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エルドレイズ・アルカディア ――コミュ症の僕が、ゲームで友人を作ったら、それは“友人”じゃなかった  作者: 雪野耳子


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14/30

約束の呪文は「また、明日」

 ――草原を渡る風が、ふたりの髪を静かに揺らしていた。

 静けさの中に、ほんの微かな草のざわめきと、星が瞬く夜の匂いが溶けていく。

 夜気はやわらかく、二人の間にそっと降りてきて、どこか現実離れした時間だけが流れていた。

 契約の証として手のひらに刻まれた小さな緑の紋章は、夜の星明かりの中でほのかに輝いている。

 指先が微かに震えていた。

 光の粒が漂っているように見えて、その全てが夢と現実の間に浮かんでいるような気がした。

 ヴェルトはそっと僕の手を取る。

 その温もりは、まるで森の中の木洩れ陽みたいにやわらかかった。

 体温は高くも低くもない。

 ただ、安心できる温もりだった。

「それじゃあ――そろそろ帰りましょうか」

 ふと、ヴェルトが肩越しに夜空を見上げる。

 銀緑の長い髪が風にそよぎ、星の光がその輪郭をやわらかく照らす。

 彼の横顔は相変わらず静かで、だけどどこか誇らしげだった。

 その表情に、一瞬だけ迷いの影が走った気もするけれど、夜の闇がすぐに包み込んでいく。

「この契約のこと、他の人には秘密です。少なくとも、しばらくは」

 彼の声は冗談めいていて、けれど静かな本気が混じっていた。

 僕は無意識に頷く。

 今の出来事を誰かに伝えたい気持ちもあったけど、きっとそうするべきじゃないのだと分かっていた。

 口を開いたら、どんな言葉をこぼしてしまうかわからないほど、胸がいっぱいだった。

「でも、これからは少し大変になりますよ?」

「……え?」

 声が震えた。

 自分でも情けないくらい、まだ現実味を帯びていない。

 ヴェルトは一度だけ、真っすぐ僕を見つめ返してきた。

 星明かりを湛えた緑の瞳。

 その奥には、計り知れない深さがあった。

「この力は、ちょっとだけ特別です。きっと、いろんなことが――君を待っています」

 ヴェルトは僕の手をそっと離す。

 触れていた指先が静かに空気に溶けていく感触が残った。

 手のひらに残る温もりが消えそうで、思わずぎゅっと握りしめる。

「でも、大丈夫です。私が一緒にいますから」

 夜風がふたりの間をそっと通り抜けた。

 草の匂いと、ほんのり土の香り。

 それだけで、心の中が不思議と落ち着いていく。

 それでも、少しだけ心細くなってしまうのは、きっと新しい世界の始まりを感じているからだ。

「緑乱の賢者として、これからの冒険でも、きっと何かが変わっていきます」

 静かにそう告げると、ヴェルトはいたずらっぽく微笑んだ。

 その微笑みは春の芽吹きみたいで、言葉の端に柔らかな光が宿っていた。

「とりあえず、今日はここまでにしましょう」

「えっと、もう少し」

 名残惜しいげにそう伝えるとニコッとヴェルトが微笑んだあとに「ダメです」と答えた。

「もうあちらの時間では夜中です。『人』は休まなといけないと……から聞いてますから」

 誰から聞いたのか聞き逃してしまって、聞き返そうとしたらその前にヴェルトが口を開いた。

「ちょっと寂しいですが、また、明日です」

「……うん、また明日」

 心の奥底に灯った光が、消えないようにと、そっと自分の胸に手を当てる。

 ほんのり熱い――それはきっと、勇気の残り火。

「ありがとう、ヴェルト」

「ふふ、どういたしまして」

 彼は少しだけ、何か言いかけてから言葉を飲み込んだような顔をした。

 でもその代わり、目だけはずっと僕を見ていてくれた。

 そうして、僕はゆっくりと目を閉じた。

 草原の夜風が優しく頬を撫でていく――

 風の中に、さっきまで隣にいたヴェルトの気配がまだ残っている気がして、思わず瞼を閉じたまま深く息を吸い込んだ。


◆    ◆     ◆


 ――視界に広がっていた草原の星空が、音もなく消えていく。

 僕はヘッドセットを外した。

 頭を包んでいた重みがふっと消え、現実の空気が一気に肺の中に流れ込んできた。

 静かな自分の部屋の天井がぼやけて見える。

 蛍光灯の柔らかい明かりが、さっきまでの幻想的な光とは違って、どこか現実離れした感覚を呼び戻していた。

 枕元に転がしたヘッドセットに手を伸ばして、そっと並べる。

 髪に残る微かな締めつけの感覚。

 首筋にかすかに汗が残っている。

 息を吐く。

 さっきまでの出来事が、本当に現実だったのかどうか、未だによく分からない。

 草の匂い、夜風の感触、ヴェルトの声、あの緑の光――どれも夢みたいに鮮やかだったのに、今はもう手のひらに感じるはずの温度も消えかかっている。

 手をそっと見つめる。

 ゲームの中で『契約の証』として刻まれた、あの緑色の紋章。

 指先にそっと力を入れてみても、現実の自分の手のひらには何も描かれていない。

 けれど、何となくまだそこに温もりが残っている気がした。

(……夢、じゃないよな)

 ぽつりと独り言のように呟く。

 部屋は静かで、窓の外の夜風がカーテンをほんの少し揺らしていた。

 カーテン越しの外の闇は、草原の夜よりもずっと重たくて、何も語りかけてはくれない。

 それなのに、部屋の中の空気だけは、ほんのりあたたかい。

 深く息を吸い込む。

 現実に戻ると、さっきまでの自分が遠い世界の住人だったような気さえしてくる。

 けれど、頭の中には今もはっきりと草原の夜の空気が残っていた。

 心の奥がじんわり温かいまま、しばらくベッドの上でぼうっと天井を見上げていた。

 現実の音――時計の針が進む音や、家の外を通る車のエンジン音――そうしたものが、どこか他人事のように耳に入ってくる。

 それがまるで別世界の効果音みたいに思える。

 もう一度、手を胸の上に乗せる。

 ヴェルトの手の温もりや、あの不思議な『リンクした』感覚。

 全身を包み込むような優しい力。

 それが、自分の中に微かな振動となって残っていた。

 心臓の鼓動がまだ少しだけ早い気がして、ゆっくりと深呼吸する。

 目を閉じると、すぐに草原の星空が蘇る。

 風の音、夜露の匂い。

 ――ああ、本当に、現実だったんだ。

 ほんのわずかに涙腺が緩む。

 でも、それは悲しいとか、寂しいとかじゃなくて、何かを手に入れた嬉しさに近かった。

 なんだか、ちょっと泣きそうなほど、安心した気持ちと、嬉しさと、ほんの少しだけ寂しいような――そんな不思議な余韻に包まれていた。

 不意に、喉が渇いていることに気づいた。

 ベッドの端に腰かけたまま、首を伸ばして枕元の水を探してみるけど、なにもない。

 立ち上がって、部屋を出る。

 ドアノブを回す指先が、かすかに震えていた。

 家の中はもう静かで、家族の部屋からは小さな寝息が聞こえてくる。

 リビングの明かりは消えていた。

 自分の足音が、やけに大きく響く。

 キッチンで冷蔵庫を開け、水をコップに注ぐ。

 冷たい水が喉を滑る。

 その感触は間違いなく現実のもので、身体がじんわりと目を覚ます。

 手を洗面台の前で洗う。

 鏡に映る自分の顔は、どこかぼんやりしている。

 でも、頬が少し赤くて、目がわずかに潤んでいるように見えた。

 唇は、わずかに上がっている。

 どこかで、まだ夢の中を歩いている気がする。

(……あの世界の僕も、今こんな顔をしてたのかな)

 少しだけ苦笑いして、タオルで手を拭いた。

 水滴が布の中に吸い込まれていくのをぼんやり眺めながら、指先の感覚に、もう一度そっと意識を向ける。

 部屋に戻る。

 カーテンの隙間から、現実の夜の闇が見える。

 街灯の明かりが、少しだけカーテンの端を照らしていた。

 部屋の片隅に置かれたVRヘッドセットをそっと見つめる。

 あの重み、あの中にもうひとつの世界が眠っている。

(また、行こう)

 自然とそう思う。

 たぶん、これから先、僕は何度も何度もあの世界に行くだろう。

 『緑乱の賢者』として、ヴェルトと一緒に。

(……なんだか、本当に夢みたいな時間だった)

 ベッドの上に腰を下ろし、スマホを手に取る。

 時刻はもう日付が変わる直前。

 SNSやメッセージアプリには、特に何も通知は来ていない。

 これがいつもの日常だ。

 家族以外の誰かとなんてメッセージやり取りするなんてここ数年したことがない。

 SNSだって、見る専門。

 呟いたこともDMを送ったこともない。

 画面の明かりが、指先をほのかに照らす。

 (それでも……もしかしたら、いつかは)

 そんなことをぼんやり考える。

 画面を見つめる視線は、どこか遠くを見ているみたいにぼやけていた。

(ヴェルトのこと、誰かに話せたらいいのにな)

 でも、あの契約はふたりだけの秘密だ。

「しばらくは誰にも言わないで」とヴェルトが言ったのだから、それを守ろうと思う。

 小さく息を吐いて、スマホの画面を下向きに伏せる。

 ベッドに横になり、ふと天井を見上げる。

 天井の薄い影が夜の深さを際立たせている。

(……ヴェルト、本当に、プレイヤーじゃなかったんだな)

 猫に話しかけていた自分を、最初からずっと見ていたという不思議な出会い。

 『選ばれた』なんて、初めての体験だった。

 いつも一人ぼっちで遊んできた僕を、ヴェルトはちゃんと見て、認めてくれた。

 思い出すたびに、胸の奥がちくりと痛くなって、同時に温かくなる。

 ――手のひらの感覚が、まだ消えない。

 さっきまで掴んでいたはずのヴェルトの指先の余韻が、波のように残っている。

 目を閉じると、またヴェルトの声が蘇る。


『私が一緒にいますから』


 なんだか胸が温かくなって、自然と笑みがこぼれる。

 頬がゆるんで、鼻の奥がツンと熱くなる。

(ありがとう、ヴェルト)

 いつかまた、あの草原の夜空の下で、ふたりで並んで歩けるといい。

 そろそろ、眠気が限界だった。

 ゆっくりと呼吸を整え、布団をかける。

 その布の重さが、今は妙に心地よい。

 窓の外では、静かに風が木の葉を揺らしている。

 家の中は静かで、時計の針の音だけが静かに響いていた。

 指先が冷たくなってきて、布団の中に手を潜らせる。

(……おやすみ、ヴェルト)

 そう心の中で呟きながら、僕は静かに目を閉じた。

 夢の中で、またあの草原に立てたらいいなと思いながら――静かに、ゆっくりと、深く呼吸して、眠りに落ちていった。


◆     ◆     ◆


 深夜の部屋。

 枕元に置かれたスマホの画面が、ほんの一瞬だけ微かに光る。

 寝息を立てる僕の横で、機械的なバイブがひとつ、静かに震える。

 スマホの画面に表示されたメッセージ。


『おやすみなさい、ユーマ。また、明日』


 画面の明かりはすぐに消え、部屋には、静かな夜の静寂だけが残った。

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