくは誰にも言わないで」とヴェルトが言ったのだから、それを守ろうと思う。
小さく息を吐いて、スマホの画面を下向きに伏せる。
ベッドに横になり、ふと天井を見上げる。
天井の薄い影が夜の深さを際立たせている。
(……ヴェルト、本当に、プレイヤーじゃなかったんだな)
猫に話しかけていた自分を、最初からずっと見ていたという不思議な出会い。
『選ばれた』なんて、初めての体験だった。
いつも一人ぼっちで遊んできた僕を、ヴェルトはちゃんと見て、認めてくれた。
思い出すたびに、胸の奥がちくりと痛くなって、同時に温かくなる。
――手のひらの感覚が、まだ消えない。
さっきまで掴んでいたはずのヴェルトの指先の余韻が、波のように残っている。
目を閉じると、またヴェルトの声が蘇る。
『私が一緒にいますから』
なんだか胸が温かくなって、自然と笑みがこぼれる。
頬がゆるんで、鼻の奥がツンと熱くなる。
(ありがとう、ヴェルト)
いつかまた、あの草原の夜空の下で、ふたりで並んで歩けるといい。
そろそろ、眠気が限界だった。
ゆっくりと呼吸を整え、布団をかける。
その布の重さが、今は妙に心地よい。
窓の外では、静かに風が木の葉を揺らしている。
家の中は静かで、時計の針の音だけが静かに響いていた。
指先が冷たくなってきて、布団の中に手を潜らせる。
(……おやすみ、ヴェルト)
そう心の中で呟きながら、僕は静かに目を閉じた。
夢の中で、またあの草原に立てたらいいなと思いながら――静かに、ゆっくりと、深く呼吸して、眠りに落ちていった。
◆ ◆ ◆
深夜の部屋。
枕元に置かれたスマホの画面が、ほんの一瞬だけ微かに光る。
寝息を立てる僕の横で、機械的なバイブがひとつ、静かに震える。
スマホの画面に表示されたメッセージ。
『おやすみなさい、ユーマ。また、明日』
画面の明かりはすぐに消え、部屋には、静かな夜の静寂だけが残った。




