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中辛

文字の無い街

 通勤通学の列車に乗っていて、居眠りをしたり、小説やニュースサイトの記事を読みふけったり、SNSやメッセージアプリのお喋りに夢中になったりしたせいで、本来降りるべき駅をつい乗り過ごしてしまう人はよくいると思う。そんなとき我々は、乗り過ごしたことに気づいた時点でいちばん近い駅に一旦降車し、同じ路線の上りから下り、下りから上りに列車を乗り換えることで、乗り過ごしたぶんの距離を戻ろうとするのが常だが、もしも乗り換えるために降りたところが“文字の無い駅”だったら、私にも知らせてほしい。


 “文字の無い駅”には駅名がない。車内アナウンスは聞き逃してしまった。駅に表示板自体は存在するが、駅名が抜け落ちているので何という名前なのか分からない。ひとつ前の駅名も、次の駅名も分からない。そのプラットフォームには、利用客向けの案内も、広告も含め、あって然るべき文字という文字の一切がない。

 現在地がどこなのか分からなくても、同じ路線の上りで来たなら下り、下りで来たなら上りへ乗り換えれば元来た方向へ戻れるのは、さっき説明したとおりだが、階段を降り、線路をくぐって向かい側のプラットフォームへ昇る際に使う地下通路が厄介で、まっすぐ伸びてさえいれば済むのに、左折したり、右折したり、分岐したり、余計な階段を昇り降りさせられたりと、妙に入り組んだ構造になっている。しかも、この地下通路にも案内表示のたぐいがまるで存在せず、すごく迷いやすい。

 一箇所に路線がたくさん集中しているターミナル駅だったら、文字情報のほかにも記号の色分けなどで、お目当てのプラットフォームへたどり着く道筋が分かりやすいようになっているものだ。ところが、この“文字の無い駅”では、そういう配慮もなく、逆方向の列車が来るはずのプラットフォームへ出ることはおろか、乗ってきた列車が停まったプラットフォームへ戻ることすら難しかった。それで地下通路を散々さまよったあげく、改札口に着いてしまった。


 駅員はおらず、自動改札機が稼動していないようだったから、いけないこととは知りつつも、運賃を支払わずに改札口を素通りした。駅の外はロータリーだったが、バスもタクシーも一般車両もいない。プラットフォームや地下通路と同じく、街へ出ても人っこひとり歩いていなかった。街は静まりかえっていた……。そしてここでも、建物の看板から道路標識に至るまで、あって然るべき文字情報というものの一切が抜け落ちているのだった。いうなれば“文字の無い街”。

 普段使いの駅のほかにも近隣の駅周辺ぐらいだったら土地勘はあるつもりでいたのに、“文字の無い街”は、マンションといい、デパートといい、テナントビルといい、それらの建物を区切る街路といい、どこにも見覚えがなく、私が知るどの街にも似ていなかった。コンビニにも自販機にも商品がない(キオスクもそうだった)。携帯型端末の地図アプリでは、出発駅から一歩も動いていないことになっている。というか、ここへ来るまでのどこかの時点で電波が途切れたらしく、電話もインターネットも現在地を知る手がかりを与えてはくれない。一見、普通の街だが、人影と文字情報がどこにも見当たらないというだけで、迷宮のようだった。


 普通の街でも深夜・早朝帯には人影がまばらになることがあるが、この街の異常さときたら、単に閑散としている程度のものではなかった。さっきの駅と同じで、文字情報を記すべき表示板も看板も標識もポスターも存在するのに、文字だけが抜け落ちてデザインがアンバランスな感じになっている。そこに気づくと、“誰かが文字という概念を街から抜き取ったのではないか”“文字の無い世界に閉じ込められたのではないか”という疑念が頭をもたげてきて、私以外誰もいないにもかかわらず、得体の知れない何者かに監視されているような気がしてくる。探検してる場合じゃない、帰ろう、早く普通の世界に帰らなくては……と思った。

 しきりに後ろを振り返りながら歩くが、まだ誰にも襲われていないし尾行の気配もないのに、恐怖と不安ばかりどんどん増大してゆく。建物の陰が、曲がり角が、刺客にとって絶好の待ち伏せ場所に見えてくる。なるべく見通しのいい、明るく開けたところを通り、ロータリーから改札口へ、改札口から地下通路へと、ほとんど小走りで逃げ込む。恐怖と不安に駆られた心にとって、入り組んだ地下通路はさらなる恐怖の坩堝るつぼにほかならなかった。それでも、上り路線であれ下り路線であれプラットフォームへ出るにはここを通るしかないので、奥歯を食いしばり、通路を曲がった先で何らかの化け物と鉢合わせする可能性については極力考えないようにした。

 相変わらず案内表示がない。通路の構造が複雑すぎて、いちいち来た道を覚えていない。曲がって曲がって、昇って降りて、同じところをぐるぐる巡っているのかもしれない。知らぬうちに改札口へ戻ってしまわずにすむあてがないまま、めちゃめちゃに走った。そうしたらいつの間にか、階段の上に太陽光が見えて、私は奇跡的にプラットフォームへ出ることができた。


 プラットフォームへの列車の到着を待った時間のことはよく覚えていない。いるのかどうかも分からない追っ手を気にして焦るような余裕さえなく、来た列車に乗った。元の方向へ戻れるのか、それともさらに先の駅へ連れて行かれるのかは、どうでもよかった。

 茫然自失としたまま列車に揺られているあいだ、こう思ったということは付け加えておこう……あの街は、のっぺりしていた。普通の街の文字情報は通路や施設の意味・目的を教えてくれるが、“文字の無い街”では通路や施設のもつ意味も目的も一切分からなかったから怖かったのだ。もし本当に化け物と出くわしていたら、却って謎めいた雰囲気が台無しになっていただろう。

 しかし今考えると、普通の街の文字情報というやつは、あっちでもそっちでも意味と目的をやたら自己主張してきて、お節介すぎる。そもそも田舎の自然環境の中には文字情報など一切ないし、都会の喧噪に疲れた身にとっては、普通の街よりも“文字の無い街”のほうがリラックスできるかもしれない。だから今度、あの駅で降りる機会があれば、腕時計と水筒と文庫本でも持って行ってのんびり過ごそうと思うのだが、いま説明した一件以来、わざと狙って乗り過ごしても、“文字の無い駅”にたどり着いたためしがない。


 冒頭に重ねてお願いしておく。もしも“文字の無い街”へ行く方法を見つけたら、私にも知らせてほしい。ホラー映画の舞台になりそうな場所かもしれないけど、誰だって慣れない街では不安に駆られるものだ。

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