「祈り」――ルナフェリスの正体。
雨音とコーラス音が不協和音のように耳を刺す。
無言のNOがもたらす悲劇を、繰り返したくない。助けたいのに、君は僕が手を差し伸べる事も、そばで慰める事すら許さない。
――アヤカの部屋の花壇に白いリンドウを植え終えた夜。
月明かりに照らされた満開のリンドウと彼女の笑顔は、絵画のように綺麗だった。それはエデンの園を想起させるような、神聖で、清らかな光景に映ったのに……今、カシャカシャと響くシャッター音の中で、その記憶すら壊れていく。
頭は驚くほど静かだ。
アヤカが泣いているっていうのに、また……何も感じない。体だけが「不快」──いや、皮膚の下を虫が這い回るような、吐き気に近い感覚に悲鳴を上げてる。このまま彼女を犠牲にするのを待つくらいなら、いっそ人形にでもなってしまった方が楽なんじゃないかとも思う。
あの夜の記憶が蘇る――ほんの2日前。
今「燃やされて」いる、白い花畑が満開になった日の夜の事だ。
*
その日の夜を思い起こせば、月光に白い花……そして、無邪気な笑顔を浮かべるアヤカの姿が鮮明に浮かび上がってくる。
「ありがとう、リュウ! とっても綺麗!」
最後の一本を植え終わった花壇を、体を軽く横に揺らし、嬉しそうに眺めるアヤカ。
世界樹の根と精霊や妖精の淡い光が蛍のように花を彩る、幻想的な空間。1年前の廃墟のような光景とはまるで別物で、一枚の絵画に神話の1ページを閉じ込めた幻想そのものだった。
白いリンドウと月光に抱かれて微笑むアヤカは綺麗で、心がじんわりと温かくなったのを覚えてる。この一瞬が僕には全て「輝いて」いて……
――エデンの園は、きっとこんな所なんだろう。
そんな、僕らしくない事を考えてしまったくらいだ。
「でも、本当に毎日壁を登って持ってくるとは、思わなかったな」
「毎日持ってくるって、約束しただろ?」
「ふふ、リュウって結構頑固だよね?」
1年前の約束通り、僕は毎日アヤカにリンドウを届けた。
誰かの願いだったのだろうか? アヤカが「自分みたいだ」と言ったその花は、不思議な事に僕が何度運んでも、翌日には同じ場所に花が咲いた。マダム・ティムが言うには……
「人の純粋で強い想いは奇跡を起こすんだ。私たち妖精は、人の綺麗な心が「好物」だからね」
人間の願いを叶える為に海霧の妖精は涙を母なる海に変えた。
食糧不足に苦しむ僕たちの前に奇跡の麦ルナグレインが現れたのも、その食べ方を教えてくれるマダム・ティムが現れたのも。
──妖精は人の心に共鳴し、無限大の奇跡を起こす。
だから同じ場所に何度も咲くリンドウは「誰か」の願いを妖精が叶えたんじゃないか、と。
「ね、リュウ」
花を見下ろすように視線を落とすアヤカは少し儚げに映って、胸が締め付けられる感覚がした。
「私、この景色、ずっと忘れない」
「……」
「もしなくなっても、大丈夫だから。だから……」
その言葉は何かの信託のように、残酷に僕の耳に響いた。
「やっぱり、僕は君を守る事はできないかな」
君が好きだと気づいてから、守りたい気持ちは日に日に強まっていく。笑ってほしい。幸せになってほしい。その為だったら何だってしようと思えるのに、彼女の願いは別の所にあった。
「リュウには、普通の男の子として生きてほしいの」
ね? と子供に言い聞かせるように微笑む彼女の瞳には、強い光が宿ってる。
――彼女はわかっていたんだろう。
澤谷さんからの初めてのプレゼントのぬいぐるみ。思い出の詰まったアルバム。
……傷ついたところを保護して手当をしていた小鳥。そして仲の良かった友達――タクミ君。
彼女が大切に思うものは全て奪われてきた。
奴らが花畑を見逃すはずがない。満開になった瞬間に彼女から奪うだろう……そんな事は僕だって容易に想像できた。
そんなアヤカが心の拠り所のように口にするのは、マダム・ティムが教えてくれた奇跡のエネルギー現象──「ルナフェリス」だ。
「ルナフェリスがここのみんなを救ってくれる。だから、私の事を見守ってね。絶対成功させるから」
「ヘリア誕生祭でルナフェリスの花嫁と人々が同じ願いを抱き、月へ祈りを捧げる──それがルナフェリスだったね」
ルナフェリスの花嫁は、ヘリア誕生祭の主役の祈り主。
そして「人々」は、ハーモニア大学附属学院に閉じ込められた2000人の生徒。
その奇跡は、閉鎖的な空間と妖精や世界樹が可視化された特別な環境が可能にする、らしい。
世界を飲み込もうとしている世界樹も、50年後にはエネルギーが枯渇すると言われている僕達の未来も、すべてを満たしてしまう──
──それが「妖精と人間の心の共鳴が生み出す無限の力・ルナフェリス」
「私、皆を信じてるんだ。ヘリア誕生祭、やろう。私たちのルナフェリス、絶対に起こそう!!」
年に一度、月の力が最も満ちる夜──アヤカとレオ君の結婚式の日に、ヘリア誕生祭は行われる。
アヤカはルナフェリスの花嫁に志願した。リーナ先輩を含む代理教師達は、犠牲の事を知ってか知らずか返答を渋っていたけど、最終的に首を縦に振った。
本当に2000人が、アヤカと心を一つにする事が出来るのか? そう思った時もあったけど、今は……
「アヤカならできるよ」
「ふふっ……ありがとう。リュウもお祈りしてね?」
祈る──それは僕にとって、何よりも「残酷」な言葉だった。
「僕に何か出来る事はあるかな?」
素直に「うん」とは言えなくて、代わりに伝えた言葉は、少しだけ彼女の笑顔を雲らせる。僕は嘘が苦手だし、妖精の彼女には、僕の心なんて見透かされているんだろうけど……。
「うん、そうだなぁ……」
少し考え込むように、目を閉じ体を左右に揺らすアヤカ。
やがて何かを思いついたようにぱっと顔を上げ、僕の方へ歩み寄ると、彼女のライトブルーの瞳がまっすぐと僕の瞳を捕らえた。
「今のままのリュウでいてほしい。何があっても、皆を「憎まないで」ほしいの。私、リュウの綺麗な心の色が大好きだから」
それを聞いた時、やっぱり彼女には敵わないと思った。
僕はアヤカの言うような心の綺麗な人間なんかじゃない。
「子供の心はね、キラキラしてるんだ。初めてここに来た時思ったの。まるで宝箱を開けた時みたいにワクワクするなって」
アヤカはそう言ったけど、僕からしたら宝石箱というよりパンドラの箱だ。いっそ、あの人たちが憎いとか、悲しいとか言ってくれたらと……今でも思う。
「血っていうのかな。私達妖精は、人の感情に反応して精霊たちが発生させるエネルギーを集めてきた。人と一緒に生きてきた……だから、私は人が大好き。信じたいの」
まるで盲目のホドのように無知を盾にする生徒達。
彼らは閉鎖的空間を悲しみ、妖精を崇拝し、アヤカに救いを渇望する。黒い感情が蠢くその中で、希望があるとしたら……怒りも悲しみも一切宿さないアヤカの願いだけなんじゃないだろうか。
「だから、リュウ……お願い。私に何かあっても、見守ってほしいの。信じてほしいの」
彼女が定期的に僕を突き放すような事を言うのは、多分わざとだ。
「そして、ね……」
まるで蚊帳の外に追いやられたような感覚。鼓動が早まり、耳鳴りが響き、指先がチリチリと焼け付くそれは、ノーエが言うには――『焦燥』という感情らしい
「リュウにはみんなと一緒に、生きてほしいんだ」
……アヤカ。君は僕が何も知らないと思ってるんだろう? 本当は知ってるんだ、ルナフェリスの正体を。
――「妖精と人間の心の共鳴は無限の力を生む。けどね、その力を呼ぶには月の花嫁が必要なんだ」
マダム・ティムは、僕に「花嫁は生贄」である事を教えてくれた。その上で、自分がどうするべきか決めなさいと。
アヤカは僕が全て知っている事を知らない。いや、もしかしたら知ってて気づかないふりをしているだけなのかもしれない。彼女の意思はいつだって、鋼のように固く、月の光のように柔らかく優しい強さを持っている。
アヤカは僕を頑固だと言ったけど、きっと彼女の方がずっと頑固だ。
*
――リン……――リン……。
雨音と混じり合う「コーラス」の電子音が、耳に纏わりつき、異様な不快感が体を侵食していく。
カシャ、カシャ、カシャ、カシャ──
カシャ、カシャ、カシャ、カシャ──
カメラの音が鳴り響くたびに、アヤカが必死に信じようとしているものにひび割れが走っていくようだった。僕自身の心も削られ、壊されていく感覚――気持ち悪い、吐き気がする。
「アヤカ……君の瞳には、彼らの心が「綺麗」に映るのか……?」
嫌だと言ってくれれば、僕は何だってする。
逃げたいと叫んでくれれば、全力で守る。
なのに君は、微笑んで前を見てしまう。
──人を殺すことしか知らない僕に、君は「生きて」と願った。
「私の大好きなリュウでいてほしい」
その願いは、刃のように僕の胸を裂いた。今のままじゃ、君を救えない──そう悟らせる痛みだった。
力がほしい。
認めてほしい。
──頼むから僕に君を、守らせてくれ──!!
カメラ音とコーラスの電子音が脳内を犯すように反芻する。うるさい、彼女を悲しませるな、止まれ……!!
冷たい雨が止んでほしいと──僕は人生で初めて何かを「祈った」
……トクン。
……トクン。
雨音に紛れて、自分のものとは違う小さな鼓動が左耳に響く。
その奇妙な音に導かれるように視線を向けると──そこには、見たことのない「小さな妖精」が、淡い青の光を放ち、微笑んでいた。




