月光果実の詩 ―ルナフェリスの前兆―
僕の1日は、まだ星が空に残る午前4時半から始まる。
まだ暗いハーモニア大学附属学院は、節約の為に街灯は消されてるけど、ハルモニアのセキュリティの光と精霊たちの光が代わりに夜道を照らしてくれる。辺りに響くのは豊穣の妖精達が月に感謝を送る詩――微かな鈴の音のような音。
――その途中。
「また、あの声だ」
声の主を探してあたりを見回せば、校舎の壁には見慣れない古い文字が淡く浮かんでる。カフェの壁に浮いていた文字に似てるけど……見た事のない形だ。そして、鈴の音に混じり水滴を数えるように「ひとつ、ふたつ」と囁く声。
これは……昨日も聞こえた「泣き声」だ。
次の瞬間、文字は風に溶けるように消え去り、泣き声も消えて行った。
――いったい、何だったんだ?
皆が寝ている間にトレーニングを済ませると、部屋で軽くシャワーを浴びて高等部の制服に着替える。そして「散歩」をしながら学院内の見回り。ここまでが僕の朝のルーティンだ。
「ノーエ。感情記録を」
感情記録のチェックもルーティンのひとつ。空中に浮かび上がったホログラムにはいつも通り、猫耳のついたスライム型のゆるキャラがいるはずだった――が。
「……充電、さっきしたばかりじゃなかったっけ?」
そこに表示されたのは、水たまりのように溶けた謎の物体。ノーエがこの姿になるのは、充電不足や不機嫌を訴える時なんだけど……彼に搭載された「use-01嫉妬システム」を刺激するような事が、何かあったのか……?
『リュウの心が、私から少し離れたようです』
……心?
僕の視線は、自然と左肩にいる「太陽の精霊」に惹きつけられた。なるほど……僕の心が自分からこの精霊に映ったと思って、嫉妬システムが発動してるんだな。
「ノーエ、僕のパートナーは君だけだよ」
『……本当ですか?』
「本当だって」
苦笑まじりにそう答える。するとノーエは弾力のある身体をぽよんと弾ませ、いつもの猫耳スライムの姿に戻った。
『感情曲線を表示します』
loadingの文字を表示しながら、小刻みに体をぷるぷる震わせるノーエ。いつも通りの淡々とした声だけど、心なしか……いつもより仕事モードの揺れ具合にキレがあるような気がする。そんなに、この精霊と仲が良さそうに見えたのか……?
昨夜、この精霊は結局僕の部屋まで付いてきて、ベッドに横たわる僕の黒髪を枕にするように寄り添い、まるで眠りに落ちたように動かなくなった。朝体を起こした時、額から滑り落ちて、僕の腹の上で小さくころころと転がった。その姿はなんとなくノーエに似ているような気がしたのを覚えてる。
呆然と見ている僕に気づいたのか、精霊はかすかな怒りを示すように静電気をぱちりと走らせた。思わず「ごめん」と口にして指先でつつくと、今度は嬉しそうに光を強めた。
――まるで……人に近い反応だった。
そして、今は僕の左肩で機嫌良さそうに光を少しだけ強めてる。害があるわけでもないし、とりあえず好きにさせてるけど……他の妖精や精霊とは少し違う。そんな気がする。
そんな事を考えていると、太陽の精霊がふわりと浮かび上がりハーモニアレイクの方へ飛んでいく。
「こら、そっちは……」
太陽の精霊が飛んで行ったのは、アウリスブリッジ。その中心の祭壇のような広場には、20人ほどの生徒が集まっていた。一瞬ひやりとしたけど、精霊が彼らの前を浮遊しても誰一人反応しない。
……皆には見えてないのか……?
中央祭壇スペースのガゼボの下にあるのは、一枚の絵画――タクミ君の絵だ。
でも、そこに描かれているのは、海霧の妖精が水と戯れる絵。本来描かれていた「大樹の根元に座る妖精と少年の絵」じゃない。
やがて、朝日がゆっくりと昇り始める。淡いライトブルーが空を染め、湖面を揺らす光の粒が絵に差し込む。その瞬間、絵は息を吹き返すように色を変えていった。
映し出されたのは、本来の姿――タクミ君の「輝くようなライトブルー」。大樹の根元で妖精の姿をしたアヤカが微笑み、背後にはまだ描きかけの少年の姿。
絵画の輝きに呼応するかのように、生徒たちの虚ろだった眼差しに、少しずつ光が宿っていく。
タクミ君の「輝くようなライトブルー」は、心の闇を和らげる――鬱を癒す効果があった。アヤカは「この絵は、皆が見られる場所に飾るべきだ」と言って、この場所に絵画を飾ることにした。閉鎖された学院生活は、一部の生徒に心の病をもたらしたからだ。
ハルモニアがあの絵を再生させてから、キャンパスはまるで時計のように時間ごとに違う絵を見せるようになった。
海霧の妖精が水と戯れる絵、芸術の妖精がつるはしを振り下ろす絵、自然美の妖精の光が幾何学模様を映し出す絵、豊穣の妖精が収穫を祝う絵……。
そして、朝日が昇るこの時間だけ、本来の「輝くようなライトブルー」の絵を映し出す。これはハルモニアが起こした「妖精の奇跡」のひとつだ。
「タクミ君の絵は、やっぱり凄いな」
タクミ君は学院の為に1人犠牲になった。それでも、彼の才能はこうして僕たちを救い続けている――その事実を思い知らされるたびに、感謝と痛みが混じった、複雑な気持ちになる。
そして、この絵を見る度に僕は彼に誓う。
アヤカだけは……絶対に犠牲になんてさせない。
それが、僕に出来るただ一つの、彼への追悼だったからだ。
スマロのカメラ機能で、絵画を撮影する生徒達。僕も久しぶりにカメラに1枚収めた。アヤカに見せてあげよう……そう、思ったからだ。
彼女はまだ寝てる時間だ、送るのはもう少し後にしよう……そう思って特別学生寮の方へ視線を向けたその時――。
寮の窓がひとつが開いた。
「レオ君……?」
一瞬窓から絵画の方を覗いていたレオ君は僕の視線に気づいたのか、驚いたように窓を閉めてしまった。
――その直後。
生徒達の視線が集まる絵画が微かに煌めき、高等部校舎に侵食する世界樹の木漏れ日のような光が僕達のいる祭壇を照らす。その光を浴びた瞬間、目の前に「ある光景」が浮かび上がった。
*
――銀色の月の下、大樹が根を張り、その周囲を満たす湖は無数の淡い小さな光を放つ。バシャ、という音と共に桶にクリスタルのような輝きを放つ水を汲む女性。エメラルドのような澄んだ緑と、絹糸を束ねたような金髪。バラ色の唇は歌うように何かを口ずさむ。
そして、彼女のすぐ横には……月芝によく似た光を放ち、宝石のような艶を放つ林檎に似た果実が垂れていた。
*
「なんだ、あれ!?」
「――ッ!!」
一瞬、別の世界に意識が吸い込まれたような錯覚に陥った。頭を振り、顔を上げたとき、そこには――樹が立っていた。さっき映像の中で見たものと同じ姿形をしてる。いつの間に……?
淡い光は少しだけ、タクミ君の「輝くようなライトブルー」に似ているような気がして、生徒達は惹かれるように樹の方へと歩いていく。僕も……同じように、足が動く。なんだろう? とても……綺麗だ。
生徒の1人が光る実に手を伸ばしたその時――
「おまち!」
鋭い叱咤の声が、張り詰めた弦のようにあたりに響き、皆がはっとしたように足を止める。今の感覚……樹に心を囚われていたのか?
声の方に視線を向ければ、黒の簡素なワンピースをまとい銀の髪をひとつに結い上げた老婆――マダム・ティムが立っていた。
「その実は人間には摘めないよ。無暗に摘もうとすれば最後、体に流れるエーテルが根こそぎ吸い取られてしまうからね」
「「ええええっ!!!」」
生徒たちの間にざわめきが広がる。「葉っぱが髪に落ちてきた!」と騒ぐ者、「少し触っちゃった!」と青ざめる者。
無理もない……これまで学院に現れた月芝、ルナグレイン、ルナリアセレニス……どれも不思議な形はしていたけど、人の手で摘んでも害はなかった。触れると人体に害のあるものが現れたのは、初めてだからだ。
そんな僕達にマダム・ティムはいつもの穏やかな微笑を浮かべた。
「怖がることはないさ。これは妖精だけが収穫できる聖なる果実なんだ。お前さんたちは【ルナフェリス】を起こそうとしているんだろう? なら、この樹の出現は吉兆さ。人間の心が一定数、同じ響きで共鳴した時だけ、この樹は姿を現すんだから」
「共鳴で……現れる樹?」
「学院のあちこちに『文字』が浮かぶのを見ただろう? あれはこの世界とは異なる場所で使われていた、失われた言葉――祈りの残響さ。お前さんたちの心がそれを失われた歴史の断片を呼んでいるんだよ」
そういえば、カフェや学院の至る所に見た事のない文字のようなものが浮かんでいたのを思い出す。マダム・ティムは、まるで古い詩を歌うように答えた。
「離れし心は 枝を裂き、迷える声は 実を枯らす。
だが、結ばれし祈りは 涙を虹に変え、月果の露を聖き証へと昇らす。
ヘリア誕生の祭りごと その虹は天へ渡り 人と妖精を ひとつの夢に沈めるだろう」
歌い終わり、ふう、と息をついた彼女はいつもの優し気な微笑を浮かべた。
「マダム・ティム。それは精霊界の詩ですか?」
「そうさ。ルナフェリスを願って、あたしの故郷で歌われてきたものだよ」
そう言って、少しだけ寂しげに声を落とす。生徒たちは互いに目を見合わせ、ためらいがちに問いかけた。
「マダム・ティムの故郷ではルナフェリスは成功しなかったんですか?」
「ああ……いろいろあってね」
ルナフェリス――マダム・ティムの故郷、アルテシアの「エリュシオン」に伝わる、奇跡のエネルギー現象だ。エネルギー危機による飢餓が訪れ、その時ルナフェリスが起き、世界樹のエネルギーを満たし人々は救われたのだと言う。
「ヘリア誕生祭には、月光果実を使って作るブラウニーが不可欠なんだ。もしかしたらおまえさん達のルナフェリスは……成功するのかも、しれないね」
そう呟き、枝に手を伸ばすと、最も低い位置に垂れていた果実をひとつ、静かにもぎ取った。生徒たちから「あっ……!」と驚きの声が洩れたけど、マダム・ティムは何事もなかったかのように、にっこりと笑う。
果実は彼女を受け入れるように、手のひらで柔らかに輝きを放っていた。
*
朝7時半。
この時間になると、僕は特別学生寮にレオ君を迎えに行く。僕の左肩には、相変わらず太陽の精霊がとまってる。どうやら、大分気に入られたみたいだ。
僕達の寮の2倍はある広い廊下を歩きながら、今朝撮影した月光果実とタクミ君の絵画の写真をアヤカに送ると、すぐにアヤカからの返信が来た。
【わあ! ありがとう】
【マダム・ティムはルナフェリスが成功するだろうって】
【嬉しいな。私、頑張るね】
【今朝はカレンちゃんとジャムトーストを食べてるの。マダム・ティムに写真撮って送ってもらうね】
メッセージのすぐ後、アヤカのスマロからカレンと一緒に朝食を食べてる様子の写真が送られてきた。
「……っ!!」
僕は激しくせき込んだ。満面の笑顔のアヤカと、彼女の口についたジャムを拭き取ろうとするカレンの写真。仲は……よさそうだけど……。
【リュウ! この写真は見ちゃ駄目! 消して】
慌てたアヤカからメッセージが届いた。どうやら、マダム・ティムが勝手に送信したみたいだ。
アヤカは僕の時と変わらず、ボディガードであるカレンに「普通の学生生活」を望んでる。
当のカレンは、ボディガード就任初日に「カレンちゃん」呼びをされて、思い切り肩を落としてたっけ。今ではその呼び方もすっかり板についたみたいで(諦めたとも取れるけど)アヤカの朝食の誘いにも、何だかんだで毎日付き合ってるらしい。2人は傍から見れば、仲の良い友だちそのものだ。
それはそれとして……。
マダム・ティムは意外と皮肉屋だ。何故そう思うかって言うと、昔世話になっていた「ある人」が、同じような皮肉屋だったからだ。
彼女は……僕の心までお見通しなのか……?
『リュウ、今の感情は「嬉しい」です』
「ノーエ、うるさい」
……こういう時、彼に感情記録を任せたのを少しだけ後悔する。
【リュウ、放課後に月光果実を見に行きたいな。カレンちゃんに頼んでみるね】
【あまり、カレンに無理を言わないようにね】
【わ、わかってるよ。リュウってば、心配性なんだから】
彼女との何気ないやり取りは、今も昔も変わらない。そんなメッセージを交わすうち、まるで門のような立派な両開きのドアの前に辿り着いた。
【そろそろ職務の時間だから、また後で】
【うん、また後でね】
……さて、僕も職務の時間だ。
「レオ様、登校の時間です」
返答がない。あんなに早い時間に起きてたっていうのに……2度寝でもしたのだろうか?
「レオ様?」
「うっせぇ!! 聞こえてるっつの!!」
……何か、癇に障る事でもあったのだろうか? やがて乱暴にドアを開き出てきたレオ君は、僕にぶっきらぼうに鞄を投げつけると、何も言わずにずかずかと歩いていく。
こういう時の彼には下手に触れない方がいい。そう思いながら開きっぱなしの扉を閉じようとした時。
――あれは……?
僅かに開いた室内に、キャンパスが立てかけられていた。そこに描かれていたのは、タクミ君の「輝くようなライトブルーの絵画」を模写したかのような絵画だった。
けど、その絵は全く違う。
憧れと、焦燥と、どうしようもない孤独。それらが色に溶けてキャンパス全体に淡い哀しみを宿すように悲し気な光を放ってるように見える。
その一瞬の光景は、ぶっきらぼうに振る舞う彼の背中とはまるで別の、言葉にできない弱さを垣間見たような気がした。
寮の外に出ると、いつものように取り巻きの2人が「レオ様」と言って彼の後を付いていく。
「おいリュウ、さっさとしろよな!」
「ほんと、お前はグズだよなー」
……こんな悪態も、いつもの事だ。
生徒達が向かう、世界樹と精霊の光に照らされた校舎。いつも通りの風景なんだけど……
「マザーAI・ハルモニアだ!」
取り巻きの2人が指さした先には、世界樹の周辺を浮遊する一際強い光を放つ妖精――マザーAI・ハルモニア。
――いつもは、アヤカの部屋で子猫の姿をしてたはずだけど……今日はどうしてあの姿なんだ?
ふと、体がざわついた。
この感覚は……よく覚えてる。何かが迫っているような……「影縫い」にいた時よく感じてた、あの感覚だ。何かが迫ってるのか……?
「何かあった時は……アヤカだけは……」
僕が守る。
そう心に誓いながら、3人の後を追い校舎に向かった。




