悪臭令嬢はのんびりお茶会を楽しむ
――まさか、私が母親になるとは思わなかったな。
サンフラワー帝国の帝城の一画。
皇太子妃となったエリサーナにお茶に誘われたため、私は生まれたばかりの娘を抱えて、彼女の暮らす東宮へとやってきていた。
「ナタリエ・モーニンググローリーと申します」
そう言ってペコリと頭を下げる。
するといつものように、使用人が私からめちゃくちゃ距離をとりつつ「どうぞ、こちらへ」と案内してくれる。普通の人にとっては失礼な対応に映るのかもしれないけれど、これは仕方のないことだ。そもそもの原因は、私の体質にあるのだから。
芳香体質。
帝国南部を取りまとめるモーニンググローリー侯爵家は、長い歴史の中で植物関係の魔法の血筋を節操なしにガンガンかき集め、高品質な穀物や野菜を大量生産することによって栄えてきた。家訓は「胃袋を掴め」という一見地味なものだが、我が家の情勢は帝国全体の食事事情と直結するため、国内での発言力はとんでもなく強いのだ。
そんなモーニンググローリー家の人間は、植物魔法に付随して「芳香体質」を持っているのだが……素敵な香りを纏っている兄弟姉妹とは異なり、私は強烈な悪臭を常に発しているらしいのだ。自覚はできていないけど。
そうして歩いてくると、現れたのは一人の女の子だった。
「ナタリエ義姉様。お待ちしておりました」
「お出迎えありがとう」
「いえ。これも職務ですので」
アルタちゃんは、私の夫であるシュルクの実妹だ。
彼女とタキナちゃんは、二人で無効化魔法を使ってエリサーナの日常生活をサポートしている。私がお茶に呼ばれた際にも悪臭を無効化してくれるため、彼女たちがいなければ、エリサーナとの友人付き合いもきっと成り立たなかっただろう。本当に感謝してもしきれない。
シュルクがモーニンググローリー家に婿入りしたのは十八歳の時だから、もう二年が経とうとしているのか。
先日は弟のマイトくんも結婚したところだから、タキナちゃんとアルタちゃんも成人したらすぐに結婚することになるだろう。
そうして進んでいった先には、エリサーナが上品に佇んでいた。
「ナタリエさん。よくお越しくださいました」
「エリサーナ様。挨拶が遅れてすみません。この度はお声がけいただき感謝いたします」
「ふふ。どうぞ、おかけになって」
素敵な庭園を一望できるテラス。
案内されるまま、私は娘をベビーベッドに寝かせると、エリサーナの対面の席に腰を下ろした。
「さてと――ここからは無礼講ですよ、ナタリエ」
「早くない? エリサーナの立場としては、もうちょっと取り繕った方がいいと思うけど」
「……だって。せっかくのお茶会ですよ。氷じゃない紅茶を飲めますし、凍っていないクッキーも、シャーベットじゃないフルーツも食べられるんです。お友達と、こんな近い距離で」
「まぁ、その気持ちは分かるけど」
私だって友達というのはエリサーナが初めてだから、つい心が弾んでしまうのは分かる。こんな近い距離で誰かとお茶会ができるだなんて思ってもみなかったし、エリサーナには同い年の子どももいるから話したいことはいっぱいあるのだ。
出会った頃のエリサーナは、スポンジケーキがカッチカチでないことに驚愕していたくらいだから、その姿には涙がちょちょ切れそうだったけど……それはそれとしてだ。
無事に子孫が残せると判明したイグナイト皇子が皇太子として正式に任命されて、エリサーナの身分もかなり上がったのだから、せめて使用人が退出するくらいまでは真面目に振る舞った方が良いと思う。
私がそう言うと、エリサーナは少し不満げに口を尖らせた。
「いいじゃないですか、少しくらい気を抜いても。そうは思いませんか、タキナ」
「エリサーナ様はもっとちゃんとしてください」
「そうは思いませんか、アルタ」
「イチャイチャの頻度を落としてください」
二人の言葉に、エリサーナはしょんぼりする。
ちなみに皇族補佐室に所属する者は常に無礼講が許されており、敬語すら必要ないというルールになっている。これは、とっさの時に礼儀を気にして無効化魔法が遅れるのを防ぐための決まりである。それと同時に、イグナイトとエリサーナは彼らとの間に身分の壁を作りたくないようで、その意思の表れでもあった。
彼女たちの様子を見ていると、無意識に頬が緩んでしまう。こんな穏やかな時間を過ごせるようになるなんて、あの頃の私は思っていなかった。
◆ ◆ ◆
「――貴女のような臭い娘など、産んだ覚えはありませんわ」
母は強い言葉を吐く人だった。
幼い頃から邪険にされていた私は、両親にはもう何の期待もしていなかった。良い香りのする兄弟姉妹と同じように扱われることはないと理解していたし、むしろいないものとして放っておいてほしかったくらいだ。それに、私を世話してくれる使用人に嗅覚麻痺の呪具を身に着けてもらうのはずっと心苦しかった。私の人生に、まともな幸せなど訪れるはずがないと、そう思っていたのだ。
母は自身の薔薇のような芳香をたいそう誇りにしていたけれど、私はあの人の棘のような言葉が本当に苦手だった。
「ナタリエ。ここに本を置いておくね」
「……姉さん」
「またほしい本があったら言ってね」
私に優しくしてくれたのは、姉一人だった。
姉は両親に本をおねだりすると、それをこっそりと私に横流ししてくれる。もちろん一定以上の距離からは近づいて来られなかったけど、姉が立ち去った後にはいつもほんのりとコスモスのような香りが残っていて、私はそれが大好きだった。そして、同時に理解する。あぁ、私の悪臭はきっとこんな優しいものではないのだ、と。
だけど、いつまでも姉と一緒には暮らせない。
美人で優しい姉は、順当に美男子のもとに嫁いで、家を出ていってしまった。
私が年頃になると、父はいくつもの縁談を持ってきた。
「ナタリエ、婚約者を用意した。実直な騎士だ」
「……お相手が可哀想です」
「呪具を着けて生活すれば問題はない」
おそらくはモーニンググローリー家の権力で用意したのだろう実直な騎士とやらは、顔合わせの翌日には恋人と一緒に駆け落ちしてしまった。私の心には、ひたすら申し訳なさばかりが募る。
「大きな商会の跡取りが、臭いもの好きらしい」
「……それは本当ですか」
「私には分からん趣味だがな」
そうして実際に対面してみると、臭いもの好きを名乗っていた商会の跡取りは、その場でゲーゲーと吐き始めた。後から聞いたところによると、商売のためなら臭いくらい我慢できるだろうと甘い見立てで名乗り出たらしい。迷惑な話だ。
「辺境伯がな。近頃、鼻が利かんらしい」
「……五十も年上ですよね」
「嫁ぎ遅れるよりは良いだろう」
私は鬱々とした気持ちで顔合わせに臨んだのだが、幸か不幸か辺境伯の嗅覚はそれほど鈍ってはいなかったらしく、その場で酷い罵倒の言葉を浴びた。
私だってお爺さんの後妻にされるなど御免だったけれど、さすがにあの言葉を受け止めるのはキツいものがあった。
で、ブチ切れた私は父の執務室に居座ることにしたわけである。
「――これ以上、縁談を持ってくるようなら、私の臭いがこの執務室に染み付くまでここにいる。室内でジョギングしてめちゃくちゃ発汗した上で、その汗を絞って部屋中にばら撒く。筋トレもする。あとクローゼットに侵入して、シルクのスーツを全部臭くしてやる。私は本気だ」
そう、スメル・ハラスメントというやつだ。
父はもともと当主なのに母に逆らえないくらいには気が弱い性格なので、私のスメハラ宣言に心がバッキバキに折れた様子で、その後は私を放置するようになった。しめしめ、作戦通りだ。
――きっと私は、このまま一人で生きていくのだろう。
父のコントロール方法を完全にマスターした私は、家の敷地の隅の方に小さな家を建てさせて、そこで一人暮らしを始めた。嗅覚麻痺の呪具であっても私の臭いは完全には防げないようだから、そんな環境で使用人に世話してもらうのも悪いと思ったのだ。
本当は独り立ちするのが一番良いのだろうけど、悪臭を纏う私は働くことだってできやしない。
そんな時、私のもとに姉からの手紙が届いた。
『帝都でお見合い会が開かれる。詳細は秘されているけれど、騙されたと思って貴女にも参加してほしい』
これが父の持ってきた話だったら一蹴していただろうが、姉から言われたのなら話は別だ。
私は帝都行きを決意して、郊外の別邸で開かれたお見合い会に参加することになった。
後で分かったことだけれど、その見合いはシュルクと弟のマイト、妹のタキナとアルタが婚姻相手を見つける場として用意されたものだったらしい。私以外の人は美男美女ばかりだったから、正直ずっと気後れしていた。それに悪臭を纏う私はみんなと一緒にはいられないので、会場の隅の方で目立たないようにしていたんだけれど。
そんな私に駆け寄ってきたのが、シュルクだった。
「はじめまして、俺はシュルク。なぜか見合いをすることになったんだけど……とりあえず、全員と何かしら会話をしておけって言われてさぁ。こんな隅の方で、どうしたの?」
「あの……私の体、すごく臭いと思うんだけど」
「ん? 何かの魔法かな。俺は無効化魔法っていうのを持ってるから、たぶん効果を発揮していないんだと思う」
嫌な顔ひとつされず、こんな至近距離で誰かと話すのは初めてだった。
「気になるようなら、手を繋ごうか。そうすれば君の魔法を継続的に打ち消せると思う……いや、さすがに馴れ馴れしいか」
「ううん。手、繋いでもいい?」
「もちろん……なんか俺、今すごくチャラ男ムーブしてる気がする……いやあの、これ他意はないからね」
「他意があってもいいけど」
「えぇぇ……」
そんな風にして、私はシュルクと仲良くなり、あれよあれよと結婚することになった。
◆ ◆ ◆
「――エリサーナ、そういえば」
「えぇ、どうしました?」
「シュルクの結婚相手は、本当に私で良かったの? ほら、お見合いパーティに来ていた女の子には、無効化魔法と組み合わせると便利そうな魔法を持っている子もいたけど」
いや、今さら言うことではないんだけど。
改めて考えると、私の植物魔法はシュルクの無効化魔法と掛け合わせるメリットがあまり思いつかない。私が結婚相手で良かったのか、というのはいつも思うことだ。
私の言葉に、エリサーナはクスクスと笑う。
「実は、初めての夫婦喧嘩がそれなんです」
「……というと?」
「イグナイト様は、もっと無効化魔法が便利になるよう血統を煮詰めるべきだと言いました。でもわたくしは、シュルクたちの無効化魔法はもう十分優秀だから、別の観点で結婚相手を探したいと主張して――結果、あのお見合いにはそれぞれが集めてきた婚約者候補が混在していたんですよ」
それはつまり……私をあの場に呼んだのはエリサーナだということか。
「ナタリエのことは、貴女のお姉様から話を聞いていました。わたくしと同じように、自らの魔法特性で人生を諦めてしまっている子がいると」
「姉さんから……」
「シュルクに命じて、参加者全員と必ず会話をするよう仕向けたのもわたくしです。ですが、まさか初対面で手を繋いだのには驚きました」
なるほど、エリサーナはそうやってあの有能なイグナイト皇太子を出し抜いたわけか。やるなぁ。
結果的に私はシュルクを夫にして、エリサーナと友人になって、娘のサクヤを生んだ。これまで考えられなかったような幸福を享受している。本当、エリサーナには感謝しかない。
「ところで、サクヤちゃんはどんな魔法を持ってるか分かっているのですか?」
「まだちゃんとは分からないかな。ただ、私の魔法を無効化しているのは確かだと思う。臭いを気にする様子がなくて、平気な顔で母乳を飲んでるから」
そんな風にして、穏やかなお茶会の時間は過ぎていく。今はまだベッドに寝ているだけの子どもたちが、これからどう育っていくのか。本当に楽しみだ。