氷結令嬢はカッチカチに冷えている
――これ以上近づいたら、死ぬ。
ヒヤシンス侯爵家の令嬢エリサーナは、初対面の婚約者と五歩ほど離れた地点で足を止めた。
婚約者との顔合わせのため訪れたサンフラワー皇家の別邸は、正直ものすごく暑苦しくて不快だった。だが親の言う通り、自分と結婚してくれるような相手は彼くらいしか思い当たらなかったため、我慢に我慢を重ねてどうにかここに立っているのである。
が、これ以上は無理だ。
幸いにして、婚約者の男も足を止めてくれたから事なきを得たものの、これ以上近づいたら本格的に身が危ない。社会的にとか乙女的にとかの比喩ではなく、物理的に命が融け消える。そう本能が訴えかけてきていたのだ。
「お初にお目にかかります。わたくしはヒヤシンス侯爵家、氷の貴公子フローズン・ヒヤシンスの娘、エリサーナと申します。年齢は十八。初対面で大変不躾な物言いになってしまいますが……これ無理でしょ」
エリサーナは世間から氷結令嬢と呼ばれている。
冷気を発する白い髪。青氷のような幻想的な瞳。高価な魔装具で抑制してもなお、漏れ出る魔力は小さな雪華を形作って空気をキラキラと輝かせる。
ヒヤシンス家のご先祖様は氷魔法を扱う他貴族家とイケイケドンドンと婚姻を結んでいき、民間からも氷に関係する魔法を持った血を騎士として引き込んで、今では帝国北部を牛耳る一大勢力となっているのだが。
そうやって取り込んだあらゆる血統を凝縮還元されたエリサーナは、触れるモノみな凍らせる大変危険な貴族令嬢に育ってしまったのである。
「初めまして。私はサンフラワー皇家、太陽の申し子バーニング・サンフラワーの息子イグナイト・サンフラワーだ。年齢は二十。こちらこそ、初対面の可憐な令嬢に酷なことを申してしまうが……絶対無理じゃん」
イグナイト皇子は、人呼んで灼熱皇子。
その頭髪は炎のように揺れていて、実はハゲてるんじゃないかという噂がまことしやかに囁かれている。豪華な衣服の下には、もはや呪いのような拘束具を纏っているらしいが、それでも抑えきれない熱気は、氷いっぱいのアイスティーでさえ飲む時には沸騰しているほどだった。
ここサンフラワー帝国は、初代皇帝が強力な火炎魔法で国を統一したため、国旗も炎の意匠をしている。その後も熱や炎にまつわる血を手当たり次第にかき集め、敵対勢力を黒焦げにしながら栄えてきた。
そして、そうやって煮詰まった血統をチャンポンしまくった結果生まれてきたイグナイトは、近づく令嬢たちが物理的な意味で熱を上げるヤバい皇子に育ってしまったのである。
「うふふ。わたくしは父から、イグナイト様になら触れても大丈夫だと言われてやってきたのですが……むしろ天敵じゃないですか」
「あぁ、エリサーナ嬢の言う通りだろう。現時点でも肌がめっちゃ痛いし、本能がビシビシ警告を発している。父たちの言うことはあてにならないな」
どうしようもない現状についてしっかりと共通認識を持てたところで、中庭に設置されためちゃくちゃ長いテーブルの両端に、二人は無言で座る。
顔もよく見えず、声を張り上げないと会話もままならない距離ではあるが、もはや言葉にせずとも「それしかない」とお互いに悟っていたのだ。
絶対結婚できないのに、無駄に以心伝心を発揮してしまうのはなぜだろう。エリサーナは心に虚無を抱く。
「イグナイト様は!」
「あ、ちょっと待ってくれ! おい、誰か!」
イグナイトがそう声を上げると、皇家の使用人が魔道具を持って現れ、二人のもとにそれぞれ持ってきてくれる。
それは通話の魔道具。
さすがに初対面のお茶会で、喉がガラガラになるほど声を張り上げるのはどうなんだろうという、イグナイトの粋な配慮である。ちなみに、初対面のお茶会で魔道具による通話をするのはどうなんだろう、という点に目を向けてはならない。
テーブルにデンと置かれた黒い塊から、受話器をガチャリと手に取った二人は、落ち着いた声で会話を続ける。
『ありがとうございます、イグナイト様』
『いや、当然の対応だ。魔法の性質は真逆だが、貴女とは他人という気がしなくてな……もしよければ、少し茶会に付き合ってくれるだろうか』
『えぇ。わたくしも同じことを思っておりました』
性格的な相性は悪くない。
しかし、結婚は無理。
エリサーナが思っているのと同じことを、おそらくイグナイトも思っているはずだ。そして、お互いにそう思っていることを察しているからこそ、わざわざ口に出さない――という配慮まで、手に取るように理解し合っている。二人は完全に似た者同士だった。
『ところでイグナイト様。先程の使用人は』
『あぁ、皇家では断熱魔法を扱える者を使用人として雇っていてな。たしかヒヤシンス侯爵家とも血縁だったと思うが』
『なるほど。我が家における保温魔法を扱う使用人と同じ立場ということですわね。あの子もたしか皇家の血が――』
魔法は違えど、立場は似たようなもの。
イグナイトが「食卓に生肉を出されても、口に運ぶ頃にはステーキになっている」というエピソードを披露する一方で、エリサーナは「シャーベットじゃないフルーツを一度食べてみたい」という密かな願望を打ち明ける。
共感できる話や、驚いてしまう話。
初対面でも腹を割って話せたのは、絶対に結婚できないと分かっていて、変に取り繕う必要がないからだろう。エリサーナはそう思い、久々に穏やかな気持ちで「紅茶氷」を噛み砕く。
『わたくしは社交ダンスというものに憧れがありました。もしもイグナイト様に触れられるなら、わたくしも皆と同じように音楽に身を任せて踊ってみたいと……ふふ。練習をしたこともないのに、憧れだけはありまして。叶わぬ夢だとは思っていましたが』
そんなエリサーナの言葉を、イグナイトは手のひらでクッキーを焼きながら静かに聞く。
『私は……そうだな。エリサーナ嬢だから正直に言ってしまうが、女性の体というものに触れてみたいと思っていた』
『あら』
『愛しい人の柔らかい体を抱きしめたり、唇を重ねたりするのは幸福なことなのだろう? 噂では聞いているが、実感が持てなくてな。私が最後に人に触れたのは三歳の頃だったから、もう記憶にもないのだ』
なるほど、とエリサーナは口に含んだマカロンを凍結粉砕しながら頷く。
魔法が覚醒するのはだいたい三歳から五歳くらいのことが多いため、エリサーナもそれくらいの年頃から人に触れることができなかった。人肌が恋しい、という欲求からは全力で目をそらさないと生きてこられなかったが……イグナイトの言葉は、その感覚を久々に思い出させるものだった。
『……すまない、エリサーナ嬢。初対面の女性に話す内容としては不適切だった。つい気が緩んでしまって』
『いえ、嫌な気持ちはしませんでした。わたくしも似たようなものです。殿方の逞しい腕に抱きとめられたら……なんて夢のようなことを考えたことは、何度もありますわ』
そうして、エリサーナはティースプーンを手に取ると、それを頬に打ち付ける。コンコン、という乾いた音が通話魔道具越しに響いた。
『エリサーナ嬢?』
『ふふ。この通り、わたくしの体はカッチカチですの。普通の淑女をスプーンで叩いても、このような音は鳴らないと聞いて驚きました。残念ながらわたくしは……殿方が抱きしめたいと思うような柔らかい体を、持ち合わせていないんです』
エリサーナの言葉に、イグナイトもまたティースプーンを持って頬に打ち付ける。すると……スプーンはグニャリと曲がって、そのまま地面に捻り落ちてしまった。
『私もこの通り、愛しい人を抱きしめる権利すらない。愛しくない人だったら、抱きしめて黒焦げ肉にしてやることはできるかもしれないが』
『ふふふ。わたくしも愛しくない殿方であれば冷凍肉にして差し上げられるかもしれませんね』
そんな風にして、お茶会は和やかに進んでいく。
さて、名残惜しいがそろそろお開きにしなければ。
二人がそう思い、互いに別れを告げようとした時だった。
ずいぶん慌てた様子で使用人が現れる。ガクガクと身を震わせる様子から、よほど恐ろしい事態が起きているのだろうと想像できて、緩んでいた中庭の空気が緊迫したものに変わった。
「――イグナイト様、エリサーナ様、お逃げください。賊が侵入してきました。おそらくは暗殺者かと」
「何だと? 警備はどうした」
「それが……相手は“無効化魔法”の使い手でして、警備用の強力な魔法を全て突破するほど魔力が強いのです。イグナイト様やエリサーナ様ほどの魔力でも、太刀打ちできるか――」
使用人が必死にそう話す一方で、イグナイトは静かに腰を下ろす。遠くにいるエリサーナも同様に、立ち上がるのをやめて紅茶氷を口に含んだ。
「……丁重にお連れしろ」
「は? イグナイト様。あの」
「給料は言い値で払うと伝えてくれ。そして丁重に、国賓だと思って盛大に歓待し、ここまで連れてくるのだ。これはこの国の今後を左右する大事だと思え」
無効化魔法。
それがもしも、使用人の言う通り、イグナイトやエリサーナの魔法すら無効にできるとしたら。
『エリサーナ嬢。その、糠喜びかもしれないが』
『いえ、希望は見えましたわ。もしもその暗殺者が、それほどの使い手でなかったとしても……ふふふ。似たような無効化魔法の使い手をあてがって血統を煮詰めれば、わたくしたちの望む者が生まれるかもしれません。何十年先になるか分かりませんが』
『気の長い話だが……そうだな。希望はあるか』
イグナイトの手の中で紅茶が煮え立ち、エリサーナの手の中で紅茶が凍りつく。今はまだ、愛しい人に触れることすら叶わないけれど。
『……ワルツって何拍子だったかしら』
『私も一緒に練習するとしよう。あと筋トレも』
『ふふ。逞しい腕を期待しておりますわ。あとは、わたくしの体が柔らかくなってくれれば良いのですが――』
ふわふわとした未来を語る二人は、果たして。
――数年後、とんでもない魔法を持った皇族の赤子が爆誕し、後に何百年も続く大帝国を築き上げることになるのだが、それはまた別のお話。